第一章 第七節『瘴気の謁見』
7.瘴気の謁見
むせ返るような瘴気。血の匂い。
まるで水の中に沈められたかのよな抵抗感。
息が詰まる。
「ようこそ、ヴィガロス・ギルハード。主ともども、お待ちしておりました。」
嗄れた声。
男の声だ。
その声はつい先程聞いた声。
だがその声色はまったくもって異質。笑いを堪えるような、今にも笑い出しそうな興奮した声だ。
「シゥレンさん。いつの間に…」
「私はこの城の事ならあなた以上に知っているのです。そう、この国のことも誰よりも…。」
うっとりと酔いしれた声。自分が唯一無二であると錯覚している声。
二人は玉座を見る。
そして全身が粟立つ。
玉座であるべきところには異質なものが生えていた。
蔦か、あるいはまるで人の血管のような赤黒い物が絡まりながら柱のように天井へと伸びている。
そして
「ひっ…!」
白い服をまとう青年が一人、天井と柱の境界に埋め込まれていた。
顔と胸部。足の一部が見えるだけで、体のほとんどはその柱に潜り込んでいる。
「ロ、ン?龍!龍!!!」
ヴィガロスが青年の名を呼ぶ。
青年は紫羅帝王、皇龍その人であった。
狂ったようにヴィガロスが青年を呼び続けても、その瞳は閉じられたままだ。
「無駄です。彼は捧げられたのです。」
玉座のシゥレンはそんなヴィガロスをあざ笑うかのように、言い放つ。
「捧げられたって、どういうことだ!」
怒号に近い叫び、問いかけ。
直ぐにでも駆け寄り助けたいのをこらえているのが、フェグに伝わる。
帝王たる龍に、あのような仕打ちをしたのはシゥレンに間違いないのだ。
どんな力を秘めているのか、分からないまま敵に仕掛けるのは無謀である。
体が弱いとはいえ、武の鍛錬をかかさなかった龍を捕らえ、封じたのだ。
相当の何かを持っているのは間違いない。
「偉大なる王に」
シゥレンは虚空を見つめる。
「偉大なる、大いなる、闇の支配者。」
うっとりと酔いしれた声。
「私は聞いたのです。『神』の声を。」
「私は選ばれたのです。偉大な神を目醒させる、大いなる役割を。」
「だから、私は声に従ったのです。城の地下、偉大な神を遮る楔を。」
「簡単でしたよ。すでに楔はボロボロ、崩壊寸前でしたから。少し、『力』を加えるだけで封印は崩れ去った!」
床が光る。
何重にも魔紋が重なる、赤い魔法陣が浮かび上がった。
「魔法!?」
「なんで、ここでは魔法は使えないはずじゃないの!?」
二人の叫びを嘲笑うシゥレンの笑い声が部屋に響く。
「綻びたた封印など、容易く破れるのだよ!」
封印、という言葉にヴィガロスが反応する。
この城で封印、という言葉が使われている意味はただ一つ。
遥か昔の時代に、悪しき神を封じたとされる聖なる剣の封印。
それが破られた?
「喜ぶがいい、ヴィガロス・ギルハード、白闘皇!お前は今から大いなる方へ捧げる贄となるのだ!」
封印に抑えられていたものが放たれる。それは伝説に語り継がれ、恐れられた悪しき神の復活に他ならない。
伝説は伝説だと、いつものヴィガロスなら思うだろう。
だが空気に交じる瘴気、部屋に満ちる威圧感、何より目の前の魔法陣の邪悪な光が伝説が真実であると語っている。
「なんで封印が破れたんだよ。封印は、剣は…?」
「すでに聖なる剣の効力は尽きかけていたのだよ。それを補強していたのが帝王家の人間だった。だが、帝王家の人間が減れば減るほどその負担が重く伸し掛かる。今の血族はただ一人。であれば封印も弱くなるというものだ。」
シゥレンが捉えられた龍に哀れみの視線を向ける。
「かろうじて生きているが、もとより脆弱な体。今となっては精々、お前と共に偉大なるお方の贄になるしか使い道はない。」
「使い道、だと…?」
聞いたことのない低い声。
「ヴィガロス?」
孕む声に、フェグは横に居るヴィガロスを見る。
そこには顔を怒りに歪め、シゥレンを睨む幼馴染がいた。
全身から溢れ出る憤怒。
「道具みたいな言い方、するんじゃねえ。それにお前たちの主君なんだろ!こんなことをして、許されると思っているのか!」
ヴィガロスの覇気にシゥレンは一瞬怯むが、直ぐに平静を取り戻す。
「帝王とは所詮お飾りにすぎないのだよ若造!確かにこの男は頭が良い。だがこんなにも脆弱であれば治世はおろか世継ぎだって作れるか分からぬ!そうであれば、尚の事新たな主君を掲げ国を平静に導くのが国を思う者の義務なのだよ。強大な力を持つ神であれば、永遠の力を持つ神であれば、世界を統一することも、夢ではない!そうすればこの紫羅は唯一絶対の存在となるのだ!さすれば、神を復活させたこの私も…!」
言い終わらないうちにヴィガロスが床を蹴った。
「白き力よ、輝ける腕よ。今こそその力を解放し立ちはだかるものに裁きを与えたまえ!」
懐から小さなキーホルダーを取り出し、詠唱する。
白い清らかな光がヴィガロスの手から溢れる。
赤い邪悪な光を打ち消す光がヴィガロスを包み込んだ。
「あれは、白闘皇の」
白銀の剣。
白闘皇が持つ輝きの剣。
それを握りしめ、ヴィガロスは玉座に向かう。
「わ、私を殺そうというのか、無駄だ!」
シゥレンは杖を掲げる。
すると赤い半透明な壁がシゥレンの前に展開する。防御魔法だ。
余裕の表情を浮かべるが、ヴィガロスは構わず剣を振り上げる。
「龍を、放せえぇえ!!」
「!!」
ガチャン、と硬い物同時がぶつかる音が響いた。
そして破裂音。
「ぎゃあ!」
嗄れた男の悲鳴から、防御魔法が砕かれた事を知る。
フェグは目を凝らして玉座を見る。そこには後ろに倒れこむシゥレンと龍が埋め込まれている柱に登るヴィガロスがいた。
ヴィガロスの目的は龍を助けることだけだ。シゥレンは目にも入っていない。
「龍、今助けるからな!」
「ヴィガロス!」
我に返ったフェグも玉座に向かう。
紅く光る魔法陣に足を踏み入れるのは気が進まなかったが、そこを通らなければ玉座へは近づけない。
出来るだけ早く通り抜けようと、スカートの裾を持ち上げて走り出した。
嫌な感触だった。
敷布の上とはいえ、やけに柔らかい。
まるで、巨大な動物の背に乗っているかのような柔らかさ。
魔法陣が生きているかのようで…。
対してヴィガロスは龍の間近まで登っていた。
瞳は固く閉じられているが、微かに胸が動いている。
生きている、良かった。
「龍、もう大丈夫だ。今助けるからな。」
凹凸のある表面に器用に足を引っ掛けて体制を固定する。
ヴィガロスが剣を振り上げ、フェグが魔法陣を抜けたその時だった。
威圧感が膨れ上がった。
空気が震える。
突き刺さるような視線。
誰の?どこから?
「っあ…!」
驚愕と恐怖の声。
フェグの声にヴィガロスは振り返る。
そして硬直した。
視線の先は、魔法陣の中心。
紅い光に照らされた、誰かがいる。
黒い、だが顔が見える。
先ほどまで滾っていた感情が一気に冷える。
臓腑を握られるような恐怖が潜り込んでくる。
体中が硬直する。
「地上、か。」
響いた声は冷たく、何度も頭に響いた。