第六話・話の後
しかし、彼女が私とも付き合っている事をはっきり告げたときに、彼は自分を選んで欲しいとは言わなかった。
ひたすら彼女の言うがままにして、優しかった彼が、ただ「もう会わない」とだけ告げた。それは私のせいだ。
「その帰りだったわ」
電車が駅についたら、雨が降ってたの。嫌な事があった夜に、濡れて帰るのって嫌じゃない? 傘を買って帰ろうと思ったけど、駅のドラッグストアは閉まっていて開いているのは本屋だけだったのね。むしゃくしゃしたから、本屋の傘立てから一番可愛い傘を抜いて、それで帰ったのよ。
そんな顔しないで。
うちのアパートに近付いた時に、コンビニに寄ったのよね。当然、傘は傘立てに置いたわ。そしたら、ほんの五分の買い物だったのに、私が出ようとした時には傘はもうなかったの。仕方ないから、そのコンビニで傘も買ったわよ。
家に帰って、ビールを開けて、あなたにメールしようか迷っていた時にインターフォンが鳴ったの。あなたが来てくれたんだと思ったわ。
違ってた。
インターフォンに出たら、女の人の声で「傘を取りに来ました」って言うの。まさか駅から後を尾けてたのかと思って、ぞっとしたけど、知らないって言うしかないじゃないの。「何の話ですか? 部屋をお間違えだと思います」
って、インターフォンを切ったんだけど、しばらくしてドアのレンズからこっそり覗いたら、いたのよ、ドアの前に。 女の人だったわ。長い髪が全然手入れされてなくって、着てる物も皺だらけで、がりがりに痩せてた。
ええ、私、あの人が来たのかと思った。
それからその人、ドアを小さくノックし始めたのよ。あの音、神経に障るわよね。戸をノックして掠れた声で「すみません、傘、返してください」って。もう気持ち悪いのなんのって……。
あなたと見たホラー映画みたいだと思ったわ。ほら、女の人の悪霊が色んな所から出てくるやつ。でもそんなわけないでしょう?
何時間も彼女はうちのドアの前にいたのね。時々思い出したように、ドアをノックして。とても眠れないし、ドアに近いバスルームを使うのも何だか嫌で、それでついに堪らなくなって、ドア越しに「いい加減にして。警察を呼びますよ」って言ったの。
だけど全然止まなくて。頭に来たのよ。
彼には振られるし、あなたは来てくれないし、雨が降った事も、傘をコンビニで盗まれた事も、全部、ドアの外の彼女の仕業のような気がしたの。乱暴な気分になったわ。
ドアを開けて英語で、「この性悪女、いい加減にしろって言ってんのよ」って怒鳴ったら、彼女の顔がやっと見えたわ。
私だったのよ。
十歳も老けさせて、二十パウンドも痩せた姿で、もう一人の私はニターッて笑ったわ。
「I knew it was here.」
って、叫んでアパートの中に走り込んで来たの。彼女の後に、行列が続いてたの。
驚いたなんてもんじゃないわ。昨夜のハロウィンそこのけよ。皆、人間じゃなかったからよ。すごい巨人や、動物の顔をしていて体は人間だったり、その逆もいた。
あの狭いアパートの入り口を大勢が通ったなんて、とても信じられないけど、人間じゃなかったから、そういう事もあったかと思うわ。
小さな人間みたいな姿のものや、大きすぎて毛むくじゃらの足しか見えないものが通っていく間、私は上がり口に倒れて、彼らに蹴られたり踏まれたりしていたの。
いつ終わったかは覚えていない。気がついたら明るくなっていて、すごい熱が出てた。二日寝込んで、その間ずっと考えてた。
やっぱりあれは自分なんだろうって。
「そんな事があったのか」
一日前なら、与太話だと言い切ったに違いない。
「奥さんはお元気?」
ほんの少し迷ってから、うん、と返事をした。嘘ではない。元気でいるとは思う。
妻は彼女に去られて苦悩を露わにした私を、哀切な顔で見守っていたが、ハワイに行くと言い出すと、判を押した離婚届を残して実家に帰って行った。
「あのね、私が見たのが本当の幽霊でも、夢を見たのでも同じことなのよ。あなたを奥さんから奪ったら、きっとまた誰かに取られるんじゃないかって不安になるでしょう。行き着く先は、髪を振り乱して誰かのアパートの玄関に立ったりするんだわ。私が二股かけていた彼は、不倫をする神経がいやだって。奥さんに土下座して『彼と別れてください』って頼んで、働いて慰謝料払えばいいって言ってたわ。正論よね」
彼女の話は脈絡に欠いている。しかし、何か伝えたい事はあるはずだ。最後の言葉になるだろうそれに、私は注意深く耳を傾けた。
「誰でも自分が悪いのは認めたくないじゃない。だから、心変わりされるような妻だからいけない、なんて言ったりするのよね。でも、気に入ったから、結婚していても構わずに付き合って、雨が降っていたら、誰かの傘を盗んでいいなんて訳はないわ。おまけに自分が傘を盗んだ事もころっと忘れて、盗まれた事を怒るなんて最低よ。そんな人間になってたって気が付いたら、堪らなくなっちゃった」
私は黙って頷いた。彼女の言葉は真っ直ぐに突き刺さった。
瑞々しい無邪気さを振りまく彼女が好きだった。
仕事の深刻さや、結婚生活の停滞感を拭ってくれる恰好の相手だった。いずれは妻と離婚して、彼女と結婚したいと夢想したが、妻への謝罪は考えていなかった。
今ここで彼女に、妻が出て行った事を話し、縒りを戻してくれるよう頼む事も出来たけれど、健康的な色の彼女の頬は、もう私を必要としていないのが分かった。
私も、その腰を抱きしめて引き絞りたいとは感じたけれど、しなくてもいい、と思う自分を見つけていた。
「奥さんに謝って、沢山慰謝料を払って、先々ずっと心配することになっても良いほどには、私、あなたを愛していなかった。付き合うべきじゃなかったわ、私達。本当は日本を離れる前にきちんと言えれば良かったんだけど、ごめんなさい」
最後の方は一語一語自身にも言って聞かせるようだった。
私たちは青空の下、笑顔で別れた。
社交辞令だと思っていたのだけれど、エディーは本当に私を食事に連れ出した。ワイキキから離れた住宅街にあるレストランは平日だというのに、結構な賑わいだった。
パシフィックキュイジーンという昨今流行りの料理は、要するに東洋と西洋を上手に折衷させたものらしい。ロブスターに味噌ベースのソースをかけた一品は、特に美味かった。エディーはワインの造詣も深いらしく、彼の選んだワインは料理と良く合って、私の舌を軽くさせた。
「それで、日本に帰ったらどうするんだい?」
彼女と別れた話をした私に、食後のコーヒーを啜りながら、エディーが悪戯っぽい目をした。
「まず、妻と離婚するよ。慰謝料も払う」
「いいのかい、それで?」
覗きこむような目つきになって、エディーは首を傾げる。
「今、一人になるのが嫌で、妻に土下座しても何もならない気がするんだ。彼女の言葉じゃないんだけど、最低な人間でいるのは止めて、一人でやって行けるようになりたいな。それに、また誰かを好きになれるようにね」
我ながら青臭い事を言っている自覚はあったけれど、誰かに話してみたい気がして、私は続けた。
「俺が話した怪談を覚えているかい? 主人公は嵐の海に飛び込んで蛇になったけど、俺だったら多分溺れて死んだよ。この間の夜、悪霊になる気はないって言ったけど、悪霊になれるほどにも、俺は彼女に全てを賭けちゃいなかった。今度、誰かを好きになったら……、まず、逃げられないように大事にしなきゃ駄目なんだよな、ははは」
最後には照れくさくなって、言いながら笑ってしまった。エディーは声を立てずに、満面の笑顔を浮かべた。
「あんた、自分がどうしたいか分かって良かったじゃないか。この前の夜、すごく恐ろしい目に遭ったけど、自分の中の嫌なものを追い出す作業だったと思えばいいんじゃないか? 今日のあんたを見て、おろしたてのシャツみたいだと思ったよ。それくらい人が変わって見える」
世話になった分ご馳走しようと思ったのに、エディーはいつの間にか二人分の会計を済ませてしまっていた。恐縮しながらレストランを出ると、夜風が心地よかった。貿易風というやつだろう。
星が驚くほど沢山見える。
帰りの車の中で、エディーは例のアパートは取り壊すことになったと、さっぱりした顔で告げた。百物語をした夜、私の隣に座った女が生身の人間でなかったとは未だに信じられない気がする。そういうものが来る場所ならば、やはり取り壊すのが正解なのだろう。
更地になればきっときれいな場所になる。私と彼女の関係のように。
「本当に色々と世話になっちゃって」
ホテルのエントランスで別れ際に頭を下げると、エディーは破顔した。いいんだよぉ、と照れた顔で言って、少し真顔になった。
「悪いものを落として、大事なことが分かって良かったな。俺は……」
I didn't と言いかけたその先は、弱くなって消えた。もしかしたら、彼も過去に苦い体験があるのかもしれない。
ほんの一瞬、ホテルの明かりから顔を逸らしたエディーは、すぐにまた笑顔になって私の手を握った。
「またおいで、今度は本当に好きな誰かと一緒にな。次に来たらまた驚くよ。ここらの島はあんた次第で色んな顔を見せる。今度は信じられないくらいハッピーな旅になるさ」
握られた手から温かいものが流れ込んで来るようで、私は自分から掌に力を入れた。




