契約満了
「では、足立様。契約書に署名捺印をお願いします」
「はい」
女に促され、足立春美はボールペンのキャップを外した。差し出された紙の所定欄に自分の姓名を書き込み、朱を含ませた実印をしっかりと捺す。視界の隅をちらりと、契約書の条文の一部がかすめた。
『御契約満了の暁には、寿命五年分をお支払い頂きます』
五年なら安いものだ。何しろ彼女はまだ、三十にもなっていない。五年減ったところでまだまだ、人生は長いものであるはずだ。
印鑑のインクをティッシュで押さえ、女は契約書を確認した。そうして「結構です」と満足気に頷く。
「これで契約は成立しました。数日中に、足立様にはご希望の内容をご確認いただくことになるかと思われます。よろしいですね」
「お願いします」
ぺこりと頭を下げた春美の前から、音もなく女は姿を消していた。
何てことはない、ただの契約である。
少し違うのは、春美の希望した内容が『端玉夏夫の死』であることくらいだろう。
確かに、まだ婚約もしていなかった。けれど春美は同じ会社に勤めている夏夫の恋人だったし、いずれは結婚する前提で互いに付き合っているものと思っていた。夏夫の口からも、そういった言葉を聞いている。いつプロポーズされるか、なんなら自分からするかとも考えていたほどだ。会社内で秘密にしていたのは、婚約発表の時に周囲を驚かせるためだったはずだ。
三日前、春美は同僚の坂崎美月が婚約したことを聞いた。相手は、端玉夏夫。
慌てて電話してみたが、夏夫は出ない。メールで彼を責めると、『お前相手は疲れるんだよ』と返信された。それで納得が行くはずもなく何度もメールを送ったが、そのうちエラーメールが戻ってくるようになった。
家に押しかけてみたら居留守を使われた挙句、警察官に引っ立てられた。何でもストーカーだと通報されたようで、このご時世警察側も敏感になっているらしい。その場は殊勝な女を演じて切り抜けたものの、春美の心は煮えくり返っていた。
そんな時、春美の家を訪ねてきたのが件の女であった。女は悪魔であると名乗り、いくつかの写真や動画を見せながら春美に告げた。
「私どもはご契約者様の寿命と引換に、人には叶えられぬ願いを叶える仕事をしております」
見せられたのはいずれも、願いを叶えた現場であった。宝くじの当選や結婚などの明るいものから、屋上に並べられた靴や鴨居に掛けられたロープなどの暗いものまで。
契約完了時に払う寿命は、その願いに応じた時間だという。普通の電卓にしか見えない機器をかちかちと操り、女が差し出したその液晶画面には一八二六、という数字が表示されていた。
「単位は日数でございます。年に換算しますと五年分、ということになりますね」
淡々と女が告げる言葉を、春美はぼんやりと耳にしていた。どうやらうるう年1回分込みだな、というどうでもいいようなことを考えてから、ふと口が動く。
「たった五年寿命が縮まるだけで、あいつに仕返しできるの?」
「はい。仕返しの内容は応相談、ということになりますが」
応相談。その言葉に、春美はぐいと身を乗り出す。どのような内容でも、相談次第では叶えられるということならば。
「それはつまり、あいつに死んで欲しいとかでもいいわけ?」
「はい、ご随意に」
対する女の自信ありげな笑みに、春美は心を決めた。
冷静に考えれば女の言ったことを全て鵜呑みにするなんておかしいとしか思えないのだが、夏夫を奪われたことで頭に血が上っている春美にはそういった理性的な判断ができなかったようだ。何しろ、女が玄関から入ってきたかどうかすら春美には分からなかったのだから。
その日の昼休み、夏夫はタバコを吸うこともあって会社の屋上に出ていた。少し冷えているせいか、夏夫以外に人影は見えない。
ふーと紫煙を吐き出しながら夏夫は、これから訪れる結婚生活に思いを馳せる。うるさい女はいたがしっかり振ったし、ここ数日は会社で顔を合わせても何も言ってこないので諦めてくれたのだろう。その方が、お互いに助かる。後々の人生のためにも、この程度で問題を起こしたりはしないだろう。
「やれやれ。美月の方がおとなしくヤラせてくれるし、俺の言うことは素直に聞いてくれるし。結婚すれば会社も辞めてくれるんだしこれで一安心、と」
携帯灰皿に煙草の灰を落とし、柵にもたれかかる。と、ぐらりと揺らいだような気がして夏夫は慌てて飛び離れた。振り返ると、頑丈に造られているはずの鉄柵が一部、ぐにゃりと歪んでいる。
「あっぶねえ。何だこりゃ」
恐る恐る近づき、歪んだ柵を覗き込んだ。特に錆びているわけでもなく、腐食した跡もない。ただ何らかの力を加えられたかのように、ねじ曲がっている。もう少し反応が遅ければ、夏夫はバランスを崩して柵の向こう、何もない空中へと放り出されていただろう。
「落ちればよかったのに」
夏夫の耳元で、ぼそりと呟く声がした。夏夫には聞き慣れた、『振った』はずの『何も言ってこない』女の声だ。大体今日は、有休を取って休んでいるはずではないのか。
「春美?」
振り返った視線の先に、やはり春美が立っている。しかしその格好は会社で決められている制服ではなく、黒い喪服のようなワンピース。それだけでなく上から下まで全身黒で統一された格好で、まるで死神のようだと一瞬だけ夏夫は思った。そして、馬鹿らしいとその単語を振り払う。
「落ちればよかったのに。あんたが悪いのよ」
そんな夏夫に向かい、春美はもう一度同じ言葉を繰り返した。口が動いていない、と夏夫が違和感を持った一瞬、春美はその眼前にまで接近していた。足も、動いていなかったように思える。
「あんたが美月なんぞに惹かれるからよ。男って、猫かぶった女の本性見抜けないのね」
「は? 何言ってんだお前」
夏夫の顔を覗き込んでくる春美の表情は、仮面のようにまるで変化がない。瞬きもせず、やはり口元も動かない。そして、唇同士がくっつくほどにまで接近しているのに、息を感じ取ることができない。
では、これは、何だ。
夏夫が思考を巡らせる前に、春美が初めて表情を変化させた。にい、と唇を歪めて冷たく笑ったのだ。
「もうあんたなんかと、話もしたくないわ。それじゃ、さようなら」
無造作に伸ばされた腕が、どん、と力いっぱい胸板を押す。とっさに春美の腕を掴もうとした夏夫の手は、無様に空を切った。
この下は確か、自動車がひっきりなしに行き交う幹線道路だったはずだ。ただ歩道が広いから、もしかしたらそちらの方かもしれない。
いずれにしろ、空中を落下していく夏夫は最終的にはそこに叩きつけられる。それだけの、話。
「足立様。結果はご確認いただけましたでしょうか」
春美がはっと顔を上げると、視界にあの女が入った。慌てて周囲を見渡すが、そこは紛れもなく春美の自室である。では、たった今見ていた光景は何だったのだろうか。
「え、あ……ゆ、ゆめ?」
冷や汗をかく春美をよそに女は薄い唇に笑みを浮かべ、軽く小首を傾げている。そうしてとつとつと、説明の言葉を紡いだ。
「一般的には夢、幻と称される類の映像でございます。私どもの方では、ご契約者様に内容をご確認いただくための手段として利用させていただいておりますが」
「そ、そう」
つまり春美が見た夢は、現実に起きたことなのだと女は言う。だが、それが真実であるかどうか分からずに春美は、今一度女に問うた。
「……夏夫は、どうなったの」
「足立様がたった今、ご確認された通りの末路を迎えました。対外的には設備の整備不良に伴う転落事故死、ということになるかと思われます」
「あ、ああ、そうなんだ」
満足気な笑みを口元にたたえたまま、ゆったりと女は答える。彼女の言葉に春美は、訝しげな顔をしながらも頷いた。そして、自分の掌をじっと見つめる。
この手で、夏夫に制裁を下した。実際にはどうか分からないけれど、感触は確かにここに残っている。
ああざまあみろ、と春美は胸の中で呟いた。自分を捨てて他の女に走ろうとしたからそうなったのだ、彼の自業自得だと己に言い聞かせる。
願いは、叶ったのだ。
「では、代価をお支払いいただきます」
女の声に、春美は意識を現実に引き戻した。これは、春美が彼女と交わした契約の結果である。願いが叶った以上、代価として寿命を持っていかれるのだ。
だが、取られる寿命はたったの五年分でしかない。出し惜しみをする必要など、春美にはなかった。ほんの僅か短くなってはしまったが、気が晴れた春美にはきっと明るい未来が待っているのだ。
「そうね。五年分だっけ、持って行ってちょうだいな」
「はい、では失礼させていただききます」
春美の許可を得て、女はぬうと白い手を伸ばしてきた。その手がずぶりと自分の胸に潜り込んでいくさまを、春美はまるで人事のように見つめている。何しろ、痛みどころか女が自分に触れている感触すらないのだから。
その内、ぬるりと手が引き抜かれる。何を掴んでいるというわけでもないのだが、春美は体内から何かを抜かれたのだと何故か自覚できる。
「ありがとうございます。寿命代価五年分、確かに頂戴しました」
女の声をどこか遠くに聞きながら春美は、ほっとしたように目を閉じた。さあ、次に目を開ければそこには、自分を捨てた男のいない明るい世界があるはずだと女に感謝しながら。
ごとり、と春美が倒れるのを見下ろしながら、女は立ち上がった。くくく、という微かな笑い声が彼女の喉から漏れる。
「人を呪わば穴二つって、最近の子は知らないのかな。ま、知ってて覚悟決めてくれりゃこっちも、もう少し爽快に片付けてやったんだけどねえ」
たった今まで顔面を覆っていたセールス用のスマイルはどこへやら。軽薄な笑みを浮かべ、つま先でつんつんと春美をつつく。
既に自力で動くことのなくなった春美に小さくため息をつくと、女はカバンの中から契約書を取り出す。文面をまじまじと見つめていた彼女の目が、にまりと細められた。
「しっかしまあ、若いのに寿命残高五年ってどうよ。事故ならともかく生活習慣病だしー。医者に行ってりゃ引き延ばせたかも知れないのにねえ、あーカワイソ」
けっけっけ、とまるでカエルのような笑い声を上げながら女は、小さな印鑑を取り出した。契約満了と書かれたその印を捺して、契約書をしまい直す。そうして春美に向き直り、大げさに一礼をしてみせた。
「ま、いっか。毎度ありがとうございましたあ。次……は、ないね。それじゃ、失礼致しまあす」
するり、と女が身を翻したその後には、冷たくなり始めた身体がひとつだけ。