Ⅵ
八四五年三季 コゼット村
「イルマ、一緒に来て」
朝食を作っている時に、ケイトは椅子に座ったままそう言った。
カイルはふっくらした頬を赤くして、うとうとと舟を漕いでいる。
イルマは無言で皿に食事を盛り付けた。そのままそれをもって、食卓に置き、椅子に腰を下ろす。
「行くことに決めたんだ」
「ええ、勿論」
それに少し顔を伏せる。なんとなく、予感していたことだった。
ケイトが領主の妻にと請われたのは、一月前のことだった。
男は、黄金の瞳を見た瞬間、魅入られた。ケイトは美しい、けれどその美しさは特殊なものだ。恐怖を覚えるものも多い。
イルマは思う。
ケイトはそういう種類の美貌であるからこそ、想像を絶する魅力があるのだ、と。
「後悔するかも」
「しないわ。確信できるもの」
端的な返事と、静かな自信に満ちた微笑、それを悲しく眺めながら、誘われた時から決意していた言葉を返す。
「そう……。ケイトなら、そうかもしれないわね。
私は――行けない、行かない。
ケイト。ケイトは……司祭様に反対されてなかった? それにカイルはどうするの?」
「カイルは連れていく。あの人は、どうにかするわ」
イルマは隣に座っているカイルの口を拭く。カイルは「ありがとう」と言って、食事を再開する。
「イルマ、付いてきて」
もはや命令だった。その口調にわずかに腹が立つものの、イルマは決して行かないつもりだったし、ケイトと離れる寂しさであまり気にならなかった。ケイトが決意したのだ、必ず実現してしまうという確信があった。
「なぜなの? 私と行く方が、貴女にとって得だわ」
「ケイト、忘れてない? 私には母親がいるの」
「捨てればいい!」
強い語気にカイルの顔が上がる。全くおびえた様子ではなく、観察するような冷静なまなざしだった。
イルマは腹は立たなかった。その台詞の過激さはケイトの性格上のものなのだ。責めるのは、お門違いだ。
「私はお母さんのことを愛しているの、たった一人の家族なのよ」
「一生、こんな糞みたいな村で生活するつもり? 薄汚れた貧しい、何もない村で」
「ケイト! なんでそんなこと言うの。確かにそう見えるかもしれない。でも、私にとってここはそういう言葉で、概念であらわされる場所じゃないの」
ケイトは明らかに苛立っていた。一瞬カイルに視線を寄せる。
「ねえ、前話したでしょ。占い師に、特殊能力があるか。それ今でも信じているの?」
無理に冷静さを取り繕った低い言葉。黙るイルマに、ケイトは嘲笑した。
「貴女本気でそれを信じているわけじゃないでしょ!
占い師は盲人という条件があるわ。だけど村に一人は必ず占い師がいる。そんなに都合よく、盲人が生まれるかしら?
はははっ! 占い師は十分な収入があって、周りからも尊敬される。村人はいつも抽選で選んで、選ばれた子の目を潰すのよ! 人為的に盲いて、その親たちは収入を得るのよ。汚い風習と価値観が支配する世界、うんざり!」
イルマは目を瞑る。動悸のする胸を抑えて、唇をかんだ。多い盲人に不自然さを感じていた、だけど見て見ぬふりをしていた。
その逃避を完全にケイトに突かれた形だった。
そのとき、カイルが口を開いた。
「お姉ちゃん、五月蠅いよ」
ゆっくりと、いつも通りの柔らかな表情。けれど語調は平坦だった。
「お前が何もしないから」
ケイトはそれにそう答えた。
二三日後、そのことを考えていたイルマに、唐突にカイルから頼みごとをしてきた。
イルマの誕生日に家に泊めてほしいというもので、さすがにそれはと思ったが、司祭は簡単に承諾の返事をしてきた。勿論イルマの母も喜んでいた。カイルのことが本当に大好きなのだ。
そして誕生日、カイルはにこにことやってきた。
いつもより洒落た服を着ていて、お土産にいくらかの肉をもってきていた。
イルマはそれを迎えて、少しの疲労を感じた。
カイル、ケイト、二人のことは大好きで、大切にしたい。ただ、最近は少し合わない。
出会いから、常識から逸脱した二人だったが、違いを両者ともに認識していて、その上で付き合っていた。けれど親しくするにつれ、そういう感覚もなくなり気安くなる。
そう、だからこそ違和感が強調される。
何かが違う、という違和感。
最初は全く別のところからきたから、とか無神教の司祭の子だから、というような理由があったけれど、それを踏まえての二人の奇矯さ。
イルマは首を振った。
友達なら、全てを受け入れるべきだと思ったからだった。
「じゃあ、森の方までお散歩する?」
カイルに提案したのは、大人から入ることを禁止されている――深い森の方まで行くことだった。黒い森とも呼ばれるそれはいつも森閑としていて、暗い。
どんな悪ガキでも多少は躊躇する提案は、イルマの予想通り、すんなりカイルに受け入れられた。
いや、嬉しさをもって受け入れられた。
「初めてなんだ! 森の方まで行くのは」
舌足らずな口調は自然となくなり、カイルはしっかりと喋るようになっていた。けれどゆっくりとした口調は変わることはなかった。
手をつなぎ、森への道を歩く。村の入り口から見て、真ん中に市場があって、その先に司祭宅へと続く道がある。森は司祭宅の先にもあるが、イルマたちが目指しているのは右手にある森だ。
「疲れたら言ってね」
そう頭をなでると、カイルは珍しく頬を膨らませた。
「だいじょうぶ」
イルマは苦笑して、子供っぽいと思った。
森の入り口はボロボロになり根本が腐った柵が設けられている。イルマは勿論森に侵入する気はなく、
「じゃあここまで来たから、帰ろう」
と言った。しかし連れの少年は硝子のようなきれいな瞳で森に見入っていた。
きれいな横顔、と思った。
赤の巻き毛が風にそよぎ、血管が見えるほど白い肌は星の散った茶色い瞳と薄い赤のふっくらした唇を引き立たせている。
「イルマお姉ちゃん、ここは入れないの?」
見上げられ、首を振る。
「危ないから、入らない方がいいよ」
カイルは残念そうに顔を伏せ、そして「あっ」と声を上げた。
「見て、あれは何?」
指さす方を目を細めて見ると、いたのはクリッキーというウサギだった。
白い毛皮で、耳は長い。瞳も円らで可愛らしいが、実際は異様に凶暴な小動物だ。歯は尖っていて、剥き出しにして威嚇することもある。
遠くにいるが、動きも俊敏だ。
「カイル、あれはクリッキ―という動物だけど、とても危険なの。逃げないと」
「イルマお姉ちゃんは、あれをかわいいと思う?」
聞いているのかいないのか、悠長に質問をぶつけてくる。
「可愛い、可愛いから、とりあえず逃げないと」
イルマの必死さとは反対にカイルはにっこり笑って、「イルマお姉ちゃんは、あの動物が可愛いんだね」と嬉しそうに声を弾ませた。
こういうような奇妙さは最近では慣れたもので、何も言わず、強く手を引いた。