第一章 第八節『復活』
8.復活
恐怖とは、人間が感じる感情の中で最も倦厭されるもの。
他者からの悪意、危害。あるは漠然とした不安から引き起こされるもの。
それは判断力を奪い、気力を奪う。
大きすぎる恐怖は時に人の思考を停止させる。
彼らの前に現れたそれは、まさに恐怖そのものだ。
この空間を満たす威圧の源泉。
漆黒の髪は何処までも長く、纏う衣服も闇に溶け込む黒。
暗闇の中でどんよりと光るのは銀色の瞳。
かろうじて伺えた顔は、この瘴気に似合わぬほど美しい。
大きな相違が、異質さをより一層引き立てた。
動けない。
目を逸らさなければいけないのに、二人はその『魔』を見続ける。
「呼んだのは、誰だ」
感情のない冷たい声。
銀の瞳が部屋を見渡す。
答えたのはシゥレン。
「わ、私でございます!王よ!偉大なる神よ!」
ヴィガロスに斬られた肩を抑えながら魔に向かう。
魔法陣の端に立ち竦むフェグを突き飛ばし、跪くように魔の足元に屈みこんだ。
「王よ、どうか我が国をお導き下さい。貴方を封印していた者は私めがあの通り…」
斬られていない方の腕で龍を指さす。
「そして、あなたを封印していた剣は、この通り破壊しました!」
シゥレンはローブの中から剣を取り出した。
刃はついていない、柄だけの剣。
「あれはまさか…!」
ヴィガロスとフェグは戦慄く。
今にも消えそうな力を二人は感じた。
瘴気の中でも灯り続ける清らかな力。
それが封印の剣の成れの果てであることを否が応でも二人に認めさせる。
「貴方様を苛むものはもう何もありません!この世界は貴方様のもの!だからどうか私めにお慈悲を…!」
救ったのは私だ、だから見返りを、と。
強大な魔力か、あるいは世界を制服した後の権力か。
欲に目がくらんでいるのは明らかである。
ヴィガロスは硬直していた体に血が通るのを感じた。
この男は、自分の身勝手な欲の為に龍を捕らえ、傷付け魔神を復活させたのだ。
怒りが全身を支配する。
許せない。
許せない許せない許せなう許せない許せない!!
がちゃん、と金属がぶつかり合う音が響く。
「ヴィガロス!」
ヴィガロスが跳躍し、魔神に斬りかかったのだ。
かなりの距離を一瞬で飛び越えた。
おおよそ、普通の人間が出来るような芸当ではない。
「え…?」
ヴィガロスの身体が紅く光っている。
炎を纏う様に、陽炎が彼の体から溢れている。
その渾身の一撃を、魔神は奇妙な形をした剣で受け止めていた。
七つに枝分かれし、それぞれの枝が魚の腹のように様々な色に変化している。
魔神は剣ごと、虫を振り払うかのように軽々とヴィガロスを薙ぎ払った。
ヴィガロスは空中で体勢を立て直すが勢いを完全に殺すことは出来ず、壁に打ち付けられる音がフェグの耳に届いた。
「ヴィガロス!」
フェグはヴィガロスに駆け寄った。
足が縺れそうになりながらも、なんとか辿り着く。
「大丈夫?」
「大丈夫。でも全く歯がたたない。」
視線は魔神に定めたまま、壁伝いに立ち上がる。
大きな怪我をしている様子はないが、強かに背中を打ち呼吸が乱れている。
そして、圧倒的な力の差に愕然とする。
「神に楯突くとは!無礼者!今直ぐその報いがその身に降り掛かろうぞ!」
魔神を背に男が断罪する。
ヴィガロスとフェグは身構えるが、魔神は動かない。
それどころか二人とは別の方向を見つめている。
シゥレンすら目に入っていない。
その視線は玉座の上に向いている。
玉座の上には、未だに身動きひとつしない龍がいる。
「おい、まさか…!」
体の痛みが引いていく。腹の底が冷える。
我々は贄なのだと。ヴィガロスとフェグと、そして龍。
この三人は魔神へと捧げられる生贄なのだとシゥレンは言っていた。
ならば、抵抗しない動かない者から手を伸ばすのは当たり前のことで。
「そいつに触れるな!」
剣を握り直す。
「ヴィガロス!無茶しないで!」
幼馴染の懇願も振り切り走り出す。
それと同時に魔神が動く。
歩く度にその髪が服が靡きまるで闇を振りまくかのよう。
フェグは動くことが出来なかった。大切な幼馴染とその大切な友達がこれから危険に曝されるというのに、体が動かない。
恐怖が体を支配している。
「…だめ、嫌だ。いや。」
崩れそうになる膝に力を入れる。泣き出しそうな心を堪える。
ヴィガロスが戦っているというのに、私はただ震えているだけ。
このままで良いわけがない。終わるわけには行かない。
フェグは意を決した。
ポーチを開けてあるものを取り出す。
ハンカチーフに丁寧に包まれ、ベルベットのリボンで留められている長細い形状。
ふわりと、花の香がフェグに届く。
魔を振り払うという花の香り。恐怖で凍りついていた頭を少しだけ回復させる。
「…私に、力を貸して…」
フェグはリボンに手をかけた。
「白き魂よ、輝ける意志よ」
詠唱する。
それは言祝。それは懇願。それは祈り。
清らかな風がフェグの両手から溢れる。
リボンが解かれ、ハンカチーフが広がる。
現れたのは白く光る杖のキーホルダー。ヴィガロスの白銀の剣と同じ光がフェグを包む。
「今こその英知を解き放ち、愚かなる者をひれ伏せさせよ!」
声が響く。清らかな乙女の声に呼応し、そのキーホルダーはいっそう輝いた。
「フェグ?…あれは、もしかして。」
玉座で剣を構えるヴィガロスがフェグを見る。
彼女の手には白銀の杖。ヴィガロスと同じ光を宿す、輝きの杖。
「守りの壁よ、彼の者を守れ!」
杖にはめ込まれた碧玉が光り、ヴィガロスの前に半透明な壁が現出する。
先ほどシゥレンが張ったものと同じ防御魔法だ。
「舞え、舞え。渦高く舞え!ストーム!!」
続けて魔法を詠唱する。局所的に渦巻きを起こす風の魔法だ。
轟音が魔神を包んだ。魔力が大きければ、鎌鼬のように渦の中心を切り刻む。
「ヴィガロス!早く帝王様を!」
フェグは更に魔法を詠唱する。
魔神と呼ばれる存在に、魔法が効くとはフェグも思っていない。
だがヴィガロスが龍を助け出すまでの足止めにはなるだろう。
「ありがとうフェグ!」
ヴィガロスは再び歪な柱を登る。
魔神に背を向ける形になるが、フェグが展開した防御魔法のお陰で攻撃されても多少は耐える事ができる。
「龍!今助けるからな!」
「……っ」
ヴィガロスの呼びかけに、龍の瞼が震える。
「気がついたのか?」
「…ヴィ、ガ…ロス…?」
瞼がゆっくりと上がる。
「大丈夫か、お前。」
ヴィガロスが龍の高さまで登り、顔を覗きこんだ。
長いまつげに縁取られている、紫電の瞳。
視点が定まらない虚ろな瞳が、段々とはっきりしてくる。
そしてヴィガロスの金の瞳と、紫電の瞳がかち合った。
「大丈夫か、待ってろ。今解放してやる。」
「…」
龍の目がヴィガロスから逸れる。ヴィガロスの向こう側、斜め下に視線が向かう。
その先は、振り向かなくてもわかる。
「龍、そっちを見るな。何なら目を瞑ってろ。その間に助けてやるから。」
「…した…か……」
「え?」
細い消え入りそうな声で龍が何かを呟く。
風の音でよく聞こえないが、確かに何かを言っている。
視線は魔神に向けたまま。
「龍?」
「ああ…そうか…あ、あ」
うっとりと酔いしれた声。何かを熱望する声。
恍惚すら感じさせる声色は、今までヴィガロスが聞いたことのないものだった。
得体のしれない妖しさが龍から溢れ出る。
目の前の紫電の光が揺らめく。
「成功したか」
微笑み溢れたその言葉の意味を理解した時ヴィガロスの思考は停止した。
ドン、と空気が大きく揺らいだ。
低い爆発音。あるいは巨大な動物の足音のような重厚な響き。
音圧がフェグの体を押すと同時にヴィガロスの体が中を舞う。
そしてフェグが張った光の防護壁も砕けた。
「ヴィガロス!守れ、風精!!」
フェグは急いで魔法を詠唱する。大気の精に呼びかけ、ヴィガロスの体に風をまとわせる。
防護魔法の一種だが、障害物に当たるときに衝撃を和らげる効果がある。
投げ出されたヴィガロスはフェグとは反対側の壁まで飛ばされてしまった。
だが今度は上手く着地したようで、すでに両足で立ち上がっている。
「防護魔法が、内側から破れた?なん、で。」
フェグは柱に埋め込まれた帝王を見る。
そして、その両の目が開いているのを確かに確認し
「笑ってる…?」
その表情が苦痛や焦躁などとは遠くかけ離れたもので
「呼んだのは、そなたか」
魔神が、龍に向かって呼びかけたのを聞いてしまった。