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「ちょっと、これ誰のブラジャー?」
あの子以来、初めて女の子を部屋に入れた。
もう、他の女の子と付き合ってしまおうと思った。
もう、それでいいと思った。
だって、俺はもうあの子に会った時の俺ではなくなってしまったから。
「それ、触んないで。」
あの子が忘れたブラジャーを、女の子の手からサッと抜き取る。
「他に女いたんだ。変だと思ってた。」
そう言って、付き合って3日目の彼女が俺の部屋から出ていった・・・。
それを追うこともせず、手にある懐かしいあの子のブラジャーを見下ろす。
「どっから出してきたんだよ・・・」
自分でも、どこに置いていたのか忘れていた・・・。
この1ヶ月で、グチャグチャになった自分の部屋を眺める。
そして、スーツ姿の自分を見下ろす・・・。
30歳までと、決めていた。
30歳までにプロになれなければ、諦めると・・・。
1ヶ月前、その30歳を迎えた・・・。
俺は、負けた・・・。
俺の人生は、負けた・・・。
*
何社目か分からない面接を終え、今日も部屋に帰る。
30歳の誕生日から2ヶ月が過ぎていた・・・。
もう、7月・・・。
引退していった先輩達が、俺に自分もいる会社に入社するよう勧めてくれた。
でも、俺の今までの人生を知っている人には会いたくなかった。
こんな、何の意味もなかった人生・・・
30年間、無駄な時間を過ごしてしまった人生・・・
いつか、いつか、プロになって・・・
有名になって・・・
そしたら、あの子が気付いてくれるかも・・・
なんて、また夢みたいなことを何度も思ってしまった・・・
最寄り駅に着き、出口に向かうと・・・
雨が、降っていた・・・。
このまま濡れて帰ろうかとも思った・・・
でも、そんな気力もなくて・・・
何度立っていたか分からない、この場所で・・・
黒い・・・
どこまでも黒い・・・
飲み込まれてしまいそうなくらい、黒い・・・
そんな夜の空を、見上げていた・・・
その、時・・・
「折り畳み傘でよければ、入りますか?」
黒い空を見上げながら、ゆっくりと、目を閉じた・・・。
なんで、今なんだろう・・・
今のこんな俺の姿なんて、キミに1番見られたくないのに・・・
なのに、どうして・・・
なのに、どうして・・・
頭の中がその言葉で埋め尽くされ、長い間動けずにいる・・・。
8年も前のこと。
俺が勝手に忘れられなかっただけで・・・
あの子にとっては、何でもない・・・ただの最低な、何でもないような男だったはず・・・。
きっと、あの子にとって俺は、大嫌いな相手のはず・・・
許せない相手なはず・・・
ちゃんと、終わらせなければいけないと思った・・・
どんな言葉でも、あの子から出た言葉なら、受け入れよう・・・
受け入れなければいけない・・・
覚悟を決めて、振り向いた・・・。
そんな覚悟を決めて、振り向いた・・・。
やけに茶色い・・・でも、染めたりしているような茶色ではなく自然な茶色の長い髪・・・
肌は背景と同化してしまうくらい真っ白で・・・
目も、鼻も、口も、これといって特に特徴のないような、それでも不思議とよく整っている綺麗な顔をした女の子・・・いや、女性・・・
何故だか、凄く目を引く人・・・
白のシンプルなブラウスに紺のスーツスカート、黒のパンプスを履き・・・
華奢な、でも綺麗に整っているような身体・・・
そんな人が、少し小さな白っぽい傘を差し・・・
固まっている俺に向かって・・・
小さく“フッ”と、笑った・・・。
その、瞬間・・・
周りの景色が、一気に映えたような感覚になった・・・
でも、その人自身は特に代わりはなくて・・・
ただ、この子を取り巻く周りの景色だけが、まるで、花束みたいな感じで・・・映えている・・・。
なんだっけ、あの花・・・
サッカーとフットサルしかしてこなかった俺が、花の名前なんか知っているはずもなく・・・
そんなことを考えながら、俺はその人に笑い返していた・・・。
他の人だったら絶対にこんなことをしないのに、何故だかこの人にはフラッと近寄ってしまう・・・。
「傘、入ってもいい・・・?」
「どうぞ、折り畳み傘ですが。」
「それ、2回目。」
「・・・そうでしたか。」
そんな、8年間忘れられなかったやり取りをする・・・。
でも、この人は笑うことがなく・・・。
どこか・・・様子がおかしい、と感じた。
それが何かは分からないけど・・・。
あの日、たった1度しか会ったことがないけれど・・・。
それでも、どこか・・・何かが、おかしい・・・そんな風に思った・・・。
何も言えないままでいると、この人がゆっくりと折り畳み傘を差し出してくれる。
傘の持ち手を持つこの人の手に、俺の手が少しだけ触れた。
それだけで、たったそれだけで、息が止まってしまうくらい、心が震えた・・・。
少しだけ震えている手で、傘の持ち手を取る・・・。
そして、激しくなっている雨の中、俺の家へ小さな折り畳み傘で一緒に歩いた・・・。
「ありがとう・・・。」
「いえ・・・。」
俺が住むアパートまで2人で無言で歩き、折り畳み傘の下で挨拶をする。
何か言われると思っていた・・・
それを、覚悟していた・・・
だって、俺は最低な男だから・・・
俺のすぐ目の前に立つ女の子を見下ろす。
「部屋・・・寄ってく?」
今のこの人をこのまま帰せない・・・
俺のためではなく、この人のためにも・・・
なぜだか、そう強く思った・・・。
「・・・ごめん、散らかってる。」
これは、本当に散らかっている。
散らかっているどころのレベルではなく、もう本当にグチャグチャだから・・・。
こんなことなら、もっと綺麗にしておけばよかった・・・。
こんなことなら、もっと・・・
こんなことなら、もっと・・・
もっと早く、フットサルのプロになることを諦めて・・・
働いていたらよかった・・・。
「綺麗な部屋です。
苦労した人の、綺麗な部屋です。」
泣きそうに、なった・・・。
まさか、そんなことを言ってもらえるなんて思わなかった・・・。
“控え目だけど不思議とよく通る声”
昔、この人の声のことをそう思っていた・・・。
でも、今分かった・・・。
この人の声は、言葉は、俺の心まで真っ直ぐと通ってくる・・・。
こんな、滅茶苦茶になっている俺の心にまで・・・。
「冷蔵庫・・・何か入ってたかな。」
泣きそうになるのを堪え、冷蔵庫を開けた。
「お構い無く。すぐに帰りますので。」
濡れたブラウスや足元をタオルで拭きながら、言い方は違うけど昔と同じようなことを言われ・・・
慌ててペットボトルのお茶をこの人に渡した。
ペットボトルのお茶を受け取ったこの子が、嬉しそうに小さく“フッ”と笑った。
俺の、部屋が・・・
俺の、グチャグチャな部屋が・・・
一気に映えた・・・。
この人の周りに、また花束が出来る・・・。
でも、その花束は・・・
よく見ると・・・
本当に、よく見てみると・・・
どこか・・・様子がおかしいような気がする・・・
そんなこの人のことも気になったけど・・・
俺は、夢中になってこの人に喋った・・・
元々そんなに喋るタイプではないし、フットサルを諦めてからこの2ヶ月間、ろくに喋っていなかった俺が・・・
でも、サッカーとフットサルしかやってこなかった俺には・・・やっぱりこのことしかなくて・・・
8年間、どんなに頑張ってきたか・・・。
酒もタバコも、遊びも・・・何もせず、ただひたすら頑張ってきた・・・
プロになるため・・・
努力し、挑戦し続けてきたか・・・
そんな俺の話を、この子はローテーブルの近くに座りながら、楽しそうに、たまに小さく“フッ”と笑い・・・
ずっと聞いていてくれた・・・。
夢中で、話した・・・。
どのくらい長く話したのか・・・。
話終える頃には、喉がカラカラになっていた・・・。
そんな俺に、まだ手をつけていないペットボトルのお茶を、この人が渡してくれた・・・
それを眺めながら、また思う・・・。
もっと早く、諦めていれば良かった・・・。
もっと早く、普通に働いていればよかった・・・。
そしたら、この人に伝えられたかもしれない・・・。
あの時の、俺の想いを・・・。
「それで全部、負けた・・・。
俺の人生は、負けた・・・。
この30年間の俺の人生には、なんの意味もなかった・・・。」
「そんなことはありません。」
「・・・ないよ。なにも、ないよ・・・。
俺・・・今無職なんだ・・・。
2ヶ月・・・どこも内定もらえなかった・・・。
当然だよな、こんなサッカーとフットサルしかしてこなかった俺なんて・・・。」
「そんなことはありません。」
「ありがとう・・・。
でも、俺はもう終わった・・・。
もう、俺の人生は、終わった・・・。」
泣きそうになり、急いで下を向いた。
その時、ローテーブルの向かいに座っていたこの人が立ち上がったのが分かった・・・。
帰ってしまう・・・。
それは、当たり前で・・・。
こんな、何もない俺と一緒にいる意味なんて何もなくて・・・。
こんな、こんな、こんな、俺と・・・
終わった・・・
終わった・・・
いつか、いつか・・・と、夢に見ていた。
プロになった俺に、あの子が気付いてくれる・・・。
そして、この部屋を・・・訪れてくれる・・・。
引っ越しもせず、この部屋で・・・
俺は、ずっと、その日を待っていた・・・。
そんな日も、もう終わった・・・。
本当に、もう、終わった・・・。
「まだ、終わっていません。」
控え目なのに、よく通る声・・・
「顔を上げて。」
この人の両手が俺の顔を優しく包み、この人の方を向かせる・・・
「あなたはまだ、終わっていません。」
そんな、ことを・・・言ってくれる・・・
「あなたを、まだ終わらせない。
こんな所で、あなたを終わらせない。
私が、あなたをまだ、終わらせないから。」
控え目なのによく通る・・・
俺の心に、俺の滅茶苦茶になっている心にまで真っ直ぐに通る・・・
そんなこの人の言葉・・・。
小さく“フッ”と笑ったこの人の周りには、やっぱり花束が見えた・・・。