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 音がきこえる 

 

 童子が無垢に笑うような

 女がさめざめ泣くような

 男が囃し立てるような

 

 音と同時に あたたかなにおいが透明なまわりから 

 遠いはなし声がきこえる

 黒い森は碧い

 森は夜 足は土にのみこまれる 


 夜がふけると みんないう


 あああそこは遠いところで 美しいところ だからみんないきたがる


 でもとても怖いところ 美しいものの奥底には 闇が……


 


 落ちぶれ、薄汚れた灰色の石街道をカタカタと音を鳴らしながら馬車が走っている。手綱を握っている老人は無気力な表情、あるいは無表情。彼は思いついたように、緩慢な動作で長鞭を振った。

 老馬はそれにふいと足を止めた。ブルルッと鼻息を荒くし、御者台を振り向く。どうやら抗議しているようだ。よいしょと老人は身を乗り出し、泥色の、色艶をなくした体毛を毛並みに沿うように撫でた。

「――――ポニー、やってみただけさ。さあ走っておくれ」

 老人は馬の名前がポニー以外にあると知らない。そして彼はこの老いぼれた馬に鞭を振るったところで、小気味のよい走りが帰ってくるとは、思っていない。

 けれども、少し昔の様に振ってみたかったのだ。もう何年も鞭など使っていない。

 また老馬は走り出す。いや老馬はそのつもりで足を動かす。

 老人は目を細めた。ポニーがいなくなれば、どうしたものか。

 彼はすぐに考えを振り払うかのように、首を振り、手綱をきつく握りなおした。

 その時、鳴声が聞こえた。ふと顔を上げた。頭上、いやもっと遠く――天上――からだ。鳥の声ではない、どうにも低い、唸り声、獰猛な肉食獣の猛った唸りだ。風が悲鳴をあげた。


 ゆっくり身体を揺られながら、老人は首の痛みとともに、それを見た。


 蒼空の大半を己の躯に抱き込んだ、赤色の竜。

 悠々と進んでいるように見えるそれは、すでに街道の果てまで進んでいた。


 長い人生の中で、老人は二匹の竜を見た。一度目は生涯にたった一度、都の記念祭に出たとき、上に王族を乗せ優雅に空を泳ぐ姿を。


 そして今、偶然に目に飛び込んだ空を抱く姿。


 老人は馬車を止め、竜が消えていった先をずっと見続けた。そしてしばらくして地に跪いた。

 



 

 八四四年四季 コゼット村


 平穏なイルマの村に、ある一家が引っ越してきたのは四日前のことだった。無神教の司祭ということで、多少イルマや村人も覚悟していたが、その家族は想像を超えていた。


 司祭が引き連れてきた家族は妻と子供二人。奴隷が二人。司祭は裕福なので、召使を一人連れていることは珍しくないが、奴隷を持つ司祭というのもなかなかいないものだ。

 そして問題はそれではなく、その家族の言い表せないほどの不具合不似合だった。司祭の妻は非常に妖艶な美女で、村の男の視線を一身に浴びたのも束の間、隣に立っていた司祭の姿にみな悲鳴をこらえた。

 司祭はこの世のものとも思えないほどの醜男だった。顔に傷痕や火傷の跡などがあるわけではなく、その顔本来の構造が間違っているとしか思えない容貌だったのだ。イルマはあまり美醜の判別が付かないが、司祭の顔は見ているとどうしてだが不安になった。足元がおぼつかないような、空を見ていると思っていたら、地面を見ていたような。そんな周りが曖昧になっていくような顔。


 司祭は村人の反応を表情を変えずに、挨拶した。その後ろには姉弟がつまらなそうに立っていた。



 けれど二人もまた母同様に美しかった。イルマは美醜というものに詳しくない。司祭が醜いというのも後々、お隣のジェームズに聞いたのだ。しかしイルマは姉弟の特異性はわかった。

 姉のケイトと名乗った少女は、イルマの2、3歳上くらいで、黄金の瞳を持っていた。それは魔女の印だといわれるし、一般的に敬遠される。髪の色は母を継いで豊かな茶褐色の巻き毛だった。クルクルとうねっているいるそれは顔の周りをなぞっている。弟の少年は5歳くらいに見えた。彼は燃える炎のような赤毛だった。遺伝なのか、姉同様巻き毛で、顔を浮きだたせるような色あいは彼の異様な肌の白さを際立たせていた。姉に比べて表情は子供っぽく、人懐こそう。ふっくらとした頬は柔らかそうだ。

 イルマは珍しく一目みて気にいった。

 とってもかわいい。

 

 イルマの母は村で占い師をしている。どこの村にも必ず一人いて、皆から信用され、何かあったときは相談を受ける。ただ占い師になるには修道僧のような条件があり、女性であること、生涯結婚をしないこと、そして盲目であることが必要だ。

 イルマは毎日盲目の母のために朝食を用意する。夜明けとともに目覚め、スープを作り、果物を切り、パンを鍋で蒸し焼きにする。手間はかかるが、イルマの家にはかまどがないし、水車小屋で製粉された小麦だけ買ってきて、自分で作った方が経済的なのだ。

 

 昼からは庭の菜園に水をやったりし、母の客が訪れれば茶を沸かし、もてなす。

 毎日の繰り返し作業。


 だから夕方隣のジェームズが訪れたときは少し驚かされた。珍しいことだった。


 ジェームズはこの村で唯一、大きな都市で読み書きを習った人で、村に戻ってきてからはそれを村のこどもに教えている。といっても子供は家の仕事の手伝いをするし、村の人間も読み書きができればそれに越したことはないと思っているが、それ以上にできても使う場所がないので、時折いかせるくらい。子供はそんな暇ができれば、遊びに行ってしまうので、中々授業を受けに行っている人は少ないという。

 真面目に教えをこうているのはイルマくらいだった。


「やあ、イルマちょっといいか。いま家に司祭様の子供たちが来ているんだが、お前に挨拶したいんだと」

 私に会いたい? 不思議に思いながらも、「ええ」とイルマはうなずいた。


 イルマは村の男が苦手だったが、ジェームズはすきだった。村の男は自分の腕力の自慢しかしないし、いつも喧嘩ばかりしている。彼らの頭にはほかの男を打ち負かしたり、また酒場の女を自分のものにすることしかないのだ。

 イルマまだ11だったが、7つまではずっと母と別々に暮らしていたせいで、どうにも考えが同年代と違っていた。いや村の誰とも。


 

 ジェームズの家には確かに姉弟がいた。至近距離で見ると、本当に今まで見た人間と顔かたちが違う。


「ジェームズのお兄さんの隣に住んでいるイルマよ。よろしく」

 椅子に足を組んで座るケイトに微笑みかけると、ケイトは昂然と見下ろしてきた。


「そう、変わった名前ね。ああお母様が占い師だからかしら。ケイトよ。よろしく」

 ちょっと嫌な感じ、そう思いながら、イルマは視線を彼女の弟の方に移した。弟は床に座って、こちらを見上げていた。


「君の名まえは?」

 イルマが彼に視線を合わせると、きょとんとした丸い瞳が見返してきた。潤んだと透明な目。小さなぷっくりと浮き出た唇が「カイリュ」と動いた。


「カイリュ?」

 ケイトが弟の頭を叩いた。


「名まえも名乗れないの? 弟の名前はカイルよ」

「可哀そうよ。乱暴な真似しちゃ」

 ケイトは胡乱気にイルマを見た。


「躾けよ」

 乱暴な口調だった。イルマは何も言わず、ケイトが手に持っている本に目を止めた。ジェームズが持っているのは都の師にもらったというものだけで、難しい語彙が多く読めたものではなかった。


「こいつが持っていたの。貧乏人――ああ農民か――のくせによく持っていたわね」

 こいつ、と顎で示したのはジェームズだ。

「まっ、つまらないけど、あんたはこれ読んだの」

 ケイトは本の表紙をこちらに見せた。イルマは表紙より彼女の白い手に目を吸い寄せられた。

 

 見たこともない手だった。指の一つ一つが滑らかで細く、指先の詰めは小さな貝殻のよう。チュニックの袖から見える前腕は柔らかそうで、そこに力仕事の痕は見受けられない。村の少女たちの腕と根本的に作りが違う風に見えた。


 イルマは小さく首を振った。

「読めないよ」

 

「ふうん。あんた字、読めるんじゃないの。ジェームズだっけ? そいつが読めるって言ってたけど」


「読めるよ。でも内容が難しいから。それで、私に会いたいって聞いたんだけど、どうして?」

 ふと、本題を思い出し、首を傾げた。


「そう、それ。実は、というかカイルの馬鹿さ加減は見てわかるだろうけど、この子読み書きができないの。信じられない。もう5歳よ。

 それでジェーソンだっけ、そいつが読み書きを教えてるって聞いたんだけど」

「おれジェームズなんだけど」

 ジェームズはぼそりとつぶやいた。ケイトは気にすることなく続けた。


「でもカイルがどうやら、このジェーソンを気に入らなかったようなの。この子、好き嫌いが激しいの。お父様が甘やかしたからよ。だからこの村で読み書きが完璧にできる人って聞いたら、村長と水車小屋の番人と、隣の子供しかいないっていうじゃない! どうなってるの! 信じられない! 馬鹿ばっかりじゃない。大人はどうせ仕事で忙しいから、あんたにしか教師は頼めないの。まあカイルがあんたを気に入るかは分からなかったけど、大丈夫そうだし」

 まくしたてられ、イルマは一歩後ずさった。訛りのない口調で話されると、迫力を感じ、例えられない圧迫感がある。


「うっうん。言いたいことはわかったけど、その……あなたが教えればいいじゃない」

 

「面倒なの、馬鹿に教えるのは」

 意見はばっさり切られた。ケイトは薄い唇をゆがめた。


「謝礼は一日2時間で銅貨1枚? どう?」


「うーん……」

 どうしよう、庭の菜園のこともあるし、他にも客の世話、夕飯の用意もある。イルマは覚悟を決めた。


「私も家でしなくちゃいけないことあるけど。でも、うん。大丈夫。昼過ぎは暇だからそのあたりに来てくれれば」

 それからイルマは迷ったものの、言った。


「謝礼もいいよ。職業ってわけじゃないし、ご近所さんなんだから」

 司祭の家はジェームズの家の左手の柵を越え、森に入りかかったところだった。


「仲良くしよ」

 ケイトはまた胡乱気な目で見てきた。


 

 イルマが母に、カイルを教えることになったと伝えると、「馬鹿な子ねぇ」とため息をつかれた。


「読み書きなんて女がすることじゃないし、教えるなんて……。これじゃあ嫁の行きてがないよ」

 イルマは曖昧に笑った。そのまま母の背を撫でて、

「今まで通りに、お手伝いはするから」

「それならねえ」

 母は占い師という職業柄、色々なことを見聞きしているから理解はある。普通の家なら、鞭でひっぱたかれる。

 でも、ケイトはあんな難しい本まで読めるなんて。イルマは感嘆し、そして好奇を覚えた。無神教というのは女が学ぶことに理解があるのだろうか?


 ジェームズも最初女を教えることはいやがったのだ。他の宗教では女は感情的で理性でものを見ることができず、物事を堕落させるといわれる。そのためほとんどの司祭は妻帯ができない。イルマはこのフレデリア王国の国教の創神教を信じていた。創神教の司祭はどの村にもいるし、実際コゼット村にもいる。他の宗教もケイトの父の様に布教に来るが、5、6年で違う土地に行く。フレデリアではどの村でも創神教以外の宗教は歓迎されない。


 イルマはケイトたちを異国人なのかとも思ったが、それにしては言葉がフレデリアのものだ。

「どうなんだろう」

 夕飯を作りながら、首を傾げた。





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