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愛でし月、緋く響きて紅く結びぬ。

愛でし月、緋く響きて紅く結びぬ 弐

作者: 愛都

魔物退治なお話其の弐 です。




 ――――世は戦国。

 戦が日常と化しつつあるこの世の中で、人々の怨嗟は当然のものとして溢れかえっている。

 怨嗟は、――憎しみは、負の感情は、世に蔓延る魔物の大好物である。戦乱の世が続けば続く程、広まれば広まる程、魔物の存在も大きくなる。

 人間の負の感情を喰らい、月に妖力を貯めて、月の光を浴びて、その力を増していく魔物。その中でも、月の影響が強く、人々に害を為すものを総称して、都鬼という。

 月は、都鬼の化身。

 逢魔ヶ刻に姿を現し、暁には姿を消す、人ならざるもの。

 忌むべきそれらを認視し、滅する力を持つ者が、在る。緋い瞳を持つ彼らは、都鬼を見るが故に、こう呼ばれる。

 緋眼たる鬼姫、と。





 京の都。

 華やかなる、絢爛の舞台。

 しかしその実態は、陰謀渦巻く闇の舞台。政を握ろうと、人々の思惑が飛び交う。国の裏側など、所詮そのようなものだと言ってしまえばそれまでなのだが、その為に、負の感情も何処よりも多く渦巻いている。

 魔物の好物を大量に生み出す、都。

 都人は知っていた。魔物が実在することを。

 だから都人は、夜通し宴を催す。煌々と火を焚いて、灯りが絶えないようにする。明るく騒いで、魔物が寄って来れないようにする。

 それでも、近づいてくる魔物がいないとは言い切れない。特に、女は狙われ易かった。

 陰の気を持つ、月。

 都鬼の化身たる、月。

 ゆえに、陰の気の象徴たる女は、弱った魔物の絶好の獲物と言えた。

 夜も更けると、都人は女たちを家の奥へと隠す。見つからないように。狙われないように。

 姫は、緋眼。

 鬼姫は、おにひめ。

 音や字面の似通う存在である娘たちが魔物の餌食にならぬよう、今日も庭は炎に照らされ、ある種の結界と化していた。





 時の左大臣邸。

 どこよりも豪華絢爛で広大なこの邸は、やはり、どこよりも煌々と庭を照らしていた。

 左大臣には、愛娘が二人。

 二人の姫が何よりも可愛い左大臣は、常日頃から、娘たちに言い聞かせ、女房たちにも厳重に言いつけていた。

 日が暮れた後には、決して邸の外に出ないように、と。

 特に好奇心旺盛な下の姫は、昼間もちょっとしたことで庭におりようとして、乳母を困らせていた。乳母曰く、まるで若君であるかのように活発、とのこと。

 左大臣の娘たる者が、軽々しく下々の者に顔を見せるではない、と口を酸っぱくして言っても、どこ吹く風。二の姫の好奇心は留まることがなかった。




 二の姫の暮らす対の屋では、今日も女房たちの噂話が絶えなかった。

「姫様、ご存じですか? また都の外れで騒ぎが起こったようですわよ」

 女房たちの中では若い、近江が、口も軽く二の姫に声をかける。

「まあ、騒ぎ? 近頃多いわね。どんなことがあったの?」

 持ち前の好奇心を発揮した二の姫は、古参の女房や乳母に睨まれているとは判りながらも、近江の話に耳を傾ける。

「どうやら、異形が現れたようですわ」

「……異形?」

 とは、いったい何のことを言うのだろう。一口に異形、と言っても色々なものがありすぎて、それだけでは判らない。

 二の姫は、目線で次を促した。

 近江は、こちらも二の姫に負けず劣らずの好奇心で以て、仕入れた噂を披露する。

「なんでも、人の形をしているのですって」

 曰く。

 都の外れの大路に、一人で佇む人影があったらしい。何をしているのかと或る人が近づくと、その人の形をしたものは、髪と瞳が黒ではなく明るい色で、肌も、どこぞの美姫よりも白く美しかった。着ているものも馴染みがなく異国のもののようで、この世のものである筈がないと思ったその人は、一目散に駆け帰ったのだそうだ。

 人の形をした、似て非なるもの。

 だから、異形。

「でも、美しいのでしょう?」

 話を聞いた二の姫は、無邪気に言う。

「わたくし、会ってみたいわ、その人に」

 周囲にいた女房たちが、ざわめきだす。

「何を仰ってるのですか、姫様?」

「そのような危ないものに会うなど、馬鹿らしい考えはおやめください」

 当然といえば当然の反応に、二の姫はそれでも食い下がる。

「会ってみたい、とは言ったけれど、会いたいとは言ってないわ、わたくし」

 屁理屈なのは自分でも解った上で言っているのだが、だからこそタチが悪い。二の姫は、なおも続ける。

「自分から会いに行くわけではないし、会ってみたいくらい言ったっていいじゃない」

 笑顔で言い募るが、乳母はそれくらいでは引き下がらない。会ってみたい発言で険しくなっていた眦をけっして、乳母は言う。

「姫様がそのように仰るときは、何かしら悪だくみを考えておいでだというのは判っているのですよ」

 赤子の頃から面倒を見てきた乳母の言うことには逆らえないのか、さすがの二の姫も沈黙する。だからといって諦めた訳ではないということも、乳母には解っていた。

 先手を打って、若い女房たちに言い含める。

「皆さん、姫様はどうやら危のうことを考えておいでです。姫様が無茶をなさらぬよう、皆さんでしっかり見張り申し上げてください」

 それから、と今度は近江に対しても続ける。

「貴女も、姫様に下らないことを吹き込むのはおやめなさい」

 二の姫の発言の発端を作った近江は、暫く二の姫付きから外れるようにと、古参の女房から言い渡される。

 せっかく、楽しい話を運んでくれる女房だったのに。

 他の女房たちも近江と同じくらい噂好きではあるのだが、如何せん他の女房とは年が離れすぎている。それゆえに、興味のある話題がなかなか出てこないのだ。

 その点、近江は年も近いし、乳母に一度や二度睨まれたくらいでは話を途中でやめたりしなかったし、二の姫の好奇心を満たすには好い話し相手だったのだ。

 年嵩の女房たちの話す噂といったら、どこそこの公達とどこそこの女房が恋仲になっただとか、殿のご友人と女房が密会しているのを見ただとか、そんな話ばかりだった。

 今年、数えで十二になる二の姫だったが、未だ色恋の経験は無く、縁談も親が勝手に決めてしまう身としては、他人の恋話に興味を持てなかった。

 単純に、その手の話に疎いだけなら良かったのだが、二の姫の興味は別の方向へとしっかり向いている。

 よくない傾向ではあったが、誰も、二の姫の奇癖を止めさせることの出来る者はなかった。



 その日の晩のこと。

 二の姫は、御簾のうちから、ぼんやりと庭を眺めていた。どうやら今宵は望月であるようで、普段は篝火から離れていて見えないところも明るく、灯を焚くことがもったいないと思えた。

 ……どうして、殿方はこんなに綺麗な宵にまで灯を燈すのかしら。

 毎晩のように宴をやるのは構わないのだけれど、このような日くらい、いつものような馬鹿騒ぎでなく静かな月見酒でもよいのではないかしら。

 西の対に面する庭からは、いつもと同じ、笑いと叫びが微かに聞えてくる。稀に煩く、下品だとも思う男たちの宴。

 父や兄は雅なものだと言っているが、あれが雅だとは、二の姫にはどうしても思えなかった。雅だと言うなら、望月を愛でるくらいしたってよいではないか。物語では、男女が共に月を眺めて美しさを囁き合っていたりするのに。

 二の姫は知らなかった。

 月は都鬼だということを。

 左大臣は娘を溺愛するあまり、恐ろしいものには関わらせまいと、肝心なことは全て伏せてきた。ただただ、外には出るなと、特に陽が沈んでからは御簾の外に出ることすら許さないと、それだけを強く言い聞かせてきた。

 月が女にとってどういうものなのか、二の姫は知らない。

 都鬼がどういうものなのか、知らない。

 だから、思った。

 ――殿方が今宵の月を独占するのはずるいわ。

 わたくしたち女は、いつだって御簾のうちからしか見れないというのに。

 ……庭から月を眺めてはだめかしら。

 都鬼の何たるかを知っている者であれば、確実に考えもしないであろうことを実行に移そうとする。

 父上の言いつけだから、と今まで守ってきたけれど、一度くらい大丈夫よ。

 二の姫は、周囲に誰もいないことを確認して、そろそろと立ち上がった。寒くないように袿の胸元を掻き合わせた。御簾に手を触れて、庭にも人がいないことを確認する。

 御簾を静かにめくって、高欄のもとまで行く。殿方に姿を見られたりするのだけは避けたいという理性が働いたので、すぐに戻れるように庭には下りなかった。

 初めて見る、御簾越しでない月は、とても清廉で美しく思えた。

 ……殿方って本当にずるいわ。こんなに綺麗なものをわたくしたちには見せてくださらないなんて。

 耳には、先程と変わらず、西の対からの宴の音が聞こえてくる。いや、先程よりも騒がしいだろうか。

 あれだけ盛り上がっているのなら、父や兄がこちらに来ることはあるまい。

 二の姫は、高欄に身体を預けて月を見上げた。

 なんて綺麗なのかしら。

 白く冴え冴えとした光は、まるですべてを浄化してくれるようだ。

 二の姫は、月の光に見惚れていた。魅入られたかのように、一心に月を見つめている。

 だから、気付かなかった。

 西の対から聞こえてくる騒ぎが、宴の盛り上がりのそれではないことに。

 耳を劈くような悲鳴で、我に返る。

「なに……」

 何があったの、と女房を呼ぼうとして、御簾の外にいることを思い出した。このままでは叱られてしまう。

 ひとまず、女房がやってくる前に御簾のうちに入ろうとして、視界に触れたものに、思わず足が止まる。

 庭の片隅に、赤く、光るもの。双眸のように、二つ。

 目が合った、と二の姫が認識したときには、もう動けなかった。足が縫い止められたかのように、重い。

 赤い目のようなものを持った、黒い塊。

 獣のような形をしているが、そうでないのは一目で判る。だって、四つ足ではないし、口もない。赤いものも、目なのかどうか怪しい。

 存外に冷静に観察している自分にも驚いたが、如何せん足が動かない。しかも何やら、うすら寒い。

 自分を抱くように腕を回すと、身体が震えていた。

 ――コワイ。

 恐怖が漸く脳内を席巻して、立っていられず座りこむ。

 自覚した恐怖は、二の姫の思考を混ぜくった。

 いったい何が起きているのか。判らなくても、解る。ここにいては危険だと、本能が告げている。逃げなくては、と思うが、手足はまともに動かず、思考ばかりが空回りする。

 がさり、と音がする。

 ぎこちなく首を巡らせると、黒い塊が近づいてくるのが見えた。

 だめだ、逃げなくては。

 アレがどういったものなのかは判らないが、このままここにいてはいけない。

 先程、女房に叱られる、と思ったことさえ忘れて人を呼ぼうとしたが、張り上げたと思った声は掠れて、音にすらなっていなかった。そのことに更に恐怖して、混乱する。

 黒い塊が、徐々に接近してくる。

 アレが何物かは判らないけれど、それでも、アレに触れたが最期、命を奪られる。そう、感じた。

 先程と同じようなことを思ったけれども、身体は思うように動かない。

 もう、どうすればいいのかなんて、判らない。

 二の姫は凍りついた目で黒い塊を凝視したまま、呆然とその場に居座った。

 だれか。

 だれか、きて。



 目も瞑れずにいた二の姫の視界から、黒い塊が失せる。

 代わりに、見覚えのある袿の柄が目に入った。

 辛うじて機能していた聴覚が、女の声を拾う。

 何を言っているのかは、聞き取れなかった。しかし、自分以外の誰かが現れた、ということが二の姫に安心をもたらした。

 ふいに体中から力が抜けて、後方の壁に背がぶつかった。

 音に反応したのか、女が、二の姫を振り返る。

 ちらと見ただけでそのまま正面に向き直ってしまったが、二の姫には見覚えのある貌だった。

 女房の――、

 ……誰だったかしら。

 近江と一緒にいるのをよく見かけたけれども、名を聞いたことはないように思う。

 だが、知っている者が現れただけで十分だった。

 恐怖が去ると、持ち前の好奇心が頭をもたげてくる。二の姫は先程までの脅えなんてすっかり忘れて、女が対峙するモノが見えるように、少しだけ伸びあがって、女の前方を覗きこんだ。

 二の姫は、はっと驚く。

 黒い塊だった筈のものが、いつの間にか、黒い靄に姿を変えていた。





 女は、二の姫を顧みたときの表情を思い出した。

 血の気は引いていたけれど、驚いた表情をしているだけで他は大丈夫そうだった。気丈な娘のようだ。

 負の感情を持つ者がこの場にいないことは、女にとって有難かった。

 気絶する心配はないだろうと踏んで、目の前のモノに集中する。

 最初の詠唱で、魔物の実体を保っていた力を散らした。今は靄となり果てているが、それでもまだ、人に害を及ぼす程度には力を持っていた。

 女は、次の詠唱を始めた。

 楽の音の調べのようなそれは、聞こえるか聞こえないかぎりぎりのところで発せられ、次第に大きくなっていく。歌を詠むかのような、朗々とした声が、辺りに響く。

 うっとりと聞き惚れてしまいそうな、そんな声だった。

 二の姫は文字通り聞き惚けて、靄の存在などそっちのけでぽかんとしていた。

 だから、気付かない。

 白々と輝いていた望月が、緋く染まってきていることに。

 庭中が、緋い光に包まれていることに。

 女が、一旦詠唱を止める。黒い靄は、生き物ならまるで痙攣しているかのように震えている。

 緋い光が凝縮されて、黒い靄に絡みつく。

 女は着物の袂から、料紙を取り出した。ふっと息を吹きかけて、正面に掲げる。

 最後の詠唱を口にしようとした瞬間、靄が唐突に暴れ始める。死なば諸共、と言わんばかりに二の姫目がけて飛び出す。

 瞬時に判断した女は、背後の二の姫を抱えて横に飛んだ。

 凄まじい力に、二の姫は呆然として開いた口が開かなかった。

 なにしろ、姫君や女房たちの着る装束は、重いのだ。軽く見積もっても、赤ん坊の一人分は超えているだろう。それなのに、それを身に纏ったまま、同じ装束の二の姫を抱えて、尋常ならざる動きで飛んだのだ。

 二の姫は幾度か殿方たちの行う模擬試合というものを見たことがあったが、その際に刀で競い合う殿方よりも、格段に機敏な動きをしていた。

 華奢な身体をしているのに、いったいどこにそんな力があるのか。

 二の姫には不思議でたまらなかった。

 そうやって二の姫がぽやぽやしている間に、女は二の姫を下ろして、簀まで入ってきてしまった靄に改めて向かう。

 先程、袂から出したばかりの料紙を再び掲げて、響く声で詠唱する。しかし、歌を詠むような優雅さは消えていた。堅い声音が、押しつけるように響く。どこかで聞いたことのある響きだと思ったら、父左大臣が命令するときの声音と似ていた。

 薄っぺらい料紙が、鋭く靄に向かって投げつけられる。

 靄に貼りつく、というのも可笑しな表現だが、そうとしか言いようのない状況で、料紙はぴたりと止まる。

 女は詠唱を続けた。

 澱みなくそれは続いて、瞬く間に靄が消えていく様子が見て取れた。それも一瞬だけで、代わりに閃光が目を灼く。

 二の姫は反射的に目を閉じて、それでも瞼越しに感じる光に、少々の恐れを抱く。

 女は目を開いたまま、靄もとい魔物の最期をしっかりと見据えた。女の視界で、靄は光に包まれて玉となり、料紙に吸い込まれるように消えていった。

 白かった筈の料紙が、まるで墨を拭き取った反故のように真っ黒になっていた。

 女は黒くなった料紙を拾って、懐に収める。


「任務完了」


 呟いた声は、しかし二の姫の耳には届かなかった。

 眩んだ目から漸く解放された二の姫が顔を上げると、目の前には、袿だけが残されていた。女がいない。

 慌てて首を巡らすと、庭に下りた女の姿があった。

 いったいなにが起きたのか、さっぱり理解出来ていない二の姫は、とにかく訊かなきゃ、という思いに囚われて、声を上げた。

「……待って!」

 袿を脱ぎ捨てた女が、足を止めてのっそりと振り返る。

 その双眸は、――緋。

 すっかり元通り白く光っている月と対照に、緋く耀っていた。

 先程の黒い塊を思い出してぞっとする。助けてくれた筈の女に、唐突に恐怖が湧いてきた。呼び止めたはいいが、次の言葉が出てこない。

 二の姫のその様子に気付いたのか、ふっと微笑んだ女が、ゆっくりと近づいてくる。

「……如何しましたか、二の姫さま」

 その声が優しく、あまりにも温かく響いて、二の姫は泣きそうになってしまった。

 涙を堪えるほど出来がいいとは自分でも思っていない二の姫は、手の届くところまで女が戻ってきたところを掴まえるように、女の装束にしがみついて泣きだした。



 二の姫が泣きやんだのは、四半刻程経ってからだった。




「ごめんなさい……突然泣いちゃったりして」

「いいえ、無理もありませんし」

 涙を拭う二の姫の頭を撫でながら、女はそう言った。

 改めて、助けてくれた女を見る。

 遠目から見ていたときには思わなかったが、この年齢の女性にしては珍しく、髪が短い。短いとは言っても腰ほどの長さはあるし、女の実際の年齢も知らないから一概にそうとは断じれないのだが。

 髪といえば、黒髪だとばかり思っていたのに、月の光を浴びた女の髪は明るく、こんな髪の色は見たことがなかった。

「……でも、着物、汚しちゃったもの。貴女、うちの女房でしょう? 他の者には言っておくから、新しい衣を仕立てなさい」

 女房の主として、また、恩人に対する者として当然のことを口にすると、女は綺麗な貌をぽかんとさせた。

 そう、綺麗なのだ。とても。

 世間で評判の姫君ともお友達だが、彼女たちよりも綺麗だし、大勢の殿方から求婚されている姉上も、ここまで綺麗じゃない。

 そう認識すると、緋い瞳も綺麗な貌を彩る玉飾りのようで、女は天女の化身なのではないかと勘ぐってしまいそうだった。

 その女がそういう表情をすると、なにやらとても幼く感じられて、二の姫はちょっとだけびっくりした。

 しかし女はすぐにその表情を引っ込めて、うっすらと微笑む。

「……どうして、そうだと?」

 質問の意を掴めなくて、二の姫は答えに戸惑う。

「どうしてって……誰かの着物を汚したなら新しいのを用意するのが誠意でしょう?」

「いえ、そちらではなく」

 女は一旦言葉を切って、改めて言う。

「私が女房だと、どうして思われたのですか」

 どうしてと言われても。

「近江と一緒にいたでしょう? だから貴女のこと、女房だと思ったのだけど……違うの?」

 ああ、乳母が来たら新しい衣を用意してあげて、って言わなきゃ。

 それにしても、誰も来ないわね。宴の方でも騒いでいたようだから、そちらにかかりっきりなのかしら。

 でもこういうときは、一人でも女房が事情を知らせに来るものだけれど。

 二の姫があれこれ考えているうちに、女は西の対の気配を探った。どうやら、騒ぎは収拾したようだ。

 これでもう、この邸に用は無い。

「二の姫さま」

「なぁに?」

 無邪気な顔が、無防備で憎らしい。女にとっては好都合なのだが、それとこれとは別だった。

 つい、と二の姫の頤に手をかけて、凄絶に微笑む。

「他人を疑う、ということを覚えないと、いつか痛い目を見ますよ」

 一瞬きょとんとした二の姫だったが、すぐに満面の笑みで答える。

「貴女のこと?」

「解っているなら……」

「大丈夫よ」

 女の忠告を遮って、二の姫は言い募る。

「貴女、とっても綺麗なんだもの。悪い人の筈がないわ」

 女がまた、あの表情を見せる。ちょっとだけ幼い、あの表情。

 やはりそれはすぐに引っ込んで、今度は苦笑気味に言った。

「……緋い眼でも?」

 都人なら誰でも、緋眼や鬼姫のことを知っているだろうという前提での問いだったのだが、生憎二の姫はその類の話は一切聞かされずに育ってきた。だから、先程の黒い塊のことを引き合いに出しているのだと思った。

 だから、心の導くままに、答える。

「ええ。だって、貴女の緋い眼は綺麗だもの。まるで宝玉みたい」

 直後、御簾の内から女房たちの声がする。二の姫を呼んでいる。

 いけない。このままでは怒られる。

 とにかく早く、聞きたいことを訊いてしまわなければ。

「ねえ、さっきはいったい何が起こっていたの? 教えて貰える?」

 あまりに無垢なままの二の姫の言葉を聞いて、女は何かを察したのか、にっこりと微笑む。優雅に。美しく。

「……鬼姫のことを知らないお姫様には、まだ早うございます」

 そして、唇を優しくつつかれる。

 それはまるで、子どもを諭すときの仕種そのままで。

「わたくし、そんなに子どもではないわ」

 子どもそのもののように口をとがらせて反論する二の姫を残して、女はひらりと高欄を飛び越えた。

 すぐに、二の姫の背後の御簾が上がる。

「! 姫様!」

 気付かないふりをして、二の姫は女を再び呼び止める。

「待って」

 今度は女は足を止めなかった。綺麗な貌だけをこちらに向ける。先程と同じように月の光を反射して、緋い眼だけが妖しく耀る。

 でももう、二の姫は恐くない。

 ただ、それを見てしまった女房が、ひッと声を上げて、女は口元を歪める。

「真っ白な姫君。何物にも汚されずにそのままでいられるのでしょうかね」

 それだけ言い残すと、庭の奥の築地をひらりと飛び越えて、夜の闇に消えていった。

 まったく、彼女の身体能力はどうなっているのだろう。

 二の姫がそう思っている間に、腰を抜かしかけた女房が駆け寄ってくる。

「姫様、あれほど外に出てはいけないと……!」

「先程の者はいったい何者ですか。怪しい者と声を交わしたりなどして呪われたりしたら如何なさるおつもりですか!」

 五月蝿い小言が背後で繰り出されるが、二の姫は丸無視した。

 そうだ、肝心なことを言っていないではないか。

 はしたないと言われることを覚悟で、二の姫は叫んだ。

「助けてくれて有難う!」

 その言葉に、女房たちが更に血相を抱える。どういうことだ、助けられるような危険な目に遭ったのか、見知らぬ者に助けて貰ったのか、と様々な質問が飛び交う。

 予想よりも姦しい女房たちに、二の姫はうんざりした。早々と話題転換する。

「ところで、西の対は何が起きたの? あちらの様子はさっぱり判らなくて」

「ああ、鬼が出たんですのよ」

 二の姫から外された筈の近江が単刀直入に答えて、他の女房たちは閉口した。

 これだから近江は!

「鬼? 何、それは? もしかして、黒い塊のことかしら?」

「いえ、黒くはありませんでしたよ。土色で、濁った水みたいな目をした、醜い人型のものでしたわ」

 冷静に、というか寧ろ喜々として語る様子から、本当に近江はこういった話が好きなのだと痛感する。

 そういえば。

「ねえ、近江」

「なんでしょう」

 先程の女。確か近江と一緒にいた筈だ。

「いつだったか、近江と話していた方がいたでしょう? 髪の短い」

 結局、女房なのかそうではないのか、聞けないままに去ってしまった。しかし、口ぶりから察するに、おそらく女房ではないのだろう。

「あの方、どなたなのかしら」

 すると、近江は沈黙した。

「……近江?」

「――どちらの方のことを仰っているのでしょう?」

 知らない、と言ったも同然だった。

 そんな筈はない、と続けようとして、近江が顔を寄せてくる。

「黙秘事項ですので大きな声では申せませんが、鬼退治専門の者とでも思って下さい」

 ――鬼退治。

「それから、わたしも」

 え、と思う間もなく、近江が庭へと飛び出す。

「?! 近江?」

 突然の行動に、誰もが疑問を浮かべる。

 近江は先程の女と同じように、凄絶に笑んだ。

「よかったですわね、姫君。会ってみたいと仰っていた異形に会えましたわよ!」

 それだけ言い残して、忽然と庭から姿を消した。

 あまりのことに、対の屋が騒然とする。気を失う者もいた。

 しかし二の姫は、呆然としたものの、持ち前の好奇心を発揮させた。

 いったいどうしたらあのようなことが出来るのだろう。

 純粋な二の姫は、興奮した面持ちで庭を見つめた。





 走り去った女が身を隠した橋の下に、近江は姿を現した。

「ひめさま」

 そう呼ばれた女は、近江の姿を認めて、溜め息を吐く。

「……やはり貴女も、あの姫君に何か言われたの」

「ええ。純粋過ぎるのも、恐ろしいものですわね」

 怪しい他所者と話していたなんて左大臣に知られたら、即刻首を切られるか、そうでなくとも何かしらのお咎めを受けることは間違いない。

 だから、そうなる前に、邸を出てきた。

 また、別の鬼姫を新しく女房として送り込まねばなるまい。

「私はまた別の任務があるから行くけれど、貴女はどうするの?」

「名前を変えて、別のお邸に参りますわ。鬼姫なんて、慢性人数不足ですし」

 緋眼たる鬼姫。

 彼らは、最も魔物が出易い都には、常駐する者を置いている。そして兆しがあったら、討伐の任についている者が呼び出されるのだ。今回のように。

 そして、討伐者は、その度に行脚中の各地から呼び戻される。

 それぞれの能力に見合った役目が、割り振られている。

 それにしても。

「ひめさまも大変ですね」

 遠距離異動ばかりで。

「そりゃあね。〝月緋愛つきひめ〟の名を冠すのだもの」

 当然のことだ、と答える女は、女房装束を全て脱ぎ捨てる、その下からは、人々からは異国のもの、と称されることもままある、討伐専任の緋眼の戦闘服。

 近江は、くすくすと笑った。

「どうした?」

「いえ、緋愛さま、都に着いてすぐ、その格好を都人に見られたでしょう?」

「そうだったね」

 あれは、しくった。

 黄金色の髪を隠す間もなく、目撃者は逃げ出した。

「邸に来た商人が噂を置いて行って。二の姫に話してみたら、何と言ったと思います、あの姫君?」

 訊いておいて、答えを待たすに近江は答える。

「会ってみたいって言いましたのよ、あの姫君」

 ひめさまに会ってみたいなんて、そこらの姫君なら絶対言わないと思うと面白くて、と近江は笑う。

 確かに、そうだ。

 緋眼や鬼姫のことを少しでも知っている都人なら、いや、知らなくてもこの容貌を聞いてわざわざ会おうとする者はいないだろう。

 手拭いを川の水に浸して、女は髪を拭う。

 漆黒には染まりきらなかったが、染めないよりはマシだろう、と黒い染料をつけていた髪は、忽ち黄金色を現した。

「やっぱり、ひめさまの御髪は綺麗ですわ」

「……ありがと」

 ――貴女、とっても綺麗なんだもの。

 二の姫の言葉が思い出されて、思わず顔が弛む。

 空を見上げると、そろそろ、望月が天頂に昇ろうとしていた。

 女は、橋の下に隠していた外套を羽織る。すっかり黄金色に戻った髪を、一つに束ねる。

 準備が整ったところで、橋の向こうに斥候の姿が現れる。

 斥候は、何処にでもすぐに行けるように、また、緋眼をすぐに運べるように、近江と同じ能力を持った者が多い。今回の斥候もそうだった。

 片手を上げて合図を送る。

 近江は、女と距離を取った。

 斥候が、女の隣に出現する。

緋紅ひこさま、お迎えに上がりました」

「ああ、よろしく頼む」

 答えるその声は、もう女性の声ではなく、少年の声。勿論、その肉体も。

 驚いた様子もなく、近江は彼を見送る。

「では、ひこさま。またお会い致しましょう」

「ああ、また」

 そして、斥候に連れられて姿を消す。

 次は、いったいどこに魔物が現れたのか。



 この世から魔物が消えない限り、緋眼たる鬼姫は、立ち止まれない。

 ひたすら、先に向かって、進み続けるのみ。








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