位時相変換数学
けれど――
「3問目、じゃ、だれにしようかな……」
気を取り直した数学の教師が次の犠牲者を探す眼つきで、教室の中を見回す。やがて、一人の少女がそのえじきになった。
教室の入り口近くで、ウトウトしていた少女。そう、若草さん。
「若草。3問目答えろ」
教師は舌なめずりしながら、若草さんを指名した。
ウトウトしていたのに、突然、自分の名前を呼ばれて驚いたのか、若草さんが、びくっと体を震わせる。
まだ、はっきりとは状況がつかめていないようだ。
つい今しがたまで、授業も聴かず、眠っていたわけだし、当然か。
見かねた周囲の女子が、3問目に指名されたことをささやいたのか、若草さんは大きくうなずいて立ち上がった。
そして、そのまま黒板の3問目の前に立ち、チョークを構える。
次の瞬間、カタカタカタカタと勢い良くチョークが黒板上を駆け抜け、様々な文字と数字を並べていく。圧倒的な速さ、圧倒的な分量の数式。
す、すげー
この瞬間、起きて黒板を見つめていただれもがそう思っただろう。それぐらい素早く、チョークが舞い続けていた。
やがて、最後に若草さんは、x=4と書き終えた。
数学の教師は、顔を引きつらせながら、そのx=4の数式を凝視している。
若草さんの答えは正しいのか? それとも……?
みんなの注目が数学教師の口元に集まる。
しばらくして、教師がポツリと呟いた。
「せ、正解だ……」
おお! 若草さん、すごい!
オレたちは素直に感心した。教室の中が感嘆のどよめきで溢れる。何人かの居眠り中の生徒たちが目を覚ます。だけど、
「た、たしかに答えはあっている。だが、こ、この数式はなんだ? 私は見たことないぞ」
教師が黒板の途中式を指してそんなことを言い出した。
「えっ? そうですか? 割と一般的な数式ですが」
「な、なに? 私は知らないぞ、こんなの!」
「そうですか?」
若草さんが不思議そうに教師の顔を見つめている。
つか、ん? どういうこと?
――ああ、あれは、中心領域の位時相変換数学の基礎理論をベースにした数式でんな。けど、この宇宙ではまだ位時相変換なんて概念すらおまへんから、あの教師がわからんっていうのも当然でんがな。
「い、いじそうへんかん? なんだそれは?」
耳慣れない単語に反応して呟いてしまう。
はっと気がついて周囲を見回すが、どうやら、今の呟きはだれの耳にも届いていなかったようだ。もし聞かれていたりして、それはなんなのか尋ねられても説明できないよ、オレには。
――簡単に言うと、あんさんたち人間にとっては、この宇宙はひとつっきりで、この宇宙の中やったら、どこでも同じ法則性があてはまるわけでっしゃろ? けど、ワテらにすれば、宇宙はひとつやないし、いくつも存在しとるんですわ。いわば、同じ場所に位時相を変えて重なるようにしてあるんでっせ。そやから、一つの宇宙内のことなら加減乗除の四則演算だけ考えてればいいんやが、複数の宇宙間での移行も考慮すれば、宇宙間の移動に関しての加減乗除の四則演算を考える必要ができまっしゃろ?
できまっしゃろといわれても……
正直、何言っているのか、ちんぷんかんぷんなのだが?
――その宇宙間の移動、つまり位時相変換を考慮にいれて計算しているのが、あの式でおま。
むむむ……
まったく何を言っているのか分からん! けど、ひとつだけ分かったことがある。それは、若草さんの書いた式は、我々の宇宙の式ではないということ。そして、その式を見たところで、ここにいるだれもそれを理解できたりはしないということだ。すくなくとも、若草さんやオレのように、体の中に異宇宙から来たという生命体に取り憑かれているのでなければ……
オレはそっと教室の中を見回す。
うん、どうやら、だれも若草さんの書いた式については、理解の光ようなものを眼の中に宿しているクラスメイトはいないようだ。
あらためて確認した。うん、このクラスには、若草さん以外に天使はいないようだ。よかった。うん、よかった。
若草さんは、どこか得意そうな顔をして、自分が書いた式の前に立っている。
けど、その背後に書かれた式は教室内のだれにとっても見慣れないもので……
これって、もしかして、結構、まずくね?
分かる人には、若草さんの中に異宇宙人がいるってことを証明しているようなものなのだから。
もし、それに気がついた他の天使たちが、若草さんの中の天使に接触しようとすれば、オレのことがバレたりするんじゃ? オレの中に本の精霊がいるって。
しばらくして、数学の授業が終わるとすぐにオレは黒板のその部分を消した。できれば、クラスメイトたちのノートに板書された分も消したいところだが、今は仕方がない。
とにかく、今日のことが、他の天使たちに知られなければいいな。オレはそう願っていた。
というわけで、やっと第二章終了です。
この後は、また大天使のエピソードを挟んで、第三章突入です。