終焉の鐘(4)
「――どうしたの、シェルシちゃん? またシルヴィア姉様に怒られたの?」
在りし日の、ザルヴァトーレの宮殿……。そこには日の光が降り注ぎ、優しい水のせせらぎが響いていた。庭園の水路の前で膝を抱えるシェルシの傍、ネーヴェは一緒に座って笑顔で語りかけてくれた。
シルヴィアが厳しく強い姉であったように、ネーヴェは優しくシェルシを包み込むような姉であった。二人の姉は別々の強さと優しさを持っていた。シルヴィアはついシェルシを思う余り強く言い過ぎる傾向があり、シェルシはそのたびにへこたれてはこうして逃げ出したりしていた。
母が居なくなった後、膝を抱えてへこたれるシェルシを慰めるのはネーヴェの役目だった。ネーヴェはいつも、どこにいても、どんな時でも……シェルシが泣いていたら傍に駆けつけてはその頭を優しく撫でてくれた。まるで母親のような愛情を、惜しみなく注いでくれたのだ。
「シルヴィアねーさま、きらいっ! ネーヴェねえさまの方が、すきー……」
「こらこら、シェルシちゃん……だめでしょそんな事を言っては? シルヴィア姉様も、貴方をいじめたくて厳しくしているわけではないのよ。全部貴方の幸せの為ですもの、仕方が無いわ」
「でも、シルヴィアねーさまこわいもん……。直ぐ勉強しろとか言うし……」
「そうね……。でも、貴方はやっぱりこの国の未来を背負う子だから……。私たちに出来る事は叱ったり、慰めたり……そんな事だけだけど。でも、貴方の事をいつも想ってる。大切な家族だものね……」
「…………シルヴィアねーさまはね、シェルシが剣の稽古してると、おこるの……。シェルシも、シルヴィアねーさまみたいに強くなりたいだけなのに。そしたら、シルヴィアねーさまを助けてあげられるのに」
「…………シェルシ……。貴方はとても優しい子……。とてもとても、可愛い私たちの妹ね」
膝の上に頭を乗せ、にこにこと笑うシェルシ。その髪をさらりと撫でてはネーヴェは様々な事をシェルシに伝えた。家族を愛する事……。誰かを信じる事……。悲惨なこの世界の中で、それでもシェルシに愛を教えたのは彼女だったのだ。今のシェルシがいるのは、ネーヴェのお陰だったのかもしれない。
どうして……何故、こうも擦れ違ってしまうのだろうか。誰かに仕組まれていたから……それもあるのかもしれない。でもこれは、きっとそんなに単純なことではないのだ。誰かの所為だとか……そんな風に解決できるような事ではない。でも、“仕方が無かった”なんて言葉で片付けられるはずもない……。人と人とが傷つけあうのは定めだったとしても、それでもそれは悲しすぎるから。身も心も引き裂かれるような、悲痛な想いに満ちているから――。
血飛沫が上がるのを、シェルシは呆然と眺めていた。ネーヴェが振り上げたサーベルは、彼女の胸を深々と刺し貫いていたのだ。心臓を一突き――正にその言葉の通りである。口から血の泡を吹き、見開いた空虚な瞳から一縷の涙が零れ落ちる。目の前で崩れ落ちる姉を抱きとめようとしても、シェルシの腕は片方しか動かなかった。
「――――姉様……どうして……? どうしてぇええええええええええええええええッ!!!!」
絶叫が森に響き渡った。皮肉にも世界はとても美しい――。並ぶ結晶の木々、白く輝く砂の大地……。風はざわめきと同時に光の粉を運んでくる。二人の背後に光が瞬き、ネーヴェは血が溢れる胸を上下させながらシェルシを見つめた。優しく、そして穏やかな目で――。
「これで……いいのよ……。これで……いい。これでシェルシちゃんは……貴方は……生きて、いけるでしょう……?」
「姉様……! 姉様、こんなのって……こんなのってないよぉ……っ! どうしてなの!? 分かり合っていけるのに……!! 一緒に生きていけるのにっ!!」
「もう……つかれ、ちゃった……。誰かを、憎むのも……。誰かを、呪うのも……。シェルシちゃん……貴方は、今でもとても真っ直ぐ……。真っ直ぐで……きれいな目をしているのね……」
血まみれの手が震える。ゆっくりと、シェルシへと伸びる。それを少女はぎゅっと片腕で握り締めた。涙が止まらなかった。この世界の最果てに来て、数々の真実と向かい合った。これまでだって悲しい出来事はあった。けれども――何故またもこうして繰り返すのだろう? 悲劇に次ぐ悲劇……。涙に次ぐ涙……。愚かしく、痛々しく、馬鹿馬鹿しく、そして愛しいこの世界の中で――。また一つ、二つと大切な物が零れ落ちていく。
手を伸ばしても、掴んだと思っても、きつく抱きしめても……それは砂のように。ちょっとした心のスキマから零れ落ちてしまう。大切な想い出の全て……。愛した日々の記憶……。涙は止まらない。止まるはずがなかった。ぎゅっと、ぎゅうっとその手を握り締めた。指を絡め、きつく、きつく……。
「酷い……酷いよ姉様……。こんな所で死ぬなら……死んでしまうくらいなら……! 私に何も知らないまま……苦しまないようにしてよ……ッ! こんなのあんまりだよぉ……! こんなの、背負えないよ……」
「……貴方は、背負わなくて良い……。本当は、心のどこかで死ねる場所を探していたのかもしれない……。貴方に、知って貰えて……。貴方に、泣いてもらえて……。こんなに幸せな事って、ないわ……」
「シルヴィア姉様もっ!! ネーヴェ姉様もっ!! 貴方達はどうしてそう勝手なの!? 私、子供じゃないッ!!!! 子供じゃないよ!!!! 相談してよ……! もっと早く聞かせてよッ!!!! もっと、もっと私を求めてよ……。死んでも意味なんかないよ……。生きて……生きる事が戦いなんじゃないの……? 貴方達はッ!! そうやって勝手に……私をまた孤独にする……ッ!!」
「…………ゆるして……くれないよね……?」
「ゆるさない……。絶対に赦さない……。死んでも、赦してなんかあげないよ……」
その言葉で心の底から安堵したかのように、ネーヴェは安らかな笑みを浮かべた。瞼が重くて仕方が無いと言わんばかりに、目はゆっくりと閉ざされていく。それが閉ざしきるよりも前にネーヴェの鼓動は停止した。力なく、血によって滑る手……。シェルシは目をきつく瞑り、姉の顔に頬を寄せて泣いた。
「どうして……。どうして……。どうしてっ!! どうしてっ!!!! どうしてぇええええええええええええええええ――――ッ!!!!」
生きる事が失い続ける事ならば、もうこれ以上何も背負えないと思った。もうこれ以上前に進めないと思った。けれども何故か身体を起している自分がいた。バカみたいに進もうとしている自分がいた。
片腕片足で地べたをはいずり、前に進もうとする醜い自分が居た。ネーヴェは――最初からシェルシを殺す気なんてなかったのかもしれない。ただ、殺して欲しかっただけ……。それが叶わないのならば、ただ死ぬとき傍に居て欲しかっただけ……。歪んでしまった姉妹の絆、それはシルヴィアも、ネーヴェも、同じ事なのだ。
分かり合うつもりがあれば、きっと分かり合えたのに。もっと早くそれを知っていれば、支える事が出来たのに――。腸が煮えくり返るほどに憎かったのはただただ己の無力さだった。自分が子供だったから。バカだったから。何も護れなかった。何も救えなかった。愛する人の一人救えずにして何が人間。何が姫か。何が革命者か――。
「うぅううう……っ! うぅううううううううぅぅぅ……っ!!」
獣のような唸り声を上げ、泣きながら這い回る。木々の中で、神の国で……それでも前に進む。痛みが滅茶苦茶に背中を押している気がした。自分への怒りが立ち止まる事を赦さなかった。絶対に強くなる。もう何一つ失わないくらい――強く、強く――――。
「――――僕の……負けなの……? 姉さん……」
焼け野原となった大地の上、タケルの四肢は無残に分解され、塵のようになっていた。エリシオンとガリュウを握り締めた腕は既に肉体から切り離された部分に転がり、タケルの肉体は生命維持が既に停止し、ガリュウの力でかろうじて生きながらえているだけだった。
再生が追いつかないレベルでの大魔術の直撃――。防御も反撃も出来ず、一方的にタケルは無慈悲な炎に焼かれた。かつての弟を見下ろすミュレイ……。その瞳は赤く輝き、しかしやはり悲しみは隠せなかった。
「エリシオンは……? 無限の魔力は……? おかしいな……。僕は、最強になったはずなのに……」
「…………エリシオンならば、ここにある」
ミュレイが拾い上げたエリシオンはタケルの腕とセットになっていた。その刀身には分解されたソレイユが突き刺さっている――。無限の魔力はミュレイのソレイユに吸い取られ続け、今はタケルまで回らない状態にあった。ガリュウの命のストックも既に尽き掛け、文字通り今のタケルは絞りカスだった。
「エリシオンを、取り込んだのか……。ソレイユは……天敵だったんだね……。流石、姉さん……強いや……」
「…………タケル」
「姉さん、覚えてる……? ミラ姉さんがいなくなったあと……姉さんはいつも泣いてたよね……。僕は無力で……姉さんの涙を止めてあげる事も出来なかった……。魔剣使いになれたらよかったのに……そうずっと考えてた」
王子の交換制度を例外的に受けたタケルは、敵国で素性を隠して孤独に生きていた。そんなタケルに優しくしてくれたのがミラとミュレイの二人……。本物の家族として、共に過ごしてくれた。しかし彼には魔剣への適性がなく、ゲオルクやイスルギのように姫を護る事は出来なかったのだ。
「姉さんを護りたかった……。この世界を、変えたかったんだ……。でも……姉さんはやっぱり強いや……。姉さんは……やっぱり、僕の姉さんだ……」
「…………この、ばかもの……っ! そんな事……っ! そんな事っ!! 当たり前じゃろう!? 天地がひっくり返ったとしても変わる事の無い……! 歴然たる、事実じゃ……」
「姉さん……大好きだよ……。大好きな姉さん……どこで、おかしくなったんだろう……。僕……間違ってたのかな……?」
「ああ、間違いも間違い……大間違いじゃ。お主がそんなになってまで闘う必要なんてどこにも……塵芥ほどもなかった。お主は……ただ居てくれるだけで……よかった」
膝を着き、ミュレイはその両腕でタケルの残骸を抱きしめた。強く抱きしめすぎれば崩れてしまうその身体を、そっと優しく……。どんな姿になっても、どんなに変わってしまっても、変わらないものはきっとある。例えこの世界の誰もが彼を赦さなくとも、自分だけは赦してあげよう……そう思った。家族だと思った過去に偽りはない。どんなに狂ってしまった運命の中にあっても、共に過ごした時間の価値は何も変わらない。
共に時代の中を生き、道や手段をたがえてもそれでもこうして巡り会った。敵同士として何度も悲劇を受けても……それでもこうしてまた巡り会ったのだ。どんなに残酷な世界の中に居ても、変わらない確かなもの……。ミュレイは微笑み、タケルもまた笑っていた。腕のない少年はミュレイを抱きしめ返す事は出来ない。だが……それでも気持ちは通じていた。
彼を正義とは呼ぶまい。だが、悪と呼ぶ事もしない。赦し、愛し、そしてその魂を背負っていく……。それがこの憎しみが連鎖する世界の中で大切な事なのではないか? 今はそう思える。魔剣の支配から逃れ、今のタケルはとても穏やかに見えた。だから……少なくとも、“これでいいんだ”と思える。
立ち上がったミュレイは背後に立つイスルギの槍を借り、それを手にしてタケルを見下ろした。タケルは目を瞑り――そして穏やかに語る。
「さあ、僕を殺してくれ……。姉さんの手でなきゃ、死ねないんだ……。納得できない……」
「…………わらわは……結局、お前に何もしてやれない愚かな姉だったな」
「それは違うよ……。姉さんは、最高の姉さんだ……。僕にとってかけがえのない……たった、一人の――」
目を閉じ、ミュレイは風を受けていた。何もかもが止まってしまえばいいのにと思った。だが――背負わねばならないのだろう。これからこの世界で生きていく為に……背負っていくしかないのだ。握り締めた冷たい剣、それを掲げる。涙と共に貫く槍の一撃こそ、彼の魂への真の手向けだった。
穏やかな表情のまま消えていくタケル……それをミュレイは涙を流しながら見送っていた。やがて槍は大地を貫いた形のまま――タケルの姿は消えてしまった。震える背中をイスルギが抱きしめると、ミュレイの振るえる手から槍は落ち、小さく音を立てた。
「……良く頑張ったな」
「…………何も……してやれなかった。何も……何一つ……」
「ああ……」
「何の為に……闘うのだろう……? 何の為に……生きて……。何の為に……死んでいくのだ……? こんな事、誰も望んではいなかった……望んだ事などなかったッ」
振り返り、イスルギの襟首を掴み上げるミュレイ。止まらない涙をそのままに、悲痛な眼差しでイスルギを睨む。男はただ成されるがままにその挙動と感情を受け止め、妹を見つめ返す。今の彼に出来る事は、せいぜいその程度だったから。
「何故……! どうして……! この世界は……っ!! わらわは……無力なのだ……!? 弟一人救えないで……何が護れる……! 何が救えるっ!! この世界を救う資格なんてわらわにはない! わらわには――っ!?」
その時、イスルギの平手がミュレイの頬を打っていた。己の顔に手を当て、項垂れるミュレイ。イスルギは今度は逆にミュレイの襟首を掴み上げ、顔を近づけていった。
「俺たちに出来る事は、嘆く事ではない……わかっているんだろう? この世界の歪んだ運命を正す事……ただそれだけだ。“それしか”出来ないんだ。それだけが……死んで行った人間に対する贖罪ではないのか……?」
泣き崩れるミュレイをイスルギは再び抱き支えた。声を上げ、子供のように泣いた……。その涙の一滴が、一つ一つこの世界に染み渡っていく。絶望的な悲劇が連鎖するこの世界の中へ……。もしも、全ての罪を償う手段があるのだとしたら――。だがきっと、それを選びはしないのだろう。罪を背負い、咎人として生きていく……。それこそがこの世界の人間には相応しいのかもしれない。
二人の頭上をガルガンチュアが通り抜け、戦闘の轟音が顔を上げさせる。戦いはまだ終わったわけではないのだ。まだまだやらねばならない事は山ほど残っている……。イスルギは立ち上がり、そして空を仰ぎ見た。
「ここが正念場だ、ミュレイ。立ち上がり……進んでいこう。それだけが今の俺と君に出来る事なんだ」
「………………」
そっと立ち上がり、振り返るミュレイ。もうそこに弟の姿はなかった。だが戦いはまだ続いている。これからの自分にはまだ出来る事があるかもしれない。今救えなくとも、違う何かをこれから救えるかもしれない。ならばまた涙を流し絶望しない為に……。今は歩くべきなのだ。闘うべきなのだ。嘆くだけならいつでも出来る。だが今、この時、この場所でしか出来ない事がある。鉛のように重い足を一歩、大地を踏みしめ感じる。まだこの世界に生きている。生きているのならば――成さねば成らぬ事を、全て成すだけだから――。
終焉の鐘(4)
「貴方は私……。確かに私の後を継ぐ存在……。でも、何故私と一対一に持ち込んだのかしら?」
「自分なりのケジメ……かな? 私は今までずっとミラ・ヨシノの存在に助けられてきた。これからもそうだと思う。だから――私は貴方を解き放つ義務がある」
「貴方達は勘違いしているわ。私が欲しいのはホクトだけ……。邪魔をするシェルシを消せれば別にそれでいいの。貴方には興味ないわ」
「そっちがそうでも、こっちはそうはいかないんだよ。ホクトはもうわかってるんだ。だからここを私に任せた……。君には判らないのか? ミラ・ヨシノという存在が」
「まるで私より私を理解しているかのような口ぶりね」
「“そう言っている”んだよ――聞こえなかった?」
不適に笑う昴がユウガの力を解放し、銀色の光を放つ巨大な太刀へと変貌させる。それに呼応するかのように昴の髪も銀色に染まり、その瞳は紅く輝いた。
走り出した昴の速度は目で追う事すら困難なほど素早く、縦横無尽に氷の結界の中を駆け回る。それをミラはしなる剣、リヴァイアサンで追っていた。互いの反応速度は互角――。動きは昴の方が早いが、リーチでは圧倒的にミラに武があった。二人は高速で駆け巡り、刃を交える。一度、二度、三度とぶつかり合う度に火花が散り、二人の真紅の瞳が交錯する――。
「君はミラなんかじゃない……! ミラは……このユウガを持っていた彼女は、他人の為に己を犠牲に出来る人だ!」
「でも、それでは何も得られない。どれだけこの世界の為に尽くしても、人はまた裏切るわ。世界の運命がそう出来ているから――」
「運命なんて言葉は物事が上手くいかなくてふてくされてる駄々っ子の言葉なんだよ。私は知っている――運命なんてものは存在しないって事を。在るのは己の進む道……それを決め、切り開く力だけだ」
破魔の斬撃が氷の世界を切り裂きながらミラへと迫る。それをミラは跳躍して回避し、リヴァイアサンを鞭からガトリングへと変貌させる。火を噴き高速で射出される弾丸――それを昴は時間停止の連続で防いでいた。
「私もそうだった……。私も、どうしようもないものを運命だと考えて逃げていた。自分は運命に逆らっているんだと言い聞かせて逃げたんだ。でも違った……。運命なんてどこにもない! 私は自分で決め、誰の所為でもなく正義でも悪でもなく、自分自身の為に闘う!!」
「……貴方――目障りね」
ガトリングが更に変形し、そこから閃光の矢が放たれる。昴はそれをユウガの一閃で両断した。背後で起こる爆発――その風に髪を鮮やかに靡かせ、少女は顔を上げる。
「己の罪から逃げようとしている時点で、君は自分に負けている……。君はもう死んだんだ。君はもうどこにもいない。取り戻せるものなんてなにもない――!」
「いいえ、取り戻してみせるわ……! 愛する人を……! 愛する世界を……! 今度こそ、やり直してみせる……私の力で――ッ!!」
二人もまた、良く似ていた――。取り戻したかった物。間違えてしまった手段。誰かを大切に思う気持ち……。昴は傍に沢山の仲間が居た。間違ってもそれを正してくれる仲間が居た。沢山の経験があり、沢山の前進があった。数え切れない成長がこの世界であり、彼女は一回りも二回りも大きくなった。
心を閉ざし生きていた現実世界での日々……。ミュレイに甘え、怯えるだけだった日々。闘おうと決意し、失った日々……。取り戻そうと必死になり、それでもまた沢山の物を失った日々……。それら全ては決して無意味などではない。無理解や無秩序や、失敗や後悔は全て彼女の背中を押す力となる。前へと進む原動力となる。
ミラには傍に仲間が居なかった。彼女は間違いを正してくれる人がいなかった。だからこうして間違ったまま、間違った手段で、間違った姿で存在する――。それは“不幸”だ。同時に自分は幸せなのだという証明である。存在の意義を――この場所に生きる意味を。今はもう迷ったりはしない。間違えたりはしない。誇りを胸に生きていける……そう、今の北条昴なら――。
「私は……罪深い人間だよ。私は間違っている……存在そのものが揺らいでいる。でもね――それでいいんだ。君もそう気づく事が出来れば何かが違ったのかもしれない。どんなに醜い心でも……。どんなに目をそむけたくなるような自分でも……。そこに、確かに“心”がある――!」
降り注ぐ氷の嵐、それを剣の乱舞で斬り捨てる。舞う光の嵐――昴はそれを浴びて真っ直ぐに輝いていた。揺ぎ無い信念――自分を憎み、そして愛する心。揺るがない“ゆらぎ”……。矛盾し続ける自己。だがその全てをひっくるめ、今は信じる事が出来る。そう、その一歩一歩を。
「大切な物を護る為に、誰もが必死に生きている。闘っている――! 君が間違いだなんて言わない。君が悪党だなんていわない。でも、それを認めるわけにはいかないんだ!」
「なんて身勝手な理屈……!」
「ああ、自分勝手さ……でも、それでいいんだ! そんな自分を引きずって背負って、憎たらしいって笑えればいいっ!! 私は君を切り捨てる! 至極個人的な理由でッ!!」
「なら、私も自分勝手にやらせてもらうわ……。貴方のそんな屁理屈になんて付き合っていられないもの」
氷の龍が出現し、それが口から光を放った。だが昴はそれさえも刃の一振りで消滅させてしまう。彼女の剣の軌跡は全ての断罪と浄化を意味する――。ありとあらゆる魔と名のつく存在を一刀の元に切り払う破魔の力――。昴は既にその力を完全に使いこなしていた。
沢山の物を背負い、沢山の過去を背負い、今を走っている――。だから恐怖はない。怒りもない。悲しみはないし、ただあるのは無だけだ。駆け抜けるその一挙一動が極限の冷静さの中にあり、そしてそこから繰り出される一撃は神をも下す執行者の破壊である――。剣でそれを受け止めたミラ……しかしその剣を両断し、ユウガは今だ余りある――。
「さあ、試そうじゃないか――。私の愛と君の愛、どちらが上なのかを……!」
再構築した剣にて打ち合うミラ。二人は高速で何度も刃を交え、氷の世界の中で激突した。衝撃が広がり、境界が崩れていく……。至近距離で見詰め合う二つの視線――それは互いの存在を決して受け入れず否定しようと、ただただ真っ直ぐに輝いていた――。