炎魔ノ姫(3)
「城に、戻らない――?」
事件から一晩が明けてもやはりミュレイは小さいままであった。日が昇り、ミュレイの身体が小さくなってしまった事を改めて認識した。彼女はとても愛らしい姿になり、偉そうな口調で喋っているのがまた背伸びをしているようで何となく構いたくなってしまう。が、実際のところは二十代後半の立派な大人であり、ちゃんと偉いのだが……。
そうして宿に集まった私達だったが、ミュレイは一晩の間に大体の行動を既に決定していたらしい。彼女が真っ先に宣言したのは――そう、ラクヨウの城には戻らないという事であった。
しかし、それは私としては首をかしげずには居られない選択である。命を狙われている事が判ったのだから、何でもいいから兎に角ラクヨウまで逃げ帰ればいいではないか、と思ったのだ。勿論それをちゃんとミュレイにも言ってみた。しかし帰ってきた答えは同じだった。
「わらわはラクヨウには戻らぬ。このまま、隊とは別行動を取る」
「……しかし姫様、それは危険でござるよ? 昨夜の刺客が、未だ何処に潜んでいるやも判らぬのでござる」
「そんなものは百も承知じゃばかたれ。じゃが、このままではラクヨウに戻る事は出来ぬ」
「…………まあ、それはそうだろうな。問題は大有りだ」
腕を組み、ゲオルクがそう頷いた。彼女がラクヨウにこのまま戻るわけには行かない理由――。それは、例の婚姻の儀というものが関わっているらしい。折角なので、ついでにとミュレイが儀式について説明してくれる事になり、私はベッドの上で正座しながらその話を聞いていた。
第三階層ヨツンヘイム、その全土を支配するハロルド帝国というものがあるのは私も既に知っていた事だ。帝国は第四以下のプレートを支配し、全ての人間を自在にする権利を持っているという。帝王であるハロルドなる人物による、絶対王政であると言える。そんな皇帝の誕生百年目を祝う式典が間近に迫っているのだという。
皇帝誕生百年というのがもう既に引っかかるのだが……一体そのハロルド皇帝というやつは何歳なのか。そもそも人類なのか……。しかし私は横槍を居れずに話を最後まで聞く事にした。どうせ聞いても理解出来ないとんでも人物なのだろうから。
「式典と同時に開催される婚姻の儀というのは、それぞれの国の王を皇帝が定める儀式でもあるのじゃ。そしてそれは即ち、帝国以下の世界での権利を意味している」
この世界に存在する第三以下の国には、男性の王は居ないらしい。つまり、全てが女王なのである。しかも国と呼べる規模なのはククラカンとザルヴァトーレだけであり、それ以下のプレートに国家の概念は存在せず、それぞれの土地の領主と呼ばれる存在がこの場合は該当する。
つまり、女王と領主、この二つの位を定める重要な儀式であり、そしてこの国々にどれだけの権利を帝国が与えるのかが儀式にかかっているのだという。その儀式に出席する予定だったミュレイが、敵対国家であるザルヴァトーレに狙われていたとしてもなんらおかしな事はない。
「そして、ハロルド皇帝は男性であると言われておるが、実際のところは謎じゃ。ハロルドは各国の女王を妻として娶り、皇帝の妻だけが国を治める権利を持つのじゃ」
「……一夫多妻なんだ――って、それじゃあミュレイも?」
「予定では、来月の式典に出席しわらわも皇帝の妻の一人となるはずじゃったのだ」
そこまで話を聞いてやっと状況に理解が追いついてきた。つまり、ザルヴァトーレはわざわざミュレイを殺さなくとも良かったのだ。この状況で、十分に成功しすぎていると言える。なぜならば、ミュレイは子供の姿では――結婚なんて出来るはずがない。
当然、婚姻の儀の条件としては皇帝の妻として相応しい能力、そして年齢制限というものが存在する。これは多少帝国側のさじ加減によって上下するようだが、娶られる条件イコールある程度成熟した女性の肉体である事は最低条件なのだという。
「見ての通り、こんな身体では子など産める筈もなし……。皇帝には見向きもされんじゃろうなぁ」
というか、大人の姿のままだったら皇帝と結婚していたのだろうか……。それはそれで複雑な心境だった。ミュレイはそれでいいのだろうか? それが彼女の望みなのだろうか……? しかし、その質問は決して口には出来なかった。それは、気安く訊ねていい事ではないような気がしたから。
「このままでは婚姻の儀に出席出来ないどころか、城に戻っても追い払われる可能性がある。こんな状況で誰があのミュレイ・ヨシノであると信じる?」
「た、確かに……」
ミュレイはとても女性的な、ふくよかな肉体の持ち主だった。背が高くプロポーションがよく、髪は長く衣装も派手だった。それが今や十歳くらいの子供になってしまったのである。アレとコレはどうにも私の頭の中で直結しそうもない。
「まあ、母上ならばわらわの事が認識出来るかもしれぬが……どちらにせよこのままではククラカンの為に出来る事が何も無い。魔術も大規模なものは使えなくなってしまったようじゃしな」
そう愚痴りながらミュレイが指を弾くと、小さな火花が散って直ぐに消えてしまった。まるで呼吸をするように魔術を扱っていたミュレイだが、流石にこの状態では力にかなりの制限がかかってしまうようだ。
「故に、今から城に戻ったところで仕方が無い。凡そ一月の間に何とかこの呪いを解く方法を探し、式典に間に合わせるしかなかろう」
ベッドの上で足をぶらぶらと投げ出しながら小さなミュレイは溜息混じりにそう呟いた。私達三人はそれに反対する意見を持ち合わせていなかった。私は、基本的に人に意見するようなタイプではないし、ウサクは姫が行く所ならばどこにでも行くのだろう。そしてゲオルクは自らその話を吟味し、姫の行動を肯定したようだった。
「…………ごめんなさい、ミュレイ」
「うぬ? 何ゆえ謝るのじゃ?」
「あ、いや……。だって、私が居なかったらミュレイはこんな事にはならなかったかな、って……」
私がもっとしっかりしていれば……せめて足を引っ張りさえしなければ、こんな事にはならなかったかもしれない。私が人質になりさえしなければ、ウサクとミュレイの二人なら刺客を撃退出来たはずなのだ。特にミュレイはあの驚異的戦闘力の持ち主であり……つまり、こちらが後手に周ってしまった理由は私しか考えられなかった。
肩を落とし、溜息を漏らす。結局刀は持ち歩いているけど、私に出来ることなんて何も無い。刀を抜くという選択肢さえ頭の中に無かった弱虫に、ミュレイを守れるはずもないのだ。
「そう思うんだったら、強くなりな」
低い声に顔を上げると、ゲオルクが腕を組んで私を険しい顔つきで見下ろしていた。壁に背を預けていたゲオルクは立ち上がると、私の腰から下げられた刀を指差した。
「戦う手段なら持ってるはずだ。自分の無力を嘆くのならば、まずその前に強くなれ。嘆きは敗者には許されない事だ。やる前から諦めて、何もしようとしねえのは性質が悪い」
「……うぅ」
「これ、ゲオルク! あまりわらわの式神を苛めるな!」
「姫様、悪い事は言わん。この小娘は城に戻すべきだ。こいつはまた必ずあんたの足を引っ張る事になる。次は、首が繋がるとは限らない」
「ゲーオールークー?」
ミュレイが大男を睨みつけ、眉を潜めた。が、流石に子供なのでまるで迫力には欠けていた。しかしゲオルクは肩をすくめ、もといた位置へと戻っていく。
確かに、ゲオルクの言うとおりだった。何も反論は出来ない……。私は、ただ怖がってがたがた震えていただけの臆病者だ。何も出来ない、チキン野郎なのだ。そんなのは言われなくたってわかっている。あっちの世界に居たときからそうだった。ずっと、そうだったんだから――。
「ごめんなさい、ミュレイ……」
「謝らずとも良い、昴……。ほれ、泣くな泣くな」
「な、泣いてないもんっ!」
ミュレイが下から子供の顔で覗き込んでくるので、私は慌てて袖で顔をごしごしと擦った。眼鏡を外してから擦っていたので涙目だったのはもうバレバレなのだが、子供のミュレイに対するプライドのようなものが私をそうさせたのである。
何はともあれ、私は結局足を引っ張る事しか出来なかったのだ。その認識はしっかりと受け止めなければならない。こんなにも優しく、私の存在を許してくれているミュレイに報いる為にも……私は、自分に何が出来るのかを考えねばならないだろう。
「大丈夫じゃ、昴。お主は何も心配せずとも良いのじゃ。わらわが、ずっとお主を守るからな……」
「……ミュレイ」
ミュレイは小さいのに、やっぱり私より年上だった。見た目と精神年齢は関係無いのだと、今改めて痛感する。私の手を握り締める小さな彼女の手が、とても暖かく力強かった。しかし何より、私はそれが恥ずかしかった。
他人に甘えてばかりで、自分では何もしようとしない……そうやって生きてきた。嫌な事は先延ばしにして誰かのせいにして、そうやって生きてきた。嫌になる――。身体に染み付いた、“逃げ”の習慣。私はまだ、彼女の手のぬくもりに甘え続けていた――。
炎魔ノ姫(3)
かくして、私達は本体とは別行動を取る事になった。兵士たちはそのまま城に退却する事になり、城へ状況を説明する役目が与えられた。誰がどれほど信じてくれるかは兎も角、これで女王の耳に少なくともミュレイの不幸が届く事だろう。
現在、私達はプリミドールを横断する列車の席に座っていた。合い向かいの席に、私の隣にはミュレイ、それから正面にウサクとゲオルクが座っている。ここで何故ゲオルクが居るのかというのが私にとっては疑問であると同時に問題なのだが――。その辺は、ちょっとウサクに聞いた知識しかない。
ゲオルクは、帝国やザルヴァトーレで言う所の“騎士団”に該当する、“武士団”に所属しているククラカンの軍人だという。見た目で既に判る事だったが、彼は元々この国の人間ではないらしい。元々どこにいたのかなどはウサクも知らないそうだが、彼はこの国でもかなりの実力者であり、武士団の団長でもあるのだという。
武士団長ともなれば、流石に姫とも交流があるのかもしれないとも考えたが、ゲオルクのミュレイに対する馴れ馴れしさは度を越えている気がする。元々ゲオルクは周囲の顔色をうかがったり気を使うタイプとは程遠いような気がするが、ミュレイとは旧知の仲――という雰囲気が一番的確な気がする。
本来は彼も城に戻るべきだったのだが、ミュレイの護衛が少なすぎるとの事で残り、こちらに同行する事になった。となると、この旅路はずっと彼と一緒という事になる。そう考えただけで気が一気に重くなった。
「俺の顔に何かついてるのか?」
「えっ? いや、な、なんでもない……」
「そうか」
そうか……じゃなくて怖いんですよ……。うう、男の人は苦手だけど、その中でもこの人は更に苦手なタイプだ。何考えてるのか判らないし怖いしでっかいし……。それに引き換えウサクの可愛い事……。背も小さいし、目とかもクリクリしているし、ドジだしいつもミュレイに怒られてるし……。
「へくしっ! ん、んん……。拙者、風邪引いたかもでござる……」
そんなウサクはさておき、肝心のミュレイはどうしているのかというと――。先ほどから駅で買ったお菓子や弁当を食べながら、一人悠々とした様子で流れる景色を目で追っていた。その様子はこの厳しい状況にも関わらず、楽しそうに見える。
「……ミュレイ、元気だね」
「うぬ? せっかく童子の姿になったのじゃ、楽しんでおかねば損ではないか」
「そういう問題なのか……?」
「ほれ、お主も食べるか? 甘くて実に美味じゃ~」
そう言ってミュレイが差し出したのは餡子の入った饅頭だった。私は無言で饅頭を口に入れながら考えた。これから、自分達がどうなるのか……。
ミュレイは私を守るといってくれたが、それだけではダメだと思う。抱えるようにして今はずっと持ち続けている刀も、このままではただ朽ちていくだけだ。せっかくミュレイが私に送ってくれた気持ちでもあるこれを、無駄にするのはいけない気がする。
しかし、私は一般人なのだ。ウサクのように忍者修行なんてした事もないし、ミュレイのようにすごい血筋も才能もない。ゲオルクのように筋肉むきむきでもないわけで……戦えと言われても、そんなの直ぐに出来るはずがないのだ。
気分は憂鬱としたまま、時間が過ぎていく。ウサクとミュレイはノンビリしたままだし、ゲオルクは相変わらず沈黙を守っていた。仕方が無いので私は周囲を――列車の中を見渡した。
お世辞にも近代的とは言えない、木製の内装はしかし何となく懐かしい感じがして嫌いではない。利用客の数はそれなりに多く、周囲の席も殆ど満席状態だった。今度は視線を窓の外に向ける――。
ククラカンの土地は、その殆どが広大な山々に覆われている険しい場所だ。当然、列車もあちこちを蛇行するように進んだり、トンネルを何度も潜ったりしている。昼の草原を抜け、何も無い空間が行き成り広がり、その向こうの空に目を向ける。そこには巨大な壁があった。
「あれは……?」
「シャフトじゃよ。他の界層に通じておる」
シャフト――。一応、話には聞いた事がある。ということは、この列車はこのままシャフトまで――あの壁にしか見えない巨大な縦穴まで続いていくのだろうか。すると、目的地はもしや――。
「違う界層に向かうの?」
「うむ。目指すは第五界層、エル・ギルスじゃ」
エル・ギルス――。人が住む事が許された大地の中で、最も下層に存在する世界――。
第五界層の下に存在する第六界層オケアノスは、いわば巨大なゴミ処理場なのだという。ナノマシンプラントそのものである砂漠だけが広大に広がっているだけで、通常人間が住むことは出来ないらしい。そんな地獄のような世界にも人は住んでいるそうなのだが、現実的に見て一般市民が住めるのは第五界層まで……というのが常識らしい。
「まあ、オケアノスにはギルド本部もあり、別の意味でにぎわってはおるのじゃがな。エル・ギルスは欲望の大陸だと言えるじゃろうなぁ」
「欲望の大陸……?」
「エル・ギルスは非常に両極端なのじゃ。外見的にも内面的にも……言えることじゃろうな。帝国の支配下において、最も人権が保障されない最底辺の人間の住処であり、それと同時に様々な人間に取っての歓楽街でもある」
「どうしてそんな所に……?」
「知り合いの術の使い手に、わらわの数倍術式に詳しい者が居る。その者が暮らしているのがエル・ギルスなのじゃ」
つまり、ミュレイはその術士の所でこの呪いを解除して貰おうという魂胆らしい。そもそも、このミュレイの子供化の原因も今の所ハッキリしていないのだが……。
昨日、刺客は魔剣を放った。それは輝きでよく見えなかったが、シルエット敵には非常に凶暴な形だったような気がする。勿論ハッキリ見たわけではないので、これまた曖昧なのだが……。何か巨大な、刃物というよりは鈍器のような……そんな武器だった気がする。
その破壊的な魔剣の放った能力が、対象を子供にする――というのもイマイチ関連性が薄いような気がしてならない。が、実際あの攻撃があった直後にミュレイは小さくなってしまったのだから、敵の呪いだと考えるのが確かに一番しっくりくるのだろう。
そもそも、魔剣とはなんなのか? 魔剣は固有能力を持ち、身体の一部に――主に腕である事が多い――に術式を直接刻み込み、魔力を編みこんで構築される武装――。大雑把に言えば魔剣とはそういうものである。正しその形状、用途、能力などは個々によって大きく異なるのだという。
魔剣という呼び名であるにも関わらず、その形状は“剣”である事に拘らない。が、必ずどこかに刃物としての性質を持っているらしい。ミュレイの魔剣ソレイユも、一見刃物とは思えない形状をしているがそれも見方によっては刃に見えない事も無い……のか?
「…………。えーと、じゃあとりあえずその人に会えれば……?」
「恐らくじゃが、術は解けるじゃろうな」
なるほど、ちゃんと解くアテがあるからこうして城に戻らずそのまま移動を開始したのか。そういう事ならばこの行動にも納得が行く。だからといって、気を抜きすぎのような気もするが……。積み重なったお土産の山を見て私は一人頷いた。
かくして列車の旅は続き、やがてシャフトへと到達する事になった。四人で列車を降りると、シャフト内部に存在するターミナルと呼ばれる交通要所に降り立つ事が出来た。そこからこの界層の各地に列車が向かい、そして他の界層へと移動する為のエレベータが稼動している。
人の多さは流石であったが、それでも他の界層へと移動する客は少ないようだった。殆どの利用者が列車関係のエリアに固まっている。シャフトのエレベータを利用出来るのは本当にごく一部の人間だけらしく、本来ならば上下の界層移動は許されない事なのだという。
ターミナルの内部は外の世界とは打って変わって機械的で、まるでSFの世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。しかし、駅を見張っている甲冑の騎士たちは確かにこの世界のもので、これがもしも帝国の技術力なのだとしたらククラカンとは大きな差があるんだろうなぁ……なんて事を自然と考えてしまう。
ミュレイは早速ターミナル内部でお土産を買いあさっており、ゲオルクとウサクがエレベータ使用の申請書を記入している様子だった。人込みの中、気づけば私は孤立している……。土産物を買う理由もないし、申請書類など書けるはずもない。やれる事がないと、手持ち無沙汰で寂しくなる……。
広大なターミナルはシャフトの中に構築されており、シャフトの巨大さを改めて実感する。広々としたホームをぐるりと眺めていると、ふと一人の人物に視線が釘付けになった。それは――少女だった。見るからに少女だ。しかし、何故か彼女は少女であるようには見えなかった。
自分でも良く判らない感覚だった。首に巻いたマフラーに手をやり、私はそこに顔を埋めた。少女は白い装束を着用していた。それは周囲の人々の服装とはかなりデザインが違い、明らかに浮いている。長い髪の毛は癖が強く、ふわふわと浮いているかのようにも見えた。
少女の外見で最も目を引いたのは、その頭から生えた――なんだろう、あれは。耳……? そう、うさぎの耳のようなものが……少女の頭から生えていた。物珍しすぎてじっとそれを凝視していると、視線に気づいたのか少女はこちらへ首を擡げ、それから笑みと共に軽く手を上げた。それが自分に向けられた物だと気づくと、急にじっと見ていたのが恥ずかしくなってくる。
彼女は行き交う人々の中、停止した彫像のようだった。まるで時の流れの中からはずれてしまったかのような、そんな寂しげな横顔……。そこに時の流れが再来し、私へと歩み寄ってくる。たじろぐ私の目の前にまで近づき、彼女は大人びた笑顔で言った。
「――こんにちは。いい、夜ですね」
「へぇ?」
思わず変な声を出してしまった。何しろ今は、真昼なのだ――。太陽はまだ出ているし外も明るい。しかし、彼女はいい夜ですねと言った。意味が良く判らなかった。
「貴方は、エル・ギルスに?」
「あ、えっと……はい」
「わたくしもです。ふふ、奇遇ですね」
「そ、そうですね……」
いや、ここはエル・ギルス行きの申請を行い、ついでにエレベータを待つためのホームなのだから別に奇遇ではない気がするのだが……。
少女は周囲を見渡し、それから深く深呼吸を一つ。まるでそれだけで幸せとでも言うように目を細めて笑うから、私もなんだかそれに釣られて周囲を見渡してしまう。
ふと、気づいた時には少女の姿は消えていた。つい先ほどまで目の前に居たはずなのに……。目をごしごしと擦ってみるが、やはりどこにもいない……。
「昴~! そろそろ出発じゃぞ~!」
背後からミュレイの呼び声が聞こえ、振り返った。最後にもう一度彼女の姿を探してみたが……彼女はどこにも見当たらなかった。
「わかった!」
返事だけして、小走りでミュレイに向かっていく。これから目指す場所は欲望の大陸――。余計な事を考えている余裕はきっとない。私は思考を切り替え、皆に追いつく事だけを考えるのであった。