天使がもうそこに!
不意に、視線の端で、なにかの動きが起こっているのに気がついた。
思わず、そちらに眼をやると、若草さんがこちらをじっと見つめている。いや、違う、睨んでいる。それに、両足を前後に開いて、踏ん張って、腰を落として、両手で脇腹の横にあるなにかを包み込むようにして……
えっと、もしかして、手のひらから何かのエネルギー弾でも発射しようとしている?
その様子を見ていると、自然と、かつて大人気で、世界的な評価が今でも高いバトルアニメの『龍球』に登場してくる鳥取の温泉の王様名にそっくりな名前の技が頭の中に浮かんでくるのだけど?
――ぐわっ! はぁ? なんで天使が、もうそこにいんねん! いくらなんでも早すぎや!
本の精霊の驚愕の叫びが!
え? 天使?
――富雄はん、逃げなはれ! 殺られまっせ! 逃げなはれ! 全力で走りなはれ!
な、なんなんだよ、今度は?
すこし離れた場所から、技を撃とうとしている若草さん、オレを殺意のこもった眼で睨みつけ、そのマヌケなポーズを保ったまま、オレまでの目測をはかり、狙いを定めているようだ。
本来はとても整った顔立ちで、その上、笑った顔がとてもチャーミングで、人目(特にオレの眼)をひきつけるのだけど、今は、顔を歪めて、牙を剥いて…… 見ているだけでゾッとする。震えが来る。まさに、この顔は……夜叉の顔だ!
オレは、そんな若草さんを呆然と見つめたまま、その場に突っ立っていた。頭の中で、さっきから本の精霊が絶叫しているのを無視しながら。
――逃げなはれ! はよう!
なんで、オレが若草さんに攻撃されなくちゃいけないんだ? なんで、若草さんはあんなポーズをとるんだ? オレに敵意むき出しの顔を向けるんだ? なんでだ? そんなに、オレ、若草さんに嫌われるようなことしたか? 若草さんがオレをやっつけたいと思わず願ってしまうような、なにをオレがしでかしたんだ?
頭の中に、様々な疑念が渦巻いている。大好きな若草さんに嫌われている今の現状を理解できないでいる。
はっ! もしかして、さっき若草さんに気がつく寸前に、肌色お姉さんの写真本に一瞬気をとられていたことがバレたか?
ち、違うんだ。あれは、男子の本能的習性というか……
あ、でも、あれは、ほんの一瞬のことだし、すぐに若草さんに気がついたから、とっさにもう一方の革装丁の本を手にとって、あの写真本は川に蹴りこんだんだ。だから、若草さんがあの写真本に気がついていたはずはない。大体、今も、濁った川の底に沈んで、影も形も見えないのだし。
じゃ、なんで、こんな……
若草さんの足元では、飼い犬のジョンがいつもと違う様子の飼い主を困ったような顔をして座って眺めている。オレも同じ顔をして若草さんの様子を眺めているわけで。多分、今、この瞬間、ジョンとオレ、同じことを思っているのだろうな。若草さんは、一体どうしたんだろうって。
――だから、あんさんを殺そうとしてるんやおまへんか!
本の精霊のいらだつ声が。
オレを? なんで?
――そないなことは、後や! とにかく、逃げなあかん! はよう! はよう!
次の瞬間、若草さんがさらに一歩オレの方へ向けて踏み込む、そして、脇腹の横にあった両手の中に実際に光球が現れはじめ、そのまま力強く体の前へ……
瞬間、若草さんの両手がバンザイをするかのように上へ向けられた。たちまち手の中に現れたばかりの光球がはじけて消えた。
「だめー! そんなことしちゃダメ!」
「な、なにを!」
「ダメ! 片桐くんを傷つけちゃダメ!」
オレの目の前で、若草さんが、一人で叫んでいる。
「なぜだ? なせ、私の妨害をする。ヤツがそこにいるのだぞ!」
「ダメ! 今、攻撃したら、片桐くん、死んじゃう!」
「片桐? ああ、そこの原住知性体のことか。知り合いか?」
「そう。だから、ダメ! 片桐くんの命を奪うなんて絶対ダメ!」
「それは仕方がないじゃないか。運が悪かったとあきらめてもらわないとな」
「そんなのダメよ! 絶対、許さない!」
「し、しかし……」
「ダメったら、ダメ!」
「む、むむむ……」
えっと、さっきから若草さんは、なにを一人で叫んでいるんだ? まるで、この場には若草さん以外にもう一人いて、そのだれかと会話しているみたいだけど、実際には、その二人分の言葉を発しているのは若草さん自身なわけで。
「こ、これは一体……?」
――ああ、簡単なことですわ。その原住知性体の中に、天使が取り憑いてて、その体を動かしているっちゅうわけや。
天使? そういえば、さっきも本の精霊が『天使』がどうとかって。
――ワテを滅ぼそうっちゅうんで、神さんたちが配下の天使たちにワテを追いかけさせてるんですわ。ほんま、しつこい連中でっせ。
神さん? 天使? な、何を言って……
――さっき、あんさんがワテを開きはったから、ワテがあんさんに取り憑いたのと同時に、天使たちも、その痕跡を追って、この恒星系の近くにいる原住知性体たちに取り憑いたんですわ。で、もうすでに、ワテを燃やそうと活動し始めているはずやねんけど。まさか、こんなに早く見つかるなんて思わんかったわ。今まで逃げてきて、こんなに早ようみつかったんは、初めてでっせ。
妙な感慨を込めて、そんなことを言っている。どこか気の抜けたような。というか、あきらめたような気だるい気配が感じられるのだけど?
――どうやら、最初に1000作られて、今や7つしか現存してへんファーストコピーのひとつっちゅうワテの命運もここまでのようやな。ま、これまで天使たちから逃げる回る途中で、いろんな宇宙を見て回ってきたし、いくつかワテ自身のコピーも残すことができましたさかい、まあ、考えてみりゃ、この生涯も悪くはおまへんでしたけどな。
って、いきなり、なにを……?
――我が生涯、悔いなしっちゅうわけにはいきまへんけど、それでも、ワテは十分満足おしたわ。最後にあんさんを巻き込んで、終わりっちゅうんは、ちょい申し訳おまへんけど、堪忍しておくれや。
お、おい! なんだよ、それ?
――とりあえず、精一杯、力をつかって戦いはしまっけど、いずれあの天使の仲間がここにぎょうさん集まってきて、ワテを燃やし尽くしまっさかい、それまでの間、つらいかもしれまへんけど、辛抱しておくれやすな。
うぅ、なんか悲壮感たっぷりなことを……
そんな風にして、オレは頭の中の本の精霊と対話しつつ、その場にぼうっと立っているわけで。
って、なんか、今のオレと若草さんって、傍から見る人がいたら、すごく近寄りがたい雰囲気の頭のおかしい人たちに見えるんじゃ?
一方は、ヘンなポーズをしながら、一人で二人分の会話を叫んでいて。もう一方で、向かい合うように立ちながら、眉根を寄せてだまって立っているのはいいけど、百面相よろしく交互に悲壮と疑問の表情を浮かべているわけなんだから。
うう…… ここが国道の大橋の下なんていう、人目のあまりない場所でよかったよ。まったく。
今、俺たちの様子をみているのは、若草さんの飼い犬のジョンだけでよかった。本当によかった。
って、あ、あれ? なんか、さっきからオレの背後でカサカサと風でビニール袋がこすれるような音が聞こえてきているような気がするのだけど?
それに、なんか荒い呼吸音も……
ゆっくりと振り返る。と、ひと目で部屋着とわかるようなジャージの上下を着た若い女の人が、コンビニ袋片手にその場で呆然と立ち尽くしていたりして。
オレと眼が合った途端、一歩後じさった。
「わ、わ、私…… なにも…… なにも見てないです。はい」
なんて、別に言う必要もないことを……
「……」
「あ、そうだ、買い忘れたものがあるんだった。急いで、さっきのコンビニで買ってこなくちゃ!」
わざとらしく呟きながら、きびすをかえそうとして……
「あ、あの?」
オレが声をかけようとした途端、一目散に駆けていった。
「私、本当に、なにも見てませんから! 私、なにも知りませんから! キャー!」
って、ガ~ン……
――とにかく、こいつごときなら、ワテの力で倒すのも簡単でっさかい、任しておくんなはれ。
と、突然、オレの意思とは関係なく、オレの体が、M78星雲出身の宇宙警備隊員的なファイティングポーズをとる。
って、え? なんで、オレの体が勝手に?
――あんさんの体、しばらく貸りまっせ。
って、はあ?
そんな風に、オレの体が勝手に動いているのを眼にしたのか、若草さんが呆然と呟いているのが聞こえてきた。
「えっ? どうして? なんで、片桐君が? そんな……」
って、そういいながら、若草さん自身、悪の秘密結社に改造人間にされたヒーローの変身ポーズをとっているのだけど。
って、そんなことより、
「ちょ、ちょっと待った!」
「……」
「おい、本の精霊、聞いているのか? ストップだ! ストップ!」
「はあ? なんですのん? さっきから? ワテ今、いそがしいんやけど?」
「だから、そのファイティングポーズ、止め!」
「……なにゆうてはりますのん?」
「だ・か・ら、そのポーズ、解いてくれ!」
「……はぁ?」
オレの抗議の声に、オレの体は、しぶしぶのようにファイティングポーズを解除する。
って、なんでオレの体なのに、オレの意思が無視されるわけなんだ? オレ自身がオレの体を説得しなきゃいけないんだ? わけわかんね。
そんなオレの様子をながめながら、若草さん、
「わ、わ、ど、どうしよう。片桐君が、片桐くんが、壊れた!」
い、いや、若草さん自身も、すでに壊れてると思うのですが。
むむ…… 頭痛くなりそう。