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 カイルは異常で、おかしい。少し怖い。

 でも、と思う。そう、八歳の子供でもある。そして、大切な弟のような存在だ。それに怖い、と思う心のもう一方ではカイルの笑顔や優しい言葉、つらいとき黙って慰めてくれた手の温かさを愛おしいと感じている。


 ケイトはイルマに高圧的にではあったが――――――縋った。

『あんたが選ぶの。恐れながら、仕えるか。友達として仲間として仕えるか』

 イルマは考えた。ケイト、カイルの異能、これからのこと。カイルはきっと『王国』をつくっているのだ。どんな規模かもわからないけれど。


 イルマは悩んだ。そう、選択肢は一つしかないのだ。もしここを出て行っても、働く場所もないし、住む場所もない。一四歳の身元が確かじゃない人間を雇うなんてあり得ない。イルマにはもう血族は一人もいないのだった。そう、イルマはここを出て行くと、浮浪児となって路上で乞食をして生きていくか、どこかの宗教の修道女として一生農業するしかない。

 農業、するのがいやなわけじゃない。厳しい環境で生きていくのも。

 ただ、と唇をかむ。

 もうあんなふうに背中を丸め、じっと下を見ながら言われたことにただ是という生活はきっととても苦しいだろうと想像してしまうのだ。


 そんなことを考えながら、館をしばらく歩いた。使用人の館をケイト専用の家にしたことで使用人の住む場所が減っているため、職員は通いのものも多い。もう帰る時間である使用人もいたが、皆活気があり笑顔だ。イルマに皆気持ちのいい挨拶をする。


 イルマは侍女長(・・・)であり、仕事はカイルの世話だ。そして本当の侍女長の仕事はケイトの侍女であるバダリがしている。バダリは無口だが恐ろしく頭が切れ、管理が上手だ。いつのまにか、多くの使用人はマナーをしっかりと覚えるようになっていた。


 そんなバダリが階段を上ってくるのが見えて、思わず縋るような目で見てしまった。今のイルマはわけもわからず、ケイトやカイル、二人を盲信する使用人ではない誰かと話したかった。

 そういう種類の相談に適した対象ではないのに。バダリは視線に気づいたようだが特に反応せず、イルマの横を通り過ぎる。イルマはうつむいた。そしてとぼとぼ歩き出した。


 すると、扉が開く音がして、「どうぞ」と声が聞こえた。振り返るとバダリが扉を開け、静かにイルマをみていた。

「……何か話したいことが?」


 部屋は物置だった。目立たない木扉にの中をあけると、異臭がした。掃除用具がいくつかおかれており、中は狭い。椅子が二つ置かれていた。

 一つの椅子の上にはヒュミドール《葉巻箱》が置かれていた。バダリはそれをさっと、棚の上に置いた。

 それをみていたイルマに、にこりともせずに「私の唯一の楽しみです」といった。

 椅子に座り、向かいにバダリが座り、しばしの沈黙が落ちた。

 イルマは迷っていた。こんな風に、バダリが話を聞いてくれる機会はなく、迷いはたくさんあり、言葉として出てこない。

 しばらくの沈黙のうち、バダリはため息をついて立ち上がった。

「選択肢の中から選ぶしかないですよ」

 その一言で話しは終わった。

 イルマはしばらく椅子に座り、ぼんやりと考えていた。物置には換気用の小さな窓があり、空はだんだんと青染みて暗くなってきていた。動けずイルマは椅子で体を縮こまらせていた。

 この館でカイルの横以外では眠る場所もないのだった。

 体が冷えて、がたがたと震えた。今頃はいつもカイルと夜の温かい飲み物を分け合い、布団にくるまっている頃だった。決してそこに行きたいとは思わないのに、体だけは求めていた。

 物置の扉が開き、低いため息が聞こえた。闇に溶け込むようにそこにいたが、燭台をもっており、手だけが明るく照らされていた。

「カイル様がお探しです。ケイト様も」

 カイル様はどこにいるかも知っておられます、と言葉は続いた。

 バダリは褐色な肌に、黒々とした瞳を持っている。昼間はそれはただ冷たく異質なものと移ったが、夜は何故だが暖かくうつった。

「何をお悩みですか」

 イルマはじっとバダリをみた。視線がきつくなった。無意識に、この物置で考えていたこと、ずっとぐるぐると考えていたことが口をついた。ほとんど吐瀉物を吐くような気持ちで、言葉が出た。

「……あれは火事だった。目が見えないから、決して私がいないときに火を使わなかったのに。そんなこと一度もなかった」


 声はどこかに吸い込まれそうなほど、小さくかわいていた。バダリは眉一つ動かさなかった。イルマは真実の一端をつかんだ気はしたが確信をもちたくなかった。ふわふわとしたあやふやな推測で終わらせようとして、立ち上がりバダリについてカイルの部屋に戻ろうとした。


 廊下の中程あたりだった。目の前を早足で歩いていた背が唐突に止まった。

 感情が徹底的に排除された低い声で「信じ、よりかからぬよう……」とつぶやく声がした。


 それが最初で最後の助言だと理解できた。



 カイルの部屋の前についた。バダリは冷たい目をしてすぐに去った。イルマは想像した。慣れ親しんだ家が火事になり、煙の中で燃える家を感じて、盲目の母が何を思ったのか。口の端から無意識にうめきが漏れた。目が滲んだ。

 盲目の母に同情しないことなんて誰ができるだろうか。優しい笑顔、冷たい言葉と裏腹に将来を心配してくれていた。

 おもいもよらない苦痛の中で死んだ母。

 どうしたって、もうケイトとカイルに信頼など抱けない。けれどだからといってあの二人を放っておくことはできない。

 それは身体を裂かれるような二つの感情の分裂だった。二人を心配する気持ちと、二人の危険性を認識して抱く警戒。放っておけない気持ちは、友情と警戒からきていた。

 そして息を吸って、扉を開けた。開けた先には、紅色の頬を持つ本当に無邪気で幸せな少年といった風貌のカイルが待っていた。椅子に座り、ぶらぶらと足を揺らし、エリンズに用意して貰ったのか温めた動物の乳を飲んでいた。白いカップに湯気がたち、部屋には淡い動物の香りがした。

 カイルはこちらをみた。

 昼間に話したケイトのように優しく愛情深い表情で、心配そうに眉をひそめていた。

 かけよってきて、イルマの手を頬にあてた。

「イルマ、とても冷たいよ、すごく冷えてる」

 イルマは人差し指と中指だけで頬をなぞって「カイル、待たせてごめんね。すごく寒いから、もう寝よう」と微笑んだ。カイルの頬はとても暖かかった。

 カイルはそれを聞くと、イルマの無理矢理ベッドに押し込んで、頭まで毛布をかけてくれる。その中ですぐにうとうとと眠りだした。


 夜明け、ひときわ寒い空気が窓の端から流れ込んできて、髪をゆらし目が覚めた。

 毛布の中に二人でくるまっているせいか、守られたように身体は温かい。

 横に眠る少年の赤毛を手で梳いた。

 茶色い星の散った瞳が眠そうに開き、こちらをみる。アーモンドのような形のいい目だった。子供らしいかわいらしさに満ちている。

「カイル」

「なあに?」

 きょとんとこちらをみる少年の頬に顔を寄せた。イルマはこれから自分がしようとおもっていること、そしてそれが今に、未来に起こす影響について考えた。そしてゆっくりと毒の言葉をはいた。

「カイルは私の王子様になってくれるの」

 自然、その言葉の馬鹿らしさに口元にわずかに笑みが浮かんだ。それは含み笑いとして表に出た。

 カイルは目を見開き、次の瞬間にはイルマを熱烈な力で抱きしめていた。耳まで朱に染まっている。

「そうだよ。僕はイルマの王子様で、ずっとずっと二人で暮らすんだ。それが僕の夢なんだ」

 そう、とイルマは優しく微笑んだ。




 厳しい女がいた。

 冷たい土のような女だった。私生児として生まれ、親に愛されずひとりきりでいつも道を歩き、いつのまにか顔は乾き、一歩ごとに一つ皺が増えた。女はついぞだれとも道を交わさず、伴歩きをすることはなく、そのまま道で行き倒れた。

 女の土のような顔はわずかに湿っていた。



 イルマは徐々に周囲の使用人から距離を置かれるようになっていった。仲良くなった新しい使用人は変化した態度に最初は戸惑っていたが、戸惑いはいつのまにか嫌悪、嫉妬、憎悪にかわった。その変化はケイトたちへの“信仰”が“狂信”にかわるのと同じ速度だった。


 いつのまにか名前で呼ばれることはなくなり、表では「侍女長」と呼ばれ裏では「鉄仮面」「強欲女」「二枚舌」と呼ばれるようになった。


 逆にバダリだけは、孤立するイルマをみて初めて名前を呼んだ。

「イルマ様、貴女は選んだんですね」

 哀れみとほんの少しの賞賛の混じった複雑な表情だった。

 イルマは確かに選んだ。いや選べなかった。ケイトの提示した二つの道、憎悪しながら従うか、諦め友情を感じながら共にいるか。

 その二つを選べなかった。二人への複雑な感情はもはやどちらの道を選ぶことも拒否した。そしてどちらも選ばないことを決めた。

 それは個人的な取引であり、自身への制約だった。イルマは二人を心底からの愛情をもちそばにいることはしないかわりに、決して何があっても二人のそばを離れない誓いだった。



 分裂した愛情と憎悪はいままでのあり方ではいさせなかった。


 イルマは身近だった使用人のそばを離れて、ケイトとカイルの側で側近として振る舞うようになった。二人の前では笑顔であるが、そのほかの人間の前では無表情で冷徹な表情の人間になった。


 

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