姫とうさぎの大冒険(3)
「あ……あれっ? これは、一体どういう……?」
ドレスに着替え、真夜中のインフェル・ノアへと飛び出したシェルシが目にしたのは停電により灯りが落とされ、暗闇に包まれてしまった皇帝の城の姿であった。広がるレコンキスタの町並みの中、停電しているのはインフェル・ノアだけであり展望通路を歩くと街の明るさを確認する事が出来た。
二人がホクトを救出する為に考えた作戦はこうだ。まず、ホクトを捕らえている魔道封印装置の動力をカットし、ホクトを封印装置の中から連れ出す事……それが必要最低限の条件となる。動力部に向かい、そこで研究エリアの動力を落としホクトを救出する……そんな段取りとその後の行動まで検討していたのだが、いざ部屋から出てみればインフェル・ノアすべての動力が落とされていた。混乱するシェルシは振り返り、うさ子を見やる。
「これはうさ子がやったんですか?」
「うさ、まだなんもしてないの。だってまだシェルシちゃんの部屋にいたし……」
「え……? じゃあ、ただの停電……? そ、そんなことってあるんでしょうか……」
まさかこれから停電させようと思っていたのに、既に停電しているとは……。幸運なのかそれとも不運だったのか、兎に角動力部まで向かう必要性は消失してしまった。このままホクトを救出する為に二人は研究室へと走り出した。
うさ子がうさ子のままで居られる時間は恐らく残り少ない。うさ子の人格が乖離しているのかどうかはシェルシには判らなかったが、似たような状況にあるのだろうと推測する。つまり今うさ子の身体の中にはステラとうさ子、二つの人格が同居しているような状態にあるのではないか……と。
自由自在にうさ子が現れる事が出来ず、自然に目覚めるのがステラなのだとすれば主人格がステラということになる。ならばうさ子があとどれくらいの間顕在化していられるのかは全くなんの保障もない。言ってしまえば今この瞬間ステラに戻ってしまってもおかしな事は何も無いのだ。
何よりそれで最大に問題なのが、ステラに戻ったら彼女は確実にホクトを連れ戻そうとするだろう、という事である。いくら救出してもステラに戻ってしまっては意味がない……。うさ子の言うとおり、時間はもう殆ど残されていなかった。
「本当に、それでいいんですか……!?」
「なにがっ!?」
「貴方が動力をカットし、私はホクトを連れて転送魔法陣で街の外に逃げる……そういう計画でしたよね!?」
「だって、うさが一緒に行ったら……いつホクト君をまた攻撃するかわかんないから……。うさだったら、もし動力を落としてしまったとしても“ステラの異常”で済むでしょ? シェルシちゃんは、脱出する際にホクト君が攫った事にすればいいのっ」
「…………でも、それではうさ子が……」
「しょうがないの、もう他に手段がないから……! 何でか停電してるから……今は、ホクト君を助けてシェルシちゃんと一緒にレコンキスタから出してあげるのっ! 大丈夫、ステラの力と記憶はうさにも少し伝わってるから……っ」
走りながら跳躍と共に空中でデストロイモードを起動し、機械の装甲をまとってふわりと浮かび上がるうさ子。走っているシェルシを抱きかかえ、そのまま一気に加速して通路を駆け抜けていく。
「シェルシちゃん……無理をさせちゃってごめんね……」
「いえ――。私も、これでいいのかなって迷っていたんです。大丈夫、きっと何とかなりますよ。私もホクトを助けたい……。ホクトに誘拐されたって事にすれば、きっと罪には問われませんよ」
勿論それも希望的観測に過ぎない。実際、帝国はみすみす失敗したシェルシを許しはしないだろう……そうわかっている。だが、それでも……。シェルシにとってホクトは助けるに値する。助けねばならないと、思ってしまったから……。
いくつかの自動ドアを電撃で突き破りながらうさ子は地下へと向かっていく。研究エリアに飛び込み、それでも直まだ電力は復旧していない。流石におかしいと思い始めた二人だったが、立ち止まる余裕はなかった。封印部屋に飛び込み、うさ子は両足を地面にこすり付けて急ブレーキをかける。ふわりと停止したうさ子の腕から離れ、シェルシは封印装置へと近づいた。封印装置の動力はやはりカットされていたが、肝心のホクトはまだ眠ったままである。近づいて端末を操作しようとしたのだが、それで漸くミスに気づく。
「うさ子、端末も電源が落ちていて操作出来ません!!」
「大丈夫なの! もとから――こうするつもりだったっ!!!!」
指先を弾き、電撃を起すうさ子。その指先が示す方向にはホクトを取り囲む封印装置がある。動力が落ちている封印装置は一撃で破壊され、ホクトはあっけなく床の上に倒れこんだ。シェルシは慌てて硝子越しに隔離されていた封印装置の中へと入り、ずるずるとホクトを引きずり出した。ホクトの身体はシェルシの細腕には余りにも重すぎたが、うさ子にも手伝って貰い何とか救出する事に成功した。
「ホクト! ホクト、しっかりしてくださいっ!! ホクト……お願い、目を覚まして……」
「シェルシちゃん、これっ」
隣の部屋からホクトの所持品を持ってきたうさ子は鞄に詰めてシェルシに投げ渡した。シェルシは鞄を肩にかけ、上着をホクトに着せる。相変わらず目を覚ます様子のないホクトを二人は左右から抱え、部屋から何とか脱出する事に成功した。
「転送魔法陣のある部屋まで行けば、もう大丈夫なの……っ!! シェルシちゃん、がんばって! がんばってなのっ」
「は、はい……っ!」
部屋を抜け出し、研究ブロックを通過する。街への転送装置はあちこちに配置されているが、最寄の場所までもホクトを背負ってでは遠かった。二人がそうして焦りながらも急いで脱出している途中、突然電力が復旧すると同時に強烈な音量のアラートが鳴り響いた。二人は自分達の行動が知れ渡ってしまったのだと悟り、足取りを速めた。
「うさ子……も、もう……っ」
「がんばってシェルシちゃん、がんばってなのうっ!! もう少しだから……もう少しで……っ!!」
しかし、二人の前にはぞろぞろと壁から現れるガーディアンマシンが立ちはだかった。二人の事は兎も角、背負っている人物は明らかに危険人物である。一斉に銃が突きつけられ、退路も防がれてしまう。うさ子はホクトを降ろし、両腕に魔力を収束し始めた。
「シェルシちゃん、ここからは一人で行って……!」
「う、うさ子……でも、わ、私一人じゃなにも……」
「お願いっ!! ホクト君を、助けて……!! 追っ手は全部うさが何とかするから……! 急いで――ッ!!」
うさ子の気迫は凄まじいものがあった。弱気になっていた心に叫びは響き渡り、なぜかシェルシは諦めながらも立ち上がる事が出来た。なりふり構わずホクトの腕を掴み、ずるずると引きずっていく。男の身体などシェルシが一人で背負えるはずもなかった。移動速度も圧倒的に遅くなった。それでもまだ――うさ子は諦めていないから。
両腕を翳し、電撃を放出するうさ子。そうして一斉に放たれる弾丸の雨をあえて避けず、シェルシたちの壁となって立ちふさがる――。戦闘が始まり、アラートの劈くような音の中シェルシは自分の鼓動の音さえも見失いかけていた。何故、こんなにも一生懸命ホクトを助けようとしているのか……。そんな事をしてもいい事なんて何もないというのに……。
歯を食いしばり、重い物など一度も持ったことがないよな細腕でホクトを引きずっていく。ハイヒールの靴は邪魔になり、脱ぎ捨てた。ドレスも邪魔でスカートは破ってしまった。なりふり構わず今はホクトだけを助ける――この、気を失った帝国の敵を……。
「ホクト……! ホクト……ッ! 貴方を、ここから……連れ出すって……決めたから……うぅっ」
うさ子が戦っている。うさ子は次々にガーディアンマシンを破壊しているが、この調子で行けば騎士たちも集まってくるだろう。そうなれば騒ぎは大きくなり、“ステラの暴走”では済まなくなる。いや、最初から判りきっていた事だ。楽観的な未来に甘えて現実から逃避するのは止めよう――。たった今、二人は帝国に反旗を翻したのだ。最強の障害を解き放ち、そしてまた世界に混乱を齎そうとしているのだ。自分のしている事は大罪――だが、それでも……。
「お願い、目を覚まして……っ! ホクト……うさ子が……! 貴方を助けたいってッ!! 一生懸命作ってくれたチャンスだから……! だからお願い……起きて下さい……! 起きなさい――ヴァン・ノーレッジッ!!!!」
「…………。ごちゃごちゃうるせえな――耳元で騒ぐなよ、シェルシ……」
その声を耳にした瞬間、シェルシの足はピタリと止まっていた。背後、男はゆっくりと身体を起してシェルシの腕を振り払い立ち上がった。シェルシはなぜか呆然とその後姿を眺めている。そう、最初からこうするために助けたというのに――何故だろう。本当はとても怖くて、心細くて仕方がなかった。
もう、彼は目を覚まさないのではないかと。もう、自分の知るホクトではなくなっているのではないかと。助けても無駄なのではないかと。もう、脱出も無理なのではないかと……。しかし、その姿を見てしまったら何もかもが杞憂だったのだと気づいてしまった。そう、些細なミスなど問題ない。すべては“大成功”――。失敗さえも彼は成功にしてくれる。頭を振り、首をこきりと鳴らしてホクトは振り返り、シェルシの頭をぽんと撫でた。
「――――それと、俺はヴァンじゃない。ホクト君だっつってんだろが」
「…………ホクト……うぅ……っ! うぅううう~っ!!!!」
思わず涙が溢れた。嬉しかったのだ。心の底から安心したのだ。きっと彼さえ目覚めればあとは何もかも全てが上手く行く――そんな予感がした。項垂れて涙を流すシェルシの肩を叩き、ホクトは姫が肩からかけていた鞄から煙草を一本取り出し、指先から魔術で火を起して煙草に火をつける。紫煙を吐き出し、そうして振り返った。背後にはうさ子を突破したガーディアンマシンがぞろぞろと迫ってきていた。
「さてと……こりゃどういう状況だか良く判らんが……。ここはインフェル・ノアの中か」
「は、はい……。それであの、うさ子が……」
と、行っている傍からホクトは片腕を翳し、空中にずらりと魔剣を構築して並べてみせる。指を鳴らし、それらが一斉にガーディアンマシンに突き刺さっていく……。爆発が起こり、ホクトは呆気に取られるシェルシを抱きかかえて走り出した。
「ホ、ホクト!?」
「インフェル・ノアには何度か来た事が在るから構造はバッチリだ。大体どこも似たような作りのエリアになってるしな」
「そ、そうではなくて……っ」
「話は後だ。とりあえず脱出するぜ」
颯爽と駆け抜け、近づく敵は片手で薙ぎ払っていく魔剣狩り――。その強さは絶対的で、そしてやはり思うのだ。彼を助けて心からよかったと思う自分がいる。シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレの心の奥底に残っていた小さなわだかまり……それを取り除く事が出来そうだと。
背後、うさ子はどうなったのかが気になった。だがうさ子は普通にしていれば誰にも負ける事がない、無敵のステラなのである。恐らくはそのうちステラの人格に切り替わってしまうのだろう。今なら戻れば助けられる……そうも考えた。だが、それは怖くて出来なかった。ホクトは――また、うさ子を殺すだろうか? そんな風に考えてしまったらもう、何も言えなくなってしまう。
帝国の中枢、闇を纏った剣士が駆け抜けていく――。シェルシは心の中に小さな嘘を残したまま、ホクトに抱えられて共に進んでいく。そう、大切な友との約束を護る為に――。
姫とうさぎの大冒険(3)
「ステラ! 大丈夫ですか、ステラッ!?」
外周通路へと辿り着いたケルヴィーは倒れていたステラを抱き起こし、その身体を揺さぶった。現場には破壊されたガーディアンマシンがごろごろ転がっており、ステラが戦って破壊した事は明らかであった。状況が理解出来ずケルヴィーは首をかしげる。倒れているうさ子の上に片手を翳し、術式を発動してステラの自己修復機能とエラーチェックを発動する。するとステラは呻きながらも意識を取り戻し、ゆっくりと身体を起した。
「ステラ! 無事ですか!?」
「…………。ケルヴィー、ここは……? 私は一体何を……」
「良かった……。どうやら暴走してしまっていたようですね。今回の停電、まさか貴方が原因ですか?」
「……可能性はありますが……。すみません、何故ここに居るのかも全く記憶がないのです。ケルヴィー、精神の最適化とチェックをお願いしたいのですが……」
「それは勿論。兎に角あとは剣誓隊に任せて撤退しましょう。さあ、こちらですよ」
ケルヴィーの肩を借り、ステラはゆっくりと歩き出す。そんな二人とすれ違い、現場に駆けつけた二つの人影があった。エレット少佐、そしてシグマール大佐である。ガーディアンマシンが片っ端から破壊されている惨状にエレットは驚き眉を潜めた。
「大佐、これは一体……?」
「うーん、良く判らないけどね。魔剣狩りが脱走したって話だよ」
「魔剣狩りが!? 一刻も早く連れ戻さなければ……!! 大佐、こうしては居られません! はやく捜索隊を組織し、レコンキスタの探索に向かいましょう!!」
「まあ、そうなるだろうね。でも現状、あの魔剣狩りを止められるのは将軍クラスだけじゃないかなあ……。とりあえずおじさんたちは様子をみよう」
「そんな悠長な事を言っている場合では……た、大佐っ! 襟首を引っ張らないでください……っ!!」
ずるずるとシグマールに引きずられていくエレット。帝国は既に動き出し、脱出したホクトを追っている。一方その追われる魔剣狩りはレコンキスタの街に降り立ち、裏通りで煙草を咥えていた。
帝都レコンキスタは大地全てを巨大な建造物が入り組むようにして被いつくしている都市である。その街には様々な死角があり、逃げ場、隠れ場にはまるで困らなかった。追っ手をやり過ごし、ホクトは一息ついて振り返る。一緒に脱出してきたシェルシは薄暗い裏路地に座り込み、膝を抱えていた。
「この街すげえな。こんな誰も来ないような裏路地でも、ちゃんと清掃用のロボットが巡回してるから綺麗なんだぜ。エル・ギルスとは大違いだ」
あえて冗談交じりの明るい口調で喋りながらホクトはシェルシの隣に座り込んだ。脱出する時は泣いて喜んでいたシェルシだったが、レコンキスタに降り立つとこの様子である。女心は判らない……そんな風に考えつつホクトは姫の顔を覗き込んだ。
「後悔してんのか?」
「…………そういうわけでは」
「ま、今なら俺に拉致られたってだけで済む。ここでインフェル・ノアに戻る事だって出来る」
そう語るホクトにシェルシは目を向け、それから真剣な様子で立ち上がった。詰め寄るシェルシを前にたじろぐホクト……。姫はホクトの身体に触れ、悲しげに眉を潜めた。
「……ホクト……」
「は、はい……?」
「本当に……ごめんなさい」
「は――? 何が?」
「私はあの時、貴方を背後から……その、剣で……」
悲しげにそう呟く。あの時の事は恐らくもう一生忘れられないだろう。手に残った嫌な感触はきっとシェルシをこれから永遠に苦しめ続ける……。ホクトにはその事が良く判った。何人も何人も殺してきた彼とて同じ事だ。最初の殺人だけは――何故だろう。何度も罪を重ねても、きっと忘れられないから。
「その事なら気にする必要はないぜ。俺はもう気にしてないからな。背後から刺されるなんて初めてじゃないし、それに剣で刺されたくらいじゃ俺は死なないしなぁ……」
「え?」
「いや、まあこっちの話だ。兎に角お前は俺を助けてくれたんだろ? 感謝してる」
「……ホクト……」
シェルシは目をうるうると涙ぐませながらこくこくと何度も頷いた。それから周囲を見渡し、魔法と光が溢れるレコンキスタの街を眺める。裏路地の狭いシャッターフレームの向こう、眠らない街は今日も賑やかに輝いていた。
「ホクト、うさ子の事ですが……」
その話が持ち出されると、ホクトは自ずと表情を変えた。振り返ったその視線は悲しげにシェルシを射抜いている。思わず気圧されそうになったが、そこをぐっとこらえシェルシは一歩前に出た。
「貴方を助けようと計画したのはうさ子です。私は彼女を助けただけ……。貴方を本当に助けたのは、うさ子だったんです」
「………………。そうか」
「彼女はずっと後悔していました……。貴方に謝りたいって言ってました。でも、一緒に行ったら“ステラ”として貴方を倒さなきゃいけないからって……城に一人で残ったんです」
「当たり前だろうな。あいつが俺を捕獲するのは当然だ。一緒に居たら戦いになる……それが当たり前だった。顔を合わせりゃ剣を交えてきた。今日まで何度も……な」
寂しげに、しかし固い決意と共にホクトは言葉を吐き出した。紫煙は小さく空に昇り、やがて見えなくなって消えてしまうだろう。シェルシはホクトの手を掴み、正面に回りこんで必死に訴えかけた。・
「貴方の力なら、ステラをずっとうさ子のままで居させる事も出来るんじゃないですか!?」
「俺は神様じゃない。そんななんでも出来るわけじゃないさ。それに――俺は兎も角、“ヴァンは”きっとあいつを許さないだろうしな……」
ホクトの口調には何か引っかかる面があった。しかしシェルシはそれを気にする余裕がなかったし、引き下がってはいけないという決意があった。うさ子は友達……友達なのだ。たった一人、この世界において自分を友達を呼んでくれた少女……。その願いは絶対にかなえてあげたかったから。
「ホクト……! うさ子だって、きっと何か理由があって……!」
「理由は色々ある。けどなシェルシ、結果として俺はうさ子を殺したし、うさ子はミラを殺したんだ。それ以外に何がある……? 何もねえよ、何もな」
「ホクトッ!!」
「――――はあ。こんな事、恩人に言いかないけどな……。お前にはきっとわかんねえだろうよ、こういう気持ちは。お前は何も知らない、世間知らずなお姫様だ。世界に、国に、人に……護られてきた」
シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレの存在はホクトの言う通りであった。今日まで敷かれたレールの上を丁寧に歩き、何もかも人に護られ、支えられ、幸福な人生を送ってきた。結果としてここに居る事にはなっているが、シェルシはホクトともうさ子とも違う。余りにも違いすぎる。
二人はそれぞれの“理由”を振りかざし、それで人を殺め続けてきた。理由がその免罪符となるだろうか? ならない……そう、ならないのだ。罪は罪、そして憎しみは憎しみだ。決して理由如きで消せるほど人の思いは柔ではない。思いは果たされねば積もり積もって固まっていく。そしてそれは時として人と重く、強く縛り付けるのだ。見るに耐えぬほど、痛々しいほどに……。
「うさ子はステラ……帝国のガーディアンシステムだ。俺はその帝国と戦う魔剣狩りと呼ばれる反逆者……。記憶喪失になってなきゃ、お互い相容れなかった」
「でもっ! 記憶さえなければ、貴方達はあんなにも仲が良かったじゃないですかっ!! しがらみさえなければ……一人一人、個人としてであれば! 恨みも憎しみも、使命も無ければっ!! 絶対に分かり合えるのにっ!!」
「それが出来りゃ苦労しないんだよ、お姫様……ッ!!」
叫ぶシェルシの腕を掴み、ホクトは前髪で表情を隠しながら身を寄せた。ぎりぎりと肩を掴む男の手に力が篭り、痛みでシェルシは表情をゆがめた。ホクトはそれに気づき、手を離す。
「…………俺とあいつが一緒にいていい事は何も無い。それはお前も同じだ」
「え……?」
「お前とはここでお別れだ。別に一緒に連れて行こうって拉致ってきたわけじゃねえ。ただ一言礼を言いたかっただけだ。俺と一緒に来ても何もいい事はない。お前の人生が狂っちまうだけだ」
「ホクト……」
「何かを得るからそれを失った時、取り返せない痛みを背負う事になる……。お前には判らないんだよ、世間知らず。奇麗事ばっかり口にしていても――」
脳裏を、一人の姫の笑顔が過ぎった。ノイズ交じりの景色……優しい世界。微笑んでいた美しい少女。綺麗な世界を思い描いていた。しかし、その結末は――血と雨と荒野の景色。死の“におい”が世界を包み込む……失意の闇。
「――――死んじまったら意味がねえ。変えられなきゃ無意味だ」
「…………」
「兎に角、俺が勝手に脱出してお前らは脅されてたって事にしな。大事なお姫様を連中も無下には扱わんだろうし……。じゃあな、シェルシ。助けてくれた礼は言っとくぜ。ありがとうな」
シェルシの肩を叩き、ホクトは背を向けて歩き出す。その背中が遠ざかり、足音が闇に消えていく。シェルシはその間ずっと項垂れ、考えていた。ぎゅっと拳を握り締め、顔を上げる。
「――――待ちなさいっ!!」
そして言葉にしてみる事にした。今までずっと、やりたい事も言いたい事も何もかも我慢してきた。自分はザルヴァトーレの姫であり、皇帝の妻になる存在だったから。そう、周囲に言われて生きてきたから。
従う事が間違いだったとは今でも思わない。そうする事で護れるものもあったはずだから。しかし、シェルシは知ったのだ。この世界の闇も、友達という存在の暖かさも、仲間の頼れる姿も、そして世界と一人で戦う男の背中も……。
駆け寄り、振り返るホクトの手を掴み、両腕でがっしりとすがりついた。一瞬何をされているのかわからなかったホクトはシェルシの胸の感触を味わいつつ、小首をかしげる。シェルシは真っ直ぐに顔を挙げ、震える声で言った。
「貴方は……貴方はさっきから、自分の言いたいことばかりっ! 私だって……私だって、色々あったんですっ!! 私だって……考えるし、迷ったり不安になったり……! これでも、頑張ってたんです……。なのに貴方は、お前には判らないとか世間知らずだとかっ」
「事実だろうに。そのままでいるのが幸せだ」
「そんな風に言われて、黙って引き下がりたくないっ! だったら教えてください……! 私に! この世界の事も……“世間知らず”って言われなくて済む方法も……!」
ホクトは振り返り、煙草を投げ捨ててシェルシを見つめる。目に涙をいっぱいに溜め込み、もう絶対に離さないという勢いでホクトにくっついている。ふと、その必死な姿が誰かの姿と被った。それは誰だったろうか――? 今はもう会うことの出来ない姫? それとも――。
「私、貴方と一緒に行きます……っ! 貴方に好き勝手言われたまま、このまま帰るなんて出来ない!」
「はあ……? あのなあ……もう頭が痛くなってきたぞ……。そんなに簡単に決めていい問題じゃない。お前はザルヴァトーレの姫で、皇帝の妻なんだから……」
「――――貴方もそうやって、私を先入観で括ってるだけじゃないですか」
以前にも同じ事を言った人が居た。そう、旅の始まりは同じ言葉だった。ミラ・ヨシノはホクトの手を握り、不満気に言ったのだ。それはもう取り戻せない懐かしい記憶。きらきらと輝いていた……失ってしまった景色。
炎のように紅い、美しい髪を靡かせてミラは笑ったのだ。血まみれの、泥まみれの、罪に汚れた剣士の手を握り締め……言ったのだ。“貴方を知りたい”と。“私を決め付けるな”と――。
「私、人形じゃない! 私だって自分で考えられるっ!! 姫だとか、そんなの……そんなの、私のすべてじゃない……っ! 私を何もかも判ったみたいな口を利かないで!!」
「…………。そりゃ悪かった。けど一緒に来てどうする? お前にとって何のメリットがある? 冷静になれ、シェルシ。お前はそれでも人の上に立つ人間なんだ」
「判ってます、そんな事……言われなくても判ってる。でも、だって……納得出来ない! 貴方に負けたまま、貴方に世間知らずだとかなんだとか、子供扱いされたまま……! うさ子の事も判ってくれないまま、このまま別れて……。今放したらもう、貴方とは二度と会えない気がするから……」
「まあ、そりゃそうなるだろうな……捕まるわけにはいかないし」
「だから、一緒に行きます……っ! 貴方が、うさ子と仲直りするって言うまで、絶対放しませんからっ!!」
意地になってぎゅうっとしがみ付くシェルシ。その少々間抜けな姿を見下ろし、ホクトは深々と溜息を漏らした。それから強引にシェルシを引っぺがし、その頭を撫でる。
「しょうがねえなあ……。どうなっても俺は知らないからな」
そうして黙ってその場に跪き、頭を下げる。姫は目の前に差し出された男の手におずおずと自らの手を重ね、そしてそれを握り締めた。
「――――それでは、シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレ姫……。ここから先は一方通行、戻る事の出来ない舞台で御座います。不肖、この私……魔剣狩りのホクト君が、貴方を“誘拐”させて頂きましょう」
芝居がかった言葉で語り、そして立ち上がる。シェルシへと冗談っぽく笑いかけ、ホクトは背を向けた。シェルシは握り締めた掌の感触に顔を赤らめながらもホクトへと駆け寄り、その背中と共に歩いていく。
「ちゃんと……囲って下さいねっ」
「どんなドM発言だそれは……。まあいい、お前にも世の中の現実ってヤツを教えてやるよ。それが判ったらさっさと城に帰れ」
「む……っ! 私、言っておきますけど帰りませんからっ!!」
「それじゃ困るのお前じゃねえのか……」
「あ……。え、っと、でも……あっ!! 私はうさ子を元に戻す方法を見つけるまで帰りません!」
「なんだその取ってつけたような理由は……。つーかうさ子がどうしたんだ?」
「ああ、そこから説明しなければなりませんね、実は――」
悠々と歩いていくホクトと、その背後についてちょこちょこと小走りにホクトを追いかけるシェルシ。二人はゆっくりと歩き出した。運命の分かれ道を分岐し、更にその先へ。その選択が何を意味するのかはまだ誰にも判らない。だが確かにそれは、二人が歩み出した最初の一歩。この世界の物語を語る上で避けられない、とても大きくて大切な一歩であった――。