第9話 謁見
がらんとした広い部屋の真ん中に置かれた大きなベッド。
部屋の壁は城の壁面と同じ薄茶色の石壁。
小さな窓からは白いレースのカーテン越しに夕日が射し込んでいた。
魔族の生活様式も人間とそうは変わらないものなのだろうか?
木製の枠にスプリングが内蔵されたマットを置き、白いシーツを敷いたベッド。
柔らかい羽毛の掛け布団は、明らかに僕の家の物よりも上質だ。
そのベッドの上に僕は先ほどまで寝かされていたのか……
アリシアに蹴られたお腹の痛みを堪えながら、僕はゆっくりと起き上がる。
「あ、あの……アリシア……さん?」
僕はベッドの上に女の子座りしているアリシアに近寄る。
「こ、こないでぇぇぇ、ケダモノぉぉぉ――!」
アリシアは羽毛の掛け布団でガードするように手を広げて叫んでいる。
最初は冗談で言っているのかと思ったが、どうやら本気で怖がっているようだ。
魔族の王、魔王の娘にケダモノ扱いされている僕……
彼女は僕を性獣か何かと勘違いしているのだろうか?
「僕は何もしないよ? そんなことよりもミュータスさんたちはあの後……どうなったのかな?」
僕は両手を広げ、愛想笑いを浮かべながら、怯えるアリシアに尋ねる。
怖い……
最悪の結末を聞くのが怖い。
しかし、そんな僕の心配は杞憂であった。
「ああ、ユーキと一緒に乗り込んできたあの人間たちのことね。彼らなら身ぐるみ剥がして城から追い出してやったわ!」
「えっ、身ぐるみ剥がしてって……ミュータスさんたちは生きているの?」
「城から出た後のことは知らないわ。でもユーキとの約束はちゃんと守ったからね!」
アリシアはニッコリ笑った。
「僕との約束?」
「あら、覚えていないの? ユーキったら、『僕は弱き者の味方だぁぁぁー』って叫んだ後倒れたんだよ? そのあと、寝言みたいに彼らを殺さないでってアタシに言ってくるから、分かったよって約束したんだけれど……」
そんなことがあったとは知らなかった。アリシアは僕との約束を……
うーん、しかし倒れた後の記憶がないのはいささか不安ではある。
「さあ、そんな話はどうでもいいわ! すぐに行くわよユーキ!」
急に何かを思い出したように、アリシアは僕の手を握り強引に引っ張っていこうとする。そのとき、アリシアの手がぬるっとして思わず僕はその手を払った。僕の手の平にべっとりと血糊が付いていた。
「あっ……」
僕の反応に目を丸くしたアリシアは、改めて自分の手を見る。アリシアの手のひらにはべったりと血糊が付いている。それをまるで手を洗ったもののハンカチを忘れた人みたいに黒いドレスの裾で拭いて、
「えへへ……」
と照れ笑いのような表情になった。
僕は急に不安を覚える。
「あの……ミュータスさんたちは本当に無事に……」
「ユーキはアタシのことを信用していないの? アタシは人間共みたいに卑怯なことはしないわ。アタシは――」
アリシアは悲しそうな表情で胸に手を当てて目を伏せる。
桃色の甲冑を外し黒色のドレスに着替えている彼女は魔族とは思えないほど、まるで人間の女の子のように見えた。
「ごめんアリシア……さん。僕はまだ血を見るのに慣れていなくて慌ててしまったんだ。本当にごめん!」
僕は頭を下げて謝った。
大量の血を見たのはマリーのナイフが男を切り裂いたときが初めて――
そして魔王城の中で魔族の兵士が斬られていく場面が2度目だ。
「いいわ、許してあげる! じゃあ、行くわよ!」
アリシアはまるで小動物のように機嫌がころころと変わる。
僕は彼女に手を引かれ部屋を出て行く。
「アリシア……さん、どこへ行くの……かな?」
「お父様がユーキと話をしたいって!」
「まま、ま、魔王がぁぁぁ――!?」
アリシアに手を引っ張られて城の通路を歩いていると、あちらこちらから魔族の兵士のつぶやきが聞こえてくる。
「おおっ、救世主様のお通りだ……」
「あのお方が……我々の……」
「魔王様に謁見に向かわれるところか……」
どうやら僕は魔族の人たちにとんでもない誤解をされているようだ。
いくつものドアの前を通り過ぎると、玄関ホールに出た。
ここはミュータスさんたちが最初に大暴れした場所。
入口の扉は修復され、中も所々に残る血痕がなければ戦闘があったとは思えないほどに清掃されている。
ここから奥の魔王がいる祭壇の部屋までは細い通路が続いている。
その手前でアリシアが立ち止まった。
「ごめんねユーキ、あなた血が見るのが苦手なんでしょう? この先はまだ処理が終わっていないんだけれど……目を閉じていていいわよ。アタシがこのまま手を引いてあげるわ!」
「えっ?」
僕はアリシアの言葉がすぐには理解できなかった。
だから――
「さっきのは突然だったから驚いただけだよ。きっと大丈夫だから……」
僕は強がって見せた。
その直後に後悔することになる――
通路に横たわる多数の死体の数々。
それらを一体ずつ運んでいる生き残った兵士たち。
石の床に血だまりが出来て、兵士たちが歩くたびにぴちゃぴちゃと音がする。
「うっ――――!」
僕は吐いた。
血だまりになっていないわずかなスペースに手と膝を付き、胃液が出尽くすほどに吐いた。
「ユーキ、大丈夫なの? ねえ、ユーキ、気をしっかりもって!」
アリシアはそんな情けない僕に愛想を尽かすこともなく、背中をさすってくれていた。
「大丈夫ですかぁ、勇者さまぁー?」
「お体がお悪いんでしょうかぁー?」
あごに垂れた滴を手でぬぐいながら見上げると、仲間の死体を運んでいる兵士が2人、僕の顔をのぞき込んできた。黒いカブトの中は真っ黒で表情は見えないが、僕を心配してくれていることは分かる。彼らの仲間を殺したのはミュータスさん。その仲間のはずだった僕に、親切に声をかけてくれたのだ。
ふと僕は思った。
もしかして……
「魔族って、仲間が死んでも悲しいという感情をもたないのか……?」
僕はある種の嫌悪感をもってそう呟いた。この気持ちの悪い感情は魔族のせいであり、そんな彼ら自身は何とも感じていないとしたら……。でも、彼らがそんな感情をもたないとしたら、ミュータスさんの仲間として彼らを死なせた僕は、少し気が楽に――
「――――なわけないでしょう!」
「…………えっ!?」
アリシアの声が聞き取れなくて僕は聞き返した。
僕の前に立ち上がったアリシアは――
「仲間が死んで悲しくないわけないじゃない!」
アリシアの目から涙がこぼれていた。
ピンク色の薄くてふっくらとした唇が震えている。
僕は呆然と彼女の姿を見つめている。
彼女は死体の元へ歩み寄り、しゃがみ込み、
「この子はね、去年の春に近衛兵になった新人さんなの。人一倍努力して、やっと入隊できたんですっていつも自慢していたわ……」
そう言いながら、開いたままの瞼をそっと閉じさせた。
「この隣の人はね、城から3日ほどかかる小さな村に可愛い奥さんがいてね、もうすぐ2人目の子どもが産まれるって楽しみにしていたわ……」
ゆっくり立ち上がり、振り向いて僕と目を合わせ、
「でもそうやって感傷に浸っている訳にはいかないじゃない! 私たちは次の襲撃に備えて前を向かなければいけないの。だから――」
そこまで気丈に話したアリシアは、目をぎゅっとつぶり、背中を見せた。
これ以上涙は見せないという意思表示なのだと僕は受け取った。
「ごめん……」
僕は先ほどから謝ってばかりだ――
兵士の死体に触れてまた血糊が付いてしまった手をアリシアはドレスの裾で拭いて、
「お父様が首を長くして待っているわ、行きましょう!」
床に手を付いたままの僕に手を差し伸べ、僕に笑顔を向けてきた。
駄目だよアリシア……君にはそんな作り笑いは似合わないよ。
アリシアの本当の笑顔が見られる日は来るのでしょうか。
少なくとも次話はまだ見られません。