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好条件すぎる契約結婚なのですが本当ですか?えっ実は溺愛してた?

作者: 伊野八

「それではこちらの契約書にサインを」

「畏まりました」


 ブリックシュトルデ公爵令息スティーヴンとハーヴェスト伯爵令嬢エレナの契約結婚が結ばれた瞬間だった。


 ――なんで契約結婚なんだ??


 この場にいたスティーヴンとエレナ以外の人間は一様にそう思った。

 傍目から見ればこの二人はどう見てもお互いに好意を抱いているとわかるからだ。


 当人たちは「こんな良い契約を結んでくれるなんてなんて良い人なのだ」と大真面目に思っているのだが。



◆ ◆ ◆



 ハーヴェスト伯爵家は西方に広大な領地を持ち、農業と林業で堅実に運営されていたが、3年連続の水害で作物に大打撃を受けた。

 王家からの援助も出たが足りず、困っていたところにブリックシュトルデ公爵家から人材派遣と資金援助の申し出があった。

 ブリックシュトルデ公爵家はハーベスト領から森を挟んで南方にあり、鉱山を所有していることから土魔法に優れた魔術師や土木のスペシャリストを多く抱えていた。

 願ってもない申し出だった。


 ただしこの援助には条件があった。

 ハーヴェスト家次女エレナとの一年間の契約結婚である。

 家族仲が良く5人の子宝に恵まれその全てを大事に育てたハーヴェスト伯爵夫妻は、最初はこの援助を断ろうとした。


「ブリックシュトルデ公爵子息様に悪い噂はございません。しかも白い結婚で、離縁後も望めば再婚も就職も新たな支援も検討すると破格の申し出です。お話だけでも聞いてみては?」


 当のエレナに言われて、渋々契約の場を設けた。

 公爵家からの援助は喉から手がでるほど欲しい。

 荒れた農地、氾濫した川や崩れた山肌など変わってしまった領地や被害に合った領民を思えば断る選択肢などない。

 が、18歳のかわいい娘の人生に傷をつけてしまうと思うと伯爵夫妻は首を縦に振れなかった。

 それは、エレナの兄、嫁いだ姉、弟妹も同様だった。

 ハーヴェスト伯爵家は、エレナ本人以外は契約結婚に大反対だったのだ。


 エレナ自身は魔法も使えないし、魔力もない。

 ハーヴェスト伯爵家は魔術師の家系ではないからだ。

 魔術師の家であるブリックシュトルデ公爵に望まれる理由はなかった。

 箸にも棒にも掛からぬエレナは1年という期間限定の契約結婚相手としてちょうどよかったのだろうと解釈していた。




 契約交渉当日、エレナは両親である伯爵夫妻と嫡男のエレナの兄と共に王都にあるブリックシュトルデ公爵家へ向かった。

 領地からの旅費も王都への滞在費も全て公爵家持ちである。


「この高待遇、絶対何かあるでしょ……」


 兄のエリックは揺れる馬車の中でこめかみを抑えため息をついた。

 話が旨すぎるのだ。


「公爵令息は22歳でいらしたわね……」


 母のアデルも不安を隠しきれない声で囁いた。


「1年前にうちの水害被害の視察に王子殿下と共にいらしてくださった時も熱心にこちらの話を聞いてくれてな……それで援助を申し出てくださったのだろうが……そのような方なのに何故今まで一度も婚約や婚姻の話がないのか」


 父であるハーヴェスト伯爵ブレッドも当然訝しんでいる。


 ブリックシュトルデ公爵令息スティーヴンは、銀髪に紫水晶のように煌めく眼を持つ美丈夫だ。

 少々、目が鋭すぎるが、優秀な魔術師でありながら鍛えられた肉体を持ち、四大公爵の跡取り息子で第二王子殿下の親友である。

 天に二物も三物も与えられたこの男性は、常にご令嬢やご婦人方から秋波を送られている人物である。

 にもかかわらず、色めいた噂はなかった。


「第二王子殿下との仲が良すぎるとのお噂はありますね」


 一人ニコニコとエレナがご令嬢方でよく流れる話を切り出す。


「……エレナ、頼むからそういう話は公爵家ではするなよ」

「もちろんですわ、お兄様」


 エレナとて言っていい事といけない事の区別はつく。

 昨年一度だけハーヴェスト領で会った噂の令息は、とても親切で丁寧に話を聞いてくれた。

 その時のエレナは川から流れ込んだ泥の掻き出しをしていて、弟のズボンを履き泥だらけの格好だったのだ。

 最初は男の子と間違われた。女性だと気づいた後でも令嬢らしくない格好や行動になにも言わず苦労を労ってくれた。


 たった一度の出来事で判断するのは間違ってるかもしれないが、エレナには好条件の契約を出してだまし討ちをするような人物には思えなかった。

 だから、きっと契約結婚をしなくてはならない理由があるのだろうと考えていた。

 エレナにできることなら何でもしようと思えるくらいには、スティーヴンに好意を抱いていた。




「ハーヴェスト伯爵、よくおいでくださいました。歓迎します」

「この度は当家にとって願ってもないお話で大変ありがたく思います」


 王都にも関わらず城かと思うような広い敷地に歴史を感じさせる建物、博物館かと思うような美術品の数々。

 格の違いを見せつけるブリックシュトルデ公爵邸で、公爵夫妻とその子息、勢ぞろいした使用人に迎えられ応接室に通される。

 この時点でハーヴェスト伯爵家の四人は疲労困憊であった。

 エレナはブリックシュトルデ公爵に挨拶を返せた父を褒めてあげたかった。


(あまりにもすごいお屋敷で息をするのを忘れてたわ)


 農業と林業が盛んな田舎の領地で、土と風と緑に塗れてゆったり暮らしていたエレナには別世界が広がっている。

 今更ながらとんでもなく場違いなのでは?と頭がすっと冷えてきた。

 ソファに座っているのに倒れそうな気分になってくる。


 そんなエレナたち伯爵家に追い打ちをかけるような人物が応接室に入ってきた。

 部屋にいた全員がソファから立ち上がり臣下の礼をとる。


「ブリックシュトルデ公爵、ハーヴェスト伯爵失礼するよ。皆、楽にしてくれ」


 リンドガルド王国第二王子アレックスが入室してきた。


(王子殿下がいらっしゃるなんて聞いてないわ……っ)


 ただでさえも緊張していたのに王族まで来てしまった。

 エレナはここで始めてこの契約の話を受けないほうがよかったのではないかと思った。

 許されるなら今すぐ逃げ出したい。


「殿下、何故このような場所に」


 ブリックシュトルデ公爵が当然の疑問をアレックスに問いかける。


「それはもちろん親友が婚姻を結ぶと聞いたからね。私が立ち会わないわけがないだろう!」


 ニコニコとそれは嬉しそうにアレックスが答えた。


「ようやくスティーヴンに良い人が見つかったんだから、ねえ?」

「殿下、婚姻と言いましても契約結婚であり期間は1年間です」


 満面の笑みのアレックスに淡々とスティーヴンが答える。


「は?」


 それを聞いた瞬間、アレックスがジト目になり時間が止まった。


「私はハーヴェスト伯爵令嬢に1年の契約結婚を申し込んだのです。大変失礼な申し出と理解しておりますので、ハーヴェスト伯爵家には当家が出来る最大の支援をいたします」

「……なんで?」

「殿下、人前でなさるお顔ではありませんよ」

「……お前の言っていることが理解できない。どういうことだ公爵?」


 アレックスは心底あきれたという目をブリックシュトルデ公爵に向ける。


「私も息子には何度も話したのですが、頭が固く……」


 口を挟めないハーヴェスト伯爵家の4人は目の前の王子殿下と公爵子息の言い争いを見ていることしか出来ない。


(まあ、王子殿下も公爵子息様の前では気が緩まれるのかしら。仲が良いのは本当の話なのね。微笑ましいわ)


 予想外の出来事が続きぽかんとしていたエレナは、アレックスとスティーヴンやり取りを見て気が緩んでしまった。


「ふふっ……あっ」


 思わず声に出して笑ってしまったらしい。

 エレナの声に王子たちの言い争いがピタリと止まり、部屋の中がシンとしてしまった。


(どうしましょう……不敬?不敬よね??)


 今度こそ本気で逃げ出したい……!両手で口を覆い泣きそうになる。

 動揺して青くなってしまったエレナにアレックスが向き合い、ふわりと笑みをみせた。


「失礼したご令嬢。友人との話に夢中になってしまった。私は第二王子のアレックスだ」

「王子殿下にご挨拶申し上げます。ハーヴェスト伯爵家が二女、エレナでございます。あ、あの、先ほどは失礼いたしました……」


 後半は、消えそうなほどの小声になったしまった。

 ここ数年はずっと領地の復興に精を出していたので、社交界の作法などわからない。


「ハーヴェスト伯爵令嬢、貴女が謝ることはない。客人を放置しているこのスティーヴンがわる……」


 社交辞令の笑みを浮かべながらスティーヴンの方に目線を動かしたアレックスが思わず瞠目した。

 冷たい色彩をまとう美貌に動かない表情筋の所為で氷のような印象しかないスティーヴンの頬にうっすらと赤味がさしている。

 小柄な体をさらに縮こまらせたエレナをじっと見ている。

 長い付き合いだが彼のこのような表情は初めて見る。

 両親であるブリックシュトルデ公爵も驚いた顔をしている。

 ハーヴェスト伯爵夫妻とその子息もスティーヴンから目が離せないでいる。

 彼の熱視線に気づいていないのは、恐縮して目線を下げているエレナだけだ。


(おや?これはもしかすると……)


 なるほど、どうやらスティーヴンはエレナへの気持ちに無自覚のようだ。


「わかった。公爵、この契約結婚の内容を詳しく説明してくれ」


 全力で友人にお節介を焼いてやろうと決めたアレックスはソファに深く腰かけた。



 ◆ ◆ ◆



「殿下はご存じとは思いますが、私は女性が苦手です」

「ああ、うん。特に若い女性が近づくと冷や汗をかいたり倒れそうになるな。女性アレルギーと言ってもいい」


 実際、倒れたことも一度や二度ではない。

 スティーヴンは優秀な公爵子息で多くの貴族女性から婚約を熱望された。

 正妻でなくとも愛人でも良いと常に多くの女性から狙われていた。

 非力な子供時代には攫われかけたことや雇っているメイドに部屋に連れ込まれる事件もあり、一時期公爵家の使用人を大幅に減らしたこともある。

 アレックスのご学友として王宮に上がると城のメイドたちに常に見られた。

 12歳で魔術学院に入ると女学生たちに付きまとわれた。

 校門での待ち伏せや魔術が込められた恋文、女人禁制の男子寮の部屋になぜか半裸の女生徒がいたこともあった。

 伸ばしていた銀髪を一房切られたこともあった。

 理不尽な目に合わぬよう、体を鍛え魔術を身に着けた。

 おかげでアレックスの側近の筆頭魔術師になることができたのだが。

 それはスティーヴンの価値を上げるだけであり、女性からの誘いは増すばかりだった。


「女性が苦手なので婚姻する気もなかったのですが、さすがに疲れてしまいまして」

「それで偽装結婚か?」

「はい」


 話を聞いていてエレナはスティーヴンがとても気の毒に思った。

 本人にはまったく非がないのに日々苦痛を強いられている。

 第二王子殿下の側近なんて、本人の努力なしではなれないだろうに。

 エレナだけでなく、ハーヴェスト伯爵家の面々もスティーヴンに同情した。

 田舎でのほほんとくらしていたハーヴェスト家とは全く違う殺伐とした世界の話だった。


「スティーヴン、なぜ1年限定の偽装結婚なんだ?1年くらいじゃ効果ないんじゃないか?」

「ハーヴェスト伯爵令嬢の貴重なお時間を奪うのです。1年でも多いくらいです」

「離婚したらすぐに釣り書きが届くぞ。いや、結婚中でも届く」

「それでも一度結婚をした事実があれば、理由があって別れたがその妻を思い続けていると適当に言い逃れできます」


 アレックスの言い分はもっともだ。

 だがスティーヴンは自分の厄介事に他人を巻き込むのだ。しかもご令嬢の経歴に傷をつけるのだ。

 申し訳なさ過ぎて、自分の力が及ぶ限りはエレナとハーヴェスト家に報いると決めている。

 離婚理由も自分に非があった、結婚に向いていないと言い張るつもりだ。


「……そこまで決めてるなら素直に結婚すればいいじゃないか……」


 スティーヴンとエレナ以外が思っていることをアレックスが代表して言葉にする。

 どう考えても無理があるのだ。この契約結婚ではスティーヴンの望むように女性からの秋波を無くすることはできない。

 そのことにスティーヴン自身が気づいていないはずはないのだ。




「そこまで女性が苦手ですのに、わたくしで大丈夫なのですか?」


 おずおずとエレナがスティーヴンに尋ねる。どうしても疑問だったのだ。なぜ自分が偽装結婚に指名されたのかと。


「昨年、殿下と共にハーヴェスト伯爵領を訪ねました。その時に貴女にお会いしました。覚えていますか?」

「もちろんです!ご親切に心を砕いていただきました。あの後すぐに土石の扱いに優れた技術者を派遣していただきありがとうございます!」


 あのときのお礼をやっと言えることができた!

 これだけでエレナは王都に来たかいがあったと思えた。


 にこにことお礼を言ったエレナを見たスティーヴンの目がわずかに弧を描く。


「笑ったあ!?」


 スティーヴンが女性に微笑みかけている。アレックスは自分が見ているものが信じられなかった。


「覚えていてくださったのですね、うれしいです。あの時男性の格好をしていたのでご令嬢と気づかず失礼しました。ですが、貴女とは苦手意識もなく話せたのです」

「まあ、お恥ずかしいですわ。当時は、いえ今も必死なのですが、少しでも土を元にもどしたくて。あ、本日はこのようなドレス姿ですが大丈夫ですか?」

「ええ、貴女のやわらかいココアブラウンの髪に臙脂色の品の良いドレスがとても良く似合っています。当時も思いましたが貴女はとても可愛らしい」


「スティーヴンが、女性をほめた……」


 アレックスは思わずつぶやいた。

 しかもこんな長文を話している。これで惚れている自覚がないのか?


「ブリックシュトルデ公爵子息様、この契約結婚お受けします。わたくしでよかったらご協力いたします」

「本当にいいのですか?貴女の人生に関わることなんですよ?」

「むしろお得しかありません!わたくし、結婚する気はありませんでしたもの?」

「えっ?」


 エレナの言葉に驚いたのは家族であるハーヴェスト伯爵夫妻と兄だ。


「水害が起こり、16歳で学院に行き勉強する機会も逃してしまいましたもの。地元でお父様やお兄様のお手伝いをして領地に貢献したいのです」


 本来なら、16歳で王立の学院に入学し、貴族としての勉強とデビュタントをし社交を身に着けるはずだった。

 しかし、水害が起こったためエレナはそれをさくっと諦め、地元を離れることを拒んだ。


 兄と姉は学院を卒業し、地元に戻り身に着けた知識を領地運営に生かしている。

 双子の弟妹は、2年後に入学予定なので、それまでには水害から立ち直し二人を学院へ入学させる予定だ。

 エレナはたまたまタイミングが悪かっただけなのだ。


「ハーヴェスト伯爵令嬢、よければこの契約結婚の間に家庭教師をつけよう。貴女が受けられるはずだったものを私が差し上げたい」

「え、そこまでされては……」

「いや、契約内容に盛り込もう。父上、異存は?」

「ない。エレナ嬢に最高の教師を選ぼう」

「ええ、わたくしもエレナさんに出来ることが多々あると思います」


 ブリックシュトルデ公爵夫妻は即答した。

 この息子が初めて望んだご令嬢だ。絶対に逃す気はない。

 できたら1年と言わず数年、いや一生、いやいやその前に契約結婚ではなく一般的な婚約と婚姻を結んでほしい。


 そんな両親の思いをまったく知らず、スティーヴンは契約書をまとめていく。


「それではこちらの契約書にサインを」

「畏まりました」


 ブリックシュトルデ公爵令息スティーヴンとハーヴェスト伯爵令嬢エレナの契約結婚が成立した。


「……だからなんで契約結婚なんだよ?」


 アレックスは天を仰いだ。

 お互い少なからず思いあっているのになんで契約結婚になってしまったのか。



◆ ◆ ◆



 そのままエレナはブリックシュトルデ公爵邸に住むことになった。

 本館と中庭回廊でつながった別館があり、こちらにスティーヴンとエレナの部屋が用意されていた。

 若い次期公爵夫妻が気兼ねなく過ごせるよう別館が用意されたのだった。


 結婚式は3か月後だが、すぐにスティーヴンと住むことになった。

 ウェディングドレスが整えられるまで3か月かかるので結婚式が3か月後になったのだ。

 公爵家としてはすぐにでも式を挙げたいくらいだった。


「本当は1年かけてオーダーメードでドレスを作りたかったのよ。それなのに……」


 公爵夫人は申し訳なさそうにうなだれた。

 ドレスは夫人が着たものをエレナにサイズを合わせてリメイクするらしい。

 1年だけの契約結婚なのに大事なドレスに手を加えるのは申し訳なくて最初は丁寧に断った。

 が、公爵夫人がどうしても!と譲らなかった。




「エレナ、こちらが貴女の部屋です」

「わぁ」


 やわらかい日差しが入る広い部屋だ。

 白い壁に薄桃のカーペット、ウォールナットのテーブルにソファ。

 ソファには黄色や桃色のクッションが置いてある。

 家具類は濃い茶色系のものが多い。


「貴女のココアブラウンの髪と琥珀色の目を思っていたらこのような色合いになってしまい……気に入らなければ買い換えます」

「いえとんでもない!とても素敵な家具ですわ」


 デスクと本棚もあり、本棚にはすでに本が収められている。


「これらの本も貴女のものです。足りなければいつでも注文してください」

「ありがとうございます」


 至れり尽くせりである。

 本がたくさんあるのはうれしい。早速、今晩から読み始めようと思った。


「こちらは寝室です」


 真ん中にダブルサイズのベッドが置いてある。


「一人用にしては大きいのでは?」

「ええ、一人用のベッドです。ゆっくり休めるよう大きいものにしました」


 二人が余裕で寝れそうなベッドを横目に壁にある扉に目をむけた。


「そちらはクローゼットです」


クローゼットだけでもエレナの実家の部屋くらいの広さがある。


「まだドレスが用意できていないのです。明日、母が仕立て屋を呼ぶそうなので貴女に合ったドレスを作りましょう」

「いえ、そこまでしていただくわけには」

「ドレスを妻に贈るのは夫の仕事です。契約結婚だからこそ私に勤めを果たさせてください」

「はい」


 そう言われればエレナには断ることはできない。


「これは優遇されすぎではないでしょうか?本当によろしいのですか?」

「私にはこのような形でしか貴女に報いることができません。受け取ってください」


 スティーヴンは本当にエレナに悪いと思っているのだろう。

 やりすぎだとは思うがスティーヴンの好意は素直に受け取ることに決めた。


(本当に良い方だわ。いつかちゃんと思いあえる女性ができればいいのだけれど)


 この1年の契約結婚の間にスティーヴンに嫌な思いをさせる女性だけじゃないことをわかってもらおうとエレナは考えた。

 少なくとも自分は彼に嫌な思いはさせないと決めた。

 そしていずれ出会うであろう彼の本当の伴侶と幸せになれるようその手助けをしようと決めた。

 少しだけ、胸の奥がチクりとした。


 その痛みに気づかないふりをしようと部屋の中に視線を巡らせると、もう一つの扉が目に入った。


「こちらは夫婦の寝室につながっています」

「えっ」


 スティーヴンがドアを開けると、エレナの寝室のベッドよりさらに大きいキングサイズのベッドがあった。


「えっ、あの、夫婦の……」

「使う予定はありません。白い結婚の約束ですからね」


 ホッとしたと同時にちょっと残念にも思った。


(やだ、今、何を考えたの?どうしてがっかりしたの?恥ずかしい)


 頬に手を添えてスティーヴンとベッドから目をそらした。

 すこし熱い気がする。


「こちらのドアは私の部屋につながっています。鍵は常に掛けておいてください」

「鍵ですか?」

「ええ、私がこの寝室に入ってこれないようにしてください。安心でしょう?」

「そ、そうですね。お気遣いありがとうございます」

「さあ、疲れたでしょう。お茶にしましょう。これからよろしくお願いしますね、エレナ」

「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」


 お互い丁寧に頭を下げ、同じタイミングで起き上がり目が合った。


「ふふ」

「うふふ」


 なんだかわからないけどおかしくなって二人で声を出して笑った。

 きっと楽しい1年になるような気がした。



 ◆ ◆ ◆



 3か月後に王都の教会で結婚式を挙げた。

 ハーヴェスト家の両親と家族もみんな来てくれてアレックスも妃と共に参列してくれた。


 あのブリックシュトルデ公爵子息スティーヴンが結婚したとのことで社交界は騒然とした。

 若い次期公爵夫妻への夜会やお茶会の招待状が毎日のように舞い込んだが、すべて断っていた。


「エレナさんは体が弱いということにしています。公爵家に慣れてもらう間は社交はお断りしましょう」


 にっこりとブリックシュトルデ公爵夫人マルシアが微笑んだ。

 スティーヴンとよく似た銀髪に青い瞳のこの夫人は22歳の子供がいるとは思えぬ若さと美貌を保っている。


「本当に不参加でよろしいのですか?」


 エレナも礼儀作法を義母であるマルシアに習っている最中だったのでお茶会や夜会に参加せずに済むのはありがたかった。

 田舎の伯爵領で水害の復興に精を出していたエレナが病弱というのは無理があると思うのだが、エレナが社交界に出ていないのも、学院に進学しなかったのも『病弱だから』でゴリ押すことになった。


「ええ。社交に関してはしばらくはわたくしが一人で大丈夫です。スティーヴンもエレナさんを見世物にしたくないようですし、わたくしも可愛い義娘を社交界の耳年増な雀たちにさらしたくありません」


 エレナの毎日は、午前は学院で習うレベルの学問を教わり、午後に公爵領の勉強、お茶の時間から義母にマナーを教わる。

 義母とのお茶の時間は休憩ではなく立派な礼儀作法を習う時間なのだ。

 そのあとも、カーテシーから歩き方、手や目線の動きすべて一から指導される。

 これにダンスのレッスンが加わることもある。


 とても大変だが、義母の流れるような動きを見ていると義母のレッスンに合格しなくては社交の場に出ることはできないと思った。


(本当は、貴族の礼儀作法より公爵家のメイドの皆さんにお掃除や洗濯のコツを習いたかった……!)


 1年後、離縁して実家の領地に戻ったとき、役に立つのは公爵家のメイドの皆さんの技術の方だとエレナは考えていた。

 最初はメイドの見習いをさせてもらおうとお願いしたが、スティーヴンをはじめ公爵夫妻から執事からメイド長まで公爵家の関係者全員にお断りされた。

 メイドの仕事を習うくらいなら!と義母マルシアにみっちりと礼儀作法の時間を組み込まれた。


「年末にある王家主催の夜会には参加しなくてはいけませんから、それまでにマナーを身につけましょうね」


 扇で口元を覆い優雅に微笑まれた。


「が、がんばります」


 一流の見本が目の前にあるのだ。最高の環境である。

 大恩ある公爵家の方々に恥をかかせるわけにはいかない。

 年末の王家主催の夜会まであと半年。

 それが終わり年が明けてひと月すぎれば契約完了の1年となる。



 ◆ ◆ ◆



 スティーヴンとエレナの契約結婚生活は穏やかに過ぎていった。

 二人とも気が合い、休みの日には読書をしたり、エレナの部屋でお茶を飲んだりゆったりと過ごした。


「まって、本当になにも進展がないの?」

「そうなんです、奥様」

「私たちも坊ちゃまと若奥様にはより一層仲良くなっていただきたいのですが」


 マルシアと公爵家のメイドたちは焦っていた。

 エレナが公爵家に住むようになって半年、お互い思いあっているはずなのに手も握らないらしい。


「一桁の子供でも手をつないで庭のお散歩くらいするでしょうに!」

「若奥様は庭はお好きなようで毎朝散歩されてますよ」

「坊ちゃまもそれに気づかれてからは毎朝エレナ様と散歩を楽しまれてから朝食、その後王宮へ出勤というスケジュールになっております」


 もどかしい……いっそ既成事実が成立するまで二人を寝室に閉じ込めてしまおうかと考えてしまった。

 結婚をしたにも拘らずスティーヴンの愛人希望の不愉快な手紙が来るのだ。

 手紙類はすべて夫人であるマルシアが目を通している。絶対にエレナには見せられない。

 マルシアはエレナを気に入っている。

 素直に教えたことを吸収していく。穏やかで優しい性質は貴族の社交界には不向きだろう。

 だからこそ公爵家全体で大事な嫁を守っていくつもりである。

 が、肝心の息子がこの為体とは。


「下手にわたくしが動くと逆効果でしょうしね……」

「私どもも意図的にお二人を二人っきりにするようにしてるのですが」

「ええ、別館の使用人は最低限にしてるもの。しかも年配の信用が置ける者のみ」


 全員がスティーヴンの初恋の成就を願っているのだが、当の本人がまったく自身の恋心を自覚してくれない。

 スティーヴンどころかエレナも無自覚のようなのだ。


 公爵家の人々の気持ちをあざ笑うかのように時は過ぎ、契約終了の日を迎えた。



◆ ◆ ◆



「スティーヴン様、1年間お世話になりました。とても楽しく過ごさせていただきました」

「こちらこそありがとう。貴女の本やドレスなど私物はすべてハーヴェスト家に送ろう」

「いえ、あんなにたくさんの物、我が家には場所がありませんわ」

「では、我が家で預かろう。いつでも取りにおいで」

「はい、ありがとうございます。お手紙を書いてもよろしいですか?」

「もちろん。私も書くよ。楽しみにしている」


 穏やかに、円満に、あっさりと二人は離縁届にサインをした。

 スティーヴンの口調が砕けたものになっており、明らかにエレナに心を許しているというのに。


 二人のサインが並んだ離縁届を見たブリックシュトルデ公爵は肩を落とした。

 これほど、がっかりすることがあるだろうか?

 公爵夫人はエレナが実家に帰る馬車を見送った後、ショックのあまり寝込んでしまった。

 使用人たちも明らかに落ち込んでいる。


 エレナが去ったあとのブリックシュトルデ公爵邸は色を失ってしまった。




「本当に離婚して帰って来ちゃったのエレナお姉さま?」

「ええ。そういう契約だったでしょう?」


 実家に戻ったエレナは、妹のエミリーに開口一番こう言われた。


「エレナ……」

「お父様、お母様、ただいま戻りました」

「ええと、公爵家の皆様はなんと?」

「たいへん良くしてくださいました。本当にお世話になった上にうちの領地への支援も継続してくださるそうで。公爵家の皆様は神様かと思いました」

「うん、そうか。長旅は疲れたろう。しばらくはゆっくり休みなさい」

「はい」


 エレナは微妙な表情の家族に迎えられて自分の部屋に入った。


「エレナお姉さまのお部屋は残してあるんだけど、いろいろ処分しちゃって。ベッドはあるけど」

「ううん、ありがとうエミリー」

「ねえ、本当に戻ってきてよかったの?あんなに公爵子息様のこと好きだったのでしょう?」

「えっ?」

「え……っ」


 エレナはエミリーの言葉を聞いて、目をまんまるく見開いた。


「私が、スティーヴン様を好き?」

「やだ、自覚なかったの?あんなに手紙に書いていたじゃない!」

「ええっ。そんなこと書いてないわよ」


 エミリーとは月に一回必ず手紙を書いていた。

 エミリーだけではなく両親や兄や弟にも書いていたが、毎回必ず返事はエミリーがまとめて書いてくれていた。


「スティーヴン様が優しいとかいい人とか努力家とか、公爵ご夫妻もとてもお優しくお姉さまを大事にしてくれてるって。ねえ、あんなに幸せそうなお手紙だったのに、どうして離縁しちゃったの?」


 どうしてと言われてもそういう契約だったからとしか言えない。


「じゃあ、契約じゃなかったら?」


 契約じゃなかったら?考えたこともなかった。


「契約じゃなかったらスティーヴン様と結婚したかった?」

「……わからないわ」

「考えてお姉さま。お願いだから、一回真面目にこの1年の結婚生活のこと考えてみて」


 抱きついてきたエミリーは少し涙声だった。



◆ ◆ ◆



 エレナがスティーヴンの元から去って1か月、今日もスティーヴンは王宮のアレックスの側近として働いていた。


「スティーヴンこれも戻しだ。記入ミスがある」

「……申し訳ありません」

「1か月前からミスが多い。お前らしくない」

「申し訳ありません」

「もっと正確に言おうか?エレナ嬢がいなくなってからミスが多い」

「……っ」


 アレックスの言う通りだった。

 けれども、スティーヴンにはわからなかった。

 なぜエレナがいなくなったことが自分の仕事に影響を与えているのか。


「馬鹿者!!」


 ダンっとデスクに両手をついてアレックスが立ち上がった。

 長い付き合いだがこのように怒りを露にすることは珍しい。


「馬鹿……」

「そうだろう、己の気持ちに気づかず、大事な大事なエレナ嬢をむざむざ手放して……よくそれで平然とした顔をしてられるな」


アレックスに怒鳴られた瞬間スティーヴンの顔がゆがんだ。


「平然と……私は、私の顔は今まではどのようなものだったのでしょうか。エレナがいたときはよく口が開き、目があちらこちらに動き、熱を持っていたような気がするのです。エレナがいなくなってしまってから何も動かなくなってしまったようなのです」


 スティーヴンの目からひとつ雫が零れ落ちた。


「なあ、スティーヴン。エレナ嬢といて楽しかったか?」

「はい」

「今後も一緒にいたいと思わなかったのか」

「……一緒に……それは私は望んではいけないことです」

「望めよ」

「しかし」

「私が許す。スティーヴン・ブリックシュトルデ、そなたに命じる。エレナ・ハーヴェスト嬢を妻にしてこい。それまで私の側近として復帰することは認めぬ」

「なっ……」

「お前の領地特産の紫水晶と琥珀の指輪を用意しろ。サイズは公爵夫人がわかっているだろう。特別にわが王家自慢の温室の薔薇を摘むことを許す。今の季節では花を手に入れるのも大変であろう?」

「殿下……」

「早くしろ。私は忙しい。お前がいないと書類がたまるのだ」

「はい」


 スティーヴンは深々と頭を下げ、王子の執務室を後にした。


「……だから、最初から真正面からプロポーズしておけって言っただろう……」




「花と指輪あとは……エレナ……!」


 スティーヴンはやっとエレナが好きなのだと自覚した。

 エレナがいなくなったあとの公爵邸の寂しさはいままで感じたことのないものだった。

 どうしてエレナに契約結婚を申し込んだのか、どうしてエレナならそばにいても大丈夫と思ったのか。


「私はエレナが好きだから、会いたかったから、あんな回りくどいことを……!くそっ」


 王都のタウンハウスに戻り領地にいる両親に手紙を出す。

 エレナに結婚を申し込むために指輪を作りたい。エレナの目の色の宝石が欲しい。

 そして、彼女には自分の色をつけて欲しい。

 一度自覚してしまったら欲求は止まらなくなった。


「ハーヴェスト伯爵家に先ぶれを!ああ、エレナ……!」


 ――会いたい。





◆ ◆ ◆



 エレナが実家に戻って1か月半がたった。

 領地のために尽くすつもりでいたのに、体が動かない。

 つい先日も熱を出してしまった。

 ここ数年、風邪なんて引いたこともなかったのに。


「急に寒くもなったし、ちゃんと寝ててねお姉さま」

「ごめんねエミリー。エドガーと二人の入学式も1か月後なのに」

「大丈夫よ。あたしたちだって自分のことは自分でできるんだから!心配しないで!」


 双子の弟妹、エドガーとエミリーの入学式の準備や春の種まきの季節もせまりハーヴェスト伯爵領は大忙しだ。

 それなのになんの役にも立っていない自分が情けなかった。


 エミリーに言われてエレナなりにスティーヴンとの結婚生活を思い返していた。

 エレナのことを考えて用意された部屋、多くの書物。

 公爵夫人の教育は厳しかったが愛情を感じられ辛くとも楽しかった。

 使用人の皆さんが整えてくれる邸内は快適で、食事も美味しく、庭も美しかった。

 1年過ごしたあの家には確かに自分の居場所があった。

 あそこに、いずれ自分ではない女性が住むことになるのだ。

 それを思うだけで胸が締め付けられる。


 最初から分かっていたことだ。

 エレナは結婚はしないつもりだった。

 幸運にも良い思い出をいただいたのだ。

 それを胸しまってこれからも生きていけばいい。


 それなのにこんなに寂しく思うなんて。

 なんて自分勝手なのだろう。


「エレナ姉さん起きてる?手紙だよ」


 控えめにドアをノックした弟エドガーが入ってきた。


「手紙?誰からよ」


 ドアを開けて対応したエミリーがエドガーから手紙を奪って開く。


「手紙を持ってきた使いの人が急いで見てって。もうすぐ来るからって」

「どういうことよ?使いの人って誰の」

「ブリックシュトルデ公爵家の人」

「「え?」」


 エレナとエミリーが同時に手紙を開き中を確認した。


「あ……えっ、スティーヴン様がここにいらっしゃる……?」


 手紙にはスティーヴンがエレナに会いたいから会いに来ると書かれていた。

 先ぶれの手紙と共に移動すると。


「それ先ぶれの意味あるの?」


 エドガーがぼそりと突っ込んだ瞬間、家の階下から声が聞こえた。


「坊ちゃまいけません、まだエレナ様からお返事をいただいていません」

「すまない。しかし、私はエレナに会いたい!」


 どう聞いてもスティーヴンの声である。


「来ちゃったわ……」

「来ちゃったねえ……」


 エミリーとエドガーがどうするの?という目をエレナに向ける。


「会いたいけど、この格好では……」


 エレナは風邪の治りかけでベッドの上に寝間着姿で起きあがっている。

 とても公爵子息の前に出れる格好ではない。


「エレナお姉さまは上に一枚何か羽織って。私がスティーヴン様を部屋に連れてくるわ」

「えっ」

「エミリー、姉さんの部屋に男性を入れるの?」

「旦那様だからいいでしょ」

「そうだね」


 よくない!もうエレナはスティーヴンと離縁した身である。


「待って二人とも」


 エミリーとエドガーはよく似た表情でにやりと笑い、ばたばたと階段を下りて行った。




 旅装姿で汗をかき、髪が乱れたスティーヴンがエレナの部屋に入ってきた。馬で王都からハーヴェスト領まで駆けてきたらしい。

 エミリーはお茶を出した後、部屋から出て行ってしまった。ご丁寧に扉をきっちり閉めて。

 白い結婚で体の関係どころか手をつないだこともない。

 今では離縁して無関係のはずの男性と二人っきりになってしまった。

 しかもエレナは寝間着に羽織物一枚という心もとない姿。


「すまない、急に来てしまった。貴女の都合も考えず」


 しょぼんとスティーヴンがうなだれている。

 エレナより大きな体格が丸まって小さくなっている。とても可愛らしい。


「いいえ、道中大変でしたでしょう?お茶をお飲みください」


 思い出したように目の前のカップに手を付け、お茶を一気に飲み干した。

 どうやら喉が渇いていることにも気づかなかったらしい。


「エレナ、風邪を引いたと聞いた。貴女の体調がよくない時に押しかけてすまない」


 お見舞いにといただいた薔薇はとても美しかった。


「アレックス殿下から特別に許可をいただいた王家の温室で育てられた薔薇だ。私の魔法で冷凍保存して持ってきた」


 花瓶に活けられた薔薇は摘んだばかりのようにピンとしている。


「まあ、そのような貴重なお花を……アレックス殿下になんとお礼を言えばよいのか。風邪はもうほとんど治っておりますの。妹が心配しすぎなんです、ふふっ」

「そうか……」


 エレナの笑い声にスティーヴンの頬が緩んだ。

 ああ、久しぶりに顔が動いた。


「エレナ、触れても?」

「っ、はい」


 エレナの右手をそっと取り、両手で大事に包み込む。

 ドキドキして下がったはずの熱が上がるよう。


「小さい手だな、可愛らしい。まだ、熱があるようだ。横になっていた方がいい」

「ですが、せっかくスティーヴン様にお会いできたのに……」

「っ!それは貴女も私に会いたいと思ってくれたということか?」

「あっ、すみませ……」

「うれしい」


 スティーヴンの目と口が弧を描き、美しい笑顔がエレナの目の前に広がった。

 手を握ったスティーヴンが鼻と鼻がぶつかり合うくらいの位置まで体を動かしていたのだ。


「ち、近いです……」

「すまない、うれしくて、つい」


 エレナから離れたスティーヴンは居住まいを正した。

 そして椅子から降り、片膝を付いた。

 手に紫水晶が嵌められた銀の指輪が入った箱を持ちエレナの手を再び取る。


「エレナ、貴女がいなくなってから寂しくて仕方なかった。そこで私は初めて貴女が好きなのだと気づいた。心から貴女を愛している。どうか私と結婚してもらえないだろうか?」


 一呼吸おいて、言われたことを理解したエレナは、ぼふんと音がするくらいの勢いで顔を真っ赤にした。


「す……き、ってえ、けっこ……ん」

「ああ、改めて申し込みたい。今度は契約結婚でもない。白い結婚でもない。私は貴女と愛しあい貴女の両親のような温かい家庭を貴女と築きたい」


 ぼろぼろと涙がこぼれた。


「うれしい……です。私もスティーヴン様が好きって、実家に戻ってから気づいて、でも、もう遅くて」

「遅かったのは私だ。エレナ、私を許してほしい」


 こくこくと首を縦に振る。


「エレナ、触れても?」


 声が出せずにこくりとうなずく。


 先ほどは遠慮がちに右手に触れただけだった。

 エレナの左手に用意した指輪を嵌め、そのまま手の甲にキスをした。

 真っ赤なエレナの顔を見つめ、両手を頬に添える。


「エレナ、熱いな。また熱が出てきたのか」


 こつりと額を合わせ熱を測る。

 もう無理だ。限界だ。エレナはふらりと体勢をくずした。

 エレナを抱きとめたスティーヴンは幸せそうに耳元でささやいた。


「エレナの体調が良くなったら一緒に帰ろう。皆、貴女を待っている」



 ◆ ◆ ◆



 スティーヴンの用意した馬車に揺られエレナはゆっくりとハーヴェスト伯爵領から王都のブリックシュトルデに戻ってきた。

 1か月半ほど離れていただけなのに何年もたった気がする。


 エレナを連れていく時、スティーヴンはハーヴェスト伯爵家に改めてエレナを娶る許可を求めた。

 両親や兄は快く頷いてくれたが、一家で一番年下のエドガーとエミリーが反対した。

 エミリーはエレナに懐いていたからわかるのだが、エドガーが反対したのが意外だった。

 年頃で姉にそっけない弟なのだが、姉を泣かせた男をそう簡単には許せないとはっきり言ったのだ。

 大好きな弟妹の反対は悲しかったので、エレナ自身がスティーヴンに惹かれ彼と共にいたいと思い知ったのでに認めてほしいとお願いした。

 スティーヴンも二度とエレナを手放さないし泣かせないとエドガーと約束した。


「そこまでエレナ姉さんが言うなら仕方ないけど、二度と出戻ってこないでよ」

「そうよっもうお姉さまのお部屋なんか無いんだからっ」


 ほっぺを膨らませたエドガーとエミリーが可愛かった。


「あの二人の信頼を得るのは時間がかかりそうだ。でも、認めてもらえるよう努力する」

「うふふ、認めてなかったら会わせてもらえませんでしたよ。あれは、拗ねてるだけです。昔からあの子たちはああなのです」

「エレナも子供の頃はあのように?」

「……私は拗ねたことはありません」

「おや、すこしほっぺたが膨らんでいるぞ。弟や妹とそっくりだ可愛らしい」

「もうっ、そんなことないですっ」


 ぷいっと背けた顔が可愛い。

 拗ねた口調が可愛い。

 エレナのすべてが愛おしかった。


「なぜあの時あんなにあっさりと君を手放せたのだろう?今ではそんなことはもうできない」


 馬車に隣り合って座っているエレナの腰を抱き寄せ頭頂部のふわふわのココアブラウンの髪の毛に顔を埋める。


「スティーヴン様、恥ずかしいからはなして……」

「いやだ」


 そのまま抱きかかえられるような状態のまま公爵邸に着いた。




「エレナさんっ、お帰りなさいっ」

「お義母様……」


 美しく凛とした公爵夫人が化粧もせず泣きはらした目で駆け寄りエレナを抱きしめた。


「ありがとう戻ってきてくれて」

「お義母様……」


 公爵夫人の涙声にエレナも耐え切れなかった。


「母上、ご心配をおかしました」

「本当ですよ、もうっ。あなた方の父も待っておりますよ」


 執事に案内され、公爵の執務室に入る。

 公爵夫妻とテーブルを挟み向かい合わせにソファに座った。


「父上、母上、私は自分の愚かさを思い知りました。エレナはそんな愚かな私を許し受け入れてくれました。改めてエレナと婚姻を結びたいのです」


 スティーヴンはまっすぐに父を見つめ、エレナとの婚姻の許可を求めた。

 ハーヴェスト伯爵からの許可も貰っていることも告げた。


「……スティーヴン、エレナ、残念ながらそれは出来ない」

「何故ですか、父上?」


 スティーヴンは思わず立ち上がった。

 エレナは真っ青になり倒れそうだ。

 公爵に反対されるとは思っていなかった。

 確かに公爵家の方々には優しくしてもらった。

 それは契約結婚だったからかもしれない。

 正式な公爵家の跡取り息子の伴侶としてはエレナは不足なのかもしれない。

 そんなことをまったく思いもしなかった自分をエレナは恥じた。


「お前たちから預かった離縁届、それはまだ私の手元にある」


 そう言ってブリックシュトルデ公爵が机の引き出しから取り出したのは、1か月半前に二人でサインした離縁届だった。


「父上、これはつまり」

「君たちは離縁していない。未だに夫婦のままだよ。だから改めて婚姻を結ぶのは無理だね」


 そう言うと公爵は貴族らしい嫌味たっぷりの笑顔を息子に見せつけた。

 息子にはこの1年相当ハラハラさせられたのだ。これくらいの嫌がらせは許してほしい。


「ありがとうございます、父上」


 スティーヴンとエレナは深く頭を下げた。

 エレナは嗚咽を抑えるのに必死だった。

 ボロボロと涙がこぼれている。

 こんなにも自分はスティーヴンに恋い焦がれているのかと胸が痛くなった。


「この届出はいらないね。私が処分しよう」


 公爵は手元にある離縁届を魔法でさっと燃やしてしまった。

 魔法が使えないエレナは思わずそれに見とれた。

 簡単に魔法を使われて驚いて涙も引っ込んでしまった。


「エレナ」


 グイっと腰に回された手に力を感じ、抱きこまれ顔をスティーヴンの方に向かされた。


「あのくらいの魔法なら私がいくらでも見せてあげるから父上をそんなに見つめるな」

「えっ、そのようなつもりでは」

「……お前は自覚したとたんにその態度か。あまり嫉妬深いとエレナに嫌われるぞ」


 公爵は呆れつつも息子に大事な人ができたのがうれしい。


「うっ、エレナ、このような私ではダメか?」

「いっいいえ、私がスティーヴン様を嫌うなどということはありません」

「私もエレナが好きだよ」


 スティーヴンの顔色は変わらないがエレナは真っ赤になっている。

 そういえば初めて会った時からこの二人は思った事を素直に口に出していたなと公爵夫妻は1年前を思い出していた。

 『好き』という単語が出なかったのは自覚がなかったからで、今後はこのようなやり取りを見せつけられる事になりそうだ。




 公爵邸の使用人たちも暖かく迎えてくれた。

 旅の汚れを落とした後、公爵夫妻とゆっくりと夕食をとった。

 エレナと公爵夫人の体調を気遣い、スープや温野菜など食べやすいものが用意された。

 エレナの好物も多く、料理人たちの細やかな気遣いが嬉しかった。


 エレナがいなかったこの1か月半の話をたくさん聞いた。

 スティーヴンが仕事に身が入らなくなりアレックスに叱責された話には驚いた。


「それほどエレナの存在が私には大きかったんだよ」


 スティーヴンは眉を少し下げてエレナを見ていた。

 わかりにくいけど、以前より表情が豊かになった気がする。


「それがわかるのはエレナだけだよ」


 そう言って隣に座るエレナを抱き寄せた。

 嬉しいけれども、公爵夫妻の前なのでとても恥ずかしい。

 そっと公爵夫妻の方を見ると、二人はだたニコニコと見ているだけだった。


「スティーヴン様、やっぱりに距離が近すぎます」

「スティーヴン、あまりエレナを困らせないように。二人とも馬車に揺られ続けて疲れただろう、今日は早めに休みなさい。今夜から夫婦の寝室を使うのだろう?」

「はい、父上、母上。お気遣いありがとうございます」

「えっ」

「さあ、行こうエレナ。では、父上、母上、おやすみなさい」

「お、おやすみなさい……」


 真っ赤になり固まってしまったエレナを横抱きにしてスティーヴンは夫婦の寝室に向かった。




 ◆ ◆ ◆



 こうしてエレナとスティーヴンは結婚式から1年以上の時を経てようやく名実ともに夫婦になった。

 エレナに初めて触れたスティーヴンはエレナを上から下まで愛することに夢中になり、しばらく寝室からエレナを出さなかった。


「どうして貴方は極端から極端へ走るのですか―!!」


 困った使用人たちが公爵夫人に相談し、別館に乗り込んだ夫人の手によってようやくエレナは解放された。




「春までに片づけたい仕事が山ほどあるのだ。いい加減出仕しろ!!」


 蜜月期間をさらにとりたかったスティーヴンだったが、アレックスに一蹴された。

 仕事が落ち着いた暁にはエレナとの新婚旅行に行くつもりだ。




 正式な夫婦になってから濃密な夜を過ごした二人はすぐに子を授かった。

 ハーヴェスト家は多産の家系だったらしく、エレナとスティーヴンの間には、次々と男の子が3人も生まれた。

 どうしてもエレナ似の娘が欲しかったスティーヴンは4人目で念願の女の子を授かった。


「目の色はエレナと同じ子もいるのに、どうしてみんな私に似た銀髪になるのだろうね?」

「うふふ、みんな綺麗だからいいじゃないですか」

「子供たちは可愛くてとても愛しいよ。私はエレナのココアブラウンの髪の毛が大好きなのだよ」

「私は貴方の銀髪が好きですよ」


 出会った時よりもさらに伸びたさらさらの銀髪に指を通す。

 スティーヴンの髪に触れるのは、妻であるエレナの特権だ。


「エレナ、私も君が好きだよ」


 5人目を妊娠中のエレナにそっと触れるだけのキスをする。

 スティーヴンは相変わらず表情はあまり動かないが、言葉と行動で感情をはっきりと表現する。

 契約から始まったエレナの結婚生活はたっぷりと愛され当初の予定よりとても幸せなものになった。


「うふふ、やっぱりスティーヴン様からの契約をお受けしてよかったわ」

「私もエレナに申し込んでよかった」


 二人の新たな愛の結晶が生まれるまであと1か月である。




ハーヴェスト伯爵家

父 ブレッド

母 アデル

長男 エリック

長女 エヴァ

二女 エレナ

次男 エドガー

三女 エミリー


出てきませんでしたが、姉のエヴァは嫁いで、最終的に4人の子持ちになります。

ハーヴェスト家の女性は体が丈夫で多産です。



ブリックシュトルデ公爵家

父 ジェームズ

母 マルシア

長男 スティーヴン


魔術師の家系で子供ができにくかったのですが、エレナのおかげで子沢山に。

公爵夫妻は孫がたくさんで幸せです。

ハーヴェスト家との仲も良好で、水害対策や他の公害対策も進み住みやすくなりました。

お互いの領地を行き来した魔術師がそのままハーヴェスト領に居ついて結婚したりしてます。


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