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八四六年 二季 ハイ・キーク


 ケイトは第二夫人ということで結婚式は行われず、領主館の隣の教会で軽い言葉だけいただいたようだった。イルマは手持無沙汰でカイルと意味もなくささやきあったりしていた。

 だからかいきなり、白いエプロンをつけた30代半ばの女に肩をたたかれ、驚いた。

「ちょっと」

 厳しい顔で、顎で扉を示される。おとなしくついていくと「イルマだっけ。あんた、あんなとこでぼんやりして。わかってるの、今日は晩餐の準備があるんだよ」と叱られた。

 イルマははっと頭を下げた、

「すみません」

 それに女はわずかに顔をこわばらせ、小さく「何が、すみませんだ」といった。

 イルマは黙って女の後についた。

 領主の館はどちらかというと武骨で、城というより砦のような趣があった。けれどイルマは初めて見たとき、これが権力か……と思った。

 長い廊下を進むと、ガチャガチャとした音と怒鳴りあう声が聞こえた。

「ここが調理場」

 示された場所には数十人が詰めていた。

 圧倒されているイルマに女は「ここで手伝いな」と言った。

「はい」

 女は冷たく踵を返した。結局、どういう立場の人かもわからなかった。イルマは恐る恐る、その中に足を踏み入れたが、余りの人数と怒声に怖気づいた。だからといって、ただ棒立ちしているほうが、よほど疲労が強かった。一番年若い少女―――おそらくイルマよりも1、2歳年下―――に「何かすることありますか」と尋ねた。少女はそばかすが散った小麦色の肌に、灰色の瞳をしていた。

「さあ、自分で考えれば?」

 少女は特別傷つけようとしたわけではないにしろ、イルマはその言葉の居丈高な調子と小ばかにした様子に少し衝撃を受けた。少女はそのまま、調理場から出て行った。

 イルマは今度は慎重に人選して、背の高い女に声をかけた。30代半ばにみえた。

 女は驚いた様子だったが、丁寧に調理場の隅を指さし、そこで洗い物をするように指示した。

 イルマはその後、手の感覚がなくなり、手が真っ赤になるまで洗い物をし続けた。途中、腹が鳴ったので、晩餐会が始まっているのだろうと思った。洗い物にも、晩餐会で食べたのだろう食事があった。

 イルマはだんだんと意識もうろうとしてきて、腕が疲れてきた。

 調理場の入り口のほうで女の高い声が聞こえた。

「なんで、ここにいるのですか」

 その言葉が繰り返されている。どうしたのだろう、とイルマが入り口を見ようとすると、肩をたたかれた。

「おまえ、ケイトのおつきだろう。なんでここにいるんです」

 イルマはやっと、自分に話しかけられていたと気づいた。

「あっ、えっと、ここにいろと、言われたので」

 口が絡んだが、目の前の老女に何とか伝えた。老女の瞳は見えているか見えていないかわからない乳白色だった。

「だれにです?」

 イルマは困って、首を傾げた。名前はわからない。

「すみません。お名前聞いていなくて、分からないです」

「ああ、犯人はわかっています。エリンズ、だろう。まあいいでしょう。おまえの部屋にいかないと」

 老女はさあ、と言ってイルマの手を引いた。調理場は広間とつながっている出入り口ともう一つ小さな勝手口があり、イルマはそこから外に出た。

 老女が先導するのをついていくと、領主の敷地には館以外にもいろいろな建物があることが分かった。

 その中でも新しい建物の中に入った。その建物は渡り廊下で領主の館とつながっているようだった。

「ここがケイトの弟とお前たち使用人の館ですよ」

 イルマは瞬きした。

「カイルも一緒の建物に? ケイトはどこに?」

「弟があんたと同じ部屋で寝るって、だだこねるもんですからね。ケイトはこの建物の渡り廊下を渡ってすぐある角部屋でしょう」

 イルマはうなずいた。老女はそんなイルマをちらりと見て、「覚えておくように」といった。

 老女がその建物に入ると、メイドらしき少女が慌てたように頭を下げた。

「マリビス夫人! こんなところまで!」

 マリビスと呼ばれた老女はピクリとまゆを上げた。

「こんなところ? 何を言っているのです? ここも領主の館の一部です」

 少女は慌てたように、口の中でもごもごと弁解を口にした。

「いいでしょう。さあお前、イルマを部屋に案内しなさい。イルマは貴方はカイルの第一侍女ということになりますから、丁寧にね」


 イルマは小さな部屋であったが、一人部屋だった。また隣はカイルの部屋で、部屋どうし一枚の扉でつながっている。


 イルマはカイルの部屋でバダリとともに荷物を広げ、部屋を整えた。ふとイルマはそのとき自分が第一侍女と言われたことに疑問を持った。カイルにはバダリがつくと思っていたのだ。

「バダリさん、私がカイルにつくんですか?」

 尋ねると、バダリは不愛想にちらりと視線をよこし、そのかさついた唇で「ケイト様つきの侍女がひどかったものですから」といった。


 思いのほか、ケイトへのあたりが強いのだ。イルマはそれを知り、胸がむかつくような感じがした。


 あんなにきれいな、そう精神がまっすぐできれいな子をよってたかっていじめたり押さえつけるのが楽しいのだろうか?


 けれど、とイルマは唇をかんだ。


 ケイトはその野心ゆえに、大人の世界に足を踏み入れ、それが大人の癇に障ったのだ。そしてケイトは子供で、子供だろうけど、それでも大人と闘わなければいけない。


 イルマは内心でぼそりと、誰にも聞き取られないからこそ、そっと「私も一緒に、戦う」と思った。


 食事をして、おなか一杯になったカイルをお風呂に入れ、着替えを用意し「おやすみなさい」とイルマが言うと、カイルは「元気ないの?」といった。


「イルマ、元気ないの?」

 カイルは領主の館に来てから、イルマを呼びすてるようにした。まるで親しいように、下のものを接するように。

 イルマは答えられなかった。


 今、渡り廊下の突当りの部屋で青白い顔で座っているケイトが浮かんで仕方ないのだ。いや、もうケイトの部屋には領主がいるかもしれない。


「イルマ、おいで」

 そのぞっとするような色に、イルマは思わずカイルを見た。

「一緒に寝たい」

 声とは裏腹に、甘える子供のような顔だった。イルマはくしゃりと顔を歪めてしまった。ただただ、不安だった。



 ケイトはその後、改宗した。名前もケイト・ローデンスとなり、洗礼名も与えられた。バダリはケイトの侍女になったが、他の侍女に恐れられている。バダリはイルマには分からないが、とても恐ろしい性質を備えているのだ。


 イルマはカイルの侍女として使えることになったが、第一の困りごとは新しくカイルの侍女になった少女との不和だった。その子は初日にあった灰色の瞳をした子で、マリビス夫人の孫でエリンズという娘だった。マリビス夫人はよくよく聞くと、この屋敷の召使ではなく、領主の母親の姉で、この屋敷では重用され発言力もあるらしいことを知った。男爵の娘だったが、妹とは違い結婚した相手がひどい男で、離婚した後はずっと領主の館で発言力を持ち続けているらしい。妹の死後も領主の母親代わりとして存在する。


「カイル様、召使と主人は食事で同棲しないものなんですよ」

 エリンズは意地悪くイルマをみながらカイルに言い聞かせるように言う。カイルがイルマと食事取ると言い放ち、だめなんだよと困り顔でイルマが言っているときに、部屋に入ってきたのだ。


「でも、食べたい、僕」

「カイル様」

 エリンズはぎゅうと眉を細めると、おそらく甘い対応なのだろう。

「だめですよ」

 とおもねるような声でもう一度言う。

「エリンズ、理由はなに?」

「カイル様、昔から決まっているんですよ。主人は主人の分があって、召使は召使の分があります」

 カイルは丸い目をもっとまるくし、頬を膨らませた。

「僕にはわからないし、それを守る必要はないよ。イルマと一緒に食べる」


 ふとイルマは心に浮かんだ言葉を反芻した。

 エリンズ、そうカイルはこういう場面でも決して譲ることのない人間だから。イルマはどうして今まで気づかなかったのだろうと思うが、ケイト以上にカイルの自我は強いのだった。


 エリンズは悔しそうに、しかしどことなく底意地の悪い表情で「カイル様もいつか、誰が《・・》正しかったのかわかりますよ」といい、礼をして部屋から出ていった。

 イルマは胃が重くなる感覚に、一気に食欲が失せた。しかし、カイルはまあるい頬をにこにことさせ「あーん」とフォークに刺した血がにじむ肉をイルマの口に押し付ける。


 イルマはそれを食べた。

 

 正直、イルマはこの館に全くなじめなかった。日々忙しく女が廊下を駆けずり回り、男は汗を滴らせ、訓練をし酒を飲んでいる。皆顔見知りで、幼馴染。そんな雰囲気の中でイルマとケイトは異端者だった。


 ただしカイルは違った。カイルはすぐにマリビス夫人に気に入られ、溺愛されるようになった。その後も、カイルは周りから歓迎され、この使用人の別館はほとんどカイルが主人といってもいいほどの様相だ。

 だからといってイルマの立ち位置は低く、カイルに気に入られているということだけが存在意義のようなものだ。

 

 そしてケイトは領主の館の舞踏会で、領主の第一夫人に、公衆の面前でドレスを馬鹿にされた。

 イルマは胸がいたくなる。ケイトはそれを笑って流せる性格ではなかった。逆に夫人のセンスを徹底的に罵倒し、周りはその様子に引いた。


 ケイトの服にのりづけし、運ぶとケイトはだるそうにベッドに横たわっていた。

「ケイト、どうしたの?」

 イルマが問うと、「本当に嫌い。全員死ねばいいのに」とつぶやく。しかし顔色は青い。


 ケイトは夫人から嫌われ、ほとんど虐めにあっていた。


 イルマは服を棚に置くと、よいしょとベッドに座った。


「ねえケイト、領主さまはどういっているの?」


「どうもこうも、あんな男なんの役にも立ちやしないわよ」

「うん」

 イルマは優しくうなずく。


「ケイト……どうしちゃったの?」

 イルマはケイトに問いながら自分にも質問した。どうして友人のひどい状況に今まで黙っていたのだろう。

「ケイト、私気づいたの。どうしたってね、えらい人たちは人の世話にならなくちゃいけないの」

 突然話し出した言葉に、ケイトは不可解そうにイルマを見つめた。


「……どういう意味?」

「第一夫人だって、服は全部着せてもらってご飯を作ってもらってる。カイルなんて、使用人に気に入られているから下にも置かぬ扱いだよ」

 イルマがぽつりぽつりと語り掛ける内容に、ケイトの瞳は深く思考に沈み、その複雑な色合いが知性に輝きだした。


「そう、……そういうことね」

「うん」

 イルマは柔らかくうなずく。


「使用人を丸ごと全員、私の味方につければいいのね」


 ケイトの魔女のような美貌は妖艶に輝きだし、その赤い舌が唇をなめた。


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