合鍵
出掛ける準備を終えて、ラグにぼんやり座りながら束の間の時を過ごすうちふと心づいて身をねじるように振り向くと、清潔な白壁にぽつんと満月の如く浮かぶ茶縁に白の表面が爽やかな掛け時計の針は折から午後五時をまわったところなので、玲奈は「よし」と一声自分にかけて静かに立ち上がりハンドバッグを片手に鏡台へ進むと、手透きの片手の指先でいつも始めたら切りがない前髪の配置にまたぞろ夢中になって時を費やす間もなく珍しくも満足せぬ先から早切り上げてハンドバッグを開き、鍵を取り出すとするする歩むまま部屋の照明をパチンと消して玄関でローテクスニーカーの紐をほどいて足をいれ、丁寧に結び直すと傍らの鏡をむいて薄闇のなか再び前髪を整えるかと思うと一つ笑顔をつくって「よし」と独りうなずくとひらり表へ出た。
駅へと向かう道のり、通行人もまばらにしんと静まり返る郊外の道を折から過ぎ去る自動車にその静寂を破られる折々、玲奈は何心なく振り返ってみるその度毎に、高低様々な家並みの遥か遠くへ傾き始めてこちらを射る太陽と目が合って覚えず足早になるうちいつか額にじんわり汗が噴き出してくるので、俄に足を緩めてもなお汗はやまない。かえってひどく流れ出るような気さえするのですたすた歩み出したその横合いから爽やかに吹きなでる俄の涼風。玲奈は快さにおのずと立ち止まって風に面を吹かせていたのも束の間、ぱったり風の凪ぐと共に再び歩みを運ぶうち、住まいの近さは嬉しい事に間もなく駅に着いて改札を抜けホームで待つ程もなく到着した電車に乗り込むと、席はぽつぽつ空いてはいるものの知らぬ人の隣に腰掛けるのは避けて吊革に掴まりそれへ身を半ば預けながらふーっとかすかに息をつくと共に、今更のように初めて大輝へ想いを馳せた。
明日の夕方訪ねると昨夜のうちに連絡しておいて、直前の通知は抜きに出て来たのだけれども、大輝はちゃんと家で待ってくれているだろうか。いなければいないで合鍵で開けてしまえばいいものの、それはそれで寂しくて辛い。その不安の念と共に、どこか浮き立ちもするので、早く着いてくれないかしら、と急き立つ心を今はもう静めるため、窓越しに郊外の町並みを見下ろすそばから流れ過ぎる風景は何一つ玲奈の胸をとらえはせず、すぐに想いは大輝へ移って目はぼんやり吊革片手に、片手はハンドバッグの肩紐を握りしめながらたったの三駅を途方もない距離に感じる一方胸膨らませ心躍らせ遂にアナウンスが響き扉の打ち開くのを待って独りホームへ降り立つと、玲奈はつかつか階段を下りるまま改札を抜け南口を背にせかせか歩むうちには駅前のささやかな賑わいとそれに続く閑静な家並みも何らの情趣を惹き起こさぬが如く、ずんずん脇目も振らず進むまま最後に細道へ折れるや否やすぐさま愛しの住まいが見えた。
玲奈は少し足を緩めながらそれでもすぐにドアの前に着くと大きく肩で息をしたのちチャイムを押した。
しばらく待っても出ないので、今一度呼吸を整えてもう一度指先に押すと、ひっそり過ぎ去る時に乗じてむやみと襲いかかる悲しみにうながされるまま玲奈は夢中で合鍵を探って差し込み回すと、静かにドアを引いた。
静まり返る薄闇の中こちらへ向かう確かな足音が聞こえて来るやたちまち胸静まり心浮き立って、
「玲奈だったの。勧誘かと思って」
そう言い訳するように言いながら自分のもとへ向かう恋人の遅々とした足取りを早待ちきれぬ玲奈は腕を広げて指をひらきあごを心持ち上げて唇を突き出すと目をつむった。
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