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プリズム(3)


 皇帝ハロルドが座する玉座――。それは巨大、そして余りにも禍々しい。

 インフェル・ノアの中枢近いその場所は壁を、床を、生々しく脈動するケーブルで多い尽くした森である。ハロルドはその全身の至る箇所にケーブルを接続し、魔素の光を纏いながら椅子の上にどっしりと構えている。

 ハロルドの前にはケーブルの合間を縫うようにしてケルヴィー、オデッセイ、そしてステラの姿があった。先のギルド殲滅作戦の作戦結果報告がオデッセイの口から語られていたのだが、その間ハロルドはじっと目を閉じたまま腕を組んで聞き入っていた。


『成る程……。やはり生きていたか……魔剣狩り、ヴァン・ノーレッジ……』


「オデッセイ、貴方でも手に負えないような相手だったのですか? 魔剣狩りのデータは確かに私の方でも把握していますが……。彼の身体能力、魔剣適性、魔力数値は貴方よりは低かったような」


「戦場では数字だけがすべてではない。陛下の言う通り、彼には何か隠された力があると思います。正直まともにやりあって生きて帰ってこられる自信がありませんでした。ご期待に沿えず、申し訳御座いません」


『いや、構わぬ……。余も実際に手合わせしたが、あれは少々この世の物とは異なるのだ』


「――――“救世主メサイア”、ですか?」


 オデッセイの言葉にケルヴィーは眉を潜めた。“救世主”――その存在をケルヴィーは信じていなかったからだ。この世界を変え、救い、絶対的な法を生み出したといわれる救世主……つまり、異世界からやってきた人間である。まずケルヴィーは異世界の存在を信じていなかったし、その異世界人が大きな力を持っているというのも眉唾だった。勿論最初から疑ってかかっているわけではなく、彼には彼なりに理論を否定する理由があった。

 救世主伝説というのはこのロクエンティア各地に残っており、それらは様々な形に姿を変えて今も伝えられている。一貫しているのはその救世主という存在が異世界からやってきた“神”に等しい存在であるという事、そしてその力――“剣創”と呼ばれる能力でこの世界の法を築き上げたという事である。

 その救世主が行った偉業は、例えば土地を豊かにしただとか、魔物を倒しただとか、小さなことから大きなことまで存在している。ケルヴィーはその剣創伝説に一時期のめり込み、各地から資料を掻き集めて調べた事があった。彼が辿り着いた救世主最大の偉業というのがこの世界の構築――。つまり世の創造である。剣創の力とはそれに近い物であるのではないかという持論を展開していたのだが、結局救世主が実在したという証拠はどこにも見つからなかった。

 そんな過去の研究成果もあり、オデッセイの口から軽々しく出たその言葉が気に入らないのは当然だった。しかしハロルドは腕を組み、片手を顎にやりながらゆっくりと頷いたのである。


『恐らくはそうであろう。あれは最早人の域を超えておる。扱いは慎重にならねば』


「お言葉ですが陛下、救世主など……。メサイア信仰は愚民が描いた架空の希望――。妄想の産物です。所詮、あれもただの魔剣使いですよ。データ化すればすべて解明出来るはずです」


『その研究データを盗まれてしまったのでは仕様がないがな』


 ハロルドの一言でケルヴィーはがらりと顔色を変えた。怒りに震え、拳を強く握り締める。親指の爪をガチガチと前歯で噛みながら、奪われた研究データの事を思い出していた。

 事件はあの日、ホクトが脱走した日に起こった。謎の動力システムトラブルにより各地の動力が落とされ、インフェル・ノアの警備システムに穴が空いた時の事である。ホクトの脱走も大事件であったが、あの時インフェル・ノアではそれ以上のトラブルが発生していたのである。

 侵入者と思しき人物に奪われたのは、解析中だったホクトの魔剣、ガリュウの術式データである。膨大なデータを吸い出し解析するだけでも莫大な時間がかかったのだが、侵入者は中途半端に引き出されたガリュウの構成データを奪い、インフェル・ノアから脱出したのである。ガリュウの解析はホクトの力を解明する事につながり、そして最終的にはプロジェクトエクスカリバーにおいて重要な成果となるはずであった。仮にガリュウの力を量産化することが出来れば、帝国軍事力は絶対的な物となる……そのはずだった。


「忌々しい盗人め……! この僕が昼夜問わず必死で解析したデータを横から掻っ攫うなんて……絶対に許せない……ッ」


「そちらのほうも剣誓隊で調査していますが、消息はつかめていません。恐らくステラと同じ、空間跳躍システムを使って脱出したのではないかと」


「空間跳躍システムの発動にはインフェル・ノアの“ミレニアム”の承認が必須ですよ? ステラの跳躍時のエネルギー、座標設定、時間軸統合など、強力な演算力を持つシステムサポートが必須ですからね」


 ステラの頭脳は帝国のマザーシステムであるミレニアムと繋がっており、ステラはミレニアムを通じて各地の戦闘の状況を知ることで介入を行う。その際ミレニアムによって座標設定、そしてそれに必要なエネルギーをまかなっているのだ。


「ミレニアム以外にそれが可能な演算システムもエネルギー生産装置もないと思うんですけどねぇ……」


「剣誓隊の見落としという可能性も完全には抹消出来ないが、探知型の魔剣でも見つからなかったんだ。どちらにせよ、脅威である事には違いない」


『そちらもミレニアムの筋書きに存在しない者だ。是が非でも捕らえたい……。とは言え、放っておいても動きを見せるだろうがな……』


「ではオデッセイ? 貴方には魔剣狩りの捕獲、侵入者の捜索、それと平行してククラカン国攻略を行って貰うわけですが……。やはり、優先順位として高いのは魔剣狩りですかねぇ?」


「確かにこのままやつに好き勝手動かれてはこちらも手を出しにくい……。ククラカン攻略は恐らくシルヴィア王が上手くやるでしょうから、私はこのまま魔剣狩りの捕獲を主に行います。よろしいですね、陛下?」


『それで良いだろう。が、魔剣狩りに関しては余でなければ倒せぬかも知れぬな。やはり直々に戦地に赴く必要があるか』


「お、お言葉ですが陛下!! インフェル・ノアから離れる事は、お体に障ります!!」


 慌てた様子で駆け寄るケルヴィー。ハロルドは静かに息を着き、それから全身に纏わり付くケーブルを忌々しく見下ろした。

 皇帝ハロルドの肉体、寿命の維持にはミレニアムから供給されている膨大な量の魔力が必要なのだ。故にハロルドはこのインフェル・ノアから離れる事が出来ず、有事の際以外は一日の全てをこの椅子の上で過ごす。食べる事も眠る事もなく、彼は王としてミレニアムとシンクロし続けているのだ。

 ハロルドが下層に姿を現さないのはただ尊く扱われているというだけではなく、インフェル・ノアごと移動するのにもそうした理由があった。事実上ハロルドがこの椅子から離れて活動できるのはせいぜい数時間がいいところであり、ちょこまかと動き回るホクトを倒しに行くのは無謀だと言える。


「確かにやつは化け物染みた力を持っていますが、倒せないわけではありません。実際一度は倒しているわけですから。剣誓隊の腕利きを頭数そろえれば恐らく戦いになるでしょう。それに正々堂々戦うだけが戦争ではありませんので」


『……手段は貴様に任せるぞ、オデッセイ。必要な物があれば何なりとケルヴィーに要求するが良い』


「はっ。ありがたき幸せ」


『ケルヴィー……。ククラカン攻略、或いは手間取るかも知れぬ。ミレニアムの計算に8%のノイズが存在する。事象が揺らぐ前兆であろう……。対応策として、完成しているエクスカリバーシリーズの実戦投入を許可する』


「おぉ!! いよいよ私の実験成果が試されるんですねえ~!! これは、今日から張り切ってしまいますよ、私はっ!!」


 その場で嬉しそうにステップを踏むケルヴィー。一方ステラとオデッセイの表情は冷静だった。エクスカリバーシリーズの実戦投入……明らかに予定よりも早い。だがそれが皇帝の選択だというであれば、それだけの価値があるのだろう。そして同時に、それだけの危険も……。


「……ケルヴィー、エクスカリバーシリーズは……」


「ああ、大丈夫ですよステラ。装備者の精神安定には手を打ってありますから」


 エクスカリバーシリーズの装備者には決定的な欠陥が生じてしまう――それが強引に生み出した魔剣を移植された人間の宿命であった。それは最初は記憶の欠落などに始まり、感情の薄弱化、欠陥、最終的には己で思考する事が不能となり、ミレニアムから指示を受けるだけの存在となる。

 その支配システムが完成に近づき、いよいよエクスカリバーシリーズの実戦形式の実験が始まるのである。今日までその日を夢見てきたケルヴィーにとってそれはとても喜ばしい事であった。しかしステラはどこか胸の内、わだかまる気持ちを抑え切れなかった。


「それでは陛下! 私はエクスカリバーの最終調整に入りますので、失礼します!!」


『うむ……』


「では私も失礼します。陛下、御機嫌よう」


 ケルヴィーが部屋から走り去っていき、オデッセイも後に続く。残されたステラはハロルドの前に立ち、聳え立つ巨体を見上げた。二つの同じ色の瞳が混じりあい、部屋の中には奇妙な空気が流れている。


「カテゴリーSの魔剣を収集する事……それが私たちの使命だった。ハロルド、それは貴方にとって何を意味しているのですか? この世界の再生? それとも、完全なる支配……?」


『知れた事……。“剣創ロクエンティア”の復活こそが我らの悲願……与えられた運命。役割を演じよ、ステラ。貴様にそれ以外の生き方は存在し得ぬ。すべては幻……余とて同じ事よ』


 頷き、ステラは背を向ける。部屋の出口へと向かっていき、それから一度だけ振り返った。


「ハロルド」


『ん……?』


「私は……それでも、己の“シン”と向き合いたい……」


 言葉を残し、ステラは去って行った。沈黙だけが残された部屋の中、ハロルドは腕を組み目を閉じる。ミレニアムへのアクセス――。事象ノイズの数値は依然として8%のまま。全体から見ればほんの僅かな差異であるこの8%の重さ……それをステラの言葉の節々に感じ取る事が出来るような気がした。

 ステラとハロルド、それは元来同じ存在である。一つであるはずのものが二つに別たれ、そして王とは別に白き執行者は己の意思を持ち始めた。それがミレニアムにとってどのような影響を及ぼすのか、そしてこの世界をどう変えていくのか……。それはまだ、ハロルドにも判らない事だ――。




プリズム(3)




「しっかし、面白い話だよな。たったこれだけの人数で戦争仕掛けようってんだから」


 ローティスのターミナル、停泊する列車に乗り込むホクトたちの姿があった。いつ戦争が開始するかもわからない状況下、ローティスに留まる理由は既にない。列車に乗り込んだのはミュレイとその護衛、ウサクとゲオルク……そして砂の海豚代表リフル、サーペントヴァイト代表ブラッド、その部下であるアクティ、そしてホクトとシェルシ、ロゼである。それ以外のメンバーは後発隊となり、昴は治療の為メリーベルと共にこの地に一時期滞在する事となった。

 ターミナルには腕を組んで立つメリーベルの姿があり、ホクトは彼女と顔をあわせていた。他のメンバーは既に搭乗終了し、現在は物資の積み込みが行われている最中である。それが終了すればローティスを発ち、プリミドールのククラカン首都、ラクヨウへ向かう事になる。


「しかし……シャフトを通してもらえるかねえ? 流石に警備が厳しいと思うが」


「そこを突破する為の少数精鋭でしょ? 現地に着いたらミュレイに教えた転送魔法陣のゲートを作ってもらうから、そしたらバテンカイトスから直接向かう事にするから」


「立体的に戦場を構築出来るのはかなり有利だな。にしてもミュレイにせよあんたにせよ、そうホイホイあっちこっち跳びまわれるような術をよく作れるよ」


「私はその研究を長年してたし、ミュレイには魔術のセンスがあるから。それよりホクト……本当にいいの? これで」


 メリーベルの問いかけの意味は何となく判っていた。だがとりあえず今は他にやる事も考えられない。どうせ帝国とは戦わねばならないのだ。それがSランクの魔剣を持つ彼の宿命である。


「ヴァン・ノーレッジが果たしたがってた夢ってやつを叶えてみるのも一つの手かな、とも思うわけだが?」


「…………そう。貴方はつくづく素直じゃないわね」


 ホクトは煙草を咥え、肩を竦める。二人が別れ、ホクトが列車に入ってくるその姿をシェルシは車内から窓越しにじっと見つめていた。その傍らにはロゼが座り、相向かいにはリフルが座っている。


「それにしても、まさかまたこうしてこのメンバーで行動する事になろうとはな」


「……リフルにも、またお世話になってしまいますね」


「私自身は構わないが……。お前は本当にこれで良かったのか? 今更だが、帝国に戻った方が国の為だろう。これから戦争する私たちが言うのもなんだが……」


「…………いえ、もう決めた事ですから……。それよりよかったですね、リフル。ロゼと仲直り出来て」


 シェルシの屈託の無い笑顔に対し、リフルは顔を真っ赤にして挙動不審に目をそらしていた。何故そうなっているのかが判らずきょとんとするシェルシ。渦中のロゼはメリーベルから借りた魔道書を早速読みふけっており、会話に参加する気配はなかった。


「そ、その話はちょっと今後控えてもらえないか……」


「え? どうしてですか?」


「い、いや……なんでもない……」


 咳払いし、黙り込むリフルとやはり目を丸くしてぼけーっとしているシェルシ。そんな二人の間にやってきたのはウサクであり、困った様子で手を合わせて言った。


「申し訳ござらぬ! ここの空いている席に座らせてくだされ!」


「…………。ああ、どうぞ」


「かたじけない! いや~、参ったでござるよ……。姫様の所にはブラッド殿とアクティ殿がいて、拙者座るところがなかったでござる」


 本来ならばリフルの隣、そこがアクティの席である。そのアクティがウサクの席を奪っているということは、ここ以外に彼が座るところが無いという事でもある。リフルの隣に腰掛けると、ウサクは落ち着かない様子で周囲をきょろきょろ眺めた。


「なんだか冷静に考えてみたら、この席は拙者にとっては刺激が強すぎるような……」


「刺激……ですか?」


「いやあっ!? 正面には、お美しいシェルシ姫……。隣にはやはりお美しいリフル殿……。拙者、あんまり女性とお話した事がないのでござる故に……」


 リフルとシェルシは同時に顔を見合わせ、それから笑った。何故笑われているのか判らずにウサクは困った様子であっちこっちに視線を向けている。そんな四人オ脇を通り、ホクトはミュレイの席へ向かった。丁度ミュレイはメリーベルから教わった転送の術を学んでいる所であり、ホクトは唐突に背後からミュレイの巨大な胸を掴んで見せた。


「…………。念の為訊くが……。お主……何をしておるのか?」


「いや……。すんげえでかかったから、一度もんでみたかったんだ……」


 無言でミュレイが立ち上がり。ホクトの顔面に張り手を当てる。そのまま往復し四回攻撃を加え、よろけたホクトの鳩尾に蹴りを叩き込んだ。悶絶し、倒れる北斗の前でミュレイはふくよかなその胸を揺らし、着物のずれを直しながら席に着いた。


「アホか……! 問答無用で背後から突然揉むやつがあるか……!」


「いや、すまん……。ちょっとリラックスさせてやろうかと思ってだな……」


「あれでリラックス出来るヤツはそうそうおらぬと思うが……。まあ気持ちだけありがたく受け取っておこう」


「俺は物理ダメージもらったんだが……」


「それは自業自得じゃ。それより、まさかわらわにパイタッチするためだけによってきたわけではあるまい?」


「ああ、勿論。まあ俺なりにけじめをつけとこうかと思ってな。悪いなブラッド、少しミュレイ借りるぜ」


 ホクトの突然の胸揉み攻撃を間近で目撃してしまったアクティは両手で両目を抑えて黙り込んでいた。ブラッドは呆れた様子でひらひらと手を振り、ゲオルクは護衛として若干不安そうな顔であった。ホクトはミュレイを連れ、連結部付近に連れて行くと周囲に人気が無い事を確認して口火を切った。


「それで? 話とはなんじゃ? けじめ……とか言っていたが」


「ああ。あんたの妹……ミラの事だ」


 その名前が挙がると流石に二人とも表情が真面目になる。先ほどまでの冗談交じりの様子からは一変し、二人とも張り詰めるような空気を漂わせていた。


「ミラの事……悪かった。悪かったなんて言葉じゃ済まないが……」


「…………。お主、案外律儀な男なんじゃな。それはお主ではなく、ヴァンがした事であろう?」


「俺だってヴァンさ。まあヴァンでありヴァンではないんだが……。兎に角、ミラを連れ回して挙句の果て護れなかったのはヴァン・ノーレッジ……俺の責任だ。多分ヴァンも、ずっとあんたに謝りたかったんじゃねえかな……」


 どこか他人行儀に己の事を語り、ホクトは窓の向こうを眺めて呟いた。心の中、記憶の中に存在するミラへの罪悪感、そしてミラを護れなかった己への怒り……。ヴァンはきっと、ミラの事に関してはとても熱い男だったのだ。それがホクトにはよくわかった。だから、ミラの事に関してだけはとても真面目だった。いつかはちゃんとミュレイにも認めて欲しかったに違いない。


「あんたの妹は、俺が殺したも同然だ……。だから……すまなかった。この通りだ」


 深々と頭を下げるホクト。それに対しミュレイは腕を組み、それ以上に深く溜息を吐いた。ホクトの肩を叩き、強引に顔を上げさせる。それからその頬に触れ、ミュレイは首を横に振った。


「わらわの方こそ、お主には謝らねばならぬ事が沢山あるのじゃ……。ミラを失って、自分がどれだけ頑なだったか漸く気づけた。おかしな話じゃのう……。人はいつでも、失って初めて理解を得るのじゃから」


 壁を背に、ミュレイはそう呟いた。二人ともそれから暫くの間無言で時を過ごした。お互い、同時にミラの事を想っていたのだ。過去の記憶を呼び覚まし、一人の姫の事を想う……。それは二人にとっては共通した、確かな弔いだった。


「まあ、一先ず我らの戦いは中断……という事で手を打たぬか?」


「…………。そうだな。そうしてくれると助かるよ」


 優しく、無邪気に微笑むミュレイ。そうして紅の姫はホクトに歩み寄り、その手を差し伸べた。優しく伸びる手を握り返す勇気……それを振り絞り、ホクトはぎゅっとミュレイの手を握り締めた。和平成立――。戦争を前にして、今ひとつの戦争が休戦となった。


「しかし、中断ってことはいつかまた始めるつもりなわけだ」


「それはお主次第じゃのう~? まあ、お互いまだ完全に打ち解けられたわけではあるまい? 言いたい事も、割り切れない事もある」


「けど、一緒に生きていく事は出来る。この世界の大地の上で……進む道が違ってもな」


 二人は微笑み合い、それからミュレイはホクトにそっと顔を寄せた。服から漂う甘い香り……。染み付いた煙草のにおい。それをきっと、ミラも感じていたのだろう。そう考えると少しだけ寂しく、切ない気持ちになった。


「今は、あんたたちと一緒に戦うよ。それが俺の罪滅ぼしだから」


「…………。やれやれ、なんだかんだいいつつもお主は結構子供っぽいのじゃな」


「少年の心を忘れたら男は死ぬんだぜ?」


「ああ言えばこう言うのう……。まあ、良い。ホクト、少々屈んでくれ。お主は背が高すぎじゃ」


「ん? ああ、こうか?」


 前に屈んだホクトの頭を抱くようにしてミュレイは正面から堂々とホクトの唇を奪った。最初こそ驚いたホクトであったが、彼からもミュレイの背中に手を回し、何度かのキスを繰り返した。そっと、どちらからともなく身を離すとミュレイはしたり顔で言う。


「これで妹のファーストキスは返してもらった事にしようかのう」


「ありゃりゃ……。結構なお手前で……」


「はっはっは! 経験豊富な女を舐めるでないぞ! まあ、今のは長年目の仇にしてきた事への侘びじゃ。お互い、これで一先ず過去の事は水に流そうではないか」


「ん~……。もう一回してくれたら忘れるかもな……いててっ!?」


 無言で足をぐりぐりと踏みつけるミュレイ。その恐ろしい笑顔にホクトは無言で後退した。


「さて、わらわはまだ転送魔法の習得があるからな。現地に到着するまでに済ませておかねばならぬ。お主もそうやってふらふらしておらず、もう少し落ち着いたらどうじゃ?」


 肩をすくめて苦笑するホクト。ミュレイはそのまま立ち去っていき、残されたホクトは重ねた唇の余韻を思い出すように指先でそっとなぞった。その感触は遠い日のミラを思い起こさせる。心の中でざわつく過去への思いに目を瞑り、窓ガラスに映り込んだ自分の虚像に手を伸ばした。


「なあ、ヴァン……。これでよかったんだろ……?」


 虚像は何も語らない。ホクトは目を瞑り、己とは似ても似つかない自分の姿を視界から抹消する。振り返り、歩き出した。彼には彼の、男には男の贖罪の仕方がある――。

 列車が動き出し、それぞれの運命を乗せて荒野を駆けていく。いざ、それぞれの戦場へ――。無数の思惑が交差する運命の地、プリミドール。大いなる戦いの火蓋が切って落とされようとしていた……。


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