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『だれか、そこにいるの?』
そのまま、声を殺して柱のかげに隠れているべきだったのか。それとも、素知らぬ顔でその場を立ち去り、二度と彼女の前に現れるべきではなかったのか。
『あの……ごめんなさい。誰もいないと思ったから……だからぼく……』
たどたどしい口調で語りかけてくる少女に、思わずため息をついてしまった男は、慌てて自身の口をふさいだ。
けれど、もう遅い。
『うるさくして、ごめんなさい………』
『謝らないでください』
思わず声を発していた。
話しかける気など更々なかった男は、どうしてこうなったのか、と。すでに収拾がつかなくなっている弁解のために、もういちどため息をつく。
『謝る必要はありません。私が、ここに踏み入ってしまったことの方が問題なのですから』
『ぼくは咎めません』
だから姿を現してください。と、今度は驚くほど落ち着いた声で、彼女はいった。
『──できません』
それでは貴方が咎められてしまうから、と。
そう言おうとして。
『では……ここには、さいしょから誰もいなかったことにします』
逆に、そう言い返されてしまった。
『ぼくには、人前でうたってはいけないという決まりごとがあるんです。だから……誰もいないここでしか、自由にうたうことができなくて……でも、いいんです。これは、ぼくの独り言だから。神様だってきっと許してくれます。ひとりだけど、なにも持ってないわけじゃなくて。ぼくには、優しい母様と、神様がとくべつにあたえてくださった歌があるから』
姿を現すことができない自分に、彼女はいったいどんな表情をしていたのだろうか。
柱から衣服がはみ出して正体を悟られないように。
彼女が人目を気にせず自由に歌えるように。
そっと、着慣れない神詠導師のローブを手繰り寄せながら、いつもどおり誰もいない宮殿で歌いはじめた彼女の歌声に耳を傾けながら、男は静かに目を伏せた。
入り江に打ち寄せる波の音と、この幼い少女の歌声が、この先ずっと、永遠に途切れないことを願いながら。
その想いすら悟られまいと、男は風に紛れて微笑んだ。