おい、お前の……
「お、おい、お前。お前の……」
(力を貸せ!)と唇が動こうとした瞬間、強烈な風が吹き付けてきた。一瞬にして、辺りに立ち込めていた焦げ臭い匂いが吹き飛ばされ、新鮮な空気に置き換わる。
「なっ!」
目の前の敵が、驚いた様子で、空を見上げる。その動きでフードがずれて、ようやく顔が見えるようになった。その顔に、オレは見覚えがあり、反射的にその名を叫ぶ。
「大和!」
大和は、オレの叫びを無視して、空を見上げ続けている。ついオレも、その大和の視線に釣られて、空を見上げた。
そこに最初に見えたものは…… 真っ白い翼。
鳥か? だとしたら、巨大な鳥、怪鳥。だが、その白い羽をもつ怪鳥の胴は、到底、鳥には見えない。そこには、真っ白な貫頭衣に身を包んだ少女がオレたちを見下ろしていた。白鳥の羽のような大きな翼をゆっくりと羽ばたかせ、地表にいるオレたちに強烈な風を吹きつけている。
その少女の顔にもオレは見覚えがあった。というか、よく見知った顔だ。
「若草さん!」
オレの声が聞こえたのか、若草さんは上空からオレに微笑を向けてくれる。疲れきり、力の尽きたオレの中に、まるでまた新たな力がわきあがってくるかのようだ。
「なぜ、そなたがここにおる! 我はそなたに、しばらく待機しているよう命じたはずだぞ!」
大和が、忌々しげに若草さんに言い放った。
「大天使ウリエルよ。その者には、我らの敵など取り憑いてはおりませぬ。もう一度、お考え直しを!」
「ふんっ。ウソは、もう止めよ! その者の中にいるのはすでに明白。その者に加担するは、神を裏切る行為なるぞ! わかっておるのか?」
「いいえ。そうではありません。大体、大天使も、その者に取り付いている可能性があるというだけで、まだそうだと決まったわけではないと知っているからこそ、直接攻撃をなさらないのではないのですか?」
「うっ……」
どうやら、図星だったようだ。
「それに、なにゆえ、この者の住居に火をかけるような非道をなされたのですか? この者の中に取り憑いている者を探そうとするのであれば、他にやりようがあったのでは?」
「……」
「大天使、どうなされたのですか? なにゆえ、このようなことを……」
若草さんは、戸惑い気味の声で質問を続ける。それに対して、大和は、結局、なにも答えない。
「……」
「……大天使?」
ふと、大和がオレに視線を向けているのに気がついた。その視線を受け止め、見つめ返していると、不意に、腹の底に冷えのようなものを感じた。それが急速広がり、一挙に全身に拡散する。
ブルブルブル……
なんだ、この震えは? それに全身の筋肉が収縮している。イヤな汗が体中からあふれ出る。
こ、これは……!
すぐに気がついた。オレは、今、生まれて初めてといっていいぐらいの圧倒的な恐怖を感じとっているのだ。
でも、なんで? なににオレは恐怖しているのだ?
目の前にいるのは、中に大天使が入っているとはいえ、大和だぞ。オレの親友の。なにを怖れる必要があるのだ?
戸惑いながら、オレを睨む大和を見つめていると、大和の体のまわりでなにか眼に見えないものが膨らみ始めたような気がした。
それがなんなのか正体はわからない。不定形で不気味ななにか。もし、見ることが出来たなら、真っ黒だと感じるようななにか。禍々しいオーラのようなもの。
大和は、オレに視線を固定したまま、上空の若草さんにするどい声で命令した。
「その方は疾く元いた場所へもどり、そこで謹慎しておれ。以後、この件に関与することを固く禁ずる。今回の命令違反の件に関しては、すべての事態が終結ししだい、改めて検討し、処分をくだすものとする。よいな? わかったな?」
「大天使! 大天使!」
「そなたの反論はもはや聞かぬ。いますぐ、この場を去れ!」
「いけません、大天使! 大天使、いけません!」
「去れ! この場を去れ!」
「大天使!」
必死に抗議の声を上げつづける若草さんの方を、大和はもう見ようとはしない。ただただ、その足元の地面を力いっぱいに踏みつけているだけ。
だが、それに合わせて、大和の方から押し寄せてくる目に見えない不気味な気配がさらに大きく膨らむようだ。
「大天使!」「大和!」
次の瞬間、大和の手の中に光の球が現れた。最初は、まぶしく真っ白な光球。だが、その一瞬の後には、その色が漆黒に変化する。
そう、さっき、オレの家を燃やしたあの黒球が大和の手の中に現れたのだ。
「大天使。そ、それは? その光球は?」
「大和、お前……」
次の瞬間、その黒球は大和の手を離れた。まっすぐにオレの立っている場所へ突進してきた。
瞬時に真っ白なものがオレの視界をさえぎった。黒球が見えなくなる。同時に強烈な横Gがオレを襲い、骨がきしむ。
直後に、オレの足の裏から地面の感触が消え、猛烈な風の音が周囲に満ちる。Gが消え、気がついたときには宙にいた。
空の上から、さっきまでオレがいた真っ黒な地面を見下ろしている。視界の中、あちらこちらの家々の窓の明かりが見えるが、一区画だけ、明かりさえない真っ暗闇がある。オレの家があったあたりだ。
だが、次の瞬間、その暗闇の中で、強烈な光がはじけた。黒い光。薄暗く眼に見えるはずもないのに、だが、強烈なエネルギーと光量を恐怖でブツブツの浮いた肌が感じる。
黒く焦げた残骸のかすかなシルエットがオレの網膜に届く。
そして、その黒光の爆発に照らされて、立っている人物の影も。
笑っていやがる! 哄笑していやがる!
「どうなっているの? 初瀬くん……」
オレのすぐそばで高い声がした。そちらへ眼をやると、柔らかい顔の輪郭線が夜空の中に白く浮かんでいて……
気がつくと、オレを抱きとめるように両腕が脇の下に絡められ、胸の前で組まれていて。それに、なんだ、この背中に当たるやわらかい感触は? 全身を包み込む、甘い香りは?
こんなときだというのに、心臓が激しく脈打つ。顔にほてりが。
そんな風に高くなった体温を冷ますかのように、左右で羽ばたいている翼の生み出す風がオレをなでる。
ゾクリ……
「わ、若草さん……?」
ノドの奥がカラカラだ。言葉を発することすら難しい。
「片桐くん、大丈夫だった?」
「う、うん。助けてくれてありがとう」
「ううん……」
空でくっついて浮かびあがりながら、眼が合った。
「「あっ……」」
二人して息を飲み込む。慌てて、視線を逸らす。
あらためて、自分の体を見下ろし、幸福な気分をかみしめる。そんな場合じゃないのに。
――チッ! なんてこった! こんなヤツらにワテが助けられるなんて。
「佐保、こいつから手を放してもいいか? ここから墜落すれば、首の骨が折れて、あいつもろともあの世行きにできるのだが」
「だ、ダメ! そんなことしちゃダメです!」
「て、手を放したり、し、しないでよ。お願いです、天使さん」
「むぅ~ 仕方ない。佐保がそう言うのであれば」
オレの願いではなく、若草さんの願いにしたがって、天使はオレを抱きとめる腕に再度力を込め、持ち上げなおす。
――ホンマ、このガキゃ、いけずでんな!
ホント、オレもそう思う。




