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Last Lover

作者: 加織

俺の人生貴方に捧げるよ。

だって俺…貴方が好きだから。

この世の何より、誰より、どんな価値のあるものより。

大切だから―――。

彼女に出会ったのは、シトシトと小雨が降る晩春の夜。

今年は寒さがずっと尾を引き、ようやく最近暖かく本当の春を感じるようになっていた。

暖かくなり始めた都会の、大通りの路側帯。激しく行き交う車のテールランプに彼女の姿は照らされていた。俺を見つけると彼女は水色の傘を差しながら腰を下ろし、木によりかかる俺に花を手向けてくれた。肩に掛かる黒髪が雨で少し濡れていた。そんな髪から微かに花の香りが漂ってくる。『清楚な雰囲気のある女性』

誰が見てもそぅ感じるであろう彼女の姿だった。

胸元に光る、小さなダイヤのネックレス。キラキラとピンク色に輝いていた。

それが妙に俺の心に引っ掛かって……。

「貴方もこんな夜に独りなのは寂しいでしょ?」

透き通った声。

優しい笑顔。

彼女はそぅ独り言を呟いて、枯れ果てた花と自分が持っていた花を入れ替えてくれた。

彼女は静かに言葉を続ける。

「これ…私にはいらないものだから、貴方にあげるね」

その花は、桜。

花といったら変かもしれないけれど、一本の細い枝に多くの桜が咲き誇っている。

変な女……。

それが俺の彼女に対する第一印象だった。

だってこんな俺に話しかける奴なんかいないし、桜の花を手向けてくれたのは嬉しいけど―――。

「月とスッポンになっちゃうかなぁ……」

彼女が立ち上がり、俺が寄りかかっていた木を見上げた。

俺が寄りかかっていたのは桜の木。

まさに今、咲き乱れてると表現してもいい桜の木。

「……立派すぎるもん…」

そう言って彼女は黙ってしまった。

だけどこの桜の木より、俺は彼女が俺に手向けてくれた小さな桜の方が嬉しかった。

変な女だろうが、そんなことはどうでもよくて。

とにかく凄く凄く嬉しかった。

だって今日は俺の記念日だったから。

誰一人として記念日を覚えてくれていないだろうけど、誰一人俺のところに来てくれないだろうけど。

諦めていたそのとき彼女が来てくれた。優しい笑顔と共に、温かい空気と共に、彼女は俺の前に現れてくれたんだ。

俺にとってどんなに嬉しかったか…。彼女は一生知ることはないだろうな。

だけど、黙って桜の木を見ていた彼女の瞳から雫が溢れ出していた。とても悲しそうで切なそうで…辛そうな色の涙が。ポロポロとこぼれ落ちてくる。

その涙が、さっき彼女が手向けてくれた桜にポタと落ちた。

何があったんだ?

そぅ彼女に尋ねても彼女には聞こえない。

彼女はそれから時が経つのも忘れて泣き続けていた。


翌日から俺は、彼女の近くで彼女を見守ることにした。

あの涙が忘れられなかったから……。

彼女の傍にいることで、彼女のことがいろいろわかった。

彼女は大学生だった。

春休みに入っている大学は、生徒の数も少なく閑散としていた。

しかし彼女は食堂や図書室へ行って勉学に励んでいた。

周りにはいつも友達がいる。

笑い声は絶えない。彼女の家は街中から少しはずれた住宅街のマンションだ。

白いペンキを塗った、鉄筋のマンション。その五階に住んでいた。

たった独りで…。大学生なのにマンション。何一つ、不自由なく生活していた。

俺の生き方とは正反対だ…。

いや、俺は敢えてそういう生活を手放した。

その結果が今の状態で……それはそれで仕方ないと思っている。

…と、俺の話はいいとして。

昼間、笑顔の中心にいた彼女は家に帰ると静まり返った空気の中でただ一人、静かに過ごしている。そして、哀しい顔をするんだ。

それは、毎日同じで…。

とにかく哀しい、切ない涙を流して。生活には何一つ不自由がないはずなのに……。なんで、そこまで泣く必要があるのかわからなかった。

そして俺は、そんな哀しそうな彼女を見ていて何かしたいって思った。

あの日の恩を返したいとかそういうんじゃなくて……無性に無償で何かしたいって思った。

あの涙が忘れられなくて、なのに彼女はいつも笑顔でいる。

絶え間ない笑顔の中に彼女はいる。それなのになんで、一人で泣いてんの?

そして大学で熱心に勉強している彼女を見て神に祈ったんだ。

彼女の元にいきたいって。彼女のそばにいたいって。

今思えば、単なる一目惚れってやつだったのかもしれない。

ただ、それが顔とか容姿じゃなくって。

………彼女の雰囲気に。

そして、神から許しを得た。

俺は、四日間の許しを得たんだ。

一日目


俺が飛び出てきたのは、翌日の夕暮れ過ぎだった。

今日から四日間だけの、俺の第二の人生が始まる。

「短すぎ…」

そんな風に笑ってしまった。

しっかし、立派だよな〜。

自分が飛び出てきた場所は、自分がついさっきまで寄り掛かっていた桜の木の下。

それを見上げて思う。

俺、ここで……。

「…………」

って、考え込んでいる場合じゃねぇか。

「……ん?」

ふと自分がはいているジーンズのポケットに手を突っ込むと、小銭があることに気付いた。

…あ、コレ。

「六百三十円…」

確か俺が死ぬときポケットに入っていた金額だ。

おいおい、これで四日を過ごせって?

ふざけんなよ……。今の時代、こんなはした金で何が出来るっつーんだよ!

これじゃ、彼女へプレゼントの一つも買ってやれねぇ……。

「ハァ〜〜〜」

俺は声を出して溜息を付くと、気持ちを切り替えて彼女の姿を捜し始めようとした。

「さて、と」

この時間だと彼女はまだ大学かな。

このあたりの駅といえば……ここから数分の距離にある、あの大きな地下鉄の駅がある。

俺は辺りをキョロキョロと見回してみた。

大通りの路側帯。

ちょうど会社が終わる頃の大通りは、多くの車がスピードを出して走っている。

明日から連休が始まる。

連休前の道路は混雑し、人々も繁華街へ繰り出している。

………突然木の元から人間が飛び出てきたのを見たら驚くだろうな。

そうやって夕暮れ過ぎの風景をボーっと眺めていた。

それを車のライトとクラクションが掻き消し、俺は我に返った。

「捜さなねぇと」

俺は彼女がいつも利用するであろう地下鉄の駅へと向かった。

改札口付近で待っていれば彼女に会える。

どんなに多く人がいようと、場所が変わったとしても俺は彼女を見付けられる自信はあった。

彼女に恩返しをしたらすぐにでも自分のあるべき場所へ戻ろう。

この世界に俺は既に存在しない。

いてはいけない存在だ。

だから彼女を救えたら俺はすぐにでも消えよう。

そう決意しながら俺は改札口付近に等間隔で並んでいる、地下を支える鉄の柱に寄り掛かり改札口奥の方に目を凝らしていた。

数分おきにドッと人が改札口奥の階段から下りてくる。

急かしい人々。

何をそんなに急いで、頑張っているんだろうか。

生きていた頃も、今も、俺にはわからなかった。

だから世間に反抗しこんなことになってしまったのだ。

「…………」

俺は目を伏せた。

あの頃の自分は嫌いだ。

そして周りの奴等も嫌いだ。

人は自分のことしか考えていなくて、わかろうとしなくて、自分もそういう人間だって知っている。

あの頃はそんなことすらも気付かなかった。

ただただ周りが憎かった。

 ふと、自分の世界から我に返り改札口のほうを振り返ると、新たに電車から降りてきた奴等が改札口へと押し寄せていた。

その中で俺の目が一人の女性に留まった。

彼女だ!

周りの奴等の疲れ切った様子とは違い、背筋を伸ばし歩いてくる彼女は眩しかった。

だけど少し険しい顔をしていた。

俺は人に埋もれそうになりながら改札口へと向かう彼女を必死に目で追った。

誰かを捜しているのだろうか。

キョロキョロと周りを見ている。

俺は少しだけ嫌な予感がした。

待ち合わせだろうか……。

まさか…恋人とか……?

彼女は誰かを見つけると改札口から離れていった。

俺はそれを追った。

改札口の端のほうへ行くと、改札では読み取りが出来ない切符などを人の手で処理してくれる駅員室がある。

駅員室は切符の処理だけが仕事ではない。

電車の利用客のクレームや案内などを承る場所だ。

彼女はそこへ急ぐようにして向かった。

俺は彼女の声が聞こえる場所まで近付くと壁の隅に座り込み、そっと聞き耳を立てた。

「本当なんです。今朝も触られたんです。お願いだから、鉄道警備隊をこの時間に配備してください」

「そう言われてもねぇ…。この時間帯はまだ混雑のピークより早い時間だから、なかなかね」

「そんなぁ…」

彼女が駅員に懇願している。

話の内容を聞いていると、どうやら彼女は行き帰りの電車内で痴漢にあったらしい。

「こちらも忙しいんですよ。実際に痴漢にあったらその時に親告してもらわないと」

駅員の面倒臭そうな面がここから見ていてもよ〜くわかった。

「だけどそうやってすぐ親告できる女性は少ないんですよ?皆、ほとんど泣き寝入りで」

俺は腰を上げ、足を踏み出した。

「私もずっと我慢していたけど…もう……」

「だから、すぐに言ってもらわないと事実かどうか、」

そこで俺は駅員の肩をポンと叩いた。

「彼女が痴漢にあっていたのは本当っスよ。俺同じ車両だったからたまたま見えたんだ。ここの駅員は被害者の言葉より加害者を信じるっつーのかよ。最低だなぁ」

ふと、彼女を見ると薄っすらと瞳に涙を溜めているのがわかった。

「鉄道警備隊を配備させてやれよ」

俺は駅員を睨みつけた。

彼女を泣かせる奴はどんな奴だろうと絶対ぇ許せない。

「わ、わかりました。至急手配しますので。本日はお引取り下さい」

そう言うと、そそくさと尻尾巻いて逃げるように事務所の中へと入っていってしまった。

ポツンと残された俺と彼女。

「本当にやってくれるんだか……」

信用ならねぇな、と呟く。

「あの…ありがとうございます」

そんな俺に彼女は深々と頭を下げてくれた。

「え?あ、べ、別にいいって!俺が好きにやったことだし」

俺は慌てて両手を顔の前で左右に振ると、頭を上げた彼女と目があった。

そして理由はわからないが、何故だかクスクスと笑い出してしまった。

………これが俺と彼女が初めて交わした言葉。

これから幾度となく口にすることであろう『ありがとう』という言葉を、俺より先に彼女が口にしてしまった。

優しい柔らかな声。

『ありがとう』って礼を言いたいのは俺の方だってのに……。

「取り敢えず、地上に出よっか」

笑顔のまま俺は人差し指を上へと向けた。

「あ、そうですね。私北口のほうなんですけど、貴方は…?」

「俺も北口」

嘘の返事を笑顔で告げる。

とても嘘だと思えないほど、はっきりとした声で。

俺たちは改札口から地下道へと歩き始めた。

「私、水沢サクラって言います。あの、貴方の名前教えてもらっていいですか?何かお礼しないと…」

地下道を歩きながら会話が始まる。

そこで初めて知った彼女の名前。

『ミズサワサクラ』

その名前を何度も心の中で呟く。

一生、永遠に忘れないように。

けど、マジいい名前。透き通っていてさらさら流れる小河のような、響きの良いキレイな名前。

「あの……?」

「え?あ、悪ぃ!」

不思議そうに掛けられた声に、急いで我に返った。

「俺の名前は…」

俺は目をキョロキョロさせ、近くにあった本屋の看板を見て答えた。

「葵でいいよ。十七」

俺が消えたときの年齢。

一年経ったとはいえ、きっと外見上は成長していないんだろう。

中身も…だけど。

“葵”

本屋の名前だった。

生きていたときの名前を出して、もし知り合いに会ったときに彼女がいたら混乱してしまうだろうから、俺は敢えて本当の名前を隠した。

「あ、それに礼なんかいらないって」

俺は笑って答えた。

だって、こんなこと俺が彼女に救われたのと比べたら天と地くらいに差がある。

「けど痴漢なんて許せねぇな。そんな馬鹿げたこと」

「……そうですね。私なんかトロいからすぐ狙われちゃって」

「やられたらやり返すくらいの勢いじゃないと駄目だよ」

その言葉に彼女はクスクスと笑い出した。

「え?何?!」

「だって、やり返すってどうやって?私も痴漢するの?」

「……。ブッ!違う、違う」

彼女の頓珍漢な言葉に俺も思わず吹き出してしまう。

「サツに突き出していいっつー事だよ。触った手首とっ捕まえて、コイツ痴漢です!ってさ」

「勇気あればねぇ」

今度は暢気な口調でそう言う。

「俺がやるよ、勇気!」

「えぇ?」

「今日から勇気四日分、処方してやる」

そう言って悪戯に笑ってみせる。

四日分、俺が貴方の隣にいられる時間。

「私、保険証持ってないよ〜」

彼女も俺の冗談に乗って答えてくれる。

……初めて見たときより、ずっと良い印象だ。

二人で爆笑しながら、地下道から表に出てきた。

「ところで、葵は家どこなの?」

「え。家?」

突然、そして唐突に聞かれた質問に硬直してしまった。

俺の家……。

そうだ、考えてなかった。

「この…、近くじゃないの?」

「あーうん、まぁそんなとこ」

って、全然回答になってないし……。

家はあの桜の木の下です、なんて言えないしなぁ。

視線は宙に浮き、タラリと冷や汗が背筋を通る。

「………ゴメンネ」

「は?」

「そうやって聞くのって、やっぱり失礼だったよね。私と葵は知り合ったばかりなのに」

俺の答えが逆に彼女を困らせてしまった。

「い、いや!違うよ!!なんつーか、俺、頭悪いから住所覚えられなくって!」

「自分の家の住所知らないの?」

「あ、そう!引っ越したばかりで…」

「あ〜、わかった。どうせ、プチ家出とかしていてほとんど帰ってないんでしょ?」

「……まぁ、そんなとこ」

そう頭を掻きながら苦笑する。

「駄目だよ?ちゃんとお家に帰らないと親が心配するでしょ」

「しねぇよ。だって俺ん家、両方とも親いねぇもん」

父親は俺がまだ母親の腹ん中にいたときに他界していた。

母親は俺を施設へ入れ、そのまま行方知れずとなった。その後、十年ほど経ったある日母親を捜し当てたが、もう母親は俺の母親ではなくなっていた。

二人の幼いガキとデカイ家に住んでいた。

期待していた俺の居場所は、その時になくなって……俺はたった独りになった。

「―――――――本当?」

「うん。俺、捨てられたから」

あっさりとそんなことを口にしたのに驚いたのか、彼女は大きな瞳をパチクリさせていた。

「まぁ今更だけどねぇ。あ、因みに捨てたのは母親のほう。父親は俺の顔を見る前に死んだから」

彼女は俺から視線を逸らすと『そうなんだ……』と呟いた。

「そんな顔すんなよ。なんだか俺が悪いことしたみてぇじゃん」

「でも……」

「いーの!俺は今、物凄ぇ幸せだから」

こうやって復活して、貴方と話せているんだから。

そのことがどんなに嬉しいか、この先も貴方は知ることはないんだろうね……。

彼女はそんな俺に笑った。

「そういえば明日から連休だね。葵はどこか行く?」

「予定はないよ。ミズサワさんは?」

「ふふ。サクラでいいよ。私は今、大学の春休みだけどどこも行く予定無いな〜。何しよう」

「何処に行っても混んでいそうだよね」

そんな他愛も無い話をして駅から大通りへと向かった。

さっきよりも車の量は増え、足早に歩く人々もどこか浮き足経っているように感じた。

俺はサクラの歩調に合わせながらゆっくりと歩いた。

大通りの歩道。

そこに一本だけある桜の木。

会社や学校帰りの人々が、その下を通り過ぎるとき、その艶やかさに目を奪われている。

立ち止まり見上げる者、携帯のカメラで写真を撮る者……。

たくさんの人がこの桜を見てくれている。

その下に俺はいた……。

桜が艶やかで、華やかなお陰で足元の俺は………忘れられていた。

サクラはその木の下に来ると立ち止まった。

「ここの桜、本当にキレイだよね。大通りで車がたっくさん行き交っていて、排気ガスとか汚い淀んだ空気の中で、この桜だけ別世界のような気分にさせてくれる」

その桜は鮮やかで、艶やかで………。

大通りの中で、必死に咲いていた。

「―――――――強いよね」

彼女はポツリ呟いた。

それが何故か妙に心に響いた。

「……強くなんかないって」

「え?」

強い奴なんてこの世にはいない。

それがどんな生き物であろうと…。

「きっとそうやってサクラみたいに、キレイだって言ってくれる人がいるからこうやって咲いていられるんだ。支えてくれる奴がいるから………」

言いながら彼女のほうに振り返ると、笑って納得しているようだった。

もし彼女が辛い思いをしているのなら、俺は彼女を支える道具になりたい。

「………この桜が、この人を支えているように?」

ふと彼女が視線を落とす。

その先には、俺が棲家としていたボロい牛乳瓶を花瓶代わりにしていた墓があった。

「車にはねられたか、バイクとかの事故で亡くなったんだろうね………」

そう言って彼女はその場にしゃがみ込んだ。

そして一昨日、俺に手向けてくれた桜の花弁を人差し指で優しく触れた。

「…桜」

「うん。一昨日私がお供えしたの。ある人からもらったものだったんだけど……。馬鹿みたいでしょ。これだけ立派な桜の木の下に、こんなに小さな桜なんて……」

エヘヘと照れ笑いをしてみせる。

「そんなことっ!きっとすげぇ嬉しいと思うよ。だってここに供えられてんの、すっげぇ枯れ果てた菊の花だったんだよ?それに比べたら………」

どれだけ嬉しいか。

奇跡に近いほど、期待していなかった優しい光。

「そうかなぁ。喜んでくれていると私も嬉しいけど」

よいしょと掛け声をかけて再び立ち上がりながら小さく照れている。

「当たり前じゃん。………すっげぇ嬉しいよ。事故った奴って後悔ばっかり頭にあって、だからサクラみたいに気に掛けてくれる人がいると安らぐんだよ」

「気持ちわかるんだ」

「あ……、ん。俺も事故ったこと…あるから……」

まさかこの場所で、とは言えない。

「そうなんだ。……でも無事で良かったね」

彼女の言葉に俺は悲しい瞳で頷いた。

運命も俺も卑怯だ。

こんなに優しい瞳の人には生きていたらきっと出会えなかった……。

死んでから出会ったって意味ないのに……。

「喜んでくれてるといいな〜」

俺は彼女の嬉しそうな笑顔につられた。

悲しみにくれてる場合じゃない。

復活した四日間を楽しく、真っ直ぐに生きなければ。

「…え、あれ?でも、葵知ってたの?ここに菊の花が飾ってあったって」

ふいに聞かれた質問で俺は一気に目が覚めた。

ギク!

別に対した質問でもないのに一気に冷や汗が出てきてしまった。

「し、知ってたよ!たま〜にここを通るから、知ってた!」

焦るな、焦るなと心の中で叫びながら口から出てくる言葉は突っ掛かって、どもってしまう。

「ふ〜ん。でも葵までにも心配してもらって、きっとここで亡くなった人は嬉しいよね」

「そ、そうだね」

「例え枯れた菊の花が置いてあったように、周りの人に忘れられていても、こうやって気に掛けてくれていた人がいる限り幸せだよ」

安心した笑みを浮かべる彼女に俺は泣きそうになった。

俺が幸せだということに……。

彼女が言うんだ。

幸せだって。

それなら俺は幸せだったのかもしれない。

「幸せ…」

俺はポツリと言葉を漏らした。

「何?」

「俺も今は幸せ」

心の中だけでは溢れてきてしまう気持ちを言葉に出した。

「な〜んも無いけど、幸せ」

そう笑顔で言える。

何故だろう……。

あんなに卑屈だったのに、あんなに世の中が嫌いだったのに。

何が幸せなのかなんてちっともわからないのに。

こんなにも簡単に言葉に出来るのは何故だろう。

「そっか、凄いな……葵は」

「どうして?」

「自分が幸せだって断言できる人ってあまりいないから。でも葵は知ってるんだなって。何も無くても、生きていることが幸せだってことを」

生きているだけで幸せ、か。

あの頃は生きていることさえも苦しくて、辛かった。

だけど死にたいなんて考える余裕も無くて。

ただただ最低の人間として生きていた。

「……サクラは?幸せ?」

俺はふいに彼女に質問してみた。

その答え次第で俺の今後が決まる。

彼女が幸せですって屈託の無い笑顔で答えてくれれば、俺が出る幕は無い。

彼女が幸せじゃなかったら………。

「私は……。どうだろう。周りに流されて、嫌われないように笑顔作って……。それでも生きているからってだけで幸せになるのかな」

「幸せじゃないの?」

「わからない。ただ辛いの、とっても」

それが彼女の答えだった。

初めて彼女を見たときと同じ表情で、寂しそうに桜を見上げている。

細い肩が震えて、キレイな瞳が潤んでいる。

小さな手のひらで拳を作りギュッと握って…。

「サクラ…」

俺は耐え切れずに、彼女の硬く握られた拳を自分の両手で包んだ。

彼女はハッとしていつもの笑顔を作った。

いや、作ろうとした。

「……なんてね。本当は自分に自信がないから他人のせいにして逃げてるんだ。ごめんね、こんな話。出会ったばかりの葵にするなんて!何でだろう、本当、ごめんね」

俺は悲しかった。

必死の笑顔が悲しかった。

「俺は嫌わないから。だから無理して笑顔作るなよ」

彼女がどこまで出会ったばかりの自分のことを信用しているのかわからない。

信用されたいわけじゃない。

俺はただ彼女に幸せになって欲しかった。

俺を唯一助けてくれた人だから。

「な?」

「……ぅん、ありがとう」

小さく笑って彼女は泣いた。

俺は彼女の両手を包んでいた自分の手をもっと力強く包んであげた。

彼女の涙の原因を知りたい。

もっと彼女を知りたい。

助けてあげたい。

涙をどうにか止めた彼女を俺はマンションまで送ると約束をした。

道中、サクラは楽しい話ばかりをしていた。

俺へ気を遣っているのだろうとすぐに察した。

そんな彼女を見ていた俺は心の中で再び強い決意をした。

絶対に彼女を救う、と。

白い鉄筋のマンションが見えてきた。

まだ新しいのか、雨が降ったときに出来る黒い涙のような汚れも無い。

玄関ホールのガラスも透き通っていて指紋一つ無い。

「ここでいいよ、ありがとうね」

サクラは振り返って笑顔で言った。

何かつなげなければ、今日で俺たちの付き合いは終わってしまう。

でもどうやったら明日につなげられるだろう。

彼女を救うためには、彼女の近くにいなければどうにもならない。

だけど俺にはどうやって誘って良いのかまったくわからなかった。

「あのさ!」

考え無しでついた言葉だったが、運良く彼女のほうから口を開いてくれた。

「ねぇ、葵?明日時間あったらまた私と付き合ってくれないかな?」

明日時間があったら付き合って欲しい。

その言葉で希望の光が見えた。

明日につながる、彼女を救うことが出来る、希望の光。

「あー、うん」

俺は敢えて、時間が空いているか確認するかのように間を置いてから返事をした。

「もし良かったら海に行かない?まだ寒いかもしれないけど、なんか行きたい気分なんだ。葵が嫌じゃなければの話なんだけど……」

そんなの、

「大丈夫だよ。オッケ!」

彼女の誘いを断るなんて、俺にはとても出来ない。

これで明日につながる。

それがかなり嬉しかった。

彼女を救えるから…?

違う。

彼女にまた会える、話せる。

それが嬉しかった。

「ありがとう」

一日目は彼女のその一言で終わっていった。

また言わせてしまった。

『ありがとう』

二日目


空は快晴。

乾いた空気が温かい春風を走らせている。

俺はサクラに会う前に寄り道をしていた。

若者が多く、賑やかな露天が並ぶ通りで色々と物色していたのだ。

「……お、これいいかも」

俺は一つの物を手に取った。

それは俺の手の中で時を刻んでいる。

「彼女へのプレゼント?んな安もんでいいの?」

露天の店主がからかい気味に言った。

俺はチラッとその手にある物に目を落としたが小さく微笑むと店主にラッピングを依頼した。

「これがいいんだよ」

手持ちの金じゃ高い物は買えない。

でもこれには俺の気持ちがこもっている…。

金では買えないくらいの気持ちが……。

それをポケットに突っ込むと、彼女との待ち合わせの場所へ向かった。


昼過ぎ、俺たちは海にいた。

殺風景で釣り人もチラホラ数えるくらいしかいなかった。

「付き合ってくれてありがとうね」

彼女は笑顔でそう言った。

昨日の涙なんか忘れさせるくらいに大きな笑顔で。

「別に俺もヒマだったし」

俺も敢えて聞かないようにしていた。

辛いことを胸の中で必死に押さえ込むのは良くない、けれどそれを無理矢理聞きだそうとするのは尚嫌だったから。

彼女が心を開いてくれるまで……。

俺は最大限の努力をしよう。

「海ってやっぱり気持ちいいよね〜」

昨日は夜だったから、はっきりと見えなかったけど……サクラはやっぱりキレイだ。

凛としていて、清楚で、優しい。

自分の鼓動が速くなっていくのに気付いた。

俺……やっぱり…好きだ………。

初めて見たときから…、もっともっと好きになってる。

俺が一目惚れするなんて……。

「葵?」

「ごめん、何でもないよ!………あ、競争でもしよっか?」

「え?あ、ちょっと!」

俺は駆け出していた。

清々しい気持ちだ。

好きって改めて気付いて、それがこんなにも爽やかな気持ちにさせてくれるなんて…。

そうだよな、好きじゃなきゃ救いたいって思わないもんな。

こんなに頑張ろうって思えない。

嬉しくてはしゃいでしまう。

「サクラ!こっち、こっち!!」

「葵速いよ〜」

俺は彼女の手を取ると波打ち際まで走った。

「駄目だって、濡れちゃうよ!」

「平気、平気」

「葵〜!!」

足元に波が掛かる。

靴に染み込む海の冷たさ。

こうやって彼女とこんなにはしゃげるのはこれが最初で最期になるんだろうか。

水飛沫を浴びて笑う彼女の表情は、俺が見てきた女の中で誰よりも素敵で誰よりも輝いていた。

「サクラ!キレイだよ」

素直な感想を笑顔と共に告げる。

「何言ってるの〜。お世辞言っても何も出ないぞ!」

「そんなんじゃねぇよ」

キラキラ輝く彼女の姿を、俺はきっと一生忘れないだろう。

何度も何度も心の中で再生されて、それでも擦り切れる事無く永遠に忘れない。

「辛くても、苦しくても必死で自分の道を歩こうとしているサクラが凄くキレイだよ」

「………葵」

ふと笑顔を止めて、立ち尽くした。

俺は彼女の生き方を褒めたかった。

「必死で踏ん張っているサクラはカッコいいよ」

俺には真似できない。

多分、一生。

それでもそんな彼女を目で追ってしまう。

憧れてしまう。

「そうかな…。そう思ったことは一度もないんだけど」

「そうだよ!それに俺は置いていかないよ。絶対に離れない。………いつも近くで見守っているから」

「……葵」

「だから自信持って。貴方はとてもキレイな人なんだから」

この世にキレイなものなんてないって思ってた。

全てのものが薄汚れていて、強かで………裏表のある残酷なものだって。

だけどここに居る、俺の横で澄んだ瞳をしている彼女は違っていた。

美しくてキレイで、そして儚げだった。

「はいコレ、プレゼント」

俺は急いでジーンズのポケットからある物を取り出した。

「え?」

包装紙に包まったプレゼント。

彼女はそれと俺の顔を交互に見比べていた。

「いいから受け取って。っつっても、すげー安物だけどね」

「……うん」

俺からそのプレゼントを受け取ると彼女は『ありがと』と言ってくれた。

「開けていい?」

俺は目を細めて頷く。

ポケットに入れっぱなしだったために汚くなってしまった包装紙を、彼女は丁寧に剥がしていく。

そして中から出てきたのは……。

「時計…?」

「うん。このクマのキャラクター、サクラに似合うと思って。可愛いじゃん?」

千円の時計だった。

それをまけてもらって六百円にしてもらった。

俺の持ち金、残り三十円(苦笑)

玩具みたいな時計。

だけど彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう!私このキャラクター好きなの!」

その笑顔が見たくて。

その言葉が聞きたくて。

本当はもっといいものを買ってあげたかった。

もっと高価で価値のあるものを。

だけどこれが俺の精一杯で……。

「俺の少ない小遣いから出したんだから、大切にしろよ!」

俺があげた時計で、人生を刻んでいってほしい。

それは俺の我儘かもしれないけれど、俺の大きな感謝の気持ちが詰まった時計で幸せな人生を歩んでいってほしいから…。

「葵って本当は物凄くマメ?」

「え?そんなことないけど……」

「だってこんな風にプレゼントしてくれる男の子なんて、最近いないよ。恋人の誕生日だって覚えられない人もいるくらいなんだから」

そう言って声を出して笑う。

そんな彼女につられて俺も笑ってしまう。

どうしてだろう……。

彼女が笑っていると、凄く嬉しくてドキドキして………そして胸が締め付けられそうになる。

俺は後何回、この笑顔を見られるのだろうか。

「俺はマメでもいい奴でもないよ。昔、すっげー荒れてたしね」

「え〜、そうなの?」

「卑屈になって自分も周りも嫌いだった…。だけどサクラと会って変わったかな」

警察に補導されたこともあった。

相手を傷付けて、迷惑をかけて……。

それでも周りが見えてなかった。

だから天罰が下ったんだ…。

暗い闇を彷徨って自分の記念日すら誰も来なくて、誰が手向けてくれたかも忘れてしまった枯れた菊の前で悲壮にくれていた。

そんな時、貴方が来てくれた。

優しい香りと共に。

「……私と?昨日出会ったばかりなのに?」

そう、そんな短い時間の間に貴方は俺を変えてしまったんだ。

俺を救ってくれたんだよ。

「出会ったばかりでも、俺は変われたんだよ。そのお礼!」

「別に私何もしてないけど……でも、大切にするね」

時計を腕にはめながら顔を緩める。

「サクラ…」

俺はそんな彼女に伝えたかった。

「ん?何?」

彼女と瞳がぶつかる。

嘘がつけなくなる、瞳。

痛いくらいに真っ直ぐで、清らかで……。

「昨日さ、サクラ言ったじゃん?自分に自信がないから他人のせいにして逃げてるって」

俺の大好きな、この世で一番高価な宝石。

輝きを失わない、宝物だ。

「………うん、言ったね」

「俺、思うんだけど」

その宝石と、貴方の心に刻みたい。

『未来』を。

これから貴方が歩んでいく、幸せな未来を……。

「別に逃げたって構わないと思うんだよね。自分に自信がなくたっていいじゃん。それに自分に自信がある人ってそういねぇって。ほとんどの人間がコンプレックスの塊で生きているんじゃない?それを受け入れようとしたり、乗り越えようとしたりしながら努力して生きているんだよ」

「……私はどうだろう。努力、か…」

「サクラは偉いよ。そのままでいいって。大丈夫」

俺はポンとサクラの頭に自分の手を置いた。

「子ども扱い〜」

プクッと脹れた彼女を見て、頭に置いた手をクシャクシャ掻き撫でた。

「ハハッ。それでいいよ!」

変わって欲しくない、今のままの貴方が俺は好きだから。

だから………ずっと、そのままでいて…。

俺の知らない貴方なんかにならないで………。

俺は心の中で必死に願っていた。


少しはしゃいで時間を忘れた後、海岸にある階段へと腰を下ろした。

「この海の先って何処につながってるのかな…?」

「ハワイじゃね?」

「ハワイ…か」

突然サクラが暗い顔をした。

「どうした?」

「うん、ちょっとね。お母さんと行ったことがあったから」

そう言いながら胸元でいつも輝いているピンクのダイヤのネックレスを手で触った。

小さなダイヤはサクラの手の中でキラキラ光っている。

「そのネックレスは?」

「このネックレスは、母親の形見なの」

「…え?あ、御免!俺何も知らなくて…」

嫌な思いをさせてしまった!

慌てて頭を軽く下げ、陳謝する。

が、彼女はそんな俺にフッと優しい笑みを向けてくれた。

「大丈夫!母親が亡くなったのは、ずっと前で…。私もよく憶えてないくらいだもん。だから葵と一緒だね」

『葵は父親が亡くなっているんだもんね』と静かに付け足す。

初めて知った、彼女に母親がいないことを…。

寂しい思いをしてきたのかな?

「あ、父親は?いるんだろ?」

急いで切り替えした俺の質問に、彼女は更に顔を曇らせた。

「……父親は、いるよ。だけど、全然会えなくて」

「え?」

彼女は話し出した。

「私の父親は、企業の経営者なんだ。子供がたくさん出てくるコマーシャル見たことある?」

俺は少し考えた…が、俺が死んでからこの世界は一年経っている。

申し訳ないが、コマーシャルだっていくらなんでも一年以上も同じものを使っていないだろう。

全然わからない。

「………あぁ、なんとなく」

そう適当に相槌を打った。

「その会社の経営者で、数百の子会社を持っていて……」

「すっげぇ、金持ちじゃん」

「そんなことないよ」

苦笑しながら話を続ける。

「父親は今、アメリカに住んでいるんだ。本社が十年位前に移転して……。忙しい父とは小さい頃から全然会えなくて、まるで他人みたいだった。私には一人兄がいるんだけど、兄も経営学を学んで父と一緒にアメリカへ行ってしまったんだ」

「じゃあ……」

「うん。私独りぼっち。進学して、父が仕事用で持っていたマンションに今は住んでいるの。広いマンションで」

知っている。

その広い家で貴方が独りで泣いていることを……。

その訳を知りたい。

そして救いたいんだ。

「でも友達とかいるじゃん。独りぼっちじゃないよ。それに好きな人とかもいるんだろ?」

「好きな人、かぁ」

遠い目をしながら呟く彼女。

少ししてその目に、涙が溢れているのに俺は気付いた。

「………好きな人と、何か……あったの………?」

恐る恐る聞いた俺の質問に彼女は首を左右に振った。

「好きな人なんて大層なものじゃないよ。父親が決めた人なの。許婚って感じかな?彼は私のことなんて好きじゃない。自分の会社のために結婚するの。父親も自分の事業のために結婚して欲しいって」

「そんな……」

「それに昔、付き合っていた人もいたんだけど別れさせられたの。私は意地でも別れたくなかったのに、父親が当時の彼にお金を渡して……。そしてその彼はあっさりと私の前からいなくなった」

淡々と話す彼女の表情が辛かった。

「サクラの人生なのに、サクラが決められないなんて…」

俺はポツリと呟く。

「仕方ないんだよね。父親の事業にはいろいろな企業との連携が必要になる」

「その為にサクラが犠牲になってるみたいじゃん」

「それでも……、それでも会社を大きくしたいんだよ」

娘の人生より、自分の会社のため。

それって間違ってるよな?

「小さな頃からそういう感じで育ってきたの。友達も好きな人も、そのせいで私の周りから離れていく。私を置いて、皆離れていくのが怖い」

半分諦めたように彼女は遠い目をした。

“離れていってしまうことが怖い”

それが彼女の涙の原因。

「サクラ……」

俺はそう彼女の名前を声にするのが精一杯だった。

バカだった。

彼女を救うなんて……俺は馬鹿げたことを高々と掲げていた。

出会ったばかりの奴に相手の人生を救うなんて事奇跡に近い。

どんなことをしたら、どんな言葉を掛けたら彼女が救われるかなんて、俺にわかるはずもないのに…。

そんな大層な人間じゃないこと、自分が一番わかっていたはずなのに。

俺は相当のバカだ。

離れていってしまうことが不安だといって泣いている彼女に、離れて消えてしまう運命の俺がどう足掻いても彼女を救うことは出来ない。

本末転倒だ。

「………」

だけど、それでも救いたかった。

守りたかった。

俺を救ってくれた人だから。

俺に“ありがとう”って言ってくれた人だから。

「サクラ…」

「な〜んてね!被害意識丸出しだよね。もっと辛い思いしてる人はいっぱいいるのに」

俺もそう。

自分に自信がなかったから周りに反発していたんだ。

他人を傷付ける事で、孤独を紛らわしていた。

……いや、本当は憂さを晴らしていたんだ。

そんな俺に神から罰が下った。

だけど、彼女にはそんな思いをさせたくない。

孤独だって、寂しい思いをさせるのは俺自身が嫌だった。

俺の二の舞にはならないでほしい。

神から罰が下るのは俺だけで十分だ。彼女にはいつまでもどんなときも、笑顔でいてもらいたいから。そんな彼女が好きだから。

「…………守る」

俺は考えた。そして、一つの決心を彼女に伝えようとした。

けどそれが実行され続けるのはもしかしたら無理かもしれない。

いや、無理というよりも不可能に近い。

今言ったら嘘になるかもしれない。……きっと、嘘になる。

「……………」

彼女に会ってから俺は嘘を重ねていく。これまで嘘なんて数え切れないくらいついてきた。そのことに罪悪感なんてなかったし、むしろそうやって嘘を付くことで相手に自分の真意をわざと見せないよう取り繕ってきた。

だけど、彼女に嘘を重ねる度に胸が張り裂けそうになる。

…張り裂ける?

違う。

締め付けられそうになるんだ。

「何?」

彼女が不思議そうな顔を俺に向けてくる。

だけど…。

今、ここに、嘘をついてでも伝えたい気持ちが…真意があるんだ。

「貴方のことは俺が守るよ」

「――――…え?」

「昔荒れてた俺が、幸せにする!なんて言えた義理じゃないけどさ。……だけど、これだけははっきりしてる」

たとえこれから先、今言う言葉が嘘になったとしても。

「貴方を全力で守るよ。どんなことがあっても、命に代えてもこれから先は俺が貴方を守ってみせる。約束するよ」

触れると、壊れてしまいそうで。

言葉にすると、すぐに消えてしまいそうで。

ずっと避けてきたんだ、この気持ち。

だっていつか貴方を傷付けてしまう日がくるから。

それでも守りたいって思うんだ。

そばにいたいって思うんだ。

これが俺の真実だから。

本当の気持ちだから。

今しか言えない気持ちを、今の貴方に伝えたいんだ。

俺の言葉を聞いていた彼女は一瞬呆気にとられたような表情をしていたが、すぐにクスクスと笑い出した。

「急に何を言い出すかと思った!」

「え?!」

「だって、葵はまだ十七でしょ?これから先、長いんだよ。命に代えても、なんて言葉を使うにはちょっと早いかな〜」

大学生の彼女と、十七歳の俺。

どうやっても彼女にとったら、俺は弟くらいにしか見えてないんだろう。

ケラケラ彼女が笑う。

けど、それは嫌だった。

我儘かもしれないけど、どうせ彼女と離れることになるのなら俺は自分の気持ちをきちんと彼女に知ってもらいたかったから。

「……本気だよ」

真剣な目で、彼女に伝える。

俺にはないんだよ。

これから先、が………。

だからきちんと真実を知ってもらいたい。

「葵?」

彼女の瞳が徐々に変化していく。

俺の空気に合わせて、落ち着いた重い空気へと…。

「好きだから。貴方のことが…。俺、こんな気持ちになったのは初めてだよ。なんて言ったらいいかわからないけど、貴方のことが大好きなんだ」

理由なんてない。

どうして好きになったとか、どこを好きになったのかとか……そんなことわからない。

だけど、これだけは言える。

「貴方が、好きだよ」

そうやって優しく彼女の髪を撫でてみる。

彼女はそれを振り払おうとしなかった。その逆に、安心したように微笑んだ。

「………うん。ありがとう」

その一言が俺の心を揺れ動かした。

俺の気持ちを彼女は受け入れてくれたんだ。彼女が俺の恋人になるとか、そんなことよりも俺の気持ちを受け入れてくれた、それが妙に嬉しかった。

嬉しくて、堪らなくて……。

「あ、葵?!」

「ごめ…ッ」

勝手に涙が浮かんでくる。

もっと今の貴方を見ていたいのに…。

たくさん、胸の中に焼き付けておきたいのに…。

涙が止まらなくなる。

目の前にいる優しい彼女の顔が、涙で滲んで霞んで……消えてしまいそうだ。

好きっていう理由だけで、彼女の一言だけでこんなに、こんなに涙が出てくるなんて。

―――――…知らなかった。

ありがとうって、凄くキレイな言葉なんだ……。

キレイな言葉が俺の穢れている心に染み渡ってくる。

「……葵、ありがとう。大丈夫、大丈夫だから」

柔らかい声で彼女は涙を零す情けない俺を引き寄せた。

優しく、そして力強く。

彼女の腕の中に落ち着いた俺は、どうにか涙を止めようと必死になる。

だって、こんなの男の恥だ。

守りたい彼女に守られてどうする!?

「葵は優しい子だね。そうやって素直に自分の気持ちを言えて、純粋に涙を流せる人って少ないと思うよ。真っ直ぐな子だよね」

昔は直球な性格が災いして、イラついたらすぐ他人を傷付けたりしていた。嫌なことがあると、周囲に当り散らした。

その逆に、嬉しかったことや楽しいことを表現するのが凄く恥ずかしくて、格好悪くてわざと突っぱねていた。

だけど今は、そういう嬉しいことや楽しいことを彼女に言いたくてたまらない。

彼女に、俺の気持ちを何でも報告したいんだ。

だからといって、イラついたことや嫌なことまで言いたいとは思わない。むしろ、そういった感情こそ恥ずかしくて格好悪いと思ってしまう。

彼女は俺のことを、真っ直ぐな優しい子だと言ってくれた。

“子”って言われるほど、ガキじゃないけど。

……けど。

「ありがとう…」

今教わったばかりのキレイな言葉を、今度は俺から彼女に贈った。

俺のことをそうやって言ってくれるのが彼女で本当に良かったと思う。

いや、彼女だからこそ言えたことなのかもしれない。

だって俺は、彼女と出会って変わったのだから。

もっと自分を好きになれそうな気がしていた。

二日目、俺はようやく『ありがとう』の本当の意味を知った気がした。

三日目


今日は俺が誘ってみた。

サクラは昨日のお礼って言って誘いを承諾してくれた。

だが……どこへ連れて行ったらいいんだ…?

まず俺は、女とどこかへ出掛けたことが無い。

女が喜びそうな場所とかが全くわからない。

そして何よりも金が無かった。

「金ってなんだかんだ言ってもやっぱり必要だよな……」

溜息が漏れてしまう。

大企業のお嬢さんを連れ回している俺の全財産が三十円なんて、アホだ。

情けない…。

待ち合わせ場所である、大通りの桜の木の下で俺は難しい顔をしていた。

「葵!」

それを打ち消してくれるような明るいサクラの声。

「待たせてゴメンネ」

「あぁ、いや…」

「どうしたの?難しい顔して」

「その、考えてるんだけど、どこに連れて行ったら……」

俺がしどろもどろ言葉を並べていると、言いたいことを察してくれたのかサクラが俺の手首を掴んだ。

「私、行きたいところがあるんだ。行こ!」

そしてそのまま引っ張られた。

サクラの後ろを歩いているとサクラの匂いが風に乗って俺のところに届く。

甘い香り。

でもしつこくなくて、花のような香りだ。

「昨日家族の話をしたでしょ?昔、家族で住んでた家がこの近くにあるの」

そう言いながら俺をぐいぐい引っ張っていく。

俺は妙に嬉しくなっていった。

サクラのさっきの言い方は俺に家族を紹介してくれるような感じだった。

それってだいぶ心を開いてくれてるって証拠だよな?

「……ふっ」

「ん?どうしたの?」

顔がニヤけてしまう。

どうしようもなく締まりの悪い顔になってしまう。

「何笑ってるの〜?」

「なんでもないよ!」

俺は意地悪そうに言ってやった。

ニヤける原因なんてサクラに言えるか!

俺は心の中で勝ち誇ったような気分になっていた。

 駅についてバスに乗る。

サクラが『私の勝手だから』と言ってバス代を出してくれた。

俺は手持ちの三十円をサクラの鞄へと気付かれないように入れた。

ごめん、という謝罪の気持ちと一緒に。

バスに揺られ、十五分くらいのところで降りた。

その停留所を見て俺は、不安感が高まっていたが楽しそうなサクラの後を付いて歩いていった。

俺の口数が減っていく。

動揺が隠しきれなくなっていった。

足取りも重く、まるで向かい風の中を歩いているようだった。

サクラは住宅街の一角で足を止めると、正面にある白い大きな家を指差して言った。

「ここが私の家族が住んでた家だよ。今は家族バラバラに住んでいるから、この家は売りに出されちゃっているけどね………」

彼女が寂しそうに呟いた横で俺は、手に汗を握っていた。

「この辺はキレイな家が多いよね。私が小さかったときから何も変わらない」

「……………」

「葵?どうしたの?」

嘘だろ。

頭も心も真っ白だ。

彼女の家が、俺を捨てた母親が今住んでいる家の隣だったなんて…!!

「あ、いや。サクラの家も大きいけど、と、隣の家も大きいんだなと思って……」

「そうだね。私が小さい時からよくお世話になってね〜」

ってことは、サクラとアイツは知り合いってこと??

何で…。

するとタイミングよくその家の玄関が開いた。

「あ、」

サクラと俺が一緒に声を上げた。

サクラは嬉しそうに、俺は………。

そのままサクラが玄関のほうに駆け出した。

「藤原さん!」

その声に玄関から出てきた人物が顔を上げる。

「……あら、サクラちゃん」

俺はその人の顔を見た瞬間、石のように固まってしまった。

地面から足が離れない。

震えが止まらない。

「久し振りね。元気にしてた?最近会ってなかったから、キレイになったわね〜」

「ふふ、ありがとうございます」

その人は俺の母親だった。

俺を捨てた母親…。

「困ったわね……もう少し早く来てくれていたらお茶でも出せたんだけど……。これから出掛けなきゃいけなくて」

「いいえ。また伺います」

「本当ごめんなさいね。………あら?そちらの方は?」

ふと後ろのほうにいる俺に気付いて、不思議そうな顔をしたあとサクラのほうをむいてニコリと微笑んだ。

「サクラちゃんの恋人かしら」

「そんなんじゃないですよ」

サクラが俺のところに近寄ると、腕を引っ張った。

俺はその反動でようやく足が動いた。

「私の友達で、葵って言うの」

相手は俺の顔を間近で見てハッとした表情をした。。

「あ、おい…」

「どうかしたんですか?」

相手の驚いた表情を見てサクラが不思議そうな顔をした。

「い、いえ。別に何でもないわ。少し昔のことを思い出してしまって…」

「昔のことですか…。でも、今は今ですよ」

「………そう、ね。ありがとう、サクラちゃん」

サクラの言葉を、俺の過去を知らない彼女が言ったのだから俺は仕方ないと思った。

“今は今”という言葉だけでは到底済まされない過去だから…。

それを知りながら、サクラの言葉を肯定した母親を俺は許せなかった。

顔が険しくなる自分がわかった。

「あの子は今、どこにいるのかわからないものね……」

「藤原さん…」

サクラが優しく相手の名を呼ぶ。

「いつかきっと会えますよ」

ね?と柔らかく微笑む。

「そうね、ありがとう。じゃあ、またお時間が出来たらいらっしゃい」

相手は俺の顔をチラリと見ると、軽く会釈をして俺たちの前を去っていった。

二人残された俺たちは彼女の背を見えなくなるまで見送った。

「藤原さんってキレイだよね」

「……」

俺はサクラの言葉に何も返せなかった。

昔の自分が甦ってきたかのように黒く汚い感情が心を支配し、顔は険しくなっていた。

「……おい?……あおい?」

「へ?!な、何?」

「どうしたの?ここに来てから変だよ」

「そう、か…?」

心配そうに頷く。

心配掛けてはいけないと思うのに、顔が険しいまま戻らない。

「葵、どこか落ち着く場所に行こう。ね?」

俺は無言でいたが、彼女はそのまま歩き出した。

その後を俯き加減で付いて行く。

俺は覚えていた。

施設の前で“ごめんね”と言って俺から離れていった母親の顔を。

俺の手をアイツは振り払った。

絶対に許せない。

あのときの記憶は俺の中に色濃く残っている。

残酷な過去。


 俺たちはそのまま駅向かいにあるファミレスに入った。

コーヒーとウーロン茶を頼んだ後、サクラが話し始めた。

「藤原さんにはね、もう一人子供がいたんだって。もちろん今の旦那さんとの子供じゃないんだけど、今の旦那さんと結婚するときに施設に預けてきちゃったんだって」

「……あっそ。最低だな」

そっぽを向いて不機嫌そうに答えた。

「どうして?どうして最低だって思うの?」

「子供を置き去りにして、自分は好きな男と何一つ不自由なく暮らしてるんだろ。その子供はどうなるんだよ。最低だろ!」

俺は無意識に語尾を強めてしまった。

「葵…」

「…ごめん」

「最低だったかもしれない。……でも、その裏にはちゃんと理由があるんだよ」

一体どんな言い訳をしていたのか俺は興味が湧いた。

「理由って?」

「前の旦那さんが亡くなった後、生活に苦しくなってね、ホステスをしたんだって。そこで今の旦那さんに出会った。生活苦のことを話したら、自分と一緒に住んでくれたら面倒を見るって言われたんだって。だけど子供は施設へ預けろって言われて、嫌だって拒否したんだけどお金に苦しくなってそのまま子供に辛い生活させるよりは、施設に預けて三食きちんとご飯を食べられるような生活をさせたほうがマシだって。そして今の旦那さんと結婚をした。だけどその子供とは会ってはいけないってキツク言われてたみたいで……」

結局、俺を見捨てた。

自分は結婚していい暮らしを得て…。

「それが理由?そんなの勝手だろ。それに会うなって言っても会いに来ようとするのが母親じゃねぇのかよ」

「違うよ!!……確かに、勝手かもしれない。でも藤原さんは悩んでいたよ。会えなくなって、居場所もわからなくなって、今どんな生活しているのか元気でいるのか心配だって」

心配されたって……そんなの今更だ。

「藤原さんね、いつもお財布の中にその子供の写真持っているんだよ。昔の写真だからボロボロでクシャクシャになっちゃっているけど、自分にとっては宝物だからって」

じゃあ、なんであの時会いにこようとしなかったんだよ。

旦那の言葉なんか振り払って、俺に会いに来ようと……!

「今更だろ…」

「葵は、その子供の気持ちがわかるんだね…。でも子供を守るために、敢えて離れたって考えられない?子供が大切だから、元気でずっといて欲しいからだから自分とは離れた。結果的に藤原さんは今、不自由ない暮らしをしているかもしれない。その子供はどこかで苦しい生活をしているかも知れない。でもそういうことも全部考えながら、藤原さんは毎日生活しているんだよ。おなかを痛めて生んだ子供を、心配しない親なんていないと思う」

サクラは俺がその子供だって知らないはずなのに、俺の心に響くように真っ直ぐ伝えた。

俺はその言葉に頷くしかなかった。

間があって店員が俺たちのテーブルに頼んだ飲み物を丁寧に置いていった。

俺はカップに入っているコーヒーの水面を眺めながらボソッと呟いた。

「…………お互いに辛いのかもな」

サクラが何を言ったって母親のことを許そうなんて思わなかった。

それぐらい憎んでいた。

だけど憎んだって過去は変わらない。

死んでしまったという俺の事実を母親は一生知ることはないのだから。

そして、そのまま辛い思いと共に母親はこれから先も生き続ける。

「その子はきっと独りじゃないよ。藤原さんが毎日、毎日写真を眺めて祈ってくれているんだから。生きていても何も心配してくれない親よりはずっと幸せだよ」

憎しみは何も生まないしマイナスの感情は哀しいだけ。

そうわかっていても母親のことは許せなかった。

これから先も絶対に許せないと思う。

だけど憎むのはもう止めよう。

疲れるし、こんな感情をサクラは喜ばない。

「でも俺はその藤原って奴を許すことは出来ない。子供が可哀相だから」

「そっか。だけど受け入れてあげて。そういう思いもあるってことを」

キレイ事ばかりじゃ通じない。

聞き分けのいい人間にはなりたくない。

でもサクラの言うことにも一理ある。

それに相手を許せたらどんなに楽だろうってずっと思っていた。

許せない相手だからこそそう思っていた。

だけど受け入れることなら、俺にも出来るだろうか……。

「大人になったらさ、許せるようになるかな……?」

「うん!きっとなるよ。でもね、葵は葵のままでいいんだよ」

優しい、いつもの笑顔に救われる。

どん底の過去までもが明るい日差しに覆われているようだ。

自分は自分のままでいい。

その言葉がとても嬉しくて、心地良かった。

サクラはきっと俺の過去を知ってもこうして笑顔でいてくれるだろう。

受け入れてくれるだろう。

「サクラは凄ぇよ。偉いよね」

「え?なんで?」

不思議そうに首を傾げるサクラを見て俺は吹き出した。

生きていたときに出会っていれば、俺はどんな人間になっていただろう。

問うてはいけないことなのに、それでも思ってしまう。

生きていたときにサクラと出会っていたかった、と。


過去に決着をつけた後、俺たちはファミレスを出た。

金のない俺に代わってサクラがコーヒー代を出してくれた。

年上の私が奢るのは当然でしょと、サクラは笑って言った。

俺は再び自分を情けないと思ってしまった。

サクラのマンションまで送っていく途中、駅の構内を通っていた。

改札口の辺りを歩いているときふとサクラが言った。

「不思議だよね〜。葵とは一昨日、ここで会ったばかりなのに」

「だよな。もうこんなに仲良くなるなんてさ」

俺の方は意図的に、だけど。

「葵があの時私を助けてくれなかったら、こういう風に仲良くなれなかったかもしれないもんね。本当あの時はありがとう」

「別に助けたって訳じゃねぇよ」

サクラにありがとうって言われると妙に照れる。

顔を逸らしてわざと強めに否定した。

それに助けたわけじゃないのは本当だ。

サクラはそう思っているかもしれないけれど、この世に来たのはサクラに恩返しをするためなんだから、助けるって言うのとはちょっと違う。

「また何か困ったことがあったら言えよ」

俺は頼もしそうにそう言った。

俺が彼女を救えることなんかほとんどないかもしれないけれど、それでも彼女の悩みを少しでも減らしてあげたかった。

もっと幸せになれるように、もっと笑顔でいられるように。

大通りに出ていつもの歩道を歩いていた。

俺がずっと寄り掛かってきた桜の木がある。

あの日満開だった桜は、もう半分ほど散ってきていた。

「儚いよね、桜って」

ポツリ、彼女が呟く。

「あっという間に散っちゃう」

桜の木の下に立ち止まり、その散っていく花びらたちを見上げた。

「だからこそキレイなんだろ?」

「え?」

「そういうもんじゃね?」

「………うん、そうかもね」

散ってしまうとわかっている運命だから、心に焼き付けようとする。

それは今の俺と似ているかもしれない。

いなくなる運命だからこそ、彼女の笑顔をもっと見たいって思う。

俺たちが桜の木を見上げていると、歩道の先のほうから声がした。

「サクラさん!」

その声に振り返ると、二十代後半くらいの男がスーツ姿で立っていた。

「宮田さん…」

相手はサクラの名を呼んだんだから、サクラと相手が知り合い同士なのはすぐにわかった。

サクラは相手の名を口にすると、少し困ったような顔をした。

「サクラ…?」

俺は心配して、サクラの顔色を窺った。

顔色がよくない。

俺はキッと相手を睨んだ。

「今日は出かける予定でしたよね?何度電話してもつながらないから、家へ伺ったんですけど、他の方と出掛けていたんですね」

ゆっくりと相手は歩き出し、俺たちの前へ現れた。

身長は俺よりもある。

体格もよく、清潔そうに切った短い髪が爽やかさを醸し出していた。

「君、サクラさんと親交があるようだが、名前は?」

俺を見下ろすようにそう言う相手に俺は嫌悪感を抱いた。

「あんたこそ誰なんだよ。急に現れてその言い方はねぇだろ。それに、」

サクラにこんな顔をさせるなんて最低だと言おうとした時、サクラが俺の腕を引っ張って口を開いた。

「昨日話した、私の婚約者だよ。不動産会社の宮田商事の息子さん…。それから私に桜の木をプレゼントしてくれた人」

不動産会社……宮田商事……。

………?!

マジかよ!

俺でも知ってるほどの大会社だ。

その息子……、そしてその婚約者がサクラ…?

「……宮田さん、今日のことはごめんなさい。忘れていたわけじゃないの。でも…私、あなたとのこと、少し考えたいの。私まだ結婚とか、そんなこと……」

「そうですか。しかしお父上がそれを聞いたらどんな思いをされるでしょう」

俺は動揺していたが、宮田と言う男がサクラに投げかける冷たい言葉を聞いて我に返った。サクラの性格を知っていてこういう脅しをする男なら、俺は許せない。

「あんた、サクラのこと好きなのかよ」

「葵…?」

サクラのためなら何でも出来る。

どんなお偉いさんにでも立ち向かえる。

「サクラの何を知ってんだよ。会社のためだか何だか知らねぇけど、人の気持ちを無視して人の人生勝手に決めんな!」

「待ってくれ。僕は、サクラさんに幸せになって欲しいだけだ」

「はっ、どうだか?!………サクラは優しい。放っておかれてるって言っててもサクラは父親のことを家族だと思っているし、そんな父親を脅しの文句に出されたら堪らないもんな!あんたのやっていることは脅迫なんだよ!」

「葵、もういいよ。ありがとう」

サクラが俺の腕を掴む。

力なく、頼りなく…。

「サクラ、お前もきちんと自分の気持ち言えよ!こんなの、サクラの人生じゃねぇよ」

「……ん。そうだね、そうだよね」

薄っすらとその瞳には涙が溜まっていた。

「宮田さん、私、貴方のことを何も知らない。何も知らないのに、好きになれるわけがない。結婚できるわけが無いの」

声を震わせて、涙を堪えてサクラは言葉にした。

相手は驚いて、口をポカンと開けたままだった。

「さっきみたいに脅迫めいたこと言ったら、貴方との付き合いを解消するから」

今度はしっかりした口調で言った。

すると相手がフゥと息をついた。

「………。………わかっていましたよ」

「え?」

「貴方が僕のことを好きではないこと。本当は今日貴方の本心を聞こうと思って誘っていたんです。だけど、………僕は間違っていたのかもしれない。いや、気付いていながら気付かない振りをしていた。会社のため、名誉のため…。それでは会社は成り立ってはいけないのに」

そう言ってあっさり引いた。

「宮田さん…?そんな簡単でいいんですか?」

「なんか裏があるんじゃねぇの?」

俺はそれでも疑っていた。

「君はサクラさんのことが本当に大切なんだね」

「なっ!?」

そうきっぱり言われ顔がカーッと熱くなるのを感じた。

「そういう気持ちが僕にもあったら……。僕も勇気がないんです。自分の気持ちを押し殺してしまうことがよくある。今回のこともそうなんです。だから敢えて汚いことを言ってあなたに嫌われようと…」

「宮田さん…」

相手の顔がどんどん柔らかくなっているのに気付いた。

「貴方の気持ちをきちんと聞けて良かった。そして僕も自分の気持ちを言えて良かった」

そう言ってニコリと微笑んだ。

次期社長が見せる笑顔とは程遠いくらいに柔らかく、幼げに。

「でも父が…」

「何故僕と貴方の婚約が決まったか知っていますか?」

「いいえ」

「貴方と僕の父親が親友同士だった。ただそれだけですよ。信頼できる相手の子供なら、結婚させても大変な思いをせずにいられるだろう、貴方のお父親はそう思い無理にでも結婚させようとしていたのです。全部貴方のためにね」

それが真実だった…。

「でも会社のためって父は言っていた。有利になる結婚だって」

「本当のことなんて言えるわけないでしょう。常に企業のトップを走ってきた会社の社長が娘のために一肌脱いだなんて。恥ずかしくて言えなかったんでしょう。でも今の話は本当のことです」

サクラの父親はサクラのために結婚をさせようとしていた。

間違ったやり方かもしれなかったが、娘に幸せになって欲しくて……。

子供を思う気持ちは人それぞれ、か。

「僕も貴方のお父上のような人間になりたいものです……。さて、僕はこれで失礼致します。両父親には僕から上手く伝えておきますので、サクラさんもまた僕と話がしたくなったらいつでも連絡くださいね」

相手は最初の印象とはまるで違う物腰で会釈をすると去っていった。

「ありがとうございました!本当にありがとう」

サクラはその姿が見えなくなるまで礼を言い続けた。

その姿は車のライトに照らされていて、眩しかった。

「サクラ。………良かったじゃん」

真実が聞けて。

サクラは独りじゃない。

「うん、葵もありがとうね。この前宮田さんから桜の木をもらって、こんな迷った気持ちの私には似合わない花だからここに手向けちゃったんだ…。でも逃げちゃいけないってわかったよ。だって葵のお父さんも、私のお母さんも天国で私たちのこと見守ってくれているんだよね。なのに私、いつも独りとかって卑屈になってた」

「独りじゃないよ…」

俺がサクラを絶対に独りにはさせない。

「サクラは今までも、これからも独りじゃないよ」

「そうだよね、ありがとう。私、お父さんともきちんと話をしてみるよ」

希望に満ちた目は俺を安心させた。

真実って俺たちが考えているよりも簡単で意外に素直なのかもしれない。

俺たち自身が問題を難しくして、真実から遠のいていっているのかも……。

「相手と腹割って話さないと解決って難しいってことだよな」

サクラがその言葉に、感慨深げに頷いていた。

俺たちはようやく桜の木の下から歩き出したがお互いに思うことがあるのか、何も口を開こうとしなかった。

それでもサクラの隣は居心地が良かった。

涙が出そうになるくらい……。

俺ってこんなに涙もろかったっけ?

サクラのマンションに着くと、ようやくサクラが口を開いた。

「明日も会える?」

「会えるよ」

俺はそう、即答した後気付いた。

明日が最期の日だってことを。

「………葵?」

心配そうに覗き込む彼女の顔。

近くで見るとキレイで整った顔。

思わず触れたくなってしまう。

だけど触れたら最後。

俺は未練タラタラでこの世から消えることになるだろう。

そんなのは嫌だった。

俺がそんな迷った気持ちでいたら彼女はきっと心配する。

俺のためにそんな表情をするのは嫌だから。

「ごめん、明日は何する?どこか行く?」

「そうだね。臨海公園とかは?大きい観覧車があるでしょ」

「わかった。じゃあ、また明日」

最期の明日。

でも俺は決意していた。

彼女に切ない恋物語として終わらせないようにしよう、と。

どうやったらいいかとかそんなことはわからないけれど、そう思っていた。

空を見上げると都会の星空が悲しく光っていた。

四日目


臨海公園。

地下鉄の駅からバスで十分程度揺られると、大きな観覧車が見えてくる。

商業施設と、広い芝生。

サイクリングロードがあり、休日になるとカップルや家族連れが多く訪れる。

俺たちはバスから降りると、さっそく観覧車へ向かった。

日本一の大きさという観覧車の広告文句が乗り場の近くに貼られていた。

春休みだが平日である今日はさほど客もおらず、俺たちは五分くらいで乗ることが出来た。

今朝から俺の心臓が大きく波打っているのがわかる。

もう時間がないのだと警告しているかのように……。

わかってるよ、よ〜くわかってる。

俺はここにはいちゃいけない存在だもんな。

観覧車の中は結構広く四人くらいは楽に入れる大きさだった。

「楽しみ〜」

サクラが嬉しそうにはしゃぐ。

その向かいの席で俺はドギマギしていた。

こんな密室でサクラと二人きりなんて、どこを見ていいのかまったくわからない。

完全に目が泳いでしまっている……。

「晴れて良かったね〜。上に行ったら景色がいいんだろうなぁ」

「………だな」

この観覧車は一周するのに十五分かかるらしい。

俺にとっては長〜い十五分だ。

早く終わって欲しいけど、終わって欲しくない…。

そんな空気だった。

「葵、顔色悪いよ?」

「大丈夫だよ」

「嘘。もしかして高所恐怖症?」

サクラと密室でいるのに緊張して、観覧車を楽しめていないだけ。

………なんてとても言えない。

「別にそうじゃねぇよ」

俺は外の景色を見ながらそう言った。

まだ地上から十メートルといったところだろうか。

遠くまで見渡せる高さではなかった。

「葵…」

「え?あ、おい!」

サクラが突然席を立つと、俺の隣に腰掛けてきた。

より密接になってしまった俺とサクラ。

「大丈夫だよ」

サクラは優しく言うと、俺の手を握った。

俺がガチガチなのは高所恐怖症のせいだと勘違いしているのだろう。

握った手をもう片方の手で撫でてくれていた。

「私が隣にいるから。ね?」

チラリと隣にいるサクラの顔を盗み見る。

「あ、……ん」

目と目が合って思わず顔をそむけてしまった。

優しくて、キレイで、温かい。

もっともっとサクラのことが好きになってしまいそうだった。

緊張してドキドキして胸が苦しいのに、こんなに隣にいたいって思うのは何故だろう。

「ごめんね、私のわがままで観覧車に乗せちゃって」

「別にいいよ」

「でも葵と乗りたかったの。葵と景色見たかったんだ」

俺と…。

その言葉が嬉しくて、辛かった。

「………」

嬉しくて辛くて、俺は自分でもわからない行動をとってしまった。

「あ、葵?!」

俺は彼女の体を抱き締めていたのだった。

「ど、したの?」

「…わからない。わからないけど」

ううん。

本当はわかってる。

わかっているけど、口にしたくない。

もっとずっと隣にいたいのに……もうじき、サヨナラになることなんか……。

こんなにも時間が惜しいって思ったことない。

一分が、一秒が惜しみなくて大切で…。

「葵、痛いよ〜」

「え?!あ、御免!!」

想いと比例してきつく抱き締めていた腕を少し緩めた。

「もう少し、こうしていてもいい?」

「……うん。あったかいね、葵の腕の中」

嬉しそうな彼女の声が聞こえる。

彼女の声を聞くと安心する。

ここにいるんだって実感するから…。

「………神、様…………」

ポツリと俺の口から出てしまった。

「何?」

俺から体を離し、その言葉を再度伺うサクラ。

「え?あ、ううん。なんでもない」

そう言って必死に笑顔を見せた。

「そう?」

いまいち腑に落ちない顔をする彼女に、もっと自然な笑顔を向け頷いた。

「幸せだなって思っただけだよ!」

俺は無邪気に言うと、もう一度彼女を抱き締めた。

本心を告げたつもりだった。

だけど言葉にした途端、涙が零れてきてしまったのだ。

それを彼女に悟られたくなかった。


神様…。

もう少し、あと少しだけ……。

時間を止められないのなら、せめてあと少しだけ………。

彼女の傍にいさせてください。



昼過ぎ、俺たちはオープンカフェにいた。

広いカフェ内。

トラック式の売り場もあり、気軽に利用客が飲食できるようになっている。

天気が良く昼飯の時間は終わっていたが、俺たちのほかにも何組か食事をしていた。

「さ、食べよ」

今日はサクラが手料理を持ってきてくれていた。

二段式になっている弁当箱には、ウインナーやハンバーグ、サラダ、おにぎりが入っていた。

「味は保障できないけどね」

「でも美味そうだよ」

俺はウキウキしながら一番端のおにぎりを手に取った。

「いただっきま〜す」

サクラが見守る中、がぶっと大きな口でおにぎりを頬張る。

「ん、美味いよ」

口いっぱいにして俺は言った。

「良かった。それじゃ、私もいただきます」

ニコニコしながらサクラもおにぎりに手を付けた。

温かい空気が流れる。

晴れた空の下。

大好きな人との食事。

本当に最期の日に相応しいほど幸せだった。

ねぇ、サクラ……。

ありがとな。

俺は食べながら目を細めた。

俺たちが飯を食っているときも何組も家族や恋人達がカフェ内に訪れている。

「なんか遠足気分って感じだよね」

「あぁ、外で食べると余計、美味いな」

そう言って弁当箱に入っている唐揚げに手をつけようとしたときだった。

「あれ?燎…?」

俺たちのテーブルを通り過ぎようとしていた一組のカップルの、男のほうが声を掛けてきた。

「燎じゃね?」

「………?!」

タク…。

俺があの日、事故る直前まで一緒にいた奴だった。

口は悪いが気のいい奴で、連れの中でも一番仲が良かった。

「お前、燎だろ?!」

俺は驚いたが、少し俯いた。

『燎!どうしたんだよ?!何キレてんだよ!』

『別にキレてなんかねぇよ。うぜぇんだよ、ほっとけ』

『燎!』

俺はあの日、タクが掛けてくれた声を振り払って死んでいった。

あの時タクの言葉に耳を傾けていたら……俺がもっと人に心を開いていたら……。

でもそんなの今更だ。

俺は死んで、タクは生き続けている。

もし俺が生きていたとしても、タクには合わせる顔が無い。

「………違う」

「あ?」

「俺はあんたのことなんか知らねぇよ」

タクの顔を見てそう言ってしまった。

死んだ俺が生き返ったなんて混乱させるだけだ。

「葵…?知り合い?」

サクラがキョトンとした顔で俺を見ている。

そうだ、サクラに今バレたら困る。

こんなに楽しい食事の時間を悲しい空気にさせるわけにはいかない。

「知らない奴だよ」

俺は微笑んで言った。

ごめん、タク。

お前とももっと話したかったよ。

無愛想だった俺の傍にいつもお前はいてくれた。

つるんでくれた。

なのに俺は突っ撥ねてたんだよな。

お前にも礼を言っておきたかったのに……。

「ごめん、本当にあんたのこと知らねぇんだ」

「そ…っか。そうだよな。アイツはいない……。それにアイツ、お前みたいにそんなに柔らかく笑える奴じゃなかったから。だからアイツなわけねぇよな」

タク…。

初めて見た、タクの悲しそうな表情。

俺は耐え切れなかった。

「ねぇ、もう行こ」

タクの彼女らしき女が、タクの腕を引っ張った。

「あぁ。………悪ぃな、声なんか掛けちゃって」

「いや…」

昔の記憶が甦る。

お前と笑い合った日々、俺は忘れないよ。

タクが歩き出した。

もう二度と会えない、ダチ。

「あのさ!」

俺は立ち上がった。

「ん?」

タクが振り返る。

タク…俺は……。

「声掛けてくれてありがとな」

必死な声で、自然な笑みで。

「は?」

「あ、いや」

タクは俺の言葉に怪訝な顔をすると、彼女に腕を引っ張られるようにして俺の前から去って行った。

ありがとう、タク。

俺のこと覚えていてくれてありがとう。

俺が再び座ると、サクラが笑顔で唐揚げを差し出してくれた。

「食べよ」

「………あぁ」

俺は独りじゃなかったんだよな。

今も、昔も。

誰かに気に掛けてもらえることがこんなに当たり前で嬉しいことだったなんて……。

どうして俺は気付かなかったんだろう。

タクも母親も…。

「あの人、会えるといいね」

サクラがポツリ言う。

「ん?」

「さっきの人。葵とそっくりな人と会いたがっているようだったから」

「………だな」

俺が死んでるって知っているはずなのに。

タク、それでも俺に会いたいって思ってくれたりするのか?

「きっと会えるよね」

「……ん」

俺は幸せだったんだ。

皆は俺の傍にいてくれていたんだ。

………ありがとう。

俺はふとカフェ内で楽しそうに昼飯を食べている親子を見て思い出したかのように言った。

「あのさ、昨日会った藤原さんにまた今度会ったら伝えてもらえる?」

もう二度と会うことは無い俺の母親。

「あんたは独りじゃないって」

「?…葵が伝えたほうがいいんじゃない?」

「サクラが伝えたほうが、話が丸く収まるんだよ」

俺がまたあそこに行ったらきっとややこしくなる。

あの人にはあの人の今の人生がある。

それを壊したくなかった。

「必ず伝えて」

「ん、わかった」

俺は爽快な気分だった。

あんなに嫌って憎んでいた母親のことなのに、何故かスッキリとした気分だった。

俺が消えるまであと少し。

後悔はしたくない。

心の傍にいてくれた人を俺は見守っていきたいから…。

タク…母親……。

そして、サクラ…。

貴方を独りにはさせないよ。


 昼食を終え、臨海公園内にあるショッピングセンターでサクラの買い物を付き合った。

陽がどんどん沈んでいく。

彼女が何を話していたのか、どんな表情をしていたのか俺は覚えていない。

時間が経つのが怖くて、苦しくて堪らなかった。

彼女が隣にいても俺には余裕なんか全然無くて……。

俺はただただ願っていた。

時間が経たないことを、そして永遠に彼女の隣にいられることを。

買い物を終え外に出ると陽が沈んでいた。

臨海公園にある歩道。

観覧車がライトアップされていてロマンチックに演出されている。

だけど……もうすぐゲームセットだ。

ドクンと俺の心臓が波打った。

「明日、宮田さんとのこと父親と話すんだ。なんだか不安だな〜」

彼女に悟られないようにわざと平穏を保つように深呼吸して笑顔で答えた。

「大丈夫だよ。前にも言ったろ?サクラはサクラのままでいいんだって」

いつか貴方が俺に言ってくれた言葉。

気付いて、貴方こそそのままでいいってことを。

「そうだよね」

さっぱりとした声で彼女が言う。

そのままのサクラが俺は好きだ。

悩んだり、怒ったり、泣いたり……自分の感情に素直な彼女が好きだから……。

迷わないで欲しい、見失わないで欲しい。

「私ね、気付いたんだ。葵と一緒にいて、自分の気持ちに」

「ん?」

真正面に向き直すとサクラは大きく息を吸った。

「私も葵のことが好きだよ」

「………え?」

突然の告白。

俺は正直驚いてしまった…。

「初めはね、宮田さんとのことでうんざりしていて、ちょうど会った葵を口実にしようとしていたの。この人が好きだから貴方とは付き合えないって……。だから出会った日、葵を誘ったんだけど……口実にするなんて卑怯なこと出来なかった。葵が優しくて、私の話をちゃんと聞いてくれたから。そして気付いたら凄く好きになってたの」

俺がひたすら目を丸くしていると、彼女はいつもの笑顔を向けてくれた。

優しくて、柔らかい。

「昔、葵がどうだったとか関係ない。今ここにいる葵が好きなの。それじゃ葵は不満?」

彼女の言葉にブンブンと首を横に振った。

「フフ。…ありがとう」

照れた表情で彼女は言う。

何か言わなきゃ。

彼女のために何か…。

俺の頭の中はフル回転だ。

だって、まさか彼女が俺のことを好きになってくれるなんて思わなかったし……。嬉しさが、もう離れなければならないという運命の悪戯の切なさを上回る。

「俺…、俺も好きだから。貴方を大切に思ってる」

俺の告白に、彼女は温かい笑みを零した。

そっと彼女の手を握る。

柔らかい…。

「俺が守るから。何があっても、守る。約束するよ」

「わかってるよ」

「俺のこと、信じてくれる?」

「大丈夫。葵は心配性だな〜。大丈夫だよ」

おっかしいな…。

俺が彼女を安心させなきゃいけないのに、彼女の大丈夫って言う言葉に俺のほうが安心しているなんて。

バッカみてぇ。

「…ハハッ。笑っちゃうよ…」

やっぱり俺は情けない。

「どうしたの?」

「ん?何でもねぇよ。ただ、女って凄ぇなと思ってさ」

「………?」

彼女がいてくれてよかったと本当に思う。

彼女が彼女であることに感謝する。

そして、俺が俺であったことにも感謝したい。

だってどっちかが違っていたら、こんな風に相手を想えることはなかったと思うから。

そう思った瞬間に体がズンと重くなった。

………そろそろ時間か。

覚悟は出来ていた。

彼女と出会って四日。

一日、一日カウントしてきた。

だけど早すぎる……。

時が過ぎるのが早すぎるよ。

けど、もうゲームオーバーだ。これ以上は本当の罰当たりになる。

「……。貴方は…強いから、きっと平気だよね?」

俺は切り替えしたように、静かな口調で言った。

「……え?」

「俺が……いなくても…」

彼女の表情が瞬く間に不安に満ちていく。

そりゃそうだ。

今の俺の言葉は、どう聞いても別れの言葉にしか聞こえない。

「…ごめん、本当急だよな」

「何言ってるの?…葵?」

空気が一瞬で変わる。

幸せな温かい空気から、ヒンヤリとした重い空気へ。

目の前にいる彼女の動揺が伝わってくる、が、俺のほうこそ動揺が激しくて……彼女への配慮が出来ない状態だ。

「今から大切なことを話すよ。だからきちんと聞いて」

もしかしたら彼女はこれから話すことを信じないかもしれない。

いや、信じないだろうな。

だけど、それでも言わなきゃならない…。

誰よりも、何よりも大切な人だから。

俺の言葉に彼女は深く頷く。

それを確認してから俺は口を開いて話し出した。

「俺、事故ったって言ったじゃん?あの日、無免で俺は単車に乗っていた。無免って言っても、よく乗ってたから運転が下手ってわけじゃなかったんだ。だけど夜で大雨の日って初めてで……」

あの日の光景が脳裏に浮かんでくる。

体に叩き付ける雨の粒。

耳に響く豪雨の音。

「なのに強がって、ヘルメットもしなかった。連れと別れた後、孤独を紛らわせるためにスピード出して走った。単車に乗っているときだけは、孤独とか嫌なこととか忘れられたから…。だけど、結局はそんな俺に神から罰が下ったんだ。……タイヤがスピンした。本当に一瞬の出来事だったよ」

視界が瞬時に様変わりしていく。

焦点が合わない。

濡れた路面が目の中へ飛び込んでくる。

そして、遠くのほうでドスンと何やら生々しい音が聞こえ……。

「俺は、……死んだ」

記憶が途切れた。

その後は、自分の葬式を見て……それからはずっとあの路側帯にある小さな墓で一年もの間、人を観察していた。

薄暗い闇の中で一人、ずっと取り残されていた。

俺の心の中でずっと孤独な雨が降り続いていた。

一周忌だった日、貴方が現れたんだ。

「貴方は俺の光だった。初めて見たとき、貴方の姿に心が奪われたんだ」

貴方の微笑が心を安心させた。

貴方の涙が心を締め付けた。

「前に、命に代えても貴方を守るって言ったろ?ここでまた、命を亡くすことになったら……それこそ、その言葉が実行されるときなんだ。俺の命を引き換えに、貴方を辛い目に一生遭わせない」

そのとき、パチン!と何かが響いた。

俺の目から星が散りばめられたように感じた後、ジンジンと頬が熱く痛くなってきた。

彼女が俺の頬を叩いたって気付くのに時間はかからなかった。

だって彼女は、叩いた俺の頬より痛そうに自分の手を握っていたから。

そして悲愴に暮れた表情で哀しそうな涙を零すんだ。

「わかってない。葵は全然わかってないよ!私の辛いことは、私が決める。私の一番辛いことは、葵……貴方と別れることだよ?命に代えて私を守るなんてことしなくてもいい。私はただ、葵にずっと傍にいてほしいだけなの」

………彼女の涙が俺の心を痛くする。

そうだな、わかっていないのは俺のほうだ。

彼女と出会ったせいで、彼女をまた悲しい目に遭わせることになるんだもんな。

「…ごめん」

「謝らないで……」

「だけど、俺…」

彼女は首を横に振った。

「なんとなくわかってた、こうなること」

「―――――え?」

今、なんて…??

「確証を持っていたわけじゃないけど、なんとなく、ね。だって葵、突然現れたんだもん。だからいつか、突然いなくなるんだろうな…って思ってた。けど、それはあくまでも私の勝手な想像で………。それがまさか本当になるなんて」

更に顔が陰っていく…。

「俺の言葉、信じてくれるの?」

「信じるも信じないも、葵は嘘をつく子じゃないでしょ?」

そう言って俺の手を取り『ホラ』と視線を手に落とすように合図した。

「―――――え!?」

透けていた。

既に指先は縁だけを残し、中は透けている状態だった。

わかっていたことだけど、こうやって消えていくのかと目の当たりにされて…俺は、かなり衝撃を受けた。

「俺、また…死ぬんだ。大好きな貴方を残して……。こうやって死んでいくんだ」

無意識にポツリと呟く。

二度目のほうが辛いのは何故だろう。

死ぬことってこんなに辛いものだったんだ。

「葵…?」

彼女が優しく俺の名を呼んだ。

「葵が死ぬなら、私も死ぬよ」

「な、!?」

「だって当たり前でしょ?こんなに……こんなに好きになった人いないもん」

彼女の感情と共に比例して一気に溢れ出していく涙たち。

こんな表情の彼女は見たことがない。

今までで一番、哀しい顔をしている。

彼女を守ってあげたい……助けてあげたい、そう思っていたのに結局俺が一番彼女に哀しい思いをさせてしまった。

「貴方が死んだら、俺が悲しむよ」

「葵が死んだら私が悲しむ!」

「………悲しまないで。こんな俺なんかで…」

俺一人がいなくなったって、世界は変わらない。

たいした存在じゃないからな。

「こんな俺、なんて言わないでよ。私にとったら、たった一人の人なんだから。誰よりも大切な…」

貴方は知らないよね。

俺を思って泣いてくれる、笑ってくれる、『大切』だって言ってくれることがどんなに嬉しいか。

どんなに哀しいかを。

「俺にとっても大切な人だよ。失いたくなんかない。だからずっと生きていて欲しい。ずっとずうっと、生きていて欲しいんだ」

俺の決意の瞳に彼女は溜息を漏らした。

「本当、葵には敵わないや……。ずっと、って私は不老不死の体を持っているわけじゃないんだからね」

そう言いながら小さく頬を膨らませる。

「――――――ありがとう」

俺にはその言葉しか残されていなかった。

きっと、何度言っても言い足りない言葉だろう。

「まったく〜」

苦笑しながら彼女は言う。

ねぇ、貴方の目に僕はどう映っている?

初めて会った日のように、幼い弟のように映っているのかな?

それじゃ、貴方の心に俺はどう映っている?

本当は俺だってずっとここにいたいし、彼女と離れ離れになんかなりたくない。

だけど、覚悟を決めていたんだ。

貴方と離れることを。

「まさかこんなに辛いとは……」

思わなかったけどさ。

けどね、俺が死んでも貴方の笑顔だけは残しておきたいんだ。

貴方の優しい笑顔をずっと見せていて欲しい。

いろんな人に。

俺だけじゃないと思う。

貴方の笑顔に支えられている人は…。

俺は、彼女に微笑んだ。

「本当は独り占めしたいくらいなんだけどね」

「…え?」

だけど、それじゃもっと貴方を苦しめていく。

そんなのは御免だからさ。

「葵…」

「ん?」

「初めて会った日に言ってくれたよね。勇気四日分、処方してやるって。憶えてる?」

俺は静かに頷いた。

「あれ、もう一度処方してくれない?」

「―――――――え?」

「これからも葵がいなくなっても……きっと、頑張って…自分の足で歩いていける勇気をちょうだい」

彼女の震えた声に俺は哀しく笑った。

「…バッカじゃねぇの?」

彼女から言われると思わなかった。

“葵がいなくなっても”

本当にいなくなるんだって思わされた。

実感というよりも現実が……、俺ではなく彼女の現実が手に取るように感じられた。

「そんなの、当たり前じゃん。勇気と俺の全部、サクラにやるよ。四日分じゃなくて、一生分を」

もし一回目の人生で俺が幸せになれる権利を持っていたら、その分も彼女にプレゼントしたいと思う。そして二回目の人生での幸福も……。

俺が好きになった人なんだ。

サクラが俺のために幸せになる権利はあるはず。

「何もかもサクラにあげるよ。そして刻んでいってほしい」

「葵…」

潤んだ瞳の彼女が、俺の視界の中にある。

「俺、前に言ったよね?貴方を置いていかないって。ずっと近くで見守っているって。それは本当だから。俺が消えても、俺の想いと存在は貴方と一緒に在るから」

貴方がこれから誰を想うことになっても。

何年、何十年と経っても。

「俺は貴方から離れない。ずっと傍にいるよ」

俺は柔らかく言った。

「………死なないよ」

震えた声で彼女が口を開く。

「え?」

「葵は死なないってば。死ぬのは一度で十分だよ。葵は、」

そう言って力強く俺の瞳を見た。

初めて見たときから知っていたし、思っていた。

彼女が強いことを。

誰よりも、芯が真っ直ぐで強いってことを。

俺の手には決して届かないほど、強い人だってことを。

「葵は光になるんだよ」

そんな彼女に俺は支えられていたんだ。

ずっと、ずっと。

「………貴方が言うなら、それは真実だね」

微かに唇を動かすと、二の腕のほうまでほとんど消えかけている俺のその腕で彼女を抱き締めた。

彼女の体温が安らかな気持ちにさせてくれる。

悲しくて苦しくて、辛い現実からその体温だけが俺を安堵の場所へと連れて行ってくれるようだった。

「私もいつかそこへ行けるかな……」

「行けるよ。サクラがシワシワな婆さんになってからね」

「待っていてくれる……?私がお婆さんになってそこに行くまで」

待つよ。

いつまでも貴方を待つ。

だけど、それは俺のわがままになる。

「その時ちゃんと幸せだったら迎えに行ってあげるよ」

俺は彼女の体を静かに離しながら言った。

「葵……ッ」

そんな俺を見て彼女は声を震わせた。

…………さよならだ。

俺の体はほとんど消えていたから―――――。

「ねぇ、どこに行くの!?」

焦った表情。

潤む瞳。

別れの現実が押し寄せる。

「サクラ……すげぇ、いい名前。初めて会ったときから、そうずっと思ってたよ」

「え………?」

桜、その花言葉のように。

「純潔で清らからで…。貴方は俺の愛だった」

もう、そろそろ時間だ……。体が重くなっていく。

「ごめん。もう、行かなきゃ。………楽しかったよ、貴方といられて」

「嫌だよ、どこに行くの?私も連れてって!!」

瞳を潤ませ、困った顔をする貴方を抱き締めたい。

手を伸ばして、同じ世界へ奪い去ってしまいたい。

きっと、貴方は抵抗しないだろう。

だって俺と貴方の気持ちは同じだから……。

俺だって、貴方が言うようにこの場にいたい。この地にずっといたい。

「だけど、駄目なんだ…」

運命がそうさせてくれない。

こんなにも悲しい運命なら、いっそこっちから壊してやりたいくらいだけど……貴方はそんなことをしたらきっと悲しむから。

苦しい思いをするだろうから。

だから、俺は笑っていたい。貴方の前では、ずっと笑顔でいたい。

「ねぇ、俺の願い聞いてくれる?」

「………え?」

どんな辛い状況にいても、どんな苦しい立場に置かれても、俺は貴方がいるだけで幸せだった。貴方が俺の隣にいる。貴方が生きている。

金では買えない永久不変の愛。

俺はそれを知ったんだ。

だから俺は、

「貴方の笑顔が見たい…。笑って欲しい。そして俺の本当の名前を知って欲しいんだ」

俺の宝をもう一度見たい。

キレイな宝物を。

「本当の…?」

「うん、俺の本当の名前は燎。………燎だよ」

唯一ずっとつき続けていた彼女への嘘。

やっとその呪縛から解ける…。

彼女は戸惑っていたが、俺の変わらぬ瞳に少しだけ自分の瞳を重ねると優しく…。

笑った。

そして、こう言った。

「………燎」

何度も、何度も彼女は俺の嘘の名を呼んだ。

もう数え切れないくらい。

だけど、今日ほど今ほど胸が切なく、熱くなっていくことはなかった。

ありがとう、俺の本当の名前を知ってくれて。

ありがとう、呼んでくれて。

その名前で呼ばれると本当に生きているんだって実感する。

バカだな……。

もっと早く自分の本当の名前を貴方に知ってもらえばよかったのに。

結局後悔ばかりだ…。

触れることの出来ない、愛しい人。

それでも触れたいと願ってしまう。

「サクラ…。貴方が好きだよ。とっても、愛してる」

「燎?」

透けた体。

もう、時間がない俺と貴方の距離。

俺は少しずつ彼女に近付いた。そして、触れることの出来ない手で彼女の頬を包み込んだ。触れていないのに、何でだろう。

「あったかい…」

彼女のぬくもりが伝わってくるようだ。

「俺の気持ちは変わらない。貴方を見守っていくから…」

瞳から零れ落ちる涙が、俺の心を締め付ける。

もう泣かないで……。

そんな想いと共に俺は彼女の瞳に唇を落とした。

もっと好きだって言いたかった。

もっとありがとうって言いたかった。

もっといっぱい貴方に触れたかった。

透けて、ほとんど見えなくなった俺の姿。

彼女にはどう映っているのだろうか。

「ありがとう…」

呟くと、俺は彼女の前から消え去った。

「りょう――――ッ!」

彼女の声が俺の心に届いてくる。響いて、波のように何度も繰り返される。

その日、俺と彼女が初めて会ったあの路側帯に咲いていた桜が全て散っていたことを、俺は、彼女の前から消えてから知った。

まさしく俺の命のように……短く、儚く。

………淡い季節。

四日の恋と永遠の愛。

もう一度季節が巡り、そしてまた桜が咲く。

俺は、俺たちの出会いをずっと奇跡だと思っていたんだ。

だけど、違う。

奇跡って二度と起こらないことを指す言葉だよね。

だったら俺と貴方の出会いは奇跡なんかじゃなくて偶然……いや、もっと確実な必然になるね。

これから俺は貴方をまた触れられない、交わってはいけない世界から見守っていくことになる。

あの日、彼女が俺の前に初めて現れた日。

闇にいた俺を彼女は引っ張り出してくれた。淡いピンク色に染まる桜を俺に差し出して、温かく笑って。

嬉しかったんだ。そんな笑顔を向けられたことなんかなかったから。

だから、思う。

今度は俺がサクラを助ける番なんだ。

どんな形でもいいから……生きてまた貴方に会いたかった。

サクラ、貴方に…。

サクラに傍にいてほしいんじゃなくて、俺がサクラの傍にいたかった。

この出会いが奇跡なんかじゃないなら、もう一度…何度でも俺は貴方に会えるよね?そして、貴方の温かい笑顔を見れるんだ。

きっと、何度でも……。

サクラ。

貴方の名前を口に出して呼びたい。そしたら貴方は笑顔を向けて俺のところに駆け寄ってくれるんだろ?

今度生き返ったら、もう俺は桜と共に散ったりしない。

奇跡なんか、運命なんか信じない。

ただ目の前にある真実を、そして俺の想いを信じて生きていく。

「サクラ……俺の永遠の人」

俺、二回目の人生は本当幸せだったよ。

それは勿論、貴方に会えたから。

そして最期に貴方は俺の名前を呼んでくれた。

何度聞いても聞き足りない貴方の声、言葉。

すっげぇ嬉しかった。

知ってる?

俺貴方の言葉の中で、一番好きな言の葉があったんだ。

それは俺を呼ぶときの貴方の声。

俺はその声に、言葉に何度でも振り返るよ。

貴方が、そこにいてくれることを信じて……。

また季節が巡る。

淡いピンク色の桜が咲く季節が、幾度も繰り返されていく―――――。

ねぇ、サクラ?

俺の我儘を聞いてくれる?

……俺を。

俺を、忘れないで。

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― 新着の感想 ―
[一言] 別れのシーンが本当に綺麗で共感できる部分が多々ありました。 涙誘われましたね。
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