今、ふたりは二人っきり
――さっきから、あんさん、なに泣いてまんの?
場違いなタイミングで、不思議そうな声が頭の中に響く。
そりゃ、お前たちは、人工生殖だのなんだので男女の区別なんてないし、人に恋焦がれる気持ちなんて分からないのかもしれないけど、オレは失恋したばっかりなんだぞ。今は、そっとしておいてくれてもいいじゃないか!
ううう……
悲しみと怒りの感情がごたまぜになったものがフツフツとわき立つ。
――そんなことより、心配でんな。初瀬っていったら、今日はずっとあんさんに無愛想しとったヤツでっしゃろ? そんなヤツが若草はんをわざわざ呼び出すっちゅうんわ。
……
――って、あんさん、聞いてまんのんか?
ほ、ほっといてくれ! 今は俺をそっと……
――もしかして、ワテがあんさんの中に潜んでたことバレてたんか? いや、そないなはずないな。もし、バレてたんなら、後先考えへんあいつらのことや、とっととワテらを攻撃しとったはずや。とすると……?
ううう…… 若草さん…… どうして、俺じゃダメなんだ? なんで、大和なんだ?
膝を抱え、ベッドの上で丸くなる。
――なあ? 富雄はん、一応、若草はんのとこ行ってみいひんか?
ううう…… どうして、俺を……
――おーい? 富雄はん? 聞いてのんか?
ううう…… ほっといてくれ。オレの頭の中で騒ぐな!
――う~ん。なんで、急にこないな情けない状態になったんや? わけわからしまへんわ。しゃーないな。あんさんには悪いけど、ちょっと体借りまっせ。
そう言うなり、オレの体が勝手に動き出す。オレはそれに抵抗する気力もわかず、本の精霊のコントロールするままに任せた。
――ほな、いこか。
オレの体は家を抜け出し、すでに日が暮れた道をトボトボと歩き出す。
「若草はんらは、どこへ向かったか、わかりまへんのんか?」
オレの口は、だれもいない空間に向かって質問の言葉を発するが、もちろん、それに答えるものなどおらず。やれやれというように首を振り、考え始めた。
――考えられるのは、初瀬はんの家か、学校か。おそらく、ワテの痕跡かなにかを見つけたかして、疑っているから呼び出したんやろうし。となると、初瀬はんの家の方が可能性高いか。
「なあ、富雄はん、初瀬はんの家はどこか分かりまっか?」
オレは、投げやりな気分で、本の精霊に大和の家への道順を教えた。それを教えておけば、少なくとも着くまでは、もうオレに構うことはないだろう。
そうして、オレの教えた道順にしたがって、本の精霊が操るオレの体が歩いていく。
やがて、前方に大和の家が見えてきた。家の明かりはどこもついていなかった。
両親共働きで一人っ子の大和。大和の両親は、最近、仕事が増えたとかで、毎日、遅くなりがちだと前に言っていた。だから、今、大和の家に誰かがいるとすれば、大和に違いない。なのに、家の明かりがすべて消えている。ってことは、大和は中にいないのか?
「初瀬はん、お出かけみたいでんな。ってことは、ここじゃないのか。やっぱり、学校の方かいな?」
今、若草さんと大和は二人っきりのはず。
もし、今、家の明かりがついていたなら、中に大和と若草さんだけがいるってことも……
その可能性に気がついて心の芯に冷えをおぼえる。氷点下以下、絶対零度の冷感。急に体の底からの震えがきた。
家の中には二人しかおらず静まり返った大和の部屋。見詰め合う二人。いとおしげな微笑をその美しい顔に浮かべ、眼をとじる若草さん。そして、そんな若草さんの艶めく唇にゆっくりと寄せられていく大和の……
はっ! な、なにを考えているんだ! なんてことを!
け、けど、若草さんはオレをフって、大和に。ということは…… も、もし、そんなことになったのなら、オレは、オレは……
急にオレの中で衝動が大きくなる。走り出したくなる。
なにも考えられなくなるぐらいに、メチャクチャに体を酷使したい。すべてを一旦、オレの中から追い出したい。きれいさっぱり、なにもかもを。
「オレ、お外、走ってくるぅ~!」
その衝動を堪えきれず、次の瞬間には、本の精霊から強引に体のコントロールを取り戻して、無我夢中で走り出していた。行く宛てもとくに考えず、ただ、脚だけを前へ前へ。
――い、いきなりなんですのん? びっくりするやろ、急に走り出したら!
本の精霊の抗議を無視しながら、ムチャクチャに角を曲がって、全速力を出して。
気がつくと、見慣れた景色が左右を流れていく。
いつものジョギングコースだ。普段はもっと明るい時間帯を走っているから、周囲の家々は黒い影とぼやっとした明かりがポツポツ灯っているだけだが、確かに見慣れたシルエットが連なる。
やはり、本能のままに走り出すと、普段慣れて無意識に走りこんでいるコースを辿ってしまうということだろうか?
やがて、河原沿いの道にでた。土手の上は街灯が設置されており、車もときどき行き交うが、土手の下へ降りると、街灯はなく、真っ黒。気をつけないと、すぐそばを流れる大川の流れに落ちてしまいそうだ。
それでも、オレは土手を降りて、普段のジョギングコースである流れ沿いの散歩道を辿り始めた。
いつも若草さんとすれ違う道。昨日は本の精霊に取り憑かれた道。そして、雑念を振り払い無心で走れる道。
やがて、前方に国道の大橋の黒いシルエットが見えてくる。国道沿いの街灯の明かりが川面に反射して、橋桁のコンクリートをかすかに照らす。
オレは荒い息を吐きながら、橋上の街灯の明かりが届かない陰の部分に飛び込んだ。
思わず、橋の下の土手側、昨日、オレと若草さん、本の精霊と天使の四者で話し合いをもった基礎部分の暗がりに視線を向けてしまう。もちろん、今はだれもいない。
そういえば、あそこで、昨日は、ふたりきっり(四人一緒?)だった。考えてみれば、あんな風にふたりで話し合ったことなんて、それまでまったくなかった。昨日がはじめてのことだった。そして、おそらくは、最後の……
自然と足がそちらへ向かった。