烙印(2)
シェルシの記憶の中、決して色褪せる事のない想い出がある。それは、彼女がまだこの世界の事を何も知らなかった、幼い子供の時の出来事であった。
彼女はこの世界の中ではとても恵まれた立場にあった。帝国の管理下にあり、しかしその中で最大の権力を与えられた第四界層プリミドール……彼女の生まれ育った故郷には、幸福な世界が広がっていた。それは、彼女たちにとっては……だが。
夕焼けの景色の中、シェルシは大切な人の手を握り締めて歩いていた。故郷である王国、ザルヴァトーレの城を背景に二人は城下町を見下ろす。紅く染まり、輝く白い街――。丘の上には花畑が広がり、色とりどりの花たちが自由を謳歌するかのように咲き誇っている。
幼いシェルシはその場所が大好きだった。秘密の場所……彼女と――母とそう決めた。金色の髪を風に靡かせ、母は優しく微笑んでいた。白いドレスがはためくその横顔をシェルシは笑顔で見上げている。
「…………シェルシ、今日はね、大事な話があるの」
「だいじな……はなし?」
「ええ。とてもとても大事な……貴方にとっても、私にとっても。そしてこの国にとっても……」
母の表情はとても寂しげで、しかし慈愛に満ちていた。母はそっとその場に腰を下ろし、シェルシと視線を合わせ、顔を近づけた。額を合わせ、二人は息のかかるような距離で見詰め合う。
長く、白く、そして優しい母の指が髪を撫でる……それだけでシェルシはとても幸せな気分に浸る事が出来た。彼女の事が大好きだった。彼女の事だけが、家族と呼べる存在だった。そして彼女の全てを信じ、疑う事さえもしなかった。
常に優しく、穏やかで。誰かを憎むという事を知らないような、そんな女性だった。誰にでも平等に愛を与え、そしてそれはシェルシにはより一層に感じられたのである。
「これから、この世界は変わっていくのかも知れません……。私は、近いうちにこの街を去らねばならないでしょう」
驚くシェルシの頭を撫で、彼女は優しく微笑んだ。唇に人差し指がそっと止まると、それだけでもう動揺の言葉は現れる事も無く。シェルシはただ、黙って母を見上げた。
「貴方は、貴方の信じる世界で……貴方が信じ、正しいと思う事をやり遂げなさい。それが、貴方に課せられた……役目なのですから」
祈るようなその言葉を思い出す度、シェルシは彼女の言葉の意味を考える。だがそれは未だに判らないままだった。どうしたら理解出来るのか、それも判らない。いつしかその事を考える事を恐れ、真実を知る事を恐れるようになっていた。
そんな彼女にもう一度会いたいと、話をしてみたいと思ったのは単なる気まぐれだったのだろうか。それとも、彼女に与えられた役目がそうさせたのだろうか……。知りたくなったのかもしれない。せめて最後に、彼女のあの言葉の意味を……。
UG――そこは、結晶の木々が生い茂り、宝石の大地が広がる世界……。広大な大地は、シャフトの中だという事を忘れさせるに容易く、そしてそれは実際に通常のシャフトの中とは異なっていた。
先を行くロゼが推測した事を語り、シェルシは内心噂で聞いていた事と照らし合わせつつ自分なりに思考を編みこんで見た。曰く、UGとはシャフトでありシャフトではない場所に通じているという事……。第七の界層は、実際のところは存在して。そしてここがそうなのかもしれない。或いは、シャフトとも界層とも全く異なる世界がそこにあり、そしてそれを今目撃しているのかもしれない。
明確な事実は何一つ存在せず、そしてそれを裏付ける証拠も見つかっていないのだ。故に、ここに来たという現実全てがただ徒労に終わるかもしれない可能性をシェルシはきちんと理解していた。大切な人に、会いたかった。その為に此処まで来た。何の確証も無く。乏しい手がかりだけを頼りに……。
宝石の樹林の中を進む仲間たちを見つめ、シェルシは戸惑いに心を揺らしていた。彼らは何故、自分にここまで付き合ってくれるのか……。金が目当てなのだろうか? 当然それもあるだろう。だが、それだけではきっとないのだ。特に、損得の感情とは縁薄そうなこの男などは――。
自分の命を救い、そしてここまで護り、共に歩いてくれた傭兵――。思い描く理想の騎士とは程遠く、しかし頼りになる男だ。頭から流れる血をタオルで拭きながら歩く姿は間抜け極まりないが、それは余裕の表れとも言える。
彼に出会った時、運命が動き出したような気がした――なんて、乙女チックな事は口が裂けても言えないだろう。何しろ今はもう彼に大してロマンチックな事など何一つ期待していないのだから。
故に今、胸を苦しめる事象があるとすれば、それはシェルシがこの無謀な計画に彼を巻き込んでしまった、という事である。彼が自分を助けさえしなければきっと、今頃彼らはこんな所には居なかったはずなのだから。
ロゼとリフル、二人の考えはわからなかった。ホクトの仲間だから付き合ったのかとも思っていたが、ホクトが記憶喪失だと知ってからはそうでもない気がしてくる。結局ホクトも自分も、つい最近顔を合わせただけの他人なのだから。
では、彼らの目的は――? 反帝国組織の中に身を置くだけでも緊張でいっぱいのシェルシにそこまで考える余裕を求めるのは酷だったのかもしれない。ともあれ、旅はそれぞれの目的に付随し動きつつあった。
「ぴょんこ、ぴょんこ、ぴょんぴょこぴょん♪」
一人だけ、スキップしながら能天気に歌っているうさ子に目を丸くするシェルシ。第四界層から出るのはこれが初めてなのだが、世界にはあんな奇抜な人間もわんさかといるのだろうか――? 少女の疑問に対する答えは当然YESではないのだが、それは誰にも判らない。
「…………止まれ」
先頭を進むリフルが小さく、しかし強い口調でそう仲間たちに告げる。宝石の大地の上を走り、樹林を抜けたその先には道が途切れ、崖になっていた。木々に身を隠しつつ様子を伺っている仲間たちの所に駆け寄り、シェルシも倣って眼下を見下ろしてみる。
絶句――という以外に表現のしようがなかった。眼下にあったもの、それは巨大な要塞であった。一目で判る程それは巨大であり、機械的であり、そしてそれをとりこ囲む騎士の数は尋常ではなかった。
「お~う、騎士様がいっぱいだぜ」
「…………帝国騎士団か。かなり大規模な部隊のようだ」
「……リフル、あの要塞」
ロゼの言葉にリフルは頷く。そう、その要塞は――殆どがまだ、結晶の大地、壁の中に埋まっていたのである。全体像を見下ろす事が出来るからこそ気づけた事実である。その巨大な要塞は、まだ殆どが埋まったままで見えている部分は全体のほんの一部に過ぎないのだ。
恐らくその要塞の発掘に当てられているのだろう、無数の罪人たちが同じ白い作業服を着せられて結晶の大地を削り続けていた。シェルシは思わず眉を潜める。これが、UGと呼ばれていた世界の正体……。
「罪人さんたちはここに送り込まれてたわけねぇ……。ロゼ、発掘されてるありゃあなんだ?」
「……たぶん、古代文明の遺跡の一部だと思うけど……現代の戦艦にも似ているような気がする。よく、わからないな」
「――――引き返すべきです」
会話を遮るように、そして思考を遮るように――リフルが声を上げた。仲間たちは同時に顔を上げる。リフルの提案は尤もであった。
「ひ、引き返すって……何故ですか?」
しかし慌てたのはシェルシである。当然、彼女はまだここに来た目的を果たしていないのだ。ようやくUGに到着した……ただそれだけである。しかし周囲の視線はシェルシの発言が場違いである事を物語っていた。
「敵戦力は見ての通り圧倒的だ。この様子だと、見えているだけの騎士が全てではないだろう。この少人数で何かを出来る状況ではない。ルートを確保し、地下に何があるのかがわかっただけでも成果とすべきだ」
「そんな……。それは、そうですけど!」
「あんた、自分の目的も言わないくせにこれ以上僕らを付き合わせようっていうのは虫が良すぎるんじゃないの?」
「う……」
全く以って当たり前のようにその通りだった。一つとして反論できず、シェルシはぐっと息を呑んだ。指と指を絡め、きつく握り締める。此処まで来て……。此処まで来て、目的を果たせない。そんな最悪の可能性が脳裏を過ぎった。
「あんた、ここで何をするつもりだったんだ? 地下には謎の結晶樹林があり、そして埋まった古代遺跡を罪人が発掘させられてる。どう考えても帝国の機密案件だ。無闇に手を出すのは自殺行為だよ」
「そ、それは……。それは、その……」
シェルシは何も言う事が出来なかった。目的を話す事も、ここで諦めて引き返す事も、両方が彼女にとって最後のチャンスが失われる事を意味している。退けない、しかし一人では前に一歩も進めない……そんな八方塞の状況に黙りこくる事しか出来なかった。
そうしてシェルシが一切の打開策を持たない事を悟り、リフルは腕を組んで背を向けた。ロゼも同じように背中を向け、その場を去ろうとする。うさ子は仲間たちをきょろきょろと見渡し、それからシェルシの隣に立ってその手をぎゅっと握り締めた。
「シェルシちゃん……」
「私は……」
「僕たちの仕事は君をUGまで送り届ける事――それだけだ。何故なら君は、そこに到着してから何かをするという依頼を僕らにしていないし契約書にもそれは書いてない。僕らのすべき事は、ここまで君を連れてきた後に君を連れて帰る事だけだ」
ロゼの言う事は正しい。だが、だったら最初からつれてなんてこないで欲しかった――とも思う。何故二人はそれを理解しつつ、ここまで自分を連れてきたのか? わからない。だが、どうしようもない状況にシェルシは完全に打ちのめされていた。気づけばじわじわと目尻に涙が浮かんでくる。
「シェルシちゃん、一人じゃ危ないから一緒に帰った方がいいよう~? 泣かないで……ねっ!」
うさ子が背伸びし、シェルシの頭を撫でる。それで一気に心が折れて泣き出しそうになった――その時であった。
「――――俺は帰らないぜ?」
声は、シェルシの背後から聞こえた。崖の先、ホクトは両手を腰に当てて遺跡を見下ろしていた。ホクトの声にロゼとリフルは呆れたように戻ってくる。
「何言ってんだ馬鹿……。あの大軍に突っ込むつもりかよ」
「死にたいなら勝手に死ね。ロゼを巻き込むんじゃない」
「おいおい、つめて~なあ……。たった数週間だけだが、同じ釜の飯を食った仲間じゃあねえかよう」
二人はまるでホクトの話など聞いている気配がなかった。しかしシェルシだけは驚き、目を真ん丸くしていた。ホクトは少女の所まで歩み寄ると、うさ子と同じようにシェルシの頭をわしわしと撫でた。
「女の子が泣いて頼んでんだ、付き合ってやろうぜ」
「……ホクト」
「なぁに、心配すんな。俺に策アリだぜ?」
「ホントかよ……」
「ホントホント。ロゼ、ちょっと耳貸せ」
溜息を漏らし、ロゼがホクトに近づいていく。次の瞬間――信じられない事が起こった。
ホクトはロゼの身体を片腕で抱え上げ、同時にあいているもう片方の手でシェルシを抱きかかえたのである。少女と小柄な少年は同時にきょとんと目を丸くする。リフルも同じく何をやっているのか判らず、思考停止してしまった。だが次の瞬間ホクトの考えに気づき――魔剣を召喚する。
ワイヤーフレームが魔剣を構築する瞬間にはホクトは既に走り出していた。少年と少女は顔を見合わせ、冷や汗を浮かべる。ま、まさか――脳裏に最悪のイメージが浮かんだ。そしてそれは、当たり前のように実現する――。
「「 わああああああああっ!? 」」
二人が絶叫を上げるのと、リフルが構築した剣を振るうのはほぼ同時であった。ホクトはあろうことか、ロゼとシェルシを抱えたまま崖を飛んだのである。それを阻止しようとリフルが繰り出した斬撃、それはホクトの足で阻止されていた。
厳密には足の下に構築された巨大な魔剣である。その板を器用に足先で操り、リフルの攻撃を弾くと同時に魔剣の上に乗り、ほぼ直角の崖を一気に滑り降りていく――!
「ロゼ――ッ!? ホクト、貴様ぁあああっ!!!!」
「はわーっ!? ホクト君たち、楽しそうな事してるよう! うさも、うさもやるーっ!!」
うさ子が一人、崖を飛び降りていく。それに続きリフルは忌々しげに舌打ちし、魔剣を装備した状態で崖を下り始めた。身体能力を魔力で強化したリフルは一瞬で加速し、風を纏って滑空するかのように降りていく。
途中、転倒し転がるうさ子を追い抜きリフルは走り続ける。だがホクトはそれよりも更に早い。ボード代わりにした大剣の上に乗り、更に魔剣からは黒い炎が噴出し見る見るホクトたちを加速させている。
「いぃいいいい――――やっほおおおおおおうっ!! 楽しいな~、ロゼ! シェルシ!!」
「やだあああああああっ!! 死んじゃうううううううっ!!!!」
「ホクトあんた――!? 裏切ったのか!?」
「人聞きの悪い事言うなよ! 男なら――正面突破だぜっ!!」
「「 無茶するなああああああっ!! 」」
結晶の坂を猛スピードで駆け下りていくホクト。楽しそうに声を上げ、泣きじゃくるシェルシと気絶しそうになっているロゼを放置し、そのまま真っ直ぐに帝国騎士団がうようよ集まっている遺跡へと降りていく。
魔剣から黒い炎が瞬き、次の瞬間三人は飛翔していた。騎士団の頭上を通り抜け、そのまま大地へと着地する。スピンを繰り返しながら停止したホクトはロゼとシェルシを降ろし、魔剣を足先で拾い上げて両手で構える。
「し、死んじゃうかと思いました……」
「……あんたなぁああああっ!!!!」
「文句は後後! さあ、行くぜぇっ!! 帝国騎士団、覚悟ォッ!!」
ホクトは魔剣を振り回し、騎士団目掛けて突っ込んでいく。異常事態の発生に戸惑い浮き足立った騎士団は怒涛の勢いで迫ってくるホクトに尻込みしている。その隙を衝くように飛び掛ったホクトが放った魔剣の一閃が、一瞬で数人の騎士を薙ぎ倒して行った――。
烙印(2)
「この――ッ!! 馬鹿野郎がッ!!!!」
「うごっ!?」
リフルの振り上げた拳は何の容赦も躊躇いも無くホクトの顔面に減り込み、吹き飛ばした。床の上に倒れたホクトに馬乗りになり、リフルは更に拳を左右から連打する。
彼女がそうまでするのには当然理由があった。ホクト、ロゼ、リフル、そしてうさ子の四人はUGにある地下遺跡に付随する形で建造されていた駐留基地に連衡され、そこにある牢獄に押し込まれていたのである。
遺跡へと突入したホクトたちであったが、あろう事かホクトは適当に暴れただけで抵抗をやめ、大人しく捕まってしまったのである。それには流石に誰もが驚愕し、殺意を覚えた。無謀な突撃を先導したホクト本人が、真っ先に両手を挙げたのである。当然の憤慨であった。
ロゼは部屋の隅にあるベッドの上に座り込み、両手で頭を抱えていた。うさ子はそんなロゼの足元に座り、膝を抱えて丸くなっている。ホクトが殴られるのを止める者は居なかった。うさ子はとめようとしたのだが、崖を転がりまくったせいで気持ち悪くなっており、動くと吐きそうだったので自重したのである。
数回、牢獄の中に拳を叩きつける音が響き渡り、リフルは血のついた皮のグローブを床に投げ捨てながら立ち上がった。ホクトは口元から血を流し、顔を腫らしながらゆっくりと身体を起す。
「いててて……。し、死ぬぅ……」
「殺さないだけありがたく思え、裏切り者め……! 貴様の所為でロゼまで……!! やはり、貴様を仲間にするべきではなかったのだ……!」
背を向けたまま、リフルは壁に拳を叩きつけた。ホクトの無策かつ裏切りに等しい行動の所為でこの有様である。転がって瀕死になっているうさ子は兎も角、ロゼもリフルも口を開く事さえ億劫なほど怒りと失意に狩られていた。
ホクトをここで殴ろうが殺そうが、こうなってしまったものは仕方が無い。派手な登場の所為で完全に包囲され、逃げ場も無かった。問答無用で殺される事は無くこうして何とか生き延びているものの、状況は最悪である。
「ねぇねぇロゼ君ロゼ君、これからどうしよう……?」
「僕が知るかよ……」
「脱出出来ないかなぁ?」
「無理だよ。この部屋は、術式を封印する特別な術が施されている……。魔剣はおろか、魔法だって使えない。脱出は不可能だよ……」
方法があるならロゼとてもう試しているだろう。だが、それがないからこうして項垂れているのである。うさ子はロゼの隣にちょこんと座り、落ち込むロゼの頭をなでなでした。ロゼはもう嫌がる素振りも無く、ただ撫でられている。
この状況を引き起こした張本人であるホクトは口元から血を流したまま、堅牢な鉄格子に手を伸ばしていた。そこには術式がびっしりと刻まれ、対魔剣能力者用の牢獄である事を感じさせる。目を細め、何かを思案するホクトの背後、うさ子は耳をへこたれさせたままロゼの手を握り締めた。
「ねえ、シェルシちゃんは……大丈夫かなぁ?」
そう、この牢獄には四人の姿しかない。侵入者の数は五人――依頼人であるシェルシがこの場にはいなかった。彼女は拿捕された時は一緒だったのだが、独房に移送される途中で騎士たちに別のところに連れて行かれてしまったのである。
「大丈夫かなぁ? シェルシちゃん、可愛そうな事になってないかなぁ?」
「……ならないよ。なるわけない。だって、あいつは――」
そこまで言ってロゼは口を閉じた。今更言った所で意味の無い事だ。帝国に探りを入れるつもりで、とんだ貧乏くじを引いてしまった。まさかホクトに裏切られるとは思って居なかっただけに、ロゼは酷く打ちのめされていた。
シェルシがここに居ない理由はとてもシンプルであり、単純な事だった。それを知っていたからこそリフルもロゼもここについてきたのだ。だが、こうなってしまっては意味がない。うさ子はロゼを励ますように懸命に頭を撫でたり背中をさすったり手を握り締めたりするが、ロゼは元気になる気配がなかった。
帝国は反逆者に容赦をしない。殺されなかった理由はシンプル、つまりこの後尋問が待っているという事だ。侵入者の在り得ないこの場所に侵入した者たち……当然、事情を聞く事は今後の対策に繋がるだろう。勿論ロゼは簡単に口を割るつもりはなかった。だがそれが意味するのは、非人道的な拷問に身を投げ出すという事。
ガルガンチュアで待つ仲間たちを巻き込むわけにはいかない。ここで死ぬ事が得策なのかもしれないが、装備も取り上げられ死ぬ事もできない。拷問を待つだけの身で明るくなれという方が無茶な話である。ロゼは何度目か判らない深い深い溜息を漏らし、考えるのも嫌になって静かに目を閉じたのだった。
シェルシが連れて行かれたのは牢獄ではなく、客間であった。当然部屋の鍵はかけられているものの、シェルシの身体に傷は無く、拘束されている気配もない。窓辺に立ち、外の世界を見つめる。そこには騎士に強制労働を強いられている罪人たちの姿があった。
彼女が独房ではなく客間に連れ込まれた理由は当然存在する。そしてそれこそが彼女がここにやってきた目的でもあった。ゆっくりと窓辺に背を向け、シェルシは溜息をついた。こんな事になってしまったのは間違いなく、自分の責任だから。
彼らは無事だろうか? いや、楽観的に考える事さえもが罪である。そう、彼らはもう無事ではすまないのだ。反帝国主義者たちの成れの果てはこの場所に相応しい。永遠の強制労働、そして死に絶えればゴミのように捨てられるだけである。
窓辺から去ったのは、彼らに待つ現実を見つめる事が恐ろしくなったからかもしれない。拳を握り締め、シェルシは泣き出しそうになる自分を戒めた。泣いてもどうにもならない。どうにもならないのだ。巻き込む覚悟をした。騙してきた。だったらそれを――初志貫徹するだけではないか。・
迷う心の最中、彼女を現実に引き戻したのはドアをノックする音だった。返事をしていないのに扉は開き、一人の男が部屋に入ってくる。男は騎士と呼ぶには粗暴な風貌をしていた。この隊では当たり前の事なのだが、騎士は騎士の正装をしていない。無精ひげはそのままで、髪もボサボサで伸ばしっぱなしというのが相応しい、まるで犬のようだと、シェルシはぼんやりと考えた。そしてそれはあながちはずれではない。男は、犬のような男だった。
「これはこれは……。ザルヴァトーレ国からはるばるようこそ、シェルシ殿」
「…………」
卑下た笑いを浮かべ、男はくすんだ瞳にシェルシを映し込んだ。それだけで自分が穢されるような気になり、シェルシはそっと視線を逸らした。
「自分は、帝国騎士団所属、UG駐留軍指揮官、ブラム・シグマール中佐であります。以後お見知り置きを」
「……中佐、あの……」
「彼らにはまだ手荒な真似はしていませんよ。その点はご心配なく……。しかし、図々しくも無謀な輩ですなぁ。まさか、貴方様を拉致し、ここまで連れてくるとは……ねぇ? シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレ王女?」
フルネームで呼ばれる事にシェルシは抵抗があった。しかしそれが彼女の運命を決定付ける名であり、そこから逃れる事は出来ない。シェルシ・ルナリア・ザルヴァトーレ……。それは彼女が第四界層にある王国、ザルヴァトーレの王女である事を意味していた。
第四界層は帝国の恩恵を最も受ける世界であり、当然帝国との関係も厚い。シェルシは帝国に生かされ、自由を許され、そして満足な生活を送ってきた。帝国の指導に従い、帝国の手足となって生きてきた第四界層の民なのである。
この事実を知れば、ロゼもリフルも黙ってはいなかっただろう。文字通り、自分は敵なのだから……。だから、己の身分を明かす事は出来ず。そしてここに来た目的を語る事もできなかった。
悔しそうに両手を握り締めるシェルシを見つめ、ブラムは口元を軋ませるように笑った。上から下まで舐めるように視線を向けるとそれに気づいたシェルシが戸惑うような顔をする。ブラムは両手を挙げ、首を横に振った。
「こいつは失礼。噂に違わぬ美しさですなぁ、姫」
「…………ありがとう、中佐」
「では、事情をお話頂けますね? 帝国の騎士として、貴方から今回の件について訊かねばなりませんので。貴方が全て話してくだされば、他の連中に手荒な真似をする必要もなくなります」
ブラムが椅子の上に腰掛けると、シェルシは頷きベッドの上に腰を下ろした。そうだ、話そう。事情を話そう。何もこんなにコソコソする必要などなかったのだ。帝国騎士とて、自分はザルヴァトーレの姫……。何か出来るはずもない。それに全て話してしまえば、ホクトたちはもしかしたら酷い目に合わないかもしれない……。
つい先ほど己を戒めた少女の決意はあっさりと崩壊していた。無理も無い話だ。彼女は今までそうやって生きてきた。都合の悪い事からは目を逸らしてきた。それが姫としての彼女の人生だった。だからあっさりと砕け散る。消えてしまう。
楽観的な考えをする事そのものが罪である――。そう、己を戒め拳を握り締めたという、過去でさえも……。