ローランド孤児院
「リぃ兄ちゃんたちが悪いんだからな。ちびたちに黙ってこっそり園を抜け出したりするから」
監視役の少年を伴い、罰として園の片隅にある小さな野菜畑で草むしりをすることになったリフは、雨露に触れた軍手で頬を泥だらけにしながら、仮支柱にくくりつけられたトマト苗の狭間で首をすくめていた。
「だって、あれはアマーリアが──」
内緒で抜け出したりするから……と、いう言葉をリフは呑み込んだ。
走り去る彼女の背中を見た時。
自分も、呼ばれているような気がしたのだ。海と、あの少女に。
「……男の“ぎむ”だよ。いくら日の出前だからって、女の子をひとりで出歩かせていい時間じゃないだろ」
「ふーん」
「………」
頬杖をついてこちらを見つめてくる視線。
今頃、自分と同じようにひとりで皿洗いをしているのだろうアマーリアの声なき悲鳴を聞きながら、リフは幼馴染みの視線から目をそらした。
「ちぇっ。おれも見たかったなぁ」
「だからごめんってば」
「おーい、リフー! エルバー!」
孤児院の中から顔を出して、陽気に手を振るアマーリアの笑顔。
目の眩むような青空の下で、朝露が弾ける緑色の芝生を蹴り、幼い子どもたちがなだらかな坂をかけ下りてくる。
「仕事が一段落したら、アマーリ姉がお茶いれてくれるってさ」
薄茶色の髪を後ろで緩く結わえた細身のエルバが、坂を下る途中でつまづいたのだろうサジュを拾い上げて孤児院へと引き返してゆく。
新緑の葉を繁らせはじめた木々のざわめきと、はやくおいでと自身を手招くたくさんの声。小高い丘の上に建つ『ローランド孤児院』と、泣きじゃくる子どもをエルバの手から引き取るアマーリアの姿を見上げながら、リフは「しょうがないな」と苦笑いしながら、ゆっくりと立ち上がった。
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大きな洗濯カゴを抱え、お風呂場と洗濯物干し場を何度も行き来するアマーリアと、髪を濡らしたまま縦横無尽に走り回る子ども達。その背中にちっとも手が届きそうにないリフの姿を、窓辺に佇む初老の男セネクス・ローランドは、慈愛に満ちた優しい眼差しで見つめていた。
「セネクス先生」
神妙な面持ちで声をかけてきたエルバに、セネクスはわずかに姿勢を屈めて応えた。
「おれ……」
「不安か、住み慣れた場所を離れるのは」
問いかけるよりも早く、返された言葉に。
エルバは何も言えなくなった。
「幸せになることを恐れるな」
幸せになれと、セネクスは言った。
「せんせ……」
新たな『家族』を得て、この孤児院を出ていく者はそう少なくない。就職して自活する者もいれば、結婚し自ら家庭を持つ者もいる。幼いうちに里親が見つかれば、孤児院を出て行くのは至極当然のことなのだ。
「いま以上に、な」
そういって、セネクスは視線を転じた。
子ども逹がはしゃぎ回る室内を見渡し、この日溜まりのような場所で過ごしてきた日々を、ともに懐かしく思う。
「いま以上に?」
「そうだ」
“いま以上に”
「……そんなの、欲張りだよ」
孤児院での生活は想像以上に貧しかった。
身長が少しずつ高くなるたびに、それを実感する。
無知な子どもだったなら言えただろう我儘も、いつの間にか言えなくなった。
無い物ねだりなんて──できなかった。
それでも、生きていく為に大切なモノだけは、この手に溢れて。持ちきれなくて。
「欲張りでもかまわん」
そういって、セネクスは俯くエルバの頭に手を置き。
歩み寄る小さな足音に驚いて、その手はすぐに離れていった。
「エルバも、いっしょにあそぼ!」
小さくて柔らかな手が、エルバの手を掴んで離さなかった。
逆光を背に微笑む養父と、手招かれる場所へ駆け出すエルバ。
少年の姿が子どもたちの輪に溶け込んでいくのを見届けると、日溜まりに取り残されたセネクスの笑みが──不意にかげった。
「…──これが、人の業か」
これが“報い”なのか、と。
まだ温もりを覚えている手のひらをきつく握り締めながらセネクスは呟いた。
「セネクス先生、どうかしたの?」
日溜まりに近づく少女の気配に気づいて、セネクスは慌てて顔を上げた。
陽の光りを受けて輝く、黄金色の髪と翠色の眸を見て。
口にしかけた名前を、呑み込んだ。
「──何でもない。少し、考え事をしていただけだ」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ」
「ならいいの」
取り繕えられた笑顔に、彼女もまた微笑みながら頷いた。
「アマーリア」
「なぁに、先生」
「お前達には、本当に感謝している」
セネクスが言う、もうひとりの存在に気付いて、アマーリアの表情は途端に明るくなった。
日溜まりに足を踏み入れず、影を踏んで立ち尽くしていた少年に、アマーリアは「こっちだよ」と言って手を差し出した。
「リフ」
日影から足を踏み出した少年が、灰色の髪を銀色に輝かせて微笑んだ。
ああ、良かった。
───良かった?
「どうしたの? アマーリア」
「え? あ……ううん。なんでもないよ」
繋いだ手の温もりに、安堵し。
「なんでもないよ、リフ」
アマーリアは頭を振って、笑ってみせた。