アニマ覚醒(2)
「目覚めた……。彼が……!」
昴と斬り合っていたミラがそう呟き、後退する。それと同時にエデンの空に黒き光が立ち上り、遅れて激しい衝撃が走った。昴は剣でそれを受け止め、ミラもまた同じように衝撃の元へと目を向けていた。
「目覚めた……? 何の事だ……?」
「ふふ、彼が覚醒したのよ。もう誰にも止められない……。私の願いは、これで叶う――!」
剣を収め、ミラは結界を解除すると素早くその場から引き返していく。昴も同じく刃を収め、黒き光の方角を見やった。ミラの事も気にかかるが、今はそれよりもあちらの方が問題である。
今までも様々な強敵と戦ってきた昴だったが、これほどまでに邪悪な力を感じたのは……これが“二度目”だった。視線を凝らし、森の向こうを捉えようとしてみるがそれは叶わない。だが……目で見えずともはっきりと感じ取れる物がある。
何か、これまで以上によくない事が起ころうとしている――。虫の知らせにも似た悪い予感に急かされ、昴が走り出したその道の向こう……。黒き翼を広げ、ガリュウを片手に佇むホクトの姿があった。その傍らには血に染まったシェルシが倒れ、そしてオデッセイが笑う。
「ホ、ホクト君……?」
「ど、どうなったのじゃ……?」
「ホクト君、シェルシちゃんが……!?」
ふらふらと起き上がり、傷だらけのうさ子はホクトへと歩み寄った。しかし次の瞬間――ホクトは歩み寄るうさ子へと剣を繰り出したのである。放たれた斬撃はうさ子の身体を傷つけ、血飛沫を舞わせる。誰もが唖然とする中、間に割って入ったのはハロルドであった。
振り下ろされたガリュウがハロルドの肩から深々と食い込み、腕を落として足へと食い込む。ただ震え、うさ子はそれを見ている事しか出来なかった。彼らは既に大罪所有者ではなく、魔剣使いでさえないのだ。七つの大罪の内、五つの力を手に入れてしまったホクトを前にして出来る事等何一つ無い――。横に薙ぐ闇の一閃がハロルドの上半身と下半身を切断し、うさ子の身体にばたばたと血が滝のように流れ落ちた。
「――まずは、一人」
それはホクトの言葉ではなかった。彼はこんな風に冷たくは笑わないし、視線にはもっと熱が篭っていた。うさ子は本能的な恐怖に駆られ、背筋がぞくりとするのを感じる。そして痛みと疲労の余り気を失い……ハロルドの亡骸の上にばたりと倒れこんだ。
次に動き出したのはミュレイ、そしてイスルギであった。ホクトは黒き竜巻となり、凄まじい勢いで大地を砕きながらミュレイへと迫っていた。しかしミュレイも大罪を既に持たず、ただの魔術師に成り下がっている。繰り出される龍の一撃、それを受けたのはイスルギの盾だった。
「逃げろミュレイ! こいつは違う……! 俺たちの知っているホクトじゃない!」
「イスルギ……!?」
「邪魔をするな……。まあ、この程度――邪魔にもならないがな」
身体を捻り、ホクトは再び剣を放つ。その破壊力は一撃でイスルギの盾を粉砕し、蒸発させてみせた。剣は猛々しく荒れ狂い、吼える――。そして口を開いたガリュウがイスルギの胴体に喰らいつき、そのほとんどを噛み千切ってしまった。
胴体を失い、血を吐いて倒れるイスルギ。ミュレイはそれを見届けるより早く魔術を発動する――。だがその指先をホクトのガリュウが切り落とし、続けてその両足を切り払った。
片腕と足を失い、ミュレイは白い大地の上に倒れこむ。その頭に切っ先を突きつけ、黒き魔剣使いは静かに佇んでいた。何も出来ない――。早すぎて何も見えなかったし、強すぎて防御も出来ない。目の前にいるのは確かにホクトなのに、彼はもう何かが決定的に違ってしまっていた。
「指先一つで数多の魔術を操る炎魔の姫と言えども、そのご自慢の腕が無くては何も出来まい――」
「ホクト……貴様……」
「……勘違いをするな。俺はホクトなどではない。俺は――ヴァン・ノーレッジだ」
振り上げた刃――それが黒く煌いた刹那、ミュレイを守ろうと間に割って入ったのは昴であった。昴のユウガとホクトのガリュウ――黒白の魔剣が激突し、魔力の波動が拡散していく。昴は足を失ったミュレイを片腕で支え、後退する。その身体は既にたった一度の切り合いで何度も切り付けられ、白神装武は砕けようとしていた。鎧があったので、たまたま生き残れた……ただ、それだけの話である。
「兄さん、何をやっているんだ! これは……これは全部兄さんがやったことなのか!?」
「お前に兄さんと呼ばれる筋合いはないが……成程、白騎士と奴は血縁だったか。道理で似た力を放つ」
「昴……逃げろ。奴は……大罪を五つ、取り込んでいる……。奴に、ユウガを渡してはならん……」
「大罪を……?」
男の身体は無数の魔方陣で覆われ、ガリュウは今までにない形に進化しようとしていた。渦巻く黒き波動…………ただ立っているだけで全身に汗がじっとりとにじむような、そんな気迫……。昴は立ち上がり、ミュレイを支えたまま男を睨み付けた。
「破魔剣ユウガか……。渡してもらおうか。それは俺の理想の為に必要な力だ」
「……渡すわけにはいかないな……。お前が兄さんではないというのなら……彼が守ろうとしたものの為にも、渡してやるわけにはいかない」
そう凄む昴ではあったが、状況はどう考えても最悪以外の何者でもなかった。昴はミュレイを抱えるために片腕でしか戦えないし、そのミュレイも瀕死の状態である。見ればほかの仲間も既に致命傷を負っており、助かるようにはとても見えなかった。だが、諦めるわけには行かなかった。もう後ろ向きに、絶望から逃げ出したくはなかった。ただ――自分が納得出来る、自分が愛せる自分で居る為に。
「す、素晴らしい力だ……。流石は憎悪の権化、ヴァン・ノーレッジ……。やはり、貴方は我等がアニマの新たな器に相応しい……」
よろめきながら、血塗れのオデッセイがホクトへと……否、ヴァン・ノーレッジへと歩み寄っていた。戸惑うホクト、そしてヴァンは振り返りもしない。オデッセイは既に致命傷を負っており、いつ事切れてもおかしくないような状態だった。そんなオデッセイに昴は一か八か声を飛ばした。
「オデッセイ……兄さんに何をした!!」
「か、簡単な……事だよ。ククク……! 私は、ガリュウを……ヴァン・ノーレッジの魂を調査したのだから。ペルソナの暗示で、別人格を表に立たせる事など容易い事……」
「ペルソナ……? 別人格……?」
以前、ホクトは一度帝国に捕らえられた。そこで強力な封印措置を施され、彼の魔剣と肉体は帝国によって調査し尽くされたのである。それにより、彼の肉体の中には本来のヴァン・ノーレッジという人格と、異世界から召還された精神だけの存在、北条北斗が存在する事が判明したのだ。
ヴァンの意識はガリュウに飲み込まれ、既に一つの人格としては機能しないレベルにまで薄まってしまっていた。それもすべてはステラと昴による魔剣狩りを倒そうとしたあの作戦の影響である。精神そのものを再構築する情報である烙印を破壊され、ヴァンの精神は完全に崩壊したのだ。
「だが……彼らは既にいわば情報の集合体……。断片化したヴァンの意識をペルソナの暗示でサルベージし、一箇所に固定する……。これは、ハロルドが残した研究成果だよ」
「兄さんは……北条北斗はどうなったんだ?」
「さあ……? 最愛の女を目の前で殺され、絶望に打ちひしがれ心を閉ざした彼の人格に最早ヴァンを退ける事は不可能……。今度こそ、彼がガリュウになってしまったのでは?」
「そ、そんな……」
見ればシェルシは胸から血を流し倒れている。うさ子も、ハロルドも、イスルギも……ミュレイも。すべては彼一人おかしくなってしまっただけで、何もかも狂ってしまった。昴は改めてユウガを握り締める手に力を込めた。
「さあ、魔剣狩りよ……! 思う存分その世界への憎しみを振りまき、ありとあらゆる世界に終焉を齎す新たな神に――!?」
次の瞬間、オデッセイの肉体は切り裂かれ、ガリュウによって食いちぎられていた。それによりついに幻魔剣ペルソナさえもがガリュウの一部となり、吸収されてしまう。七つの大罪と呼ばれる力のうち、六つをも手にしたヴァン……。残す神の断片は、昴が持つユウガのみ――。
だが、この状況のどこに希望があるというのか。昴は何度も何度も様々な状況をシミュレートしてみるが、まるで状況が好転する気がしない。何より目の前の男に勝てる気がしない――。元々世界最強の魔剣使いと呼べるほどの男だったのだ。それが今や大罪の殆どをその手中に収め、仲間さえも容赦なく切り殺す悪魔の人格へと戻ってしまった。そう、全ては彼の悪夢……。彼とこうして刃を交える事は昴にとってはむしろ自然な事だったのかもしれない。
この魔王がミュレイを殺し……。この魔王の存在がこの世界の未来を大きく変えてきた。彼は諸刃の剣だったのだ。ホクトである限り、あらゆる絶望を打ち払う希望となる。そしてそれが裏返った時……あらゆる未来を破壊する、絶望の象徴へと変貌する。ごくりと生唾を飲み込み、深く息をついた。一瞬でも隙を見せれば斬り殺される――。緊迫した空気の中、ミュレイは昴の手をぎゅっと握り、首を横に振った。
「逃げろ、昴……。わらわの事はいい。もう……良いのじゃ」
「何がいいんだ……! 何もよくないッ! 私は貴方を見捨てないと誓った! 貴方を守ると誓ったんだ!! その誓いはこの魂に賭けて絶対に破るわけには行かない……!」
「昴……」
「私にはミュレイが必要なんだよ! たとえどんなに絶望的な状況だって、ミュレイを守る為なら戦える……。私に……私に、兄さんと戦う勇気を貸して……ミュレイ」
ヴァンの影がゆらりと動き、次の刹那には既に目の前に刃が繰り出されていた。昴はそれを何とかユウガで防ぎ、片腕で時間の加速と停止を駆使してヴァンの攻撃を防いでいく。怒涛の連続攻撃は点いていくのがやっとという様子で、昴は歯を食いしばり必死でそれに抗っていた。
距離を開いたヴァンはガリュウの形を変化させ、それを大地に突き刺した。黒き剣の翼を広げ、放たれたのは大魔術――。炎の嵐が吹き荒れ、落雷が降り注ぐ。昴はそれを全てユウガの力で無力化し、斬り払っていく。だがその猛攻と同時にヴァンはガリュウを振り上げ、上から襲い掛かろうとしていた。
一撃が肩に叩き込まれ、鎧が砕ける――。錬金術の力で強固に作られたメリーベルの鎧……。今まで何度も昴の命を守ってきたその鎧が一撃で砕けていく。腕からは血が流れ、体中痺れているのか痛んでいるのかよくわからない。ただ目の前の攻撃を捌く事だけに集中し、必死になってそれをやり過ごす。昴に出来る事は今となってはその程度で、だがあの魔剣狩りを相手に片腕で持ちこたえるその様子にミュレイは驚かずには居られなかった。
昴は成長した。泣き虫で、弱虫で、他人と関わる事を恐れていた少女……。だが今は違う。二人はいつかの日のように対峙する。だがその意味も、形も、心も、あらゆるものがあの時とは異なっている。
「負けられない……! 負けられないんだ! 私は……私はああああああッ!!!!」
「……素晴らしい剣捌きだ。魔剣の力を完全にコントロールしている……。殺すには惜しい腕だ」
刃と刃が激突し、甲高い音が鳴り響く。刃越しに白と黒の影は睨み合い、そして同時に距離を離した。完全に息が上がっている昴に対し、ヴァンは余裕の表情である。明らか過ぎる劣勢……。これ以上は時間の問題だった。
そんな昴の苦しみをさっさと終わらせてやろうと言わんばかりにヴァンはガリュウを掲げ、空に無数の剣を出現させる。百……千……万……。空を埋め尽くす魔剣、魔剣、魔剣……。地獄がひっくり返って攻め込んできたんじゃないかと思うほど、それは禍々しく恐ろしい。昴はその空が落ちてくるかのような魔剣を見上げ、ただユウガを握り締めて声を上げた。
雄たけびをかき消すかのように頭上から剣のスコールが降り注ぐ。昴はそれを加速した動きで薙ぎ払っていく……。ユウガの力は破魔の力。触れる全ての魔剣を一撃で消滅させてしまう。だが、それでもその力には限界がある。
黒い魔剣の波はまるで蟲のようだった。ぞわりと昴へ襲い掛かり、小さくか細い彼女の光は剣の中に埋まってしまう。やがて何もかもが一通り墜ち、昴へと襲い掛かった後……。そこには全身に剣を突き刺し、瀕死の状態でなお立っている昴の姿があった。ヴァンの表情がはじめてそこで驚きに変化する。背後のミュレイは傷一つなく、あらゆる攻撃を彼女はただ片腕で砕いて見せたのである。
「……ミュレイ、は……。やらせ、ない……。もう……彼女は……殺させない……」
「…………。お別れだ、最後の大罪使いよ」
歩み寄り、止めを刺そうと剣を振り上げるヴァン。昴の腕は既に上がらず、ただ虚ろな目でそれを見届ける事しか出来ない。ゆっくりと、スローモーションのように襲い掛かる刃……。それを弾き飛ばしたのは――ユウガが放つ眩い光だった。
その光はヴァンの身体を焼き、男はたまらず後退する。光はどんどん強く増して行き、その光は昴の身体に突き刺さった剣を浄化し、そして傷を癒した。何が起きたのかわからない昴の目の前――光は一つに収束し、形を作っていく。
「……貴方、は……」
浮かび上がった女の姿に昴は見覚えがあった。それはつい先ほどまで刃を交えていた敵……ミラ・ヨシノである。だが光で構成された彼女は服装も、髪も、目も、何もかもがあのミラとは異なっていた。いや……こちらこそが本来あるべき彼女の姿。昴の持つユウガに自らの手を重ね、姫は優しく微笑む。
なんとなく、昴は全てを理解した。ユウガが……消えずにこの世界に残っていた理由。自分がこの剣を手にして戦ってこられた理由。自分がここにこうして立っている意味……。ミラはずっと傍に居たのだ。ずっと近くで見守ってくれていたのだ。ずっと、ずっと……どんな時でも。どんな苦しい時も。嬉しい時も。彼女は昴と一緒だった。だから――それは別に特別でもないし、唐突でもない。
「ありがとう、ミラ……。おかげでもう少し……まだ、もう少し……やれそうだよ」
“がんばってね”と、ミラが囁いた気がした。ミラは再び光へと戻り、それはユウガと一体化していく。封印術式が一気に開放され、その剣は本来あるべき形へと回帰していく――――。
昴の身体を白銀の鎧が覆い、巨大化した刀を少女は再び握り締めた。破魔剣ユウガ……。かつて魔剣狩りヴァン・ノーレッジと共に生きた姫が使っていた剣。世界を変えようと、世界を守ろうとした女の剣。それは――ただただ純粋な愛と希望によって構成されている。
「……ミラか。余計な事を……」
「ミュレイ……ごめん。今の私じゃ兄さんを助けてあげられそうもない。だから……一旦引くよ」
ミュレイを抱きかかえる昴。その背中にヴァンは再び襲い掛かった。しかし彼女がまとった強烈な光がヴァンの闇を寄せ付けず、激しく弾き飛ばしてしまう。戸惑うヴァン……その身体はまるで灼熱に焼かれたかのように熱く焦げ付いていた。
「す……昴ちゃんっ! シェルシちゃんが……! ハロルドちゃんが……!」
気を失っていたのか、うさ子が身体を起こすと同時に叫んだ。それに反応し昴は時間を停止させて走り出す。以前より長く……以前より正確に。ヴァンには何が起きているのかまるでわからなかったが、気づけば倒れていた仲間たちは一箇所に集められ、ついでにガルガンチュアが迎えにやってきていた。
「時間操作か――!」
「うさ子、みんなを連れてガルガンチュアへ……!」
「昴ちゃんも、早く……」
「私は――あいつに挨拶をしてからだッ!!」
走り出す二人……。白騎士と魔剣狩りは互いの刃を激突させる。より強力になった破魔の力は全てを侵食するガリュウとも互角に切り結ぶことが出来る。放たれる闇の剣は浄化の光が全て分解し、はじいてしまう。だがやはり魔剣の数が違いすぎる。ヴァンはエリシオンとソレイユを取り込んでいるのだ。魔力は無尽蔵……。正面からやりあうには昴だけではどうにも厳しい。
「兄さん! きっと助けるから……! きっと、迎えに来るから!! だから――待ってて兄さん! 今度は私が、兄さんを助けてあげる番だからっ!!」
「既にあの男は消えた……。お前の声は誰にも届かない」
「いや、届かない声なんてないんだ。聞こえないはずなんかないんだ。お前にはわからないかもしれない。でも――兄さんはきっとまだお前の中に生きてる!」
至近距離で刃を交え、二人は見つめあう。昴の眼差しは全てを見透かし、そして見極めようとするかのように紅く輝いていた。ヴァンはそれを不快そうに睨み、剣で弾く。吹き飛ばされた昴は空中で体制を整え、浮遊大陸から飛び降りると同時にガルガンチュアへと飛び移った。既に出発準備が整っていたガルガンチュアの甲板の上、ゲオルクが昴へと腕を伸ばす。昴はその手をとり、船にぶら下がる形でエデンから離脱するのであった。
遠ざかっていくガルガンチュアを見送り、ヴァンはそれを追撃する事はしなかった。その気になれば追う事も出来たが、今はそれよりも先にやるべきことがある。崩れかけたエデンの鐘堂を見やり、男は一人ゆっくりと歩き出すのであった。
アニマ覚醒(2)
ガルガンチュアの中、医務室へ運び込まれた仲間たち……。メリーベルや砂の海豚の医者たちが懸命に手当てをしている中、うさ子は耳をぺったんこにしょげさせてハロルドの手を握り締めていた。
ベッドの上に並べられた上半身と下半身はもう永遠につながる事は無く、もう二度と彼女の声を聞く事は出来ない。両目いっぱいに大粒の涙を溜め込んだうさ子自身もまた、酷い怪我を負っていた。もうハロルドは助からない……だから手当てが行われていない。それがうさ子には悲しくて仕方がなかった。
「ハロルドちゃん……。うさね……? うさはね……? ハロルドちゃんとね……。これからもっと、もっともっと、楽しいこと、したかったの……。幸せなこと、いっぱいいっぱい……教えてあげたかったの……」
ぎゅうっと、両手でハロルドの手を握り締めるうさ子。そうしてハロルドのまぶたをそっと閉じ……耳をパタパタと上下させながら必死に涙をこらえた。だが堪えきれない涙はぽろぽろと零れ落ち、血に染まったベッドのシーツに新しい染みを増やしていく……。
結局、助かったのはミュレイだけであった。そのミュレイもなんとか一命を取り留めたものの、瀕死の重傷である事に違いは無い。まだ完全に回復すると決まったわけではなく、失われた手足は戻らないだろう。ハロルドが命を落とし……。シェルシが……イスルギが命を落とした。多くの仲間が死にすぎた。うさ子は涙をごしごしと両手でぬぐいながら振り返る。そこには血塗れになりながらなんとかミュレイを助けようとしているメリーベルの姿があった。
ここにいても邪魔になるだけだと、うさ子は肩を落として医務室を後にする。外に出るとそこには疲れた様子の昴の姿があった。昴は壁に背を預け、座り込んで片膝を抱えている。うさ子はその隣に座り、膝を抱えてしょんぼりと耳を落とした。
「ごめんね、昴ちゃん……。うさ……みんなを守れ無かったの……」
「うさ子のせいじゃないよ……。ううん、誰かのせいじゃない。私たちだって覚悟はしてたんだ……。誰かを失う事になるって事くらい……」
「…………。シェルシちゃんも……ハロルドちゃんも……イスルギ君も……死んじゃったの……。うさ……うさね、大事な人たちが殺されちゃうのを、見てる事しか出来なかった……」
「うん……」
「ホクト君……。ホクト君にはもう……逢えないのかなぁ……? ホクト君はもう……うさたちの知ってるホクト君に、戻ってくれないのかなぁ……?」
昴は目を瞑り、それから静かにホクトの事を想った。そう、誰かが悪かったわけではない。だがもっと早く自分があの場に駆けつけていれば……そんな後悔を消せるはずもなかった。昴は苦しい心を押し殺し、笑顔を作ってうさ子の頭を撫でる。それは彼女の、今の彼女だから出来る強さだった。
「私がきっと、ホクトを取り返してみせるよ。今度こそ……必ず」
「昴ちゃん……はうぅ……」
ぷるぷると小刻みに震え、涙を流すうさ子。その身体をそっと抱きしめると、うさ子はずっと我慢していたのか子供のように大声を上げて泣きじゃくった。うさ子に釣られてか、昴の目からも涙がこぼれた。本当は悔しくて、悲しくてたまらないのだ。誰だってそう、同じなのだ。こんなにも……こんなにも、世界が悲しみに満ちているのだから……。
「さあ、うさ子も医務室で寝てないと。うさ子だって死にそうになってたんだからね」
「……うさ、へいきなの……。うさ……みんなのお手伝いがしたいの……。うさにもね……こんなだめなうさでもね……。何か、出来ることがあれば……お手伝いしたいの」
「……そっか。それじゃあロゼの所に言って、手伝える事が無いか聞かなきゃね」
「はううっ! 昴ちゃん……ありがとうなの。昴ちゃんも……無理しないでね? なでなで……」
うさ子に頭を撫でられ、昴は驚いた表情を浮かべた。それからやわらかく微笑み、涙を一筋こぼして頷いた。とぼとぼと、元気のないうさ子の背中が遠ざかっていく……。昴はそれを見送り、拳を鋼鉄の壁へと思い切り叩き付けるのであった。
「……守ってみせる……。今度こそ……絶対に……っ」
ガルガンチュアはエデンの空を飛んでいく。絶望と、失望と、悲しみに彩られた空を……。どこまでも……。この世界が終わる、その時まで。どこまでも――。




