表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/108

大罪(4)


「――――どういうつもりなの、ホクト。違うでしょ、それは。貴方が立つべき場所は、“そっち”じゃないのに」


 氷河の息吹が全てを飲み込んだ――そう思った刹那の時である。結界を食い破り、現れた黒き影はその片腕に掴んだ闇の力を以ってミラ・ヨシノの放った攻撃を食い止めていた。術式を構成する魔力全てを吸収したガリュウは瞳を見開き、それと同時に男は顔を上げた。ホクト――。ヴァン・ノーレッジの身体に北条北斗の意識を持つ男……。彼の登場はミラにとっても、メリーベルにとっても、当然全ては予想外だった。

 剣に着いた氷の結晶を振り払い、ホクトは口に煙草を咥えた。ミラは氷の龍から飛び降りると剣を片手にゆっくりと男へと歩み寄る。その大きな背中を背後からシェルシたちは見つめていた。何故だかそこから目を離すことは出来なかった……いや、離してはいけなかったのだろう。真実と呼べる物は自分自身の目で確かめるしかない……そう彼らは知っていたから。

 紫煙を吐き出し、ホクトは冷たい風の中で顔を上げた。感情の色を読めないその視線はじっとミラを捉えている。ミラはそんなホクトの傍で足を止めた。二人の間にあるのは感情の探り合い――? それとも無意識の疎通だろうか。いや、それはきっとどちらでもない。ホクトは目を閉じ、それから小さく呟いた。


「…………俺は……自分の事が判らない」


 それは男の口から出た本音、そして彼の真実だった。無数の意識の海の中に漂う黒き魔剣の担い手――いや、彼の存在は魔剣を担う為に存在する。故に扱われているのは彼自身なのかもしれない。ガリュウという魔剣が生存する為に必要な契約者――ただそれだけ。記憶も安定せず、魔剣の術式は常にホクトを蝕んでいる。寄るべき場所も、帰るべきところも彼にはないのだ。そんな彼にかけられたミラのまじないは確かに必要な物だったのかもしれない。ホクトの心の中に欠けている部分を埋めてくれるのかもしれない。だからこそ、ホクトは歩み寄るミラに抵抗しなかった。ミラの伸ばす指がホクトの顔を撫で、優しい笑顔が気持ちを満たしてくれる。


「あんたの言うとおり、インフェル・ノアは破壊した……。この城は直に地に落ちる。帝国はこれでおしまいだ。ミレニアムシステムも動かなくなる……。全てはゼダンの思惑通りに、な」


「そう……良くやってくれたわね、ホクト。ありがとう」


「インフェル・ノアを破壊……!? 貴方達は帝国側の人間ではないんですか!?」


「私たちをそんな小さな括りに閉じ込めないで頂戴、シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレ……。我々ゼダンはこの世界を守護し、監視し、管理する存在……。全ての罪を償う者……。ホクトは大罪の所有者、そして神に近い存在……。彼は私たちの仲間になったの。同士になったの。そうでしょう、ホクト?」


 ホクトは無言で煙を立ち上らせ続ける。そうして男は剣を振り上げ、それを背後のシェルシへと突きつけた。黒き闇の刃――それが自分に向けられる事になるなどと彼女は一度足りとも考えた事はなかった。しかし今こうして実際に向けられて初めてわかる事がある――。その、黒き刃は……余りにも重く、苦しく、“闇”という言葉を凝縮したかのような鋭い威圧感に満ちている。向けた先に死をばら撒く死者の剣……それが蝕魔剣ガリュウなのである。生唾を飲み込み、収まらない悪寒にシェルシは呻き声を上げた。ホクトの表情はわからなかった。何も考えていないようにも見える。ただ、煙が静かに漂い続けた。


「ホクト……そうなんですか? 貴方は……貴方は、もう……私たちの知っているホクトではないのですか……?」


 男は答えない。そんなホクトの前に立ち、シェルシは何を思ったか黒き魔剣の切っ先を自らの手で掴み、自分からそれを喉元に突きつけた。背後でウサクとイスルギが慌てるのが判ったが、それはメリーベルが留めてしまう。彼女は見届けたいと思ったのだ。シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレ……十分すぎるほど、“馬鹿”の称号を関するに相応しい女。“馬鹿女”の極みが、この“馬鹿男”の極みに対して何を成すのか……。個人的にも、そしてこの世界の命運を担う意味でも確かめたかった。ごくりと生唾を飲み込み、ただ見守る……。この男女の絆の行く末を――。


「もしも“それ”が、貴方の心の空白を埋めるのならば……。その剣でどうぞ私の命を奪ってください。それで貴方が幸福になれるのであれば、私はその礎になりたい……。私の命一つで貴方の笑顔が買えるのならば、容易い対価です。さあ、ホクト――ヴァン・ノーレッジ。黒き魔剣狩り。その心が正しく導くがままに、その力を揮いなさい――!」


「俺は…………」


「殺しなさい、ホクト。それはこの世界を濁す存在よ? 私と貴方の間にある絆を邪魔する物なの。この世界に要らない――不純な、邪悪な、偽りに満ちた存在なの。殺しなさいホクト。この世界の為に――私の為に」


「ならば殺しなさいッ!! ヴァン・ノーレッジッ!!!! 貴方の意思で! “女子供の言葉”ではなく、貴方自身の意思で!!」


 シェルシは声をあげ、前に出た。ガリュウの切っ先がシェルシの肉へと食い込み、紅く血を溢れさせた。それを見たホクトは怯えるように背筋を震わせ、一歩後退する。だがそれを逃がさないと言わんばかりにシェルシは剣を手繰り寄せ、凛とした声で言い放った。


「逃げるつもりですか!? 魔剣狩りの名が廃りますよッ!? 貴方は常に前に進む人でした。決して逃げず――惑わず。人々の希望を背負い、願いを背負い、そんなつもりはないって顔をしながら平然と困難をクリアする……そんな人でした。なんて情け無い――! 貴方は女子供の意思にも劣る軟弱者ですかッ!!!!」


「ち、違う……。お、俺……俺は……っ」


 首を横に振りながら後退するホクト。背後からその背中に腕を絡め、ミラは優しくホクトの顔を撫でた。二人の女はとても対極的であった。片方は男を否定し、片方は男を容認する。だがそれはどちらが否定でどちらが容認だったのだろうか……? 苦しげな表情のホクトはミラの手を握り締め、きつく目を閉じた。まるで認めたくない現実から目をそらす子供のように。


「かわいそうなホクト……。いつも周囲の身勝手な重圧で苦しめられているのね……。貴方は何なの……? 貴方はそんなにホクトを苦しめたいの? 貴方の存在がホクトを苦しめているのよ! 貴方さえ居なければすべて上手く行く! 全てがッ!!」


「――――そうかもしれません。私はいつもホクトに助けられてきました。ですが――それが何だと言うのですか」


 シェルシは剣を払い除け、一歩前に踏み込んだ。それがどれだけ重い一歩か……それは語るまでもない。究極の闇の力を前に少女はそれでも前へと進んだのだ。己の意思で。恐怖と戦い。理性を押しのけ。命を惜しむ弱さを消し飛ばし。ただ、“正義”の為に――。蒼き瞳は海よりも深く、宝石よりも美しい。この世界にある矛盾のすべてを討ち払う力を持つかのような、真実を知る眼差し――。ミラはそれに怯えた。一瞬だけ、けれど確かに――恐怖したのだ。何故だかは判らない。だが判るよりも早く、判らされるのだ。


「私は彼に、一度だって助けてくれと頼んだ覚えはありません!」


「な、何を……!?」


「彼が勝手に助けたんであって、私は別に彼の事なんかどーでもよかったんです! でも、彼は助けてくれました。だから――だからホクト、貴方を好きになった! 貴方の生き方に心から惚れ込んだからっ!! 貴方みたいになりたいって、そう心の底から願ったからっ!! 貴方が好きです、ホクト……。どんな時も退かず、己の誇りと正義に忠実で、馬鹿でお調子者だけど圧倒的に“最強”な貴方が大好きです! なのに……その体たらくはなんですかッ!?」


 己の胸に手を当て、姫は叫ぶ。男は怯んで後退した。ホクトを抱きしめたミラはシェルシを威嚇するように睨む。この戦いは既に物理的戦闘から精神的根性論へと舞台を移しつつあった。若干唖然とするギャラリー三名の前、シェルシは顔を赤くしながら言葉を続ける。


「貴方はそんなによわっちい人じゃなかった! どんな時でも強かった! 貴方さえ居れば何もかも万事上手く行くんだって思えるくらい、貴方は私たちの希望だった……! 何でも出来て、私なんかよりずっと頭もよくて、力もあって、なのに……なのに、ずるいっ!」


「ず、ずるい……?」


「ずるいですよそんなのっ! 強いのに! かっこいいのに!! どうしてそう生きようとしないんですか!? そんなに女の腕の中が心地良いなら私が一生抱きしめてあげますッ!! 貴方の望む事はなんでもしますッ!! 貴方はただ強く立派でいてくれれば後の事はどうでもいいんですッ!! ホクト――――お願いッ!!!! そんな“情け無い”貴方なんて乗り越えて!! 私と……結婚しましょうッ!!!!」


「「「「「 ハィイイイイイ――――ッ!? 」」」」」


 という、誰もが唖然とする言葉と共にシェルシは両腕を広げ、真っ直ぐにホクトを見据えた。それに応じるようにホクトは再びガリュウを構えた。一組の男女が、馬鹿と馬鹿とが向かい合う。二人は真っ直ぐに見詰めあい――そしてホクトは刃を大きく振り上げた。

 誰もが目を伏せたくなる刹那、その中でもシェルシは真っ直ぐにホクトを見つめていた。時が止まるかのように、誰もが沈黙していた。そしてその後――誰かの笑い声が聞こえた。笑っていたのは他でもない魔剣を振り上げたホクト本人である。そして男はその剣で――背後のミラ・ヨシノを振り払ったのである。

 驚きを隠せずに後退するミラ。ホクトは目をきつく瞑り、それからその剣を改めてミラへと向けた。シェルシが目を輝かせ、メリーベルとイスルギが盛大に溜息を漏らす。ウサクは緊張に耐え切れなかったのか青白い顔で目を白黒させていた。そんな状況の中、納得が行かないのはミラである。顔を上げ、悲しげな眼差しで問いかけた。


「どうして……!? 貴方はシェルシのことなんて何も覚えてないはずなのにっ!! その記憶は私が全部消したはずなのにっ!!!!」


「あ、やっぱりお前が消してたのか……。お前の言うとおり、この馬鹿の事はまるっきり覚えてねえよ。でもな……何となく判ったんだ。自分がどうしたいのか、天秤にかけた時――。俺は多分、何度繰り返したってこいつに“傾く”んだって」


「ホクト……」


「ミラ……俺はまだきっと、あんたの事が好きなんだと思う。あんたが必要なんだと思う。でもそれで自分を曲げる事はやっぱり出来そうにないよ……。たとえあんたが神様だったとしても。俺にとっての女神だったとしても。それでも俺は、ヴァン・ノーレッジじゃないから……。俺は――北条北斗として、生きる道を自分で選ぶ」


「…………ホクト……そんな……」


 その時、再びインフェル・ノアを巨大な揺れが襲った。動力を失った浮遊城はゆっくりと墜落を開始している。傾く城の中、ミラは戸惑いを隠せないままに後退する。ホクトは近くに居たシェルシを片腕で担ぎ、黒き魔剣を空に翳した――。




大罪(3)




「――――なん、で……あんたが……!?」


 傾く城の中、ロゼは立ち尽くしていた。目の前には自らを庇い、オデッセイの剣の犠牲になった騎士が一人……膝を着いて倒れている。それは彼がロゼを庇い、オデッセイの剣に斬られた事を意味していた。停止する空気の中、振動は無視出来ないレベルとなりオデッセイもロゼも立っていられずによろける。ロゼが倒れると同時にオデッセイは壁にもたれかかり、エレットを手放すと自らは走り去っていく。


「シグマール!! おい、しっかりしろ! シグマールッ!!」


 慌てて駆け寄るロゼの呼び声でようやくエレットはそこに倒れているのが自分の直属の上官である事を知った。任務中以外はビッグホーンとしてではなく、シグマールとして活動していた彼はつい数日前までエレットと共に居た。ジェミニとの任務でシェルシを追いオケアノスに向かって以来見ていなかったが、鎧を解除し血に染まっていた彼は確かに上官であるシグマールであった。

 状況が理解できないエレットは戸惑った様子でシグマールを見つめた。その瞳には恐怖、そして混乱が宿っている。シグマールはそんなエレットを見上げ、普段通りの頼りない笑顔を浮かべた。


「……やあ、エレット君……。元気そうで何より……」


「大佐……? 大佐が、ビッグホーン中将……?」


「あんた、何やってんだ! 手を貸せ……! 自分の父親だろ、助けたいと思わないのかッ!?」


 ロゼの怒号でエレットはびくりと背筋を震わせる。彼のいう事は正しく、しかしある意味において正しくはない。エレットには家族などいなかったし、今日この日この瞬間まで帝国のためだけの教育を施され、剣誓隊になる為だけに生きてきたのだ。そんな自分に突然父親がいるといわれ、それが目の前の上官だったとして、それをすんなり受け入れる事が出来るわけもない。立ち尽くすエレットにロゼは眉を潜め、それからシグマールの傷に回復魔術を発動する。それがどれほどの意味を持つのかはわからなかったが、やらないよりはマシだと考えた。


「いやぁ、すっかり全部君の世話になってしまったね……。ロゼ……君は強くなった。きっとロイも喜ぶよ」


「あんた……どうしてだ? どうして言わなかった……」


「エレットのことかい……? 言ってどうする……。言ったところで何が変わるわけでもないだろう……? 私はね、ロゼ。エレットの父親だなんて名乗れるようなまともな男じゃあない。そんな男じゃあないんだよ」


 神の国、帝国――。そこではあらゆる事が夢から現実へと姿を変える。かつて帝国との戦いの中で失った妻が居た。そして帝国に囚われた娘が居た。男は親友を裏切り、その首を代価にそれを取り戻す資格を得たのだ。死者をも蘇らせる力……“大罪”の力ならばそれが可能だと、そう聞いていたから。

 全てはオデッセイの口車に乗せられた自分の罪である。彼はその後、帝国に逆らう事が出来なくなり帝国の言いなりとなって人を余りにも多く殺しすぎた。最早戻る事は出来ない……。自分の意思で死ぬ事すら出来ないのならば、せめていつか納得の行く形での死を望もう、そう思っていた。だがオデッセイはそれすらも読んでいたのかもしれない。目の前に、エレットが現れた。その時彼は全てを悟ったのだ――。もう、ラクに死ぬ道など残されていないのだと。


「欲が出たのが、いけなかったね……。こんなおじさんでも、エレット君と一緒に……幸せに生きていけるかな……と、思ってしまったから……」


「あんたは……。あんたは、馬鹿だ……。なんで……なんでリフルに助けを求めなかった……? なんで僕に言わなかったッ!!」


「言って、それで憎しみは消えるのかね……? ロイを殺した事実がすべてだ……それは決して消えない。だが、これでやっと自由になれる……。もう、多すぎる借金を返済するのは疲れたんだよ、おじさんは……」


「勝手な事言うなよ!! 勝手に父上を、リフルを殺しておいて……ッ!! 勝手に庇って死んで……そんなのアリかよォッ!!!!」


 拳を大地に叩き付けるロゼ。その叫びは複雑な彼の心境を表していた。絶対に殺してやると誓った仇――。憎しみに囚われるなといったリフル。力を継承したくとも出来なかった父、そして全ての歯車を狂わせた男の理由……。知らなければいい事が山ほどあった。ただ憎しみに囚われていければどれだけラクだったろう? だが、今はもう違う。知ってしまった。憎しみではない力で戦う事も。彼の理由も。だからもう戻れない。子供であった頃には、もう――。


「エレット君……。すまないねぇ。最期に、おじさんの我侭に付き合ってくれないか……?」


「は、はい……大佐」


 呼ばれて慌てて駆け寄るエレット。人の死に際に立ち会うというのも始めてであり、エレットの顔色はあまり良くなかった。そんなエレットの手を握り締め、男は目を瞑る。


「煙草を……一本くれないかな。胸ポケットに入ってる……」


「わかりました」


 震える指で煙草を抜き、それを咥えさせる。ライターを探すエレットの傍ら、ロゼは指先で魔術で火を起した。それにあやかり紫煙は無事に立ち昇り、崩れ往く城の中で静かに漂う。


「いやあ、おいしいなあ……。娘に、息子に……まるで家族が出来たみたいだよ。本当にすまなかったね、二人とも……だがもう、これでおしまいだ。ロゼ君の復讐も、エレット君の悪夢も……直、終わりを迎えるんだ」


「大佐……」


「その、大佐というのは止めてくれないかな……。ああ、そうだなぁ……。パパ、と……。パパとそう呼んで見なさい……」


 煙草を咥え、冗談交じりにそう笑うシグマール。壁に背を預け、男は虚ろな瞳で娘を見つめる。母によく似た娘だった。初めて出会った時から気づいていた。名乗り出る事は考えていなかった、でも――こうして伝える事が出来た。皮肉にもそれはロゼのお陰である。だからこの奇跡の時間を、せめて自由に使いたかった。

 戸惑い、恥ずかしそうに俯くエレット。しかしやがてシグマールの手を握り締め、目尻に涙を浮かべて顔を上げた。ロゼは二人から目をそらし、背を向ける。それはロゼなりに二人の最期の為に気を遣った結果だった。


「パ……。パパ……」


「うん……」


「パパ…………」


「うむ……」


「パパ……パパ! パパ……!」


「ははは……。そんなに呼ばなくていいよ……。なんだか、照れるじゃあないか――」


 その言葉をきっかけに、エレットはシグマールの胸に飛び込んだ。煙草くさい、血と汗のにおいのする父の腕の中でエレットは震えていた。シグマールは目を瞑り、そっと様々な事を思い返した。

 最愛の妻を失った事……。帝国と戦った事……。かけがえのない親友と、仲間達と……共に理想を追いかけた事。リフルを育てた事、そしてリフルを殺した事……。全ての罪、記憶、それらは彼の中で息づいている。それは彼の命が完全に消え去る瞬間、きっと露と消えてしまうのだろう。それをせめて忘れぬように、ロゼもエレットもしっかりと心の中に刻み込んだ。


「さあ、もう二人とも行くんだ……。インフェル・ノアが落下を始めている……。ここから離れるんだ」


「シグマール……」


「ロゼ、君がもしも最期に咎人の願いを聞き入れる心優しい人ならば、どうかエレットを……。エレットを帝国から連れ出して欲しい。そして世界の広さを見せて……彼女を、救ってくれ……」


「パパ……! シグマール大佐!!」


 大きな音と振動が響き渡り、更に城は傾いた。ロゼは拳をきつく握り締め、唇を噛み締める。そうしてエレットの手を掴むと、強引にそこから歩き出した。ロゼに逆らいその場に残ろうとするエレットだったが、ロゼは力任せにエレットを引っ張っていく。


「大佐……大佐!! 待ってください、大佐も一緒に……! 大佐ぁあああああああああ――――ッ!!!!」


 崩れていくインフェル・ノアの中、シグマールはひらひらと力なく手を振っていた。二人がその視界から消え去るまで見送ると安心したように目を瞑る。最期に味わう煙草は渋く、いつもより少しだけ苦い気がした。紫煙を吐き出し、そうしてそっと目を開く。男は最期の最期、救われたように微笑んだ。


「――――やあ、ロイ。来てたのか……。リフルも……。迎えに来てくれたのかい……? おまえ――」


 そこには誰も居なかった。だが男は霞む視界の中、そっと手を伸ばした。指先に確かに感じる温もり――。もう失って、決して戻らないのだと知った愛しい人。その感触に微笑み、次の瞬間シグマールの咥えていた煙草は床に落ちて消えたのであった。男はもう動かない。前のめりに座り込んだまま、男の居たエリアは闇に閉ざされていった――。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ