第1話 寝取られちった。
それは永遠に降り続くかのような秋霖の夜のこと——。
「やほ、蒼くん」
大学2年の青年、鷹宮蒼が1人暮らしをしている小さなアパートの一室に、来訪者がひとり。
「あはは。また寝取られちったよ」
連絡もなく、突然押しかけてきた幼馴染、有村月麦はびしょ濡れの顔で無色透明に笑った。
「……アホ。傘くらいさせただろ」
「重かったもん」
ぷいと拗ねる月麦の両手には大量の食材や酒が詰め込まれているであろうエコバッグ。案の定、浸水気味でポタポタと水が滴っている。無言でそれを受け取った。
「ならまず一報入れるくらいしろ」
「スマホは川に投げ捨てました」
「はぁ……」
呆れてため息しか出ない。
幼馴染が今日も今日とてメンヘラしてる。
まぁ、初めてというわけでもなし。慣れたものだった。
「とりあえず風呂入れ。風邪引くぞ」
「ありがと」
水滴をタオルで拭き取らせてから、部屋へ上げた。
——30分後。
「うへ。ダボダボ〜」
風呂上がりの月麦は俺のジャージに身を包んで両手をぷらぷらさせる。
サイズが合ってなくて、いわゆる萌え袖状態だ。
「文句があるなら脱げ」
「きゃーえっちぃ」
「うっざ」
「まぁまぁ落ち着いてよ。けっこー好きだよこれ。くんくん」
「嗅ぐな」
「それはムリかなぁ。くんくんしなくても臭うし」
「やっぱ脱げやおまえ……」
「やーだよ」
どうやら随分と気に入られてしまったらしい。気持ちも少しは落ち着いたのか、表情もいくらか自然になっていた。となれば、お次はこれ一択だ。
「ほれ」
「わっ。ちゅべたっ」
手渡したのは我が家の秘蔵酒、ハイパードライ様だ。冷凍庫で凍る寸前までキンキンに冷やした極上品である。
「……いいの?」
遠慮がちな視線。
貧乏な大学生にとって、ビールとはもっぱら発泡酒を指す言葉。
月麦が買ってきたのも量重視で安酒ばかりだった。
「今日だけは許す」
「やった」
直後、待ちきれないとばかりにプシュッと小気味良い音が響く。続いて俺も缶を開けて、右手に構えた。
「ま、お疲れさん」
「かんぱーい」
ゴキュゴキュゴキュッ。
「ぷはー。おかわり。ハイパードライおかわりお願いしますっ」
「申し訳ありませんお客様。2杯目からは銀麦となっております」
「ぶーぶー」
「クレームは受け付けておりません。てかもうちょい大事に飲めやコラ」
「一気飲みがいいんだもん」
言いながら銀麦を手渡す。
それから半分ほどになった自分のハイパードライを一旦小テーブルに置いてキッチンへ向かうと、いくつかの皿を持って戻った。
「ほい。ちくわにきゅうり突っ込んだなんかうめーやつ」
月麦の入浴中に用意した肴である。
こうやって彼女が食材を持ち寄ったとき、蒼の担当は調理と決まっていた。
「わーい。私これ大好き。最初にちくわの小さな穴にきゅうりをにゅるっと挿入した人は天才だね。あ、マヨたくさんちょうだいね」
「へいへい。こっちは餡掛け湯豆腐な」
「あんかけ……湯豆腐っ……!?」
ホワホワと湯気のアガる湯豆腐に瞳を煌めかせる月麦。
「やっこじゃなくて!?」
「……まぁ、ちっとは寒くなってきたしな」
風呂に入らせたとは言え、それでも体の芯は冷えているだろうという蒼の気遣いだ。
「うへ。あったか〜い」
月麦は深皿を両手で包んでほっこりと微笑んだ。
「まだまだ作っから。まずはそれ食ってろ」
「はーい」
その後も蒼はいくつかの料理を完成させていく。それらのほとんどは月麦の好物や、その日の気分にピッタリ合致するものだ。
食材をチョイスしたのが月麦なのだからそれは当然とも言える。蒼はあくまで食材を見ながら作れるものを作っているにすぎなかった。
しかし最後のメニューだけは、いつも決まっていた。
「きた〜!」
お盆に載せて出してやったのは、定食だ。
「からあげ♪ からあげ♪」
からあげ定食。
たいして凝っているわけでもないが、蒼の作る料理の中では月麦が一番好んでいる料理。
もちろん、白いご飯に味噌汁、漬物と千切りキャベツも完備だ。
「いっただきまーす。ん〜、うまひ♡」
酔いも程よく回ってきたようで、笑顔で楽しそうに身体を揺らしている。
「蒼くん揚げ、さいこー!」
「俺を揚げたみたいになってるからな……」
漸く調理が一段落して、蒼は月麦の向かいに腰を下ろした。
「んじゃ、そろそろ俺もいただきますかね」
さっそく別皿に単品として用意したからあげを食べてみる。ふつうに美味い。それからビールを流し込んだ。これは最高。
「うへ〜、かんぱーい」
「おう、乾杯」
改めて杯を交わし、ここからはささやかな宴会気分。
長年付き合った幼馴染とのそれは、何よりも心地よい時間と言ってもいい。
ただし、この宴会が平和に終わるのならば、という注釈付きだが——。
「寝取られの多い生涯を送ってきました……」
酔っ払いの情緒は予測不可能に、突如、転がり落ちるように病んでいく。