血塗れの短剣
「なぁフィン。さっき言っていたことは本当なのか?」
二人は宿舎を目指して通りを歩く。道の両側には小妖精が営む武具屋、人間が仕立てた衣服店、猫人族の宝石商……様々な種族と店で賑わっている。道行く人々も冒険者や行商人、大きな荷物を担いだ旅人とまちまちであった。
そんな活気のある中、ゴートは静かにフィンに尋ねる。
「うん……本当だよ……」
フィンは力無く肯定した。
「いったい何があったんだ。お前が何の理由もなくリルカを殺す訳ないだろ」
フィンとリルカの関係を知っているゴートは、納得がいかない様子であった。
「……リルカが転化した」
「……そうか……それでお前が」
転化、それは魔物でない種族が魔物へ身を落とすこと。
転化の症状は記憶の喪失に始まり、次に自我の崩壊。そして己の意志に係わらず身体が造りかえられていく。
四肢の骨は関節を無視して曲がり、皮膚を突き破って外に飛び出る。血走った眼は極限まで開かれ、錯乱したように顔や頭を掻き毟る。
理性が失われ完全に異形と化すと、手当たり次第に周囲を破壊し始める。
なので転化した者が出たときは、近くの者が速やかに殺さなければならない。周りのためにも、転化した者にとっても。
だから本来ならばフィンは罪に問われる事はない。素直に転化の事実を話せば疑いは晴れるのだ。
しかしフィンはそれをしなかった。
転化はそう易々となるものではない。年に一人いるかいないかだ。そのため世間からは、転化した者は穢れた存在として扱われる。
かつての栄光は地に落ち、名を馳せた冒険者でさえ転化すれば人々の侮蔑の対象に成り果てる。転化した当人が一番苦しく辛いというのに、あまつさえ死んだ後人々から罵られる。
――ソーサリーにリルカの転化が知られれば、必ず公表される。リルカの名誉のためにも、それだけは避けたい。たとえ僕がどうなろうとも……。
フィンは表情を暗いものにする。
それをゴートは横目で見ていた。
「しばらくは休め。つってもすぐに呼び出されるだろうがな」
最愛の人が転化し、それを自分が殺した。フィンが負った精神的な傷の深さは他人には計り知れない。気休めにもならないとわかっていながらもゴートは言った。
「ゴート……リルカの事は……」
「安心しな。誰にも言いやしねぇよ」
ゴートが食い気味に言った。それを見たフィンは微かに笑う。
憔悴し、疲弊しきった笑顔。
「それじゃぁな。俺はこれから仕事だ。変な気だけは起こすなよ?」
そんな顔は見たくないと言わんばかりにゴートはフィンに背を向ける。
気づけば宿舎にたどり着いていた。
「大丈夫だよ」
それは監視の目があるのだから未然に防がれる。だから大丈夫だという意味だろう。それを理解したゴートは「そうだったな」と言って慣れない作り笑いを浮かべる。
不自然に引きつった顔をするゴートを見てフィンは苦笑いを漏らした。
フィンは階段で四階まで上がり自室に入ると、そのまま寝台に寝転んだ。白の寝具がボフンとフィンの体を受け止める。
うつ伏せの体勢では顔が埋もれるが、フィンは糸が切れたマリオネットのように動かない。
息苦しさから逃れるために寝返りを打つ気力さえ湧かないのだろう。
しかし我慢の限界に達したのかフィンはやっと仰向けになった。胸が大きく上下する。
呼吸が落ち着き始めたころ、フィンは再び寝返りを打った。その拍子に枕元に置いてあった短剣に手が触れた。フィンはそれを目の前に掲げ鞘を抜く。
黒い鞘から抜き出された片手の掌ほどの刀身には、所々赤黒い染みがこびりついていた。フィンはそれを指で拭ってみるが染みは消えない。愛する者の血の下で銀の刀身が鈍く光る。
フィンはそれを胸に抱いて目を閉じる。駆け出しのころから共に歩んできた己の得物は、剣の重さも、柄の握り具合も、フィンに良く馴染んだ一振りの剣に仕上がっていた。
朝、部屋を出るときに開けっ放しだった窓から緩やかな風が吹き込む。カーテンを揺らすその風にフィンはどうしようもなく眠気を誘われた。
フィンは誘われるままに瞼を降ろす。やはり疲れていたのだろう。ほどなくして規則正しい寝息が立ち始めた。
*****
宿舎の外、黒いローブを羽織った人物が四階の一室を見上げていた。窓が開け放たれたその部屋で、カーテンが風に揺らいでいる。宿舎の前も冒険者たちが数多くいるため人目は多い。そんな中でこのような恰好をしていては目立つだろうが、人々が気にする様子はない。
「認識阻害……便利な魔法を作るものだ」
周囲の目が自分に向いていないことに感心の声を漏らす。
「それよりも、転化……か。さっそく報告だな」
その人物はぼそりと呟き、ソーサリーからつけてきた道を引き返していった。
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