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 どれほど経った頃だろう。イルマの頭に柔らかで小さな手が触れた。顔を上げ、目に映ったのは心配そうなカイルの顔だった。


 本当に天使のような顔だった。美醜が要因ではなく、表情の無垢さ純真さが心に深く思わせる。


「カイル」

「からだ、わりゅい? しんどいの?」


「ううん」

 上手く口元が動かないので、奇妙な表情になる。カイルは心配そうな表情まま、ゆっくりとイルマの顔を両手で包み込んだ。

 そのままカイルは顔を近づけてきて、二人は鼻が触れ合うほどに近接した。


 イルマはお互いの瞳がじかに触れ合って、溶け込んでいくような不思議な感覚にとらわれた。

 

 カイルの瞳は明るい茶だ。その瞳には金の欠片が散らばっている。

 ふんわりと目の前の少年は花の微笑を浮かべる。


 愛おしい。突如として、今までの葛藤からなにからその言葉に塗りつぶされる。


 愛おしい愛おしい、なんてこの子は天使なのだろう。


「迎えに来てくれたの?」

 囁くと、目の前の少年はコクリと頷いた。


 少年を幻滅させたくないという思いが、イルマの胸をいっぱいにした。だけれど、しようがあるだろうか。どうしようもない。


「今日は」

 いかない、と言いかけて言葉に詰まった。言いたいセリフではなかった。

 

 カイルはじっと続く言葉を待っているようだったが、何も続かないことに気づいたのか、ねえといった。


「はじめから、イルマおねえちゃんはちゃんとしてたよ」

 困惑して見つめる。頭を包む感触がひときわ強くなる。


「思い出してみて」

 なにを、と言おうとしてカイルの目の力に圧倒された。


 思い出す。ケイトとの会話だろうか。

 イルマは繰り返し自分の記憶を掘り起こす。


 そうしてちゃんとしてた、の意味が分からなくなった。私は優柔不断だ。

 ケイトの考えを肯定していたし、同意していた。急進にすぎるような気もしたけれど。

 でも今では私はケイトの考えを突き放している。頭にはジェームズ、あの女店主、そうして母。その人たちの認識がこびりついている。


「なんにも、ちゃんとしてないじゃない」

 カイルは苛立つように首を振った。


「おねえちゃんはやさしいから。他の人のいけんじゃない、自分のいけんを隠すんだよ。おねえちゃんは最初から、始めから、もってた」


 イルマはもう何を、とは問いかけなかった。なぜカイルがここまで切に迫ってくるのかは疑問に思ったけれど。


 私は最初ケイトたちが来る前から、ずっとこんなことは可笑しいと思っていた。そのはずだ。

 じゃあ何を可笑しいと思っていたのだろう。自分に対する仕打ち? ううん、そうじゃない。そうじゃないから今、悩んでいる。


 そう、私がずっと思っていたのは、情けなく思っていたのは――――こんなにも頭を下にしていること、だ。自分の姿勢だ。

 私は学ぶことがそんなに悪しざまにいわれることはないと思っていた。でも頭を下げ続けた。


 イルマはなんだか泣きたくなった。

 私があこがれたのはケイトの考えじゃない、姿勢だ。


 人は一人ひとり意見を持っている。そしてずっと自分を曲げ続ける必要はないはずだ。なのに、ずっと――ずっと、曲げ続けた。保身と安寧のために。

 

 泉のように何かが湧き出てくる。

 内からの情念、それがものを言わせた。

 

「すぐ行くよ。連れて行ってカイル」

 カイルは元気よく「うん!」といった。



 木柵を越えて、田の間の細い道を進む。カイルは白く小さな手でイルマの手を握っている。

 司祭の家は村の周りの木柵よりも少し歩いたところにある。元々司祭家は昔の地主のものだったのだが、その息子が結婚を機に新しい家を違う村に建てたので、そこは数年使われていなかった。


「カイル、あれは何の木かわかる?」

 イルマは道のわきに途切れ途切れに生えている木を指さす。そういう遊びがカイルのお気に入りなのだ。

「キレイリュ」

 キレイルだ。

 イルマは少年らしい、と思った。カイルは物覚えがいいので、たぶんほとんどの木を覚えている。そうやって正解を言い当てるのが楽しいのだろう。


「正解」

 希望に沿って、その言葉を返す。少年らしい笑みが顔中に溢れた。

「次は!」

「じゃああれは?」

 イルマは微笑む。カイルと歩くのは楽しい。


 着いた頃には日は高く昇っていた。

 司祭邸の周辺は手入れされていたが、乱雑な感が否めず、木に囲われているか暗い印象だった。

 日は高く昇り明るいはずなのに、光が当たっていないようにじめじめした雰囲気だった。その印象の原因をイルマは目線で無意識に探った。


 カイルに手をひかれるまま、玄関までたどり着く。そこはポーチになっていて廂にはツタが絡みついていた。まったくこの近辺では見ない品種だった。


「あれは?」

 イルマがツタを示すと、カイルは足を止め、金の散った茶の瞳を薄くして呪文を唱えるように、


「ティグレテキタ」

 とつぶやいた。まるで聞き覚えがなかった。


 扉を開けたのは召使いだった。褐色な肌をした年嵩の女で、沈んだ表情に低い声をしていた。


「こんにちは」

 挨拶の言葉を述べるイルマに構わず、不愛想に会釈して、さっさと去って行った。

 イルマは多少驚いたが、ケイトとカイルの両親に挨拶しなくてはいけないのでは? とカイルに尋ねた。

 カイルは年に似合わなぬ無邪気さで「しなくてもいいよ」と、見上げてきた。

 そんな訳にはいかないだろう、更に困惑したまま「でも」とイルマは言葉を続けかけた。


「いいんだよ。ねえ早く僕の部屋へいこ」

 カイルの目はひたすらに無邪気で、反論を遮る。イルマは戸惑いを覚えながらも、その顔に異を唱えられない。そのまま正面の大階段を二人で昇り始めた。


 二階の端部屋がカイルの部屋だった。扉も一番上等でどとことなくイルマは不自然さを感じた。

 中は豪華で、子供の部屋にはどうしても見えなかった。


「ここ、カイルの部屋なの?」

「うん」

 ニコニコ笑う少年にイルマも笑みで応じるものの、やはりすっきりしなものを感じる。それからしばらくカイルの話す色々な出来事に耳を傾けるものの、家主のことが気になる。


「ケイトは今どこにいるの? 司祭様と一緒にいるの?」

 話がひと段落ついたところで、そう水を向けてみれば、カイルは首を傾げて「どうして?」と言った。

 何がどうしてなのか、イルマこそ分からないが、カイルは言葉をつづけた。

「どうして、そんなことが気になるの?」

「どうしてって」

 カイルの澄み渡るような茶の瞳が、無邪気な疑問を呈している。まだ子供だからわからないのだろうと思って、イルマは苦笑する。


「人のお家を訪ねるときは、ちゃんと家主に挨拶しないといけないと無礼だと言われてしまうの」

「ふうん。なら大丈夫」

 カイルは笑う。言ったときの表情が妙に大人びて見えて、イルマは微笑む。


「そう。それなら……カイルのお父さんに会いたいの、カイルとこれからも仲良くさせてくださいって挨拶したいの」

 イルマはカイルの態度に沿うように、手を変える。


「じゃあ一緒にいこ」

 及第点だったのか、カイルは頷いた。


 

 司祭の顔を至近距離で見つめることは、苦痛だった。

 イルマはそれを微塵も見せずに、挨拶をして、家に勝手に侵入した無礼をわびた。司祭の表情は読み取りにくいが、気分を害したわけではなさそうで、静かな口調で「カイルをありがとう」と言った。声はガラガラで、なぜか高い、聞いていると頭が痛くなりそうな声だった

 イルマは司祭の前で恐縮しながら、首を振った。外見はともかく、そんな風に小娘ごときに声をかけてくれるのは嬉しかった。

 司祭はそのまま執務机に向かい始めたので、イルマは立ち去ろうと背を向けた。

 ふと、ペンを置くもの音がきこえて、振り返ると司祭はこちらをじっくり見ている。イルマは不思議に思ったが、もう一度会釈する。

 視線の意味は良く分からないが、ただ見ていただけにしてはやけに強い。


「イルマと言ったかい」

「はい」

 返すと、司祭の顔が奇妙に歪む。それからまるで内気な少年のように顔を伏せ、低く呻き始めた。変なものを感じて、イルマは一歩下がる。

 どうしたのだろうか。


「気を付けなさい。決してカイルの機嫌を損ねてはいけない。ああ私の代わりに、どうかカイルの機嫌を」


 言葉を切って、笑い始める。もうイルマ、無礼だとかは気にならなかった。扉を背にくっつけ、すぐにでも出られる体勢にする。


「一生取り続けてくれ!」

 怒鳴り声のようだったが、先ほどの会話で司祭の声の特徴を理解していたイルマには本能的に分かった。

 これは歓喜の声だ。

 瞬間、イルマは部屋から転がり出た。


 ふらふらとイルマは司祭邸の廊下を進む。カイルは一緒にいこうと言ってくれたが、ケイトに預けて一人で会いに行っていたのだ。


 なんだったのだろうか。明らかに可笑しい様子であった。

 ケイトやカイルも普通の人間とは異なるが、司祭の様子は狂人のようで。

 イルマは首を振り、心を落ち着かせた。

 変な邪推や推測はやめよう。そんなことをするなら、ケイトやカイルに直接聞けばいい。


 しかし、頭に引っかかるのはあの言葉。

 『カイルの機嫌を損ねてはいけない』、イルマは見えない不安に襲われた。形が定まらず対象もまたわからない、けれどそれはやはり不安だった。


 立ち止まって、司祭の部屋を見つめる。


 何故なのだろう――司祭の部屋、どうみてもカイルの部屋よりも質素で小さかった。



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