Ⅺ
領主の館には執事であるアルドという男がいて、館の管理の実権を握っている、ということをケイトは知っていたのだろう。
ケイトは真夜中、夜着のままベランダに出て、アルドが注意したところをあの黄金の瞳で射抜いたのだった。イルマはそれを実際に見たわけではない。しかし想像することは出来る。ケイトは美しかったことだろう、そして恐ろしかったことだろう。
アルドはケイトの夜着姿をみてから、明らかに、正妻よりはケイトの意向を優先するようになった
マリビス夫人はカイルから働きかけ、ほとんど半年もたたないうちに、ケイトへの風当たりはやわらかくなった。
イルマはケイトをいじめた輩に腹が立っていたのは確かだが、正妻のナナのことはそれほど嫌いではなかった。
まるで話したことのない人でも、共感することはできる。
ケイトと踊り場で話しているとき、ふと視線を感じると、階段の上からナナが見ていた。ケイトよりも大分年上の40がらみの黒髪の神経質そうな女性だった。
領主の妻は貴族の娘で、政略結婚で嫁いできたのだ。
その妻の姿を見たとき、ふと、ケイトより、きっとこの人の方が不幸なのではないかと感じた。決めつけに過ぎないその考えは、深くイルマを捉えた。
ケイトの服を小馬鹿にしたのだって、彼女にしたらまったく捉え方の違う問題だったのかもしれない。
もちろん、ケイトは一生ナナのことを許さないだろうし、そしてケイトやカイルという人種にとって許さないということは、殺すという意味合いさえある。あの二人にとって、他人とはおそらく親しくする対象ではない。
イルマは味方であるケイトより正妻に強く共感していることに、罪悪感を抱き、すぐに顔をそらした。
それは意に反して、妾の側近としては正しい対応であるようにまわりにはうつった。
イルマといえば、領主の館ではまるで役立たずだった。というのも、カイルにはマリビス夫人が迅速に新しい家庭教師を雇ったのだった。それに身の回りの世話をしようにも、洗濯物や料理などは自動的に館の使用人がしてくれるために、イルマにはほとんど仕事がない。仕事があっても館の勝手を知っているエリンズがさっさとやり、「なにもしないのですね」とイルマに嫌みを言う。でも実際何もやれてないのでイルマはうつむくしかない。
そんな中でイルマはいつのまにかカイルの横が持ち場のようになっていた。
その日も朝起きて、お湯など準備して、寝ているカイルを起こした。恐ろしいことだが、未だにカイルと同室で寝ている。
するとエリンズがすぐさま部屋に入ってくる。チラリとイルマをねめつけて、さっと顔をそらした。そしてカイルには恐ろしいほどの満面の笑顔で「おはようございます」というのだった。カイルはエリンズを不思議そうに見た後で、「うん」とにっこり笑った。そのまま顔をそらして「ねえ、イルマ、今日はお外の森で遊ぼうよ」という。
無視されたかたちとなったエリンズはむっとした顔をしたが「お食事がそろそろできあがりますよ」というのだった。
ケイトはアルドを味方につけた後、カイルが暮らすこの別館に自分の部屋を作った。使用人の館に住んでいるという嘲りはあったが、ケイトは気にならないようだった。
そして食事は朝と夕、急遽作った広間でカイルとともに食べる。
「だって、あんな趣味の悪い部屋なんかいやじゃない。この館は作りも新しいし、小さくて使い勝手がいいし、まあ一時的にすむにはわるくないわ」
ケイトは最も高価な宝石の一つといわれる綠眼を豊富に使ったドレスを着ている。
カイル最近覚え立てのナイフとフォーク式で食事をしている。どちらも握ってもっているのが斬新だ、とイルマは思う。それに使用人の子に食事をあげるのも。
「イルマ、あーん」
イルマはカイルの横に置かれた椅子に座り、ときたま与えられる食事を口に運んでいた。
「おいしい?」
カイルが聞くので、そこは素直に「うん」とうなずいた。とってもおいしい。
ケイトは使用人を味方につけるというより、新たに自分に従う使用人を雇った。従う、という言葉を盲信、といいかえてもいいかもしれない。
新しく雇った料理人もその一人で、すこぶる腕がいいことにくわえ、ケイトに対して非常に忠実だった。
そのため朝の食事のテーブルは美しく装飾され、並んでいるものも手が込んでいた。もちろん朝の清々しさを邪魔しない、心地よい工夫がなされた食事だ。
「それに食事がおいしいし。あの館で出てくる食事はひどいもの」
ケイトがそう言うと、部屋の隅でケイトの反応を伺っていた料理人は顔中に歓喜の色を浮かべた。
この館の使用人はいれかえられ、皆ケイトとカイルが穏やかに食事をしているのを至福の表情で見ている。イルマはそれを客観視して一瞬強烈な居心地の悪さを感じた。
確かに、ケイトが虐げられる側の人間でいてほしくないし、あの館でうけた仕打ちには憤りがある。けれどこの館で起こっているケイトとカイルを至上の存在としていただく使用人の何も疑わない盲信ぶりにはイルマはいつかとりかえしのつかないことが起きるのではないかという恐怖を感じていた。
イルマはこうも思う。
この雇われている使用人はイルマがいえたことでもないが、決して領主夫人に仕えられるような出自、身分、教育をうけたものではない。けれどケイト、カイルがどこかを見初めて雇った。
身分が高い人から、特別に見初められ、それが美しく独特の雰囲気な特別な人だったら、それは盲信につながるのかもしれない。
イルマはちょっとため息をついた。
大丈夫、といいきかせる。私はこの二人の友人にはなれないかもしれない、でも一生仲間だ。私を受け入れてくれた二人なんだから。
イルマはカイルが家庭教師といる間、他の新しく雇われた使用人とともに働くようにしている。新しく雇われた使用人はほとんどが平民の出で、あまり細かい作法など詳しくないのが気を楽にさせた。彼女らと首をかしげながら、「これでいいの?」「多分」と言い交わしながら仕事をするのは少し楽しい。
それに彼女らは確かにイルマを少し特別視していたが、それ以上に暖かい仲間意識を持って接してくれている。ケイトとカイルを大切にする仲間だった。
八四七年 一季 ハイ・キーク
カイルは八歳になり、マリビス夫人が領主に進言して、おつきの従者が何人か雇われることになった。それはケイトの領主の館での権威の拡大と、そしてカイルの立場の強化の意味があった。
イルマは不思議なことに、仕事内容はなにもかわらないのに、“侍女長”になっていた。もちろんそれはケイトの館での役職名だが、まわりからそう呼ばれるのは苦痛だった。
一四歳の侍女長などありえないために、周りの視線はあまりいいものではなかった。もちろんケイトの館では丁寧にあつかってもらえる、そう本当に侍女長と勘違いできるくらいに。
「イルマ」
鏡台前に座るイルマの後ろでカイルがにこにこ微笑んでいる。鏡の中の自分は居心地悪そうに、少しだけ見開いた瞳には欠片おびえがあった。
鏡の中のイルマは化粧され、髪も編み込まれている。そしてカイルの手には見るだけでも恐れ多いような豪奢な首飾りがあった。
「イルマ」
カイルはじっとした視線でイルマの首筋を見つめた。そしておもむろに首筋にふれた。
「とってもかわいい」
首筋でささやくものだから、鳥肌が立った。
「これね、プレゼント。いつも一生懸命働いてるもの」
そう言って、決して似合わない首飾りを首にかけてくる。
イルマは少しだけ目を細めて自分の姿を眺めた。圧倒的に似合わないために、どこかおどおどして見える。
息をすってできうるかぎり優しい表情で微笑んだ。それは失望されないためというより、カイルに喜んでほしいという奉仕の気持ちが大きかった。
「ありがとう。とってもきれいな首飾りだわ」
私には似合わないし、不釣り合いだけど、という言葉を飲み込んで「でも、これはもらえないよ」といった。
「どうして?」
「この首飾りはね、貴婦人のもの。私は使用人だから、こんなに素晴らしいものはつけられないのよ」
カイルは茶色い瞳をほそめ、首をかしげた。そしてにっこりわらった。
「そんなこと、関係ないのに。
ここはね、僕とケイトの国で、イルマは僕のお姫様なんだよ。だからここでは三人が偉くて、他が全部僕たちの奴隷なんだよ」
イルマは絶句した。
まじまじと、“少年”の顔を眺めたがそこにはただただ正直な色しか見いだせなかった。
首飾りをつけたまま、よろよろとケイトの部屋へ向かった。部屋の外には執事のアルドがいた。
イルマの顔を見ると、複雑そうな不愉快そうな顔をして、「何のご用でしょうか」と聞く。
「カイル様のことで、お話が・・・・・・」
この台詞はとても使い勝手がいいために、よく使う手だった。
アルドは扉をノックして部屋に入り、数秒で出てきた。出てきたときの顔は少年のように朱に染まっていた。
部屋に入ると、驚くような格好をしたケイトがいた。
妖精のような薄いベールを体にまとい、白いほっそりとした足を丸出しにして、椅子に腰掛けている。そのケイトの前には小太りの商人が犬のように床に這いつくばり、宝石類を鞄に片付けている。
ケイトはイルマを見て、面白そうに瞳を輝かせた。
「その格好どうしたの? 仮装でもしてるの、似合わないったら」
そして機嫌良さそうに声を立てて笑った。しかし次の習慣には商人をにらみつけた。
「ねえ、早く出て行ってくれないかしら。私の友人との話に邪魔なのだけれど」
そのままきれいな足で商人の顔を蹴った。
商人は足早に出て行ったが、その顔は蹴られた後ではない赤みが差していた。噂で聞いたケイトの信奉者の商人だ。
「それでどうかしたの?」
ケイトが首をかしげた。
イルマはケイトを見て、それから息を大きく吸い、一息でいった。
「カイルは異常よ」
イルマの深刻な顔をケイトは鼻で笑った。
「そんなの元からだわ。あの子は異常だし。そんなことあんたもわかってると思ってたけど。今更でしょ」
「うん、そうだね。わかってる。二人は普通とは違う」
息を吸った。
「だけど、二人はね、普通ではないだけじゃない。異常なの」
ケイトの顔は瞬時に冷たくなった。
「それで? それで失望したの? 気味が悪いの? 不気味?」
「違うよ。私は、二人の味方でありたいと思ってる。二人のことが大切だから。それに恩人だから。だけど、二人のことがわからないの」
声は思ったより弱々しく涙が混じってるように聞こえた。
「だから教えてほしいの。――――二人はなんなの? カイルにどうしてあんなにも“愛情”が集まるの」
イルマはずっと不思議だった。カイルが自身の母親に溺愛された理由、村のみんなが執着した理由。気難しいマリビス夫人がまるで自分の孫のように可愛がる理由。カイルがあの司祭の家で特別な待遇だったことも、なにもかもわからなくて怖いのだ。
ケイトはしばらく黙っていた。顔を上げると、意外にもその瞳は優しかった。
「私の唯一の友人、そして唯一の理解者であるイルマ、かわいいイルマ」
その呼びかけには掛け値なしの愛情と友情があるように聞こえた。
「貴女はまだあのときの話を覚えてる。この世界の宗教の多さ、神の多さ」
ごくん、とつばを飲み、首肯する。
「私は神が大嫌いだし、信じてもいないわ。無神教だって大嫌いだった。父親も母親も大嫌い。ただ、あいつらの仲間の振りをしていたのは、自分とカイルのことをいつか教えてもらえると考えていたから。
私はあいつらの子供じゃないのよ、もちろんカイルも。
宗教にはいつの時代も教えを人々にしらしめ、導く“預言者”“使徒”といわれる存在がいるけれど、私とカイルも周りからそう扱われていた」
ケイトの言葉は時折、露悪的だったりからかうような嘘が含まれていることもあったが、今は穏やかなそして正直な様子だった。
「それは宗教に詳しいからじゃなくて、私たちが特別だと思われたからなのよ。この魔女の瞳はね、ほんの少しだけど人の意思を奪う力があるの。そしてカイル、あの子はね、私よりおそらく特別」
ケイトは一瞬、遠くをみるように目を細めた。
「私はカイルの力を、大多数に好かれる、ものとしばらく考えていたわ。イルマ、あなたが今考えているように。でもそれはおそらく見当外れなのよ・・・・・・」
意外なことに、その瞳は深い思案と迷いがあった。
「カイルにはその存在自体になにか大きな力が働いていて、そしてそれによって好かれている、そんな風に今は仮定しているわ。――――――どう、嘘くさいでしょ?」
イルマはただその言葉を咀嚼して、ケイトのことを悲しみをもって眺めた。今抱いている気持ちはこの場にそぐわない見当違いの考えや感情かもしれなかった。でもそのことしか浮かばなかった。
「ケイトは、ずっと一人きりで考えて選択して、一人きりで悩んでたんだね」
それだけだった。実の親ではない人に育てられ、人とは違うという意識を持ちながら、この少女はひとりきりで。
不意の言葉に胸をつかれたような表情をする少女にイルマは手を差し伸べ、同じようにベッドに座った。
「続きを聞かせて」
ケイトはイルマの肩にもたれた。
「私は・・・・・・こう話している間も、この自分、この力が何から来て、何なのか、全然わからないのよ。いつか父から聞けると思っていた。でも、父は知らなかったの。私のこともカイルのことも。わかったのは一つだけ、私たちを見つけたのが別の使徒であり予言者、だったというだけ。
父は何も知らない、と知ったとき私はあの家族がどうしても許せなくなった。だからね、カイルにいったのよ。おまえの力を信じるから、どこか別のところに行かないかって。そこで居場所をつくろうって」
ふとイルマの脳裏に、ハイ・キークに来る前、ついていくかで揉めた時のことがよみがえった、ケイトがカイルにいっていた。そう「おまえがなにもしないから」と。
それは単純な意味合いではなかった。
そう、これはケイトが中心の出来事ではなかったのだ。まるで出来事の見え方がいれかわった。
カイルが領主を呼び寄せて、ケイトを領主の妻になるようした。マリビス夫人を味方につけ、使用人の別館を自分のものにした。そしてカイルは多くの使用人を雇い、領主の使用人も仲間にしはじめている。
ケイトは領主の妻になり困難があった。だけどカイルは何も行き詰まりもなく最初から最後まで快適に暮らしている。
イルマは手の震えがおさまらなくなった。




