Ⅶ
市場に行くと、ほんの数秒で囲まれた。
「ああ坊や~、どうちたのぉ?」
そう言いながら、果物売りの女店主がカイルに素早く果物を持たせ、ぞろぞろと集まった人間はパンやら、古着やらとさまざまなものを貢いでいく。
イルマは強張った顔でそれを眺めていた。
馴染めないのは、カイル自身の奇矯さもあるが、実際のところ、村人の過剰な愛情にもあった。市場に出れば、でれでれした顔でカイルを囲んでいくのだ。そして連れて歩いているイルマは過剰な敵愾心を抱かれ、嫉妬される。
「お姉さんのお家へ来ない? お菓子を出してあげるわよ」
イルマに一切視線を向けず、跪いてカイルと視線を合わせる人間たち。
「つまらないでしゅう? ねっ、皆で遊びましょ?」
「可愛いわね~」
イルマは母親のカイルへの愛情もそうだが、目の前の光景に違和感を抱いてしまう。
そして、カイルはいつも通りに、食料だけ受け取り、冷めた目で――伸ばされた手を振り払うのだ。
カイルは、本当に気難しい子だ。
初めて会ったときに、ケイトは『この子、好き嫌いが激しいの。』と言っていた。かかわりあったときもそんなことはなく人懐っこいと思っていた、けれど間違いだった。可愛く、純粋な、優しい子供。イルマが抱いていた印象は、現実とはずいぶん乖離していた。初めて、カイルと手をつないで、市場に出たときだっただろうか。人に囲まれたカイルに、ああ優しく純粋な子だから可愛がられているんだ、と嬉しく――誇らしささえ覚えた。
村の皆がカイルの良さを分かってくれている。
だけど、カイルは冷淡だった。イルマの陰に隠れたときは人見知りを起こしていると思って『挨拶したら?』とほほえましく思ったとき、カイルは無言だった。
離れた後、イルマは戸惑いと不安に苛まれていた。
想起したのはあのとき――司祭宅へ訪れたときのことだった。イルマは不自然さを問いただそうとして、話がそれてしまい、結局何故カイルが豪勢な食事を食しているのか聞けなかった。いや、そのあとは聞きづらかったのだ。ケイトと価値観の共有を果たし、そのうえでまた――――相容れないと分かってしまうのが怖かった。
その感覚が襲ってきた。そして見て見ぬふりをした。
その罰なのか、村での滞在期間が長くなるほど、カイルの愛されぶりには付いていけない、という思いを抱いた。
イルマは宗教に関していえば、ケイトと話して否定的になっていたが、神という存在には懐疑と同時に信心があった。だからこそ、畏敬の存在を許容していて、カイルに働いているのはそういう力ではないかと思えた。
ぼんやりするイルマは手を引かれて、はっと気を戻した。
「イルマお姉ちゃん、早くお家帰ろ?」
カイルの柔らかな手の感触を感じながら、イルマは首を振った。
「まだ駄目よ。今日の食べ物買わなくちゃ」
「大丈夫だよ? ほら」
そう言って貢いでもらったものを掲げる。パン、果物、野菜、芋……イルマの家にあるものを足せば充分に思えた。
「そう、ね、じゃあ帰ろうか」
甘ったるいとおもっていたら、後味は苦く腐った臭いのする飲み物を口にしたような、引っかかりと気分の悪さだった。
家に帰り、誕生日のお祝いを簡素にした。
「これ食べられるかなカイル?」
そう言っては、母はカイルに食べ物を与えていた。
食事を終え、食器を洗うのをカイルが手伝ってくれたため後片付は早く終わった。いつものようにカイルと色々な話をしながら縫物をする。イルマは自身の不安が薄まっていくのが分かった。
カイルといると、どこか幸せな気分になる。
胸が温かく、ずっとこのまま続けばいいのに、という。ありふれた日常のはずなのに、心の柔い部分に直接触れてくるような感覚。失ってしまうものを一時味わっているような。
杞憂、よ。
イルマは自身の感情の複雑さを切り捨てた。
「一緒に寝たいな」
袖を握られ、ねだられ、断るすべはなかった。ケイトからは『絶対に、甘やかさないでね、調子に乗るから』と言われていたが、イルマは無視した。
毛布を一枚余分に持って、カイルに包めば、顔だけ出して本当に可愛かった。
横になって、ぽんぽんとまあるいお腹を叩く。一定のリズムが気持ちいいのか、すぐに少年は寝入った。イルマも見届けてから、ゆっくり目を閉じた。
寒さで意識が覚醒したのは、夜中だった。
なんだか寒い。カイルを探そうと寝台を手探りに触れる。
あれ?
ひんやりとした隣。
いない。そんな筈、ない。そう思って必死で寝台の中を両手でまさぐる。
「カイル?」
空っぽだった。喉奥でひゅっと、空気の音が発せられる。イルマは数秒間、ただ茫然とその場に硬直した。
「居間、かな?」
ポツンとつぶやいてみれば、そんな気がして、イルマは起き上がった。冷えた床を素足で進み、ゆっくりと扉を開けて居間を覗けば、ただ真っ暗で静かな沈黙が支配していた。
「いない」
まるで気のない口調だった。それはカイルがいなくなったのをどうとも思っていないからではなく、余りに現実味が薄かったからだ。
夜、偶然目を覚ましてみれば、隣に寝ていた幼い少年がいない。
イルマは気分を落ち着かせようと、深呼吸をしばらくの間繰り返した。
いくつかの案が脳裏によぎった。最初に母親を起こさないと、と考えたが、すぐに却下した。色々と大騒ぎになりそうだったからだ。それなら、自分が探しに行こうか、とも考えたが、すぐに戻ってくる可能性が高い気がした。
イルマは結局待つことを選んだ。暗闇が色濃い部屋で椅子に座り、机に組んだ両手を乗せる。何時間も、ずっとしていてもほとんど気にならなかった。ずっとカイルを待っていた。
扉が開き、カイルが顔を出したとき、空はうっすらと紫になっていた。
「心配したのよ!」
駆け寄って、目を精いっぱい怒らせるが、きらきらと水で輝いているのは、自分でもわかっていた。
カイルは扉から半分だけ身体を見せていた。左半身は見えない。服は土と泥で汚れていて、葉っぱもついている。顔色は悪く、髪の毛はあちこちに跳ねていた。
イルマは少年の小さな身体に縋りそうになった。
よかった――――。
けれど、そんなイルマと対照にカイルがじっと瞳に喜びを湛えていた。
「イルマ、これ見て」
唐突に、そう言って左手に持っているものを見せる。
白と、黒、いや赤。弛緩してだらりとした小さな躰を、カイルは親指と中指でつまんでいる。白い毛皮はつままれているからか、少し伸びている。
「……何?」
イルマは視点を一か所に固定したまま、擦れた声で問う。
「クリッキ―だよ」
クリッキ―、今日の昼にカイルに教えた動物の名だ。しかしそれはクリッキ―ではない。完全に異物と化している。
「……それは、クリッキ―の死体でしょ」
声が僅かに震え、目を小さな躰から逸らそうとするが、出来なかった。小さな躰はごみのように見え、目玉が膨れていた。
「イルマ、これのこと可愛いって言ったから、あげようと思って」
ぐいっと、イルマの前に、死体を近づける。
カイルがいつも通り、純粋で品のいい笑みを浮かべている。
夢だ、とイルマはこめかみを濡らしながら思った。これは夢で、カイルの顔が完全に別に見えるのも、カイルに生理的な嫌悪を覚えるのも。目覚めれば、隣でカイルが寝ていて、赤い巻き毛が白いシーツの上にくるくると広がっている。朝日がカイルの白皙に反射して――カイルの唇が幸せそうに緩んでいる。そして私はしっとりして、ふっくらと花の匂がするようなカイルの唇に、指先を置く――。夢、夢、夢。
けれど、残念ながら、夢ではないことをイルマは理解している。
だから、整合をつける。自分の中で。
カイルは、何もわからないのだ。子供だから。だから、そういうものを平気で贈ろうとする。子供だから、純粋に笑ってる。そうだ、しかもカイルは他の子供よりも、純粋だ。だから死骸を、死骸を、死骸を。
「それ、どうしたの?」
イルマは尋ねる。カイルは今は笑っていない、眉が不安そうに垂れている。顔には、気に入らないの? という疑問がかかれているようだ。
「どうしたの?」
再度聞くと、恐る恐るという雰囲気で、
「森に行って、殺してきたんだ。暴れるから、生け捕りには出来なかったけど……」
こんな夜中に、あの森へ? しかも動物を殺しに?
おかしい、常人の神経じゃない。イルマはカイルを受け入れようと必死で、子供だから、と言い聞かせる。
そう、私が気に入ると思って、動物を殺して、贈ろうとしてくれたのだ。
「……怪我はしてない?」
クリッキ―は見た目にそぐわず、凶暴だ。
「ううん、大丈夫だったよ」
そう答えた瞬間、カイルはクリッキーをぽいっと玄関脇に投げ捨てる。入り用ではなくなったものを、捨てる要領だった。
「カイル」
低い声で語りかける。イルマは少し落ち着いていた。カイルとクリッキ―の死骸という組み合わせに、恐怖を覚えたが、それも収まってきたのだ。
「あのね、あまり、そういうことをするのはいけないと思う。夜に出かけるのも、動物を食べもしないのに殺したりとか」
カイルは困惑していた。
「……心配させてごめんなさい。でも、でも、一緒だよ。必要があって、殺すのだったら、食べるのも贈るのも」
「そうじゃないよ」
「でも、クラウミニチュアでは肉を食べないで生活している人もいたし、肉を食べるのは娯楽だよね」
イルマは泣きそうだった。大声で、『それは善悪ではなく心の問題ないなのよ!』と言いたかった。
確かに、それは自己矛盾する。肉を食べながら、動物をむやみに殺すのは駄目、なんて。利己的な矛盾なのだと思う。だけど、そうするべきではないだろうか? 動物を食べるから、どうせ殺すのだからと娯楽で動物を殺す。――いけないとかではなく、いやだ。
そしてこの理論は、通じない人には通じない。たぶん、そういうことを言う人には理があるのだ。事実、一緒だから。
ただイルマは、自分を納得させているだけだった。
「カイル、とりあえず身体を洗おう」
イルマは、何も言わなかった。子供が自分とは違う人間だと気づくように、友人が自分のことを完璧に理解していないと認めるように、イルマは何も言わなかった。