Ⅷ
ケイトがカイルを迎えに来たのは、陽が完全に昇ってからだった。
いつもより体の線を強調した服を着ていて、細い腰回りにはシルクのリボンが飾られている。
領主が会いに来たのだ、とイルマは気づいた。領主はケイトに夢中で、数週間おきに訪ねていて、村でも盛大に噂になっている。ただケイトは領主が訪ねてきたところで、普段より服装に気を遣う位で、別段飾り立てることもない。そういうところにも領主は夢中なのだ、とイルマは考えている。
「カイル、帰るわよ」
ケイトは家に入るつもりは無いようで、扉を開いて腕を組んだ。
前の言い争いで、ケイトには距離を置かれていた。
イルマも室内には呼ぶつもりはなかったが、少しため息を吐いて、
「ウサギ肉があるから、食べていく?」
と言った。
ケイトは目を細めて、思案するように顎に指を添えた。
「ごちそうになろうかしら」
そして、室内に入ってきた。
ケイトが座ったのを確認して、皿を配膳する。それはカイルが殺したクリッキーの肉で、朝にカイルも少し食べた。どういう肉なのか分かっていながら、おいしい、と笑顔で食べていた。
イルマはそれをとりあえず、幼いからと片付けることにした。自身の道徳に関する確信がなかったからでもあった。
「ねぇイルマ」
ケイトは食事を食べ終え、ナプキンで口を拭って、猫なで声で言う。カイルの勉強を見ていたイルマは振り返った。
「貴女、母親がどうにかなったら行くわけ?」
「……ケイトが説得するの?」
じっとケイトの黄金の瞳を見つめる。
「違うわよ。私そういうの苦手だもの。……カイルがするって」
カイルがするって。繰り返して、イルマは思わず噴出した。
「何が可笑しいの?」
何もかも。イルマはそう思ったが、静かに首を振るだけにした。ケイトとカイルとは友人だと思ってたし、その関係を壊したくなかった。
だから何とか気持ちを伝えようと、ずっと考えていたことを言った。
「私ね、思う。私はこの生活には色々不満もあるけど、このまま生きていたら満足すると思う。お母さんに尽くして、その後は結婚できないだろうけど、多分村長さんは、うまく私のことをしてくれる。
そしてケイトは違う。貴女は傲慢であると思う、だけど、貴女は傲慢であるのがとても似合う。権力志向で、貪欲な美しい人だと、心底思ってる。
私はつまらない人間だけど、ケイトは私のことを親友だと思ってくれてる、勿論私も。
だから、それでいいじゃない。
どうしても交わらないものもあるし、今はそういう場面なんだと思う。ここで離れたとしても、私たちは親しい人なんだから」
ゆっくり、気持ちが伝わるように言った。
ケイトは、口を引き結んで聞いていたが、イルマが言葉を結んだ瞬間、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「貴女――――貴女は! 勉強もして、矛盾にも気づいて、現実主義で、そして――大人のくせに、頭もいいくせに、何でそんなにつまらないの! 不満でしょ、腹も立つでしょ、貴女は耐えられるの!? 馬鹿で変な風習に固執している糞どもに、従属し続ける毎日を!」
耐えられてしまうのだ。
だって私は、自負がない。
四季が来た。
ケイトが来なくなって、イルマの日常はつまらなくなった、だけれど別にそれでもよかった。ただ、友情の復旧は願っていた。
母親は椅子に座り、疲れた様子で瞑目して、縫物を辞めていた。
「お母さん、大丈夫なの?」
自室から出たイルマはその様子を見て問いかけた。
「えぇ……」
目を開けた母親は、目が落ちくぼんで、肌色が悪い。老けたのだろうな、と思うと、同時に支えなければという責任を感じた。見つめていると、少し気まずそうに、擦れた低い声で、「ねえ」と呼びかけてくる。
「ねえ……あそこの、息子知ってかい? ほら、道具直しの」
道具直しの息子。二、三人思いつくが、誰なのか分からない。首を傾げると、母親はまるで察しが悪いというように、強い口調になった。
「ほら! あの黒髪のヒントンだよ!」
ああ、と思いついて、イルマは顔をしかめた。ヒントン、黒髪に青色の瞳をした、喧嘩好きの男だ。
「ヒントンでしょう。知ってる」
「ああ、やっぱり。ヒントンは村で一番幅を利かせてるからねえ」
青年の集まりではいつも中央にいて、げらげらと笑っている。何か気に入らないことがあると、目を怒らせ、鼻を膨らませて、鼻に殴り掛かる。気の弱い青年は何人もヒントンにやられている。
色々なことを思い出して、イルマは腹が立った。何にもしていない人を、自分が優位に居るからと殴り掛かるような人間なのだ。イルマだって、村の中央で会ったりすると、げらげらと笑われ、良く分からない手の形で辱められることがある。それがどういう意味のものか分からなくても、悪いものだとは気付く。
「村の娘も、ヒントンにからかわれると顔真っ赤にしてねえ」
道具直しは職人なので、生活には困らない。ヒントンも後を継ぐだろう。だから村の娘がそういう対象として見ることもあるだろう、とイルマは思った。
「それで、ねえ。ヒントンが、ねえ。あんたのこと、祭りに誘いたいんだって」
イルマは黙って、そしてわずかに目を見開いた。
「ヒントンは身体も大きいし、口も達者だし、職人になるし、で。ねえ、それに守ってくれるでしょう、あんたのこと。だから、どう?」
イルマはゆっくり息を吐いた。そして微笑んで、首を振った。
母が思いやってくれたことは嬉しい、ただ実物の思いやりはいらない。納得させなければと、微笑みを浮かべたまま言う。
「それは嬉しいけど。でも私がヒントンみたいな人気ものとお祭りに出たら、あまりよくないと思うの。つり合いもあるし。
だからヒントンにはそんなの、もっとつり合いの取れる人と一緒にって言っといて? ほら、お針子の、あの子とか」
「……そう、ねえ。あんたとヒントンじゃ、つり合いはとれないしね」
納得したように、何度かどの言葉をつぶやく、
「まあ、ヒントンほどじゃなかったら、あんたを貰ってくれるのを探しとくよ」
「ありがとう」
イルマは笑った。
祭りの当日。去年は司祭宅へ行った、と思いながらイルマは庭の手入れをしていた。
夕暮れ、暗い森に灯がさし、地面も濃く橙色に染まる。昼から吹く清風は夜の更けと共に、静かなものに変わっていた。
頬に当たる風が、冷たさをともし始めて、イルマは室内に戻ろうかと考え始めていた。
朝から何となく母親の様子がおかしく、それも気になっていた。
ちょうど腰を上げて、伸ばしている時、「おい」と低く不機嫌そうな声がきこえた。
一瞬、耳を疑ったイルマが恐る恐る声の主を確認すると、それは黒髪のヒントン――イルマを祭りに誘ってきた――本人だった。
ぎょっとして、一歩身を引くと、大股で一歩近づかれる。草の踏む音が大きい。
「なに?」
声が裏返った。ヒントンは無表情で、それがイルマにとって恐ろしかった。
「かまととぶってんのか? ほら来いよ。
てか、何だよ、そのきったねえ服。
薄汚い女だなあ」
げらげらと、本当に楽しそうに話している。心底、イルマのことを侮蔑しているようだった。
青い瞳が意地悪そうに細められる。
「祭りに行かねえでも、お家にいてもいいぞ?」
にやにやと近づき、固まったイルマの腕を強引につかんだ。
「ちょっと!」
その言葉と共に、扉が開く音がした。見ると、母親が玄関によりかかっている。声は非難の様に聞こえた。
余りの間の良さだった。
疑問に思うと同時に、イルマはすぐに真相に気づいた。
「ちゃんと祭りに連れてってくれる約束だからね」
母の声。イルマはゆっくり肩の力を抜いた。
仕方ない、仕方ない。