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烙印(4)

 この世界は、“縦”に出来ている――。それは、誰が口にした言葉だっただろうか?

 ある日、ある時、一人の女王が言った。それは一人の騎士に向けられた言葉――。屍を敷き詰めたような真っ赤な絨毯の上、まるで御伽噺のような夕焼けを背に、騎士は剣を女王に向けていた。

 女王は美しいドレスを鮮血に染め上げ、そして微笑んでいた。己へと剣を向けるその男へ、静かに両手を差し伸ばし――。口ずさむのだ。まるで歌うように。そして男は剣を振り上げた。それが彼に出来る唯一の餞だったから――。


「てめえ……! ふざけんじゃねえぞっ!! ナメてんじゃねえッ!!!!」


 ブラムの叫び声が響き渡る牢獄の中、ホクトは唸る魔剣を肩に乗せ笑みを浮かべていた。景色の中には死と絶望が満ち溢れている……。それらを砕くように、ホクトは魔剣を空に向かって掲げた。黒き闇の剣は蛇のようにうねり、形状を感じさせずまるで意思を持つ生き物であるかのように蠢き、天井を突き破り光を降り注がせた。

 天井に空いた穴から降り注ぐのはUGの天井に設置された、作業用の人工照明の光である。それは決して明るくない。しかし、闇一色に彩られていた世界の中に希望の如く降り注ぐ。罪人たちが顔を挙げ、文字通り久方ぶりに瞳に光を吸い込んだ。


「御託はいいからかかってこいよ。お前も魔剣使いなんだろ? 勝負は口じゃなくてよ――男なら、黙ってコイツで語れよ」


「…………後悔したって遅いぜ……たかが魔剣使いの分際でよぉっ!!」


 怒号と共にブラムの腕が輝き、術式が浮かび上がる。帝国騎士団所属、ブラム・シグマール――。この卑下た男がUGという辺境で、しかし中佐という地位でありながら一つの基地を任されているのには当然理由がある。

 ブラムは騎士の一族であり、一族に伝わる魔剣の継承者でもあった。その態度や功績は兎も角、戦闘能力で言えば騎士の中でも頭一つ抜き出ている。構築されたのは左右十本の指から伸びるように装着された、細く長い剣であった。

 それは、剣と呼ぶには余りに華奢であり。余りにも歪で、そして剣と呼べるほど少ない数ではない。文字通り、その運用方法は“爪”――。対象を八つ裂きにする事だけを目的とした、異形の武装である。


「逝くぜ……! 爪魔剣、ハイゼットォッ!!」


 魔剣装備による身体能力の向上――その効果は如実に現れていた。魔剣の種類により、その効果、方向性は異なる。ブラムに与えられたハイゼットの最も優れた能力――それは速力。

 初動の差は圧倒的であった。ブラムが駆け出すのとホクトが駆け出すのはほぼ同時――いや、むしろホクトのほうが反応は素早かった。しかしホクトが大剣を振り下ろすよりも何倍も早くブラムの爪は獲物へと襲い掛かった。

 目だけでそれを捉え、反射的に身体をそらして攻撃を回避したホクト。それは非常にビビットな反応であった。衣服の胸元が裂け、僅かに避け切れなかった斬撃が胸から血を排出する。大剣は未だ直、振り下ろすモーションのまま。その刹那、ブラムは駆け抜け既に背後に回りこんでいる。

 今度は目で追う事さえも出来なかった。獣染みた――いや、それを圧倒的に超える速力――。ハイゼットに特殊な能力は存在しない。だがそれゆえに能力は特化され、限りなく研ぎ澄まされている。ただスピード、それだけである。そしてそれがホクトにとって最大の脅威でもあった。

 視界でも捉えられない完全な死角からの攻撃――。戦闘開始数秒における、圧倒的な速攻による決着は確定したはずだった。しかし、爪による攻撃はホクトが肩に乗せた魔剣によって防がれていた。爪と剣が衝突し、火花が散る。ブラムは舌打ちし、後方へと跳んだ。

 回転しつつ壁に着地し、跳ねるようにしてブラムは大地をすべりホクトの側面へと回り込む。減速する為に大地に突きつけた剣が再び火花を散らし、ホクトはその音に反応して視線だけでブラムを捕らえた。

 魔剣同士が激突した時に見せる火花は厳密には火花ではない。互いの魔力を具現化して形成されている剣は、何かと打ち合う度に魔力を消費するのだ。より頑丈な方が、より密度の薄い方を削る……。その再に発生する言わば“魔力の削りカス”が火花のように瞬いて見えるのである。

 先刻、攻撃を行ったのはハイゼットであった。しかし、魔力が削られたのもまたハイゼットのほうである。ホクトがただゆるりと構えただけの魔剣ガリュウは見た目的には形状も一定ではなく、揺らぐ炎のようなそのシルエットは柔らかそうに見える。しかし、その魔力密度はハイゼットを遥かに上回っているのだ。

 そもそも何故攻撃を防御出来たのか――。ホクトの反応速度は完全にハイゼットに置いてけぼりを食らっていたはず……。とすれば、答えは簡単である。それが彼の魔剣、ガリュウの能力であるということ――。


「奇妙な剣だな……」


 ホクトは答えず、ただ魔剣を構える。まるで攻撃を誘っているかのようだった。二人の一瞬の打ち合いに既に罪人たちは怯え、部屋の隅に移動して震えている。それを横目に確認し、ホクトはわずかばかりの安堵を感じていた。

 ガリュウは巨大な魔剣であり、そのリーチ、攻撃力は通常の魔剣の比ではない。全力で揮えば罪人たちをまきぞいにして容易にこの施設の壁を破壊して余りあるだろう。故に、全力で戦う事は叶わない……。

 勿論、個人的感情に基づいてあっさりと決着をつけてやるつもりもなかった。ガリュウはうねるような蛇の形から再び刃として結晶化し、浮かんだ瞳でぎょろりとブラムを睨んだ。


「まさかてめえ、その剣……」


 笑みを浮かべるホクト、それが答えだった。そう、ホクトは二撃目、己の感覚でそれを防いだわけではなかった。ホクトが何もせずとも、魔剣の方が勝手に動いて攻撃を防いだ――それが正解である。

 自立性を持ち、自動的に行動し、主を守る魔剣……。ガリュウが持つ性質の一つである。勿論、意思を持った魔剣などそうそうあるものではない。騎士団という戦闘組織に所属していたブラムでさえ、そんなものは見た事も聞いた事もない。

 しかしそれで動揺するというのも馬鹿げた話である。魔剣はそれぞれ一振りずつが別々の能力、形状を持つ武装だ。自立した魔剣があったとしてもおかしな事はない。より複雑な能力を有する魔剣であればあるほど高位の剣であるとされているが、ただそれだけの事。

 戦闘において勝敗を決するのはただ剣の位だけではないのだと、ブラムはこれまでの戦闘で理解している。問題は相性――。ホクトのガリュウは非常に遅い、のろまな剣だ。それに比べハイゼットは文字通りの速攻――。恐れる必要性はどこにも感じない。剣が自動的に攻撃を防ぐなら、それを上回る速度で圧倒するのみ――。

 ブラムが動くまで、その思考は凡そ十秒――。それでも戦闘中である事を考えれば気が遠くなるほど長い時間であった。当然ホクトは動き始めている。が、それを追い越しハイゼットの爪はブラムを容易に彼の懐へ飛び込ませる。

 繰り出される一撃――! 首を跳ね飛ばし切り刻むその攻撃コースは確定していたはずだった。しかし、何故かまるで行動を全て読んでいたかのようにホクトは魔剣にて爪を防御する。先ほど、ブラムが動き出すより前――ホクトは動き出していた。そしてその動きの結果、ホクトは防御に成功したのである。

 矛盾していた。未来を予知でもしていなければそんな事は在り得ない――。ここにきて改めて動揺がブラムを襲った。ホクトが動いた。それを追い越して攻撃した。だがホクトは攻撃を防ぐ為に動いていた――。

 まぐれだと自分に言い聞かせ、しかし後退したのがブラムの警戒を示していた。周囲を高速で旋回しつつ、四方八方からホクト目掛けて襲い掛かる。しかしその尽くをホクトは剣で受け、ただ空しく火花が散るだけであった。


「なんだと……!? なんで……なんで防御出来んだよ!?」


 直後、攻撃の爪は空しく空振り、ホクトがカウンターで放った蹴りがブラムの顔面に減り込んでいた。ホクトのブーツは特殊な鉱物による装甲が装備されている立派な防具である。それが顔面に減り込めばどうなるか――。

 思い切り吹っ飛び、壁に激突するブラム。それだけでブラムは瀕死の状態に陥っていた。カウンターにより、防御姿勢は一切不可能だった。脳がグラグラと揺れる中、何が起きたのか判らずただ男は鼻と口から血を流しながら項垂れていた。


「よお、お前……本当に魔剣使いなのか?」


 ホクトの足音が聞こえる。敵が近づいてくるのを感じる。ブラムは顔を挙げ、立ち上がった。ホクトが掲げた剣は黒くうねり、燃え上がっているように見る。闇の剣――ブラムはそれを見て、漸く思い出した。

 彼がUGに来て間もなくの事だった。帝国から直接通達された、危険人物として指定された罪人の一人――。黒き刃を操る魔剣使い。“魔剣狩り”とも、“龍殺し”とも呼ばれた男がいた。その存在を思い出し、それをホクトの姿に重ねた。


「そ、そんなわけねえだろ……!? “魔剣狩り”は、死んだはず……!?」


 と、呟いたところで気づいた。つい先ほどまでゆっくりと歩いていたはずのホクトが目の前に立っていたのである。早すぎる移動に視線が追いつかない――。つい先ほどまで、ホクトは遅かったはず。馬鹿でかい剣を担ぎ、ノロノロと動いていたはず。眼球をぐるりと持ち上げ、上を見上げる。それよりも早く、ホクトの繰り出した腕がブラムを壁に叩きつけていた。

 鋼鉄の壁を突きぬけ、ブラムは隣の部屋に押し込まれた。壁は見事に穴が空き、ひしゃげている。隣の部屋は同じように牢獄が続いていた。放り込まれたブラムが立ち上がり、顔を上げる。そこにはもうホクトの靴があった。

 靴先がブラムを蹴り飛ばし、まるでボールか何かのように軽々と壁に叩きつけられる。力が違いすぎた。まるで魔物でも相手にしているかのような錯覚にブラムの意識は薄れていく。だが気絶するよりも早く、ホクトの繰り出す拳が腹に減り込んだのだ。

 血と汚物が同時に噴出し、ブラムは無様にのたうち回った。ホクトの拳は腹を突き破っていたのだ。何が起きているのか理解が追いつかなかった。相手は――。ホクトは――。まだ、剣さえも使っていないというのに――。


「静かになったな……んっ? お喋りは御仕舞いか?」


「て……めぇ……」


 血塗られたブラムの爪が伸び、ホクトの腕を掴む。ホクトは容赦なくその腕を取り、あらぬ方向へとへし曲げた。悲鳴が上がる中、彼がシェルシにしたのと同じように、倒れたブラムの顔面を踏みつけ、大地に魔剣を突き立てる。


「魔剣狩り……! てめえ、魔剣狩りだろ……!? なんだ、この強さ……おかしい……おかしすぎる……ッ」


「その魔剣狩りってのがどこのどいつなのか知らんが……そんなに言うならお前の魔剣、俺が狩ってやるよ」


 ホクトが魔剣を引き抜く。蝕魔剣ガリュウはゆっくりと瞳を閉じ、代わりに変形し巨大な口を開いた。ぽっかりと開いた口は最早剣でもなんでもない。ただ比喩するならば――それはそう、龍の顎に似ている。


「ガリュウは雑食でな。相手が何だろうが、ペロリと食っちまうんだ。相手が岩だろうが鉄だろうが……魔剣だろうが人間だろうが。術式だろうが、な――」


「や、やめろ……!」


 口をあけた魔剣がダラダラとよだれを垂らしている。そんなおぞましいものが目の前に突きつけられ、慌てないはずがなかった。ブラムが冷や汗を流し、懇願する。その姿にホクトは優しく微笑みを作った。


「た、頼む……! そうだ、この基地はお前にやる! 男も女も好きにさせてやる……! 地位もやろう! 俺は帝国の騎士だ、お前達なんかよりよほど――!?」


 言葉が最後まで通じる事はなかった。まるで堪えきれなくなったかのように、ガリュウはブラムへとかじりついたのである。胸から上が丸々食いちぎられ、大量の鮮血があふれ出し残った肉体はびくびくと細かく痙攣を始めていた。

 ぐしゃぐしゃと噛み砕き、飲み干すガリュウの口から血が滴り落ちる。その悲惨な食事光景にホクトは溜息をつき、ガリュウを空いている手で軽く小突くのだった。


「お前、容赦なさすぎ……。ま、いいや。綺麗に残さず食えよ。魔剣は特に――お前の好物だろ?」


 残った肉塊をむしゃむしゃとガリュウが食べつくす中、ホクトは返り血を拭いながら溜息を漏らしていた。どうしようもなくあっけない最後だった。が、それで相応しいのかもしれない。


「――てめえは、そうやって許しを乞う人間を許したかよ……?」


 ガリュウが全てを食いつくし、残ったのは血溜まりだけであった。ホクトはそれを見届け、ガリュウの力を再び封じる。手元に残ったのは化け物染みた恐ろしい魔剣ではなく、黒く巨大なだけの“ただの剣”であった。


「ごちそうさん――っと」


 剣を解除し、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま部屋を出る。元の牢獄では罪人たちが怯える視線でホクトを見つめていた。狂気染みた化け物の力、その片鱗を目撃してしまったのだ。彼女たちがそれを恐れ、次は自分の番ではないかと嘆くのは当然の事であった。

 故にホクトは何も言わず、ただ扉を潜って外に出た。うさ子とシェルシはどうやら先に行ってくれたらしい。距離が多少離れていても気配は感じられるので、当然二人がこの場に居合わせていない事は知っていたが、それでも安堵せずにはいられなかった。蝕魔剣ガリュウ……その食事風景は、少々仲間に見せるには衝撃的すぎる。

 立ち去る剣士は何も言わなかった。言葉は何も意味をもたないのだ。ホクトに今、彼女たちに言える事など何もなかった。ただ立ち去る彼は――その出口へと通じる扉の鍵だけは、閉める事はなかった。




烙印(4)




 基地からの脱出……それは、かなりの大騒動になった。ロゼは予め罪人達を逃がす準備を進めており、脱出ルートは無数に確保されていた。勿論全員を守り、きちんと逃がす余裕などあるはずもない。腐ってもそこにいるのは帝国騎士団……世界最強の武装組織である。

 ホクトたちは元々自分達がやってきた、ユエナ遺跡から地上に通じるルートへと走り出した。しかし同時に罪人達は自分達を拘束していた術式から開放され、閉ざされていたシャフトへのルートが解き放たれるのを見て一斉に逃亡を図ったのである。それはある意味、ロゼたちから目を逸らす絶好の目晦ましでもあった。

 むしろ、そうして利用する為に罪人を使ったのだが、結果的に罪人たちは地獄から逃れる事に成功もしたのである。その理由をロゼたちが知るのはまた先の話なのだが……。

 長い長いシャフトの階段を上がり、広大なユエナ遺跡地下を走り、地上に出る頃には全員がすっかり疲れ果てていた。奇跡的な、しかし当たり前のように流れた一連の脱出騒動の結果、彼らは何とかこうして無事に地上に戻る事に成功した。それはやはり奇跡と呼ぶべき事だったのかもしれない。


「ふわぁ~……。うさ、すっごくいっぱい走ったよう~……」


「それは、僕もだよ……。よく、ここまで走ってこられたって思うよ……」


 全身汗だくで、乱れた呼吸も当分戻りそうにない。そんな中冷ややかな様子なのはホクトとリフルの二人である。流石に魔剣使いの体力は一般人とはかけ離れているだけある。

 色々と疲労で全てが先送りになり、彼らはお互いに言葉を交わす事さえも叶わなかった。なだれ込むようにそのままガルガンチュアへと逃げ込み、ようやく自分たちがUGからの脱出に成功したと自覚する。そこから彼らを本当の意味での疲労と、緊張感から開放された筆舌に尽くしがたい安心感が襲ったのである。

 潜航するガルガンチュアの中、砂の海豚のメンバーはロゼたちを出迎えた。誰もがつかれきっていたが、最も憔悴していたのはシェルシであった。敵である事が公になり、しかし結局彼女に他に逃げ場も行き場も存在しない。シェルシは半ば強制的に部屋へと連衡され、ホクトはそれを黙って見送っていた。


「本当に、とんでもない目にあったよ……」


「ロゼのお手柄だな。よくあんなに脱出ルートを確保出来たなぁ」


「別に、術式は基地の中枢で管理されてたからね。そこをリフルと一緒に襲撃して、後は扉の鍵をタイマーで開くようにしておいただけだよ」


 ロゼの言葉をホクトは腕を組んで聞いていた。二人の足元ではうさ子がばったりと倒れこみ、通路の真ん中だというのにぐうぐうと寝息を立てている。ロゼは肩を竦め、それからホクトの背中を叩いた。


「納得行かないって?」


「…………ああ。まあ、シェルシが帝国側の人間であった以上、拘束するのが砂の海豚としては当たり前なんだろうけどな」


「弱った女の子を大人数で捕まえて、どうこうするのは気に入らないんだろ」


 ホクトは黙って身体を伸ばし、それからロゼの頭を唐突にくしゃくしゃと撫でた。そうして足元のうさ子を拾い上げ、笑顔を作る。


「俺は、団長の決定に従うまでさ」


「…………都合のいい時ばっかり団長扱いか」


 立ち去りながらホクトはひらひらと手を振っていた。ロゼはそれを見送り、そして彼もまた歩き出した。止まってる事は出来ない。休む事は必要だったが、どちらにせよロゼには通路の真ん中で眠り始めるような度胸はなかったのだから……。

 その頃、シェルシは部屋に半ば軟禁されるような状態にあった。ベッドの上に座り込み、ただぼんやりと何を見るでもなく床を見つめていた。彼女の目的が果たされる事は無く、そして知りたくも無い現実をただ思い知らされるだけの結果となってしまった。

 母に会う為に、わざわざあんな場所まで向かったというのに……全てが無意味になってしまった。残された未来に希望は見えず、どうしても泣き出したくなってしまう。しかし何故だろうか? あの騒動の後のせいか、感情が凍りついたように動かなくなってしまっていた。

 みすぼらしい姿の罪人たちと、それを嘲笑い使役する帝国騎士団……。全てが理不尽であり、そしてそれが当然でもあった。それを理解し、知っていたはずなのに……いざ直面した当然の二文字に、シェルシは成す術なく打ちのめされたのである。

 膝を抱え、目をきつく瞑った。もう何も考えたくはなかった。砂の海豚に何をされようが、もうどうでもいい――。あらゆる意味で自暴自棄になるシェルシ、そんな彼女の部屋の中に入ってきたのはリフルであった。

 シェルシは顔を上げず、足音だけで来訪者の存在を知る。リフルも疲れきっていたが、それでもシェルシの前に立ち、その肩を叩いた。


「――シャワーくらい、浴びたらどうだ?」


 それはぶっきらぼうだったが、リフルなりにかけた優しい言葉であった。シェルシは肩を震わせ、嗚咽を殺して泣いていた。リフルはその隣に座り、慰めるわけでもなく何を言うでもなく、ただそこに座り続けた。

 シェルシはずっと涙を流し続けた。ぼろぼろの服装のまま、泥だらけの顔のまま。誰かが隣に居てくれる事が、今はとても嬉しかった。顔を上げる事が、とても恐ろしかった。今はせめてもう少し。僅かな間だけ……現実から目を逸らしたかったから――。

 

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