Ⅰ
八四九年 一季 ハイキーク
もはや、領主の館では誰もケイト達に後ろ指をさせなくなっていた。ケイトとカイルが力を持ち始めたのは八四七年にカイルに従者がつき、使用人館がケイトのものになってからだった。
使用人館はあっという間にアポステット《背教者》館と呼ばれるようになった。最初は陰口のような形でそんな風に呼ばれたが、ケイトはその名前をとても気に入ってしまった。「だってその通りだもの」ケイトは機嫌が良さそうにいうのだった。だからか、陰口をいっていたものはその名前を口に出すのをやめた。まるで逆だが、ケイトを厭い、アポステット館を嫌うものはその名前を口にしないようになったのだった。
背教の意味は簡単だった。ケイトは自分が仕えるもの達を厳選したが、条件の中で最も厳しかったのが、洗礼名を捨てること、信仰を捨てることだった。働く当初ケイトはそれは要求しなかったが、しばらく働くと、その選択を迫った。
そして多くは、見知らぬ神ではなくケイトとカイルに信仰を捧げることにした。
イルマは文を書くようになった。周囲のものすべてに仮面を被ることになった代償行為だった。多くは散文で、短い言葉のつなぎ合わせだったが、その中には時折小さな現実の亀裂があった。
一行目には小さな文字で「なぜ信仰を安易に捨てるのか?」と書いてある。
イルマは黒いワンピースにエプロンを着けて、無表情で廊下をあるいていた。挨拶をするものはいなかったが、皆道を開ける。
使用人部屋に向かうと、5人の使用人が低頭していた。真ん中にはまだあどけなさを残した一人の少年が半分泣きそうでありながら、意志の強い眼差しでイルマを見た。彼だけはたっていた。
「イルマ様」
一人の女が声をかける。使用人頭だ。
この館の使用人の順列としては、イルマという侍女長、バダリ、ケイトとカイルの侍女、側仕えが続き、その次に2人いる使用人頭、その他の使用人をいう風になる。
「その子ですね」
イルマは少年をみた。
「ネイサンは二度も改宗を拒み、ついにはケイト様への暴言を吐きました。その旨報告いたします。どうぞご指導を」
強い語尾に、ひきづられるように周りの空気は殺気だった。少年の肩も震えた。
イルマは周囲を見渡し、やや口元を引き締めた。
「……どのような暴言を?」
使用人頭の口元が大げさにぶるぶると震えた。
「花の名前をわからぬ、と」
イルマはすこし微笑んでしまった。ケイトは村の女のように花や美しいものにさほど興味を抱いていない。そして少年は庭師の弟子であり、そういう思いがつい口に出たのだろう。
「そう」
と意図せず柔らかくいってしまい、周囲はイルマを訝しげに見た。イルマは気持ちを引き締めた。
「この少年には指導が必要です。さあ、あなた方の存在は不要です。この部屋より外に出なさい」
意識したせいか、冷たくて堅く厳しい声が出せた。使用人頭達は頭を深く下げて出て行ったが、その頭にはさきほどのイルマの柔らかなものいいが残っていないか、それが引っかかった。
ここでの私は役割がある、とイルマは疲れた心で自信に言い聞かせた。カイルとケイトを守ること、そしてケイトとカイルを監視し、二人から周囲の人間を守ること。
そのためには私は二人の近くにいなければいけない、最も身近で狂信的に見えるように。
「ネイサン、貴方は確か、草道教に属していたはず」
世界には神、宗教が多いがフレデリア王国ではほぼすべての民が創神教といえる。けれど移民や一部例外が存在する。その中でも草神教は害もなく、創神教とは相性がいい。自然を愛し尊び、伝統を重んじる。そして祖霊を敬う。ほとんどは慎ましい人たちである。
ネイサンはこくりと頷いた。
「貴方はこの館の名前を知っている。けれど改宗を拒むのね」
「それは……。僕はただ、庭師の仕事をしているだけです。どうして、どうして父も祖父も、ずっと遠い祖先から続いている教えを捨てられるでしょう」
「そうね」
簡単に頷いた。「だけど、貴方は本当にその教えを尊び、理解しているの?」少年の瞳には戸惑いが寸のまよぎり、ただ困惑したようにイルマを見つめ返す。
「ただ貴方は祖先を敬う振りをして、何も自分で考えていない。ネイサンが信じる教義ではなくて、貴方がそれを信じ、大切にする理由はあるの?
あなたが草神教を信じているがために、見えないことの方が多いのではないかしら」
イルマがケイトやカイルのことを理解できる、と思えることがある。それは苛立ちという感情だ。ケイトは多くの人々が、神の名の下に“考えるべきこと”を考えず、全うに生きていないことに苛立ちを感じている。
イルマは二人をおそれるが、このある種の潔癖性には共感する。だからか、改宗――――――正確に言うと棄宗だが――――――をするという役割をなんとかこなせている。
イルマ以外にさせると、二人の狂信者しかいないし、二人は他の人のことを塵芥だと見下している。どんな改宗がなされるか、わかったものではない。
イルマは人の考えや、思想に口出すのを非情に嫌う質だったが、それでも行わなければいけない。――――――あの二人から他の人達を守るためにも、そして……。
ネイサンにはここを辞めたくなったらバダリか自分のどちらかにいうこと、辞める際には次の就職先を紹介する旨だけを伝えた。
このアポステット館で働くのは狂信者も多いが、中には真面目な求道者《考える人》もいる。
その中で最も、イルマが苦手としているのはロビーという男だった
ロビーは元は王国の騎士であったが、隣国への遠征の際に右手を失い、このハイキークで領主に仕えることになった。
不具になったら、ほとんどは騎士ではいられないが、ロビーは元はそれなりの地位の騎士であり功績をあったのだろう。騎士の身分を剥奪されることはなかった。
元は上流のごく一般的な創神教信者であった男は、右手を失い真剣に信仰について考え出した。若く、美しい男なのに、不具で、教養もあるのにもはや何も望めない身。漆黒の瞳はひどく澱んでいるのに、そこにはやはり何か救いを見いだそうとする光がある。
ロビーはまったく異質だった。
それはケイトたちのおままごとのようでありながら妙に現実味のある王国作りとは違う、身の毛がよだつほどの切実性に漂う空虚さ。本来混じるはずのない二つが、どうしてだが混ざることを考えてしまうのだ。
いつものように夜になり、寝室の扉をたたく音がし、ふかく息をはいた。一つだけついていた蝋燭をもち、机の上に置かれた溶けかけた蝋燭に明かりをともす。
「どうぞ」
入ってきたのはロビーだった。
挨拶もせずに暗い地を這うような声で「痛むんだ……」と呟いた。ロビーは右手を失ってから、無いはずの右手の痛みに苦しんでいる。毎日腕を切られる苦しみをたゆみなく味わっている。ロビーは絶望のためにほとんど人間性を露出し、剥き身なように感じる。
イルマは一六で、ロビーのような三〇を超えた大の大人と全うに会話などしたことはなかったが、不思議と《あの選択》をしたあとはとくに気後れもせず、会話ができるようになっていた。
「傷むんですね……」
そういい、椅子に腰掛けるように促した。
ロビーは右袖をしぼっていたので、それをほどき、ややゆっくりとなでた。
ロビーの絶望は恐ろしく、苦手だ。しかし、ほんのすこしでもそれを和らげる可能性があるなら、仮面をかぶったままでも優しくしたいと願う。
「考えはまとまりましたか?」
声をかけると、男の瞳は暗く光った。
「神は俺を見放したのか?」
イルマは返事をせずに考えた。イルマは選択し、孤独になった。そして創神教をなぜ信仰できなかったのか、少し理解できた気がする。
創神教は神を罪を赦し、人を救済する存在であると考えられている。けれど、と思う。本来、赦しをこうような罪は誰ともしれぬ神に赦しをこうようなものでは本来ないはずと。
人は儚く弱くだからこそ夢や幻想のない硬直した現実では生きられない。しかしその幻想に身を委ねていくと、苦しみも悲しみ、喜びでさえ自分のものにならない。
「幻想によって救われることもあります。貴方に『神は貴方を見つめており、決してお見捨てにならない』といえば救われますか」
創神教の司教の台詞を引用すると、ロビーの顔は絶望に染まり、ふらふらと立ちあがった。
イルマは出て行く男の背を眺め、しばらく神について考えた。
神はなにをも救わないのだ。そしてそれは辛く悲しいときほど尊く感じることがある。けれどまた自己の苦しみを考え抜くことで救われることもあるのではないかとイルマは少しだけ感じることがある。
八四九年 四季
「ろくでもない集まりよ」
ケイトは宝石箱にある首飾りをじゃらじゃらといじりながら、嘲笑した。
王都では四季祭があり、それに伴って領主のような地方貴族が王都での舞踏会に参加することがある。
領主は王都で親戚である伯爵に、新しい妻のケイトを紹介するつもりらしい。ケイトはとくに興味も関心もなく、舞踏会での装いを準備している。
首飾りは結局面倒になったのか一番多くもっているエメラルドの首飾りを適当につまんだ。
「これでいいわ」
イルマは笑って、「お疲れ様」といった。するとケイトの顔は意地悪いものに変わり、「あら、人ごとじゃないのに」という。
首を傾げると、
「あの男も連れて行くわ。不具で、惨めな男。あの男を連れて行くのだから、イルマ貴方も来ないといけないわ」
「……ロビーのこと?」
そう、とケイトはぞっとするような色気を口元に漂わせた。
「イルマが私たちに協力してくれてるように、私も貴方に協力するわ。イルマはあの惨めなだけの男を、もっと違うものにしたいのでしょ?」
喉がつまって、とっさに否定の言葉が口をついた。
「虐めたいわけじゃない」
「そう? あの男に哲学を、人は神に縋るだけではなく救われる、救うことができることを教えたいんでしょ? それならもっと惨めな思いをしなくちゃ」
ケイトはひどく傲慢な顔で爪をいじっていた。
ロビーをオモチャにすることを躊躇わない様子は、まるで人を一段下にみているように思えて、イルマは眉を寄せた。
ケイトは元々傲慢であるが、ここしばらくでその傲慢の根拠ができてきたせいか、話していて一瞬驚くようなところがある。
けれどイルマはもはや、注意することもせず少し苦笑して「わかった。ついていく」と呟いた。




