終焉の鐘(3)
ミュレイとタケルの天変地異にも似た争いを背景に二人の女が向かい合っていた。片や、ザルヴァトーレの血を引く封印の姫。片や、神の力を得た死者の姫――。二人は等しく愛の為に戦ってきた。その間に善悪や優劣は恐らく存在しない。
ミラ・ヨシノとシェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレは奇跡的なまでに酷似している。外見や口調がではなく、その魂の在り方のようなものが似ているのだ。同じく世界の平和を願い――。同じく、人を傷つける事を忌み嫌い。同じく、世界と戦った。そして同じ一人の男を愛した。その形や魂は違えども――二人は似ている。とてもよく、似ているのだ。
その間に差があるとすれば、彼女たちの立場くらいのもの……。世界を思う気持ちも、世界を愛する気持ちも、ホクトを愛する気持ちも変わらない。二人は得る者と奪う者であり、だがそれ以上の差は何一つ存在しないのだ。二人は同じモノ……同じカタチ……。そう、きっともしもこんな出会い方ではなかったら――最良の親友になれた程に。
「貴方がホクトを愛している事は知っています」
「貴方がホクトを愛している事は知っているわ」
「でも、貴方はもう以前のミラさんではないんですね」
「そう、私はもう以前のミラ・ヨシノとは違う」
「貴方は護るべき世界に牙を剥いた」
「私はこの世界に失望している」
「だから……私は貴方と闘わなければならない。抗わなければならない」
「貴方を消さなければならない。私にとっての理想を貫く為に」
ミラは魔剣を片手に周囲を凍結させていく――。シェルシはそれに魔術で応じようとしたが――それより早くシェルシを背後に引っ張る腕があった。後ろに引っ張っていたのはうさ子であり、その隣には昴の姿がある。
「シェルシちゃん……ここは、シェルシちゃんの出番じゃないの」
「彼女の相手は私がするよ。一応……私は彼女とは因縁があるんだ」
「で、でも……っ」
「シェルシちゃんは、誰かを傷つける人であって欲しくないの……。シェルシちゃんはね……とっても優しくてあったかくて……うさたちにとって、還るべき場所なの。だから……シェルシちゃんはシェルシちゃんの理想の為に、今は闘わないで」
「うさ子……」
戸惑うシェルシの隣、昴はユウガを片手にミラと対峙する。かつて同じ剣を手にした二人の女が向かい合う……。破魔の剣を片手にこの世界を護るべき存在……それが今は運命の悪戯で対峙している。
「……破魔剣ユウガ……。私の剣で私と対峙するつもり? 北条 昴……」
「私は……私は、ミュレイにとって貴方の代用品だった。私は貴方の代わりにこの世界の為に闘った……。貴方は生きていなければいけない人だった。でも貴方は死んでしまった。貴方が居ないから――そして私は貴方の居場所を奪ってしまった」
「そうね……貴方は私のものであったはずの全てを奪ってしまった。でも今更それがなんだと言うの? まさか、謝ったりして穏便に済ませるつもりかしら?」
鞭を片手に笑うミラ。しかし当然、昴はそんなつもりで対峙しているわけではない。今目の前に居るのはミラ・ヨシノ――だが昴には確信があった。“彼女”も。“彼”も。決して“本物”などではないのだと。
昴はミラの刀を手にして今日まで闘ってきた。破魔剣ユウガは主を失っても直、時を止めてこの世界に留まり続けた剣である。だがそれは“違う”のではないかと、そんな考えは常に昴の中にわだかまっていたのだ。そう、この剣は――“本当”のミラ・ヨシノを導いてくれる。
どんな時も昴と共にあったこの剣こそ、ミラ・ヨシノそのもの――。ならば目の前にいるミラはただミラのカタチをした物に他ならない。そう、シェルシの言うとおりなのだ。あんなものがミラ・ヨシノであるはずがない――。昴の中の何かがそう叫んでいた。だから、確かめようと思った。他に救う手立ては無いと思った。だから――剣を両手でしっかりと構えるのだ。
「……ミラ。貴方はいつでも私を護ってくれた。私と共に在った……。貴方が望んでいたのはあんな姿じゃないんでしょ……? ミラ……私は貴方を……誰よりも信じられるから――」
「……戯言ね。まあいいわ、誰が相手でも同じ事よ。全員纏めて惨殺してあげるから」
ミラがうねる剣を振るうと、それはぐるぐると渦巻くようにして周囲に氷の領域を作り出していく。昴はその中に閉じ込められ、仲間達とは隔絶されてしまった。氷の結界に取り込まれた昴の背中を見つめ、シェルシは慌てて助けに入ろうとする。それを止めたのはやはりうさ子だった。
「うさ子! 放して下さい……! 昴がっ!!」
「…………今のミラちゃんを助けられる方法があるとすれば、それは昴ちゃんの“破魔”の力しかないの。シェルシちゃんにはシェルシちゃんの役割があるように、昴ちゃんにも昴ちゃんの役割があるんだよ」
「うさ子……! では、私の役割とはなんですか!? 私だって闘えます! 私だって皆の仲間です!! 魔剣は無くとも……心は常に共にあります!」
うさ子に食って掛かるシェルシ。そんな二人目掛けて迫る剣の姿があった。空から飛来したそれをシェルシは咄嗟に封印魔術で相殺する。だが、放たれた攻撃はシェルシと同じ……封印の剣だった。
振り返る二人の視線の先、そこには黒髪を靡かせるネーヴェの姿があった。ネーヴェ・ルナリア・ザルヴァトーレ……。シェルシの姉である女は大地へと降り立ち、風を受けてその髪を靡かせていた。
「ネーヴェ姉様……!? ど、どうしてここに……? あれからどうしていたんですか……? 私、てっきり姉様も……!?」
しかしシェルシの言葉はそこで途切れてしまう。ネーヴェの隣に降り立った男の姿を見たからである。ネーヴェの傍に立っていたのは――元帝国剣誓隊大将、オデッセイであった。一体どういう組み合わせなのか……困惑するシェルシ。だがそれが決していい意味ではないという事には当然気がついていた。
「やあ、シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレ。皆お揃いで賑やかじゃないか」
「……大将、オデッセイ……!? どうして貴方が……!?」
理解の追いつかないシェルシとは対照的にうさ子は既に臨戦態勢に入っていた。オデッセイを前にミストラルを構え、鋭い目つきで睨みつける。うさ子だけではない、ハロルドとホクトもオデッセイを囲むようにして戦闘隊形に入っていた。そう、彼が持つその“魔剣”を見れば、事情は大よそ掴む事が出来る――。
「魔剣狩りに……皇帝ハロルドか。随分と怖い人に囲まれたものだ」
「ロゼから話は聞いてるぜ……? どうも前に会った時からテメェは気に食わなかったんだ」
「貴様……やはりそういう事か。余が第三階層に降り立った後に召喚されたゼダン……そういう事だな」
「気ついていなかったとは意外だね。でもまあ……無理も無いか。それに貴方は勘違いをしている、ハロルド。私は別に貴方より後にゼダンになったわけではないからね」
片手を腰に、もう片手で剣を握り締めオデッセイは首を擡げるようにして笑みを作る。その何もかもを見透かすような眼差しを前にホクトもハロルドも緊張した様子だった。だがシェルシにとってはオデッセイよりも気になるのはネーヴェの方である。
「ネーヴェ姉様、どうしてゼダンと一緒に……? 姉様に何があったんですか……?」
「……シェルシちゃん……貴方はまだ気づかないの……? 私は別に、何かがあってゼダンと行動を共にしているわけじゃないの。私は、最初からゼダンの一人なのよ」
「そ、そんな……? 最初からって……」
「シェルシちゃん、貴方には私たちの気持ちは判らないでしょうね……。私も、タケルも……この世界に呪われた存在なのよ。だからこの世界を壊したかった……。“アニマ”さえ覚醒すれば、この世界はあっと言う間に崩壊するわ。それこそ、まるで全てが夢か幻であったかのように」
ネーヴェはシェルシへと歩み寄り、そしてその手を天に掲げた。周囲に浮かび上がる半透明の黒い剣――それはシェルシが扱う物と全く同じ、封印魔術である。違いが在るとすれば属性……。シェルシが光であるのならば、ネーヴェは闇……。シェルシはそれに応じる形で止むを得ず魔術を発動した。
「ネーヴェ姉様ッ!!!!」
「少し、昔話をしましょうか……? 誰にも邪魔されない場所で……二人きりで――」
降り注ぐ黒き封印の剣――。二人の姫は互いに剣と剣を衝突させる。相殺に次ぐ相殺の連鎖――二人の間で何度も何度も光が交わっては爆ぜた。一頻り攻防が終わったのを合図にネーヴェはふわりと舞い上がり、結晶の森の中へと舞い降りていく。シェルシは一瞬ホクトたちの事を気にかけ――それから走り出した。
誰もシェルシを止める者は居なかったし、そんな余裕もなかった。シェルシにはシェルシの戦いがある……そう、彼女は己の宿命と向かい合わなければならない。うさ子もホクトもそんな事は承知の上だった。だがそれより何よりも――この最後のゼダンを相手にする事の難しさの方が問題だったのである。
「さて、これで漸く舞台は整った……というところかな? 大罪を持つ者は全てこの場に揃った。後は全ての剣を私が回収すれば、アニマ復活の準備は整うだろう」
「貴様……。余の下についているフリをして、この機をずっと狙っておったのか」
「私はね、ハロルド。元々君の元に下ったつもりはない……。君が帝国を統べる事も、君がこの世界を守ろうとする事も、私はすべて傍観していただけだ。魔剣狩り、君の戦いも実に面白かった。良く出来た喜劇だったよ」
「テメェか……いつも俺たちの事を見てた“傍観者”は……」
「表舞台に立つのはあまり好きではなくてね……。君たちが“役者”ならば私は“演出家”といったところかな。私という存在も大罪という剣も、全ては物語の為の舞台装置だよ」
「アニマを復活させて、この世界を壊して……! それで何がしたいの!? うさたちは、そんな事望んでないのっ!!」
「ふむ……? まあ、私に言わせればこんなものは暇潰しの一つだよ」
あっけらかんと答えたオデッセイの一言に三人は驚きを隠せなかった。だがそれこそがオデッセイという男の本質である。別段、善悪や大義があってやっていた事ではない。アニマが復活して世界が滅ぼうが、帝国が討たれて世界が混乱しようが、そんな事は別段興味のないことなのだ。
オデッセイには目的と呼べる物が一切存在しなかった。彼は自分の為に何かをするという事を知らず、他人の為に何かをするという事を知らない――。帝国にまぎれていたのは、そこが“特等席”だったから。ザルヴァトーレを滅ぼしたのも、“その方が面白そう”だったから。人々が苦しむ姿こそ彼の娯楽であり、その苦しみを踏破しようと戦う姿もまた彼の娯楽なのだ。
別段、アニマが復活しようがしまいが彼にとってはどうでもいいことだ。ただ、アニマが復活するかもしれないと騒ぎになれば、ホクトたちがエデンまで乗り込んでくると思った。そのほうが“面白そう”だったから、別段特に何か防衛策を敷く事もなかった。そして今はここがオデッセイの特等席――。現実と最悪の敵に脅かされ、緊迫した表情を浮かべる彼らこそがオデッセイの最高の娯楽なのである。
「暇……潰し……? 暇潰しって言ったのかよ、テメェ……」
「ああ。私はゼダンだが、別にこの世界がどうなろうと関係ない。私は既に時空を超える技術を持っているし、アニマを制御する方法も何となく検討はついている」
「馬鹿な! アニマは決して管理できない存在だ!! 何より貴様以外のゼダンが黙ってはいないぞ!!」
「ああ……他のゼダンならもう何十年も前に全員始末してある。やつらはやつらなりに、この世界を護ろうとうるさかったからね」
「な――ッ!?」
驚愕し、目を見開くハロルド。その表情を楽しむようにオデッセイは口元に穏やかな笑みを浮かべる。うさ子も、ホクトも、信じられない物と対峙しているような気分だった。目の前に居る男……彼こそが真の意味でたった一人ゼダンの生き残りなのである。
「野に下り、後は私の言うとおりに動いていた君は何も知らなくて当然だ。タケルやミラやネーヴェはゼダンだが……まあ私の手下という意味でゼダンであって、真の意味でのゼダンではない。既にゼダンという組織は形骸化し、私の私物となっているからね」
「それじゃあ……てめえがこの世界の絶望の原因だっていうのかよ」
「その通り。この世界に魔物を増やしたのも……。帝国の戦力を増強させたのも。タケルやネーヴェを使ってプリミドールの戦争を長引かせたのも……。全ては私の計略の一つ」
「……ひどい……ひどすぎるの……! どうしてそんな事が出来るの……? どうしてそんなに笑っていられるの……!?」
「いや、その方が退屈しなくて済むからね」
オデッセイがそう笑った直後、ホクトとハロルドが同時に襲い掛かっていた。二人が繰り出す斬撃――だが二人の動きはピタリと停止していた。刃はオデッセイには届かない。ただ二人は目を見開き、何か信じられない物を見たという顔をしている。
「私はね……この世界に初めて君臨した六英雄の一人だった。アニマを封じた時も、丁度君たちみたいに正義感の強い仲間と一緒だったよ。私は酷く退屈だったが……しかしアニマとの戦いはこう、燃える物があってね」
オデッセイは身体を捻り、二人を纏めて蹴り飛ばした。すると二人の手の中から魔剣は瓦解するかのようにして消滅していく――。何が起きたのか判らない――三人ともそんな顔をしていた。ただ不気味にオデッセイの持つ紫の刃が淡く光を放っていた。
「だが、アニマを封印してからは退屈の連続だった。なまじ死なない身体でね……。大罪同士で闘うように仕向けてみたり、この世界に魔剣をばら撒いて見たり……色々やったが中々面白くはなかった。だからまあ、アニマが復活して大暴れしてくれれば胸が“すっと”するんじゃないかと思ってね」
「ふ、ふざけないでっ!! うさたちがどんな気持ちでこの世界を生きてると思ってるのっ!? 皆がどんな気持ちで……どれだけ苦しんで、泣いて、ここまで来たと思ってるのっ!?」
「それがいいじゃないか。物語とはそうでなくてはならない。友情、努力、勝利……。三拍子揃った素晴らしい物語ではなかったかね? “ロクエンティア”は」
「――――ペラペラペラペラ男の癖にウゼェんだよ……。もう喋るんじゃねえ、テメエは。そこを動くんじゃねえ、今直ぐブチのめしてやる」
「全く同感だ……。貴様だけは絶対に赦せん。ここまでコケにされたのは長い人生の中でも初めてだ……。死を以って贖って貰うぞ」
ホクトとハロルドが同時に立ち上がり、同時に魔剣を構築する。オデッセイはその姿を楽しそうに眺め、目を細めて笑みを浮かべる。淡く輝く刃を片手に、ゆっくりと前へ出た。
「さて……賭けをしようか? ゲームをしよう、諸君。ここで君たちが私を殺せれば……世界は少しはマシになるかもしれない。もっとも、ほんの少しだけだけれどもね。世界は勝手に自滅の道へと進んでいく。私を倒した所で意味はないかもしれない。だが――“赦せない”んだろう? ならばその感情の赴くままに怒りを爆発させてみせてくれ。その感情の昂ぶりこそ、私にとって最高の麻薬なのだから――」
終焉の鐘(3)
「――シェルシちゃん、貴方はとても真っ直ぐで……とても良い子ね。私はそんな貴方の事が大好きだった」
「ネーヴェ……姉様っ!!」
結晶の森の中、飛び交う二色の剣の姿があった。二人の封印の魔術師は互いに全力を賭して腕を競い合う。それはかつて二人の母が二人に伝えた魔術――。相手を傷つけず、自由と力だけを奪う魔術……。それが今は奇しくも二人の姉妹の決別を意味していた。
樹林の中、二人は結晶樹木を壁にしつつ攻防を繰り返す。既に何十回魔術を発動したかわからない。汗を流し、肩で息をしながらシェルシはネーヴェへと目を向けた。
「どうして……どうしてなんですか、ネーヴェ姉様……? まさか、あの男に何かされたんですか!? だったら、私たちと一緒に……っ!!」
「それは違うの、シェルシちゃん。私はね……自分の意思で望んで彼に従ったの。この世界を……壊す為に」
ネーヴェが放った剣がシェルシに迫り、それはシェルシの作った剣を砕いて彼女の腕に突き刺さった。痛みはなかったが――そのたった一撃で腕の感覚がなくなってしまう。まるで他人の物のように重くなった腕に焦るシェルシを前にネーヴェは語り続ける。
「シェルシちゃん、私はね……ルナリアの血を引いていないの」
「え……?」
「ルナリアの正当な後継者は、シルヴィア・ルナリア・ザルヴァトーレと貴方……シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレだけ。私はね……貴方とシルヴィアの影武者なのよ」
「う、嘘……」
「嘘じゃないわ、そうやって育てられたもの。私の命は貴方達がいざという時、代わりに死ねるようにってお母様が設定したものなのよ」
「お、お母様が……!? そんな……そんなことって……!?」
「お母様は優しくて聡明な女性だった……貴方はそう思っているんでしょう? でも実際は違うわ。彼女は帝国に抵抗する為ならばどんな手段も選ばない冷酷な人間だったのよ。私は呪ったわ……。シャナクから最大の愛を受ける貴方とシルヴィアを。でも、私は身代わりとして生きるしかなかった……他に生きる術なんて知らなかったから」
更に放たれる一撃――それがシェルシの片足を貫いた。感覚を失った足はまるで棒のようで、シェルシはそのまま前のめりに倒れてしまう。傷は無い――だが、目前まで迫るネーヴェに対して何も出来なくなってしまう。
かろうじて反撃を放とうとする片腕も剣で貫かれ、シェルシはネーヴェの伸ばした手に抵抗する事もできなかった。優しくシェルシの頬を撫でるネーヴェ……。その表情は不思議と穏やかだった。
「知ってた……? タケルも、ゲオルク兄様も……二人ともザルヴァトーレの王子だった――って」
「え…………?」
「どうしてザルヴァトーレやククラカンは勝手なのかしらね……。兄も妹も離れ離れにされて……。国と国とが争って……。私は何の為に生まれてきたんだろうってずっと考えてた。そんな時に……気づいたの。彼の……オデッセイの言葉で」
ネーヴェは両手をシェルシの細い喉に向ける。白くしなやかな指がシェルシの喉に食い込み、ぎりぎりと締め付ける――。呼吸が苦しくなり、苦痛に顔をゆがめるシェルシ……。それを楽しげに見下ろし、ネーヴェは微笑んでいた。
「私ね、これでも貴方の事……好きだったのよ。大好きだった……。可愛い可愛い妹だと思っていた……。でも、やっぱり駄目。やっぱり私、貴方の偽者なんかじゃ満足出来ない……!」
「ねえ……さ……ま……っ」
「シェルシちゃん、この世界はどうしてこんなに狂っているんだと思う? この世界はね、成り立ちから全てが狂ってるのよ……。だから全てを壊して、またゼロからやり直したいの。私は世界再生の女神になるの……。終焉は同時に再生の始まりでもある。私はそれで、私自身になれるのよ」
「ぐう……っ」
締め付けが徐々に強くなり、呼吸もままならなくなってくる。酸素を求めて喘ぐシェルシの姿をネーヴェはうっとりと見下ろしていた。爪はシェルシの喉に食い込んで血を滲ませる。ネーヴェは穏やかな表情のまま、狂気に心を委ねていた。“本物”を殺す事――他に生き残る術は考えられなかった。
「大好きよ、シェルシちゃん……。愛してる……。だから……私の為に死んで……」
「あ……う……うぅ……」
「死んで……」
「ね……え……さ……。め……な……さ……」
「――――え?」
「ねえ、さま……。ごめん、なさい……。ごめん……なさい――」
シェルシは両目から涙を流し、謝罪の言葉を呟いていた。何故かそれに驚いたネーヴェは手を離し、一歩仰け反った。残った片腕を大地に着き、シェルシは激しく咽た。涙をぽろぽろ零しながら……姉の姿を見上げながら。
「シェルシちゃん、何を謝っているの……? 私はこれから貴方を殺すのよ……? なのにどうして……どうして謝ったりするの――?」
「わた、し……。何も知らなかった……。姉様……私、何も……うぅ……っ! 全然わかってなかった……! 全然、姉様の気持ち……わかって、なかった……っ」
唖然とするネーヴェ。身体が恐怖から小刻みに震えていた。そう、“恐怖”――。得体の知れないその感情にネーヴェは困惑する。シェルシは泣いている。それは――きっと自分の為の涙だ。そう思うとまるで身体が石になったかのように重く、一歩も動ける気はしなかった。
「私、バカで……。世間知らずで……。姉様の事も、お母様の事も……この世界の事も何にも知らなかった……。何にも知らなくて……ごめんなさい……姉様、ごめんなさい……」
「シェ、シェルシちゃん……。わ、私……」
「姉様は……姉様です。私の代わりなんかじゃない……。姉様は、優しくて……。姉様は……綺麗で……。お願い、もうやめてください……! 一緒に帰ろう、お姉ちゃん……?」
頭を抱え、ネーヴェは後退する。この後に及んでまだ――シェルシは自分を赦そうとしている。国を滅ぼす事に加担した。シルヴィアが死んだのだって、その責任は自分にもある。この世界は混沌の中に埋もれ……シェルシもその所為で酷く苦しんだだろう。胸を締め付ける良心の呵責――。ネーヴェは壊れたように笑い、腰に下げていたサーベルを手に取った。
「シェ、シェ……シェルシちゃん……。それは無理よ……無理なの。私はね、もう沢山の人を殺してしまったの……。私はね……オリジナルになるのよ。私は……オデッセイが神になった世界で、女神になるの……。それはとてもとても素晴らしい事なのよ……? もう、誰も私を偽者だなんて呼んだりしないわ……」
「姉様……」
「ゲオルグ兄様だって、もう私たちの事を裏切らない……。何もかもを支配できる世界になったら、また皆で一緒に暮らせるわ……きっと。今度は……争いの無い世界に……ふ、ふふふ……」
よろりと、ふらつく身体を引きずるようにしてネーヴェは歩き出す。片手には銀色に光るサーベル……。シェルシはそれを見上げ、悲痛な表情で全てを見届けていた。
「さささささようならららら、シェルシちゃん――――。わた、わたしは……わたしは……」
「――――好きに、してください。私は……抵抗しません」
振り上げたサーベルに映るシェルシの蒼い眼差し――。真っ直ぐで、あらゆる真実に負けない力を持った瞳。それは凛々しく輝き、ネーヴェの瞳にも映りこむ。
悲鳴にもにた痛々しい叫びが森の中に反響し、サーベルが振り下ろされる。シェルシは最後の最後までその一挙一動を見つめていた。全てをありのまま、受け入れる為に――。肉を裂く不気味な音と共に血飛沫が舞い上がる。シェルシは最後、ゆっくりと目を閉じて心の中に想い出を浮かべた。
シルヴィアと、自分と、ネーヴェと……三人で一緒に暮らしていた過去。三人ともそれぞれ分かり合えてはいなかったのかもしれない。それでも笑い在っていた……幸せだった過去。きっとこんな運命でなければ、ずっとずっと続いたはずの過去。もう戻らない……過去の記憶を――。