青空の下、草原にて
十メートルほどの距離を開けて二人は対峙する。
フィンは短剣を手には持たずリラックスして構える。対してエイファは腰に差してあった細身の長剣を抜いていた。
鞘と刀身が擦れて涼しげな音が草原に流れる。
その刀身はさながら薄氷のようであった。鋼以上の冷たさを思わせるそれは、武器という事を忘れさせてしまうほど美しい。
エイファはその剣を片手で一振りし、切っ先を下にして楽に構えた。
――さっさと気絶させてぎゃふんと言わせてやるんだから。
さっきからフィンに対して無性に腹が立っているエイファはこっそり魔力を焚き始める。
魔力とは魔法を使うための原料のようなものである。その魔力を己の意志によって燃やし、魔法として放出するのだ。
そして魔力は即ち生命力でもある。魔力が極端に減ってしまうと、その人の命も危うくなってしまう。そのため常人は無意識のうちに魔力に制限を掛け、生命の維持が出来る程度の魔力は本能的に残そうとするのである。
エイファは燃やした魔力を目に宿してフィンを見る。
――あれじゃぁ魔法は使えないわね。まぁそもそも使えるほうが少ないんだもの。彼が使えないのも無理ないわ。
エイファは勝利を確信しながら体に魔力を巡らす。足の先まで行き渡ったことを確認してフィンに声をかけた。
「いくわよ」
「いつでも」
まるで緊張感がないフィンの返事が終わると同時に、エイファは地面を蹴った。
エイファの踏み込みで地面が軽く抉れる。視界が急速に描きかえられる中、エイファはわずか二歩でフィンとの距離を詰めた。
フィンにはエイファがその場から消え、変わりに地面が爆ぜたように見えたことだろう。
高まった集中力によって世界の流れが遅くなる。重たい水の中にいる様な感覚にエイファは身を委ねる。
エイファが完全にフィンの懐に入る。
視界に映るフィンはまだこちらに気づいていないようだ。今からでは反撃はおろか回避だってできないだろう。そんな事を考えるくらいの余裕がエイファにはあった。
草を幾本か切りながら長剣が斜めに振り上げられる。
――このまま行けば腹をかっ裂くことになるけど、気にするものか。その時は治癒魔法で傷くらいは塞いであげる。
刀身がわき腹に近づき肉に食い込む。
――寸前で気がついた。
――自分の喉に短剣が突き刺さっていることに。
ぞわりと体が冷えた。
喉仏は完全に貫通し、気道も潰されている。まったく余計なことに、高まった集中力がエイファに傷の詳細を教えてくれた。
エイファの頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
短剣が引き抜かれる。が、痛みは感じない。しかし、冷たく優しい死の実感がそこまで迫っているのは確かだった。
――なんで。どうして。これが初めての外だというのに。これから冒険が始まると思っていたのに。
エイファは目だけを動かして短剣の先にいる人物を見る。そこには底冷えするほどの眼差しでこちらを見つめる青年がいた。
エイファの背中に一筋、冷たいものが走る。四肢から力が抜け、どうしようもない喪失感を抱えながらがくりと膝をつき、エイファは地面に伏した。
「うぐ……」
だらりと下がった両手は役に立たず、顔から地に落ちておかしな声が出る。
エイファは数秒の間我を忘れて呆けていた。
――……ん? 下に感じるのは地面だ。幸いにもまだ感覚は生きている。
さらに数秒経つ。
――……自分は死んだのではないか? 喉を貫かれて……。
と、エイファは首に手を当てるが風穴は開いていなかった。
ぺたぺたと触るっても傷はおろか血すら出ていなかった。
「大丈夫?」
エイファの上から声が投げかけられる。
ガバっと顔を上げたエイファの視線の先には心配そうに手を差し出すフィンがいた。
――死んで……ない?
「ひっぐ……うぐ……ぐすっ……」
エイファの中にあった死の予感が遠のき、生の実感が蘇る。安堵感から彼女はぽろぽろと涙をこぼした。それを見たフィンは慌ててエイファを抱き起す。
「どこか怪我した?」
フィンはそういいながらエイファの顔を覗き込む。エイファはその表情が心底腹立たしくて、その表情に心底安心した。
「うわぁぁぁぁぁぁん……」
恥も何も構わず泣き叫ぶ。
「死んだがど思っだぁぁあ……すごく怖がったよぉぉ……」
体に穴が開いたような喪失感の余韻がエイファの涙腺を緩める。
涙と鼻水と土汚れで顔をぐしゃぐしゃにしながらエイファは大口を開けて号泣する。
風にそよぐ草原には、泣き叫ぶエイファとそれを宥めるフィン、少し離れたところで何があったかわからずキョトンとしているゴートの姿があった。
エイファが泣き止んだのはここからさらに一時間ほど後の事である。
*****
宿舎の酒場で三人はテーブルを囲んでいた。
「すん……」
エイファが鼻をすする。目尻から頬にかけて涙の跡がくっきりついて目も腫れていた。
「落ち着いた?」
飲み物を差し出しながらフィンが聞く。エイファはそれを両手で受け取り、一口飲んでコクリと頷いた。以前とは比べ物にならないほどしおらしい。
「まったく……やり過ぎだっつの。お前に年下の女を泣かす趣味でもあったか?」
「僕にそんな趣味はないよ……」
椅子にドカッと腰掛けながらゴートは木のコップを仰ぐ。コップには葡萄酒が並々と注がれていた。
「……ごめんなさい。見苦しいところを見せたわ……」
エイファが静かに口を開く。
「もう大丈夫?」
「えぇ。試合は貴方の勝ち。煮るなり焼くなり好きにすればいいわ」
うやむやになったかと思っていたが、エイファは気にしていたようだ。フィンは「それじゃ遠慮なく」と言って。
「僕は君の教育係を降りる。変わりに君と組ませてほしい」
と続けた。
フィンの言葉にエイファはキョトンとして、ゴートは怪訝そうに眉を寄せる。
「実を言うと僕も教育係なんてできるとは思ってなかったんだ。ただ、冒険者になりたてのミーレスさんを手伝いたいとは思ったし、なによりシルビィさんとの約束があるからね。
だからミーレスさんとは教育係としてじゃなくて同じ冒険者として接したいんだけど……だめかな?」
――僕が人に何かを教えるなんて、そんな大それたことはできない。なにより教えられるようなものがない。それでも彼女と関わろうとするのはなぜだろうか。答えは決まっている。取り引きしたからだ。
フィンはこれがベストな選択だと考えた。
「まぁ約束は約束だもんね……」
エイファの顔には大きく「不本意だ」と書いてある。
「それと私と組むなら『エイファ』でいいわ。聞きなれていない呼び方をされると落ち着かないから」
「わかったよ、エイファ。それなら僕のことも『フィン』って呼んでほしい」
「気が向いたらね」
エイファが形の良い眉を寄せる。
「くくく……なんでそんなにフィンのことを嫌ってるんだい? 嬢ちゃん」
笑いを堪えきれなかったゴートが言う。その口からは酒気を帯びた臭いが漂う。ゴートの周りにはいつの間にか何本もの酒瓶が転がっていた。
「子ども扱いしないで。……でもそうね、なんでかな」
「ま、相性が最悪ってこったな」
これから一緒に冒険するというのに、ゴートは何とも縁起の悪いことを言う。
「そうだった。一つ聞きたいんだけど、さっきのアレは何? 魔力の少ない貴方に魔法が使えるとは思えないけれど」
草原での光景がフラッシュバックしたのかエイファはぶるりと身震いした。
「魔力が……少ない?」
「どうしたの?」
「あぁごめん。それより説明だけど、あれは少量の魔力を放出しただけだよ」
「ただの魔力を?」
「うん。魔法が現実を捻じ曲げて事象を起こすことができるのは、魔力そのものに現実を捻じ曲げる力があるからなんだ。
魔法はその力を増幅・変容させて発動させる。つまり単純な魔力の放出でも幻覚くらいなら引き起こせるんだ」
「魔力にそんな力が……」
エイファがぽつりと漏らす。
「さて、そろそろゴートを起こそうか」
「まったく……」
二人の視線がゴートに向けられる。そこには酔いつぶれて熟睡しているゴートの姿があった。
「こんなに飲んで大丈夫なの?」
「まぁ大丈夫でしょ」
ゴートのそばにはエイファが心配するほどの酒樽が転がっていた。
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