第四話・迷走
どうやら道を一本間違えたらしい。
信号のあった通りまで引き返し、一つ隣の道路へ入る。そこにホテルはあるにはあったが、私の宿泊していたホテルではない。
首を振りながら、私はもう一度引き返した。今度は反対側の隣へ行ってみたが、そこにもない。方向音痴の自覚はないが、何か勘違いをしているのかもしれない。
運河の方からゾンビが二人歩いてくる。私は彼らに声を掛けてみた。ホテル名を挙げて所在を尋ねると、二人とも知らないと言う。
「俺、ワイキキは詳しい方だけど、そんなホテルは聞いたことねぇね」
「俺はめったに来ねぇから知らねぇや」
ひどくハスキーな声の男たちは、近くのホテルで聞いてみるといいとアドバイスをくれて、歩き去った。
仕方なく私は、先ほど見付けたホテルへと足を向けた。ゾンビ達が言う通り、同業者なら知らないということはあるまい。
焦燥感に駆られつつ入ったホテルのフロントマンは、丁寧な物腰で対応してくれたが、私がホテル名を挙げると、表情を少し変えた。
「ホテル名をお間違えだと思います。ワイキキには似たような名前のホテルが、沢山ありますから。ホテルのキーをお持ちじゃないですか?」
彼はカードキーに、ホテルの名前が書いてあることを期待して言ったようだ。カードキーは財布に挟んである。どうだったか、と取り出してみると、赤とゴールドの模様だけでホテル名はない。
しかし、ホテル名を間違えて覚えることなどあるだろうか。あのホテルに泊まって今日で四泊目になるし、数回タクシーで出先から戻っている。その際タクシーの運転手にホテル名を告げ、彼らは問題なく私を送り届けてくれた。
「いや、しかし確かに……」
言いかけた時に、フロントマンの手元の電話が鳴った。しばらく待ってみたが、一向に会話が終らない。
私は諦めて踵を返した。
半分途方に暮れた気分で、視線を進行方向へ向けたときだった。前方のガラス張りのドアが、外の暗さで鏡の働きをした。
背中を丸めて歩く私の背後で、黒い大きな軟体動物のようなものがぐうっと伸び上がった。肉食動物が後ろ足で立ち、獲物に襲い掛かる姿勢だ。
とても振り向くことは出来なかった。
気持ちが急くままに走り出して、自動ドアが開くのももどかしく、外へ走り出た。ドアにコンビニエンスストアの袋がぶつかったので、勢いに任せて手を放した。
狭い車寄せを走り抜け、道路を疾走し、信号のある通りまで出て、やっと後ろを振り向く余裕が出た。何も追いかけては来ない。
一体何が起こっているのだろう。
さっきから見ているものは幻覚で、それは自分の神経がどうかなってしまったせいだろうか。だから自分はホテルすら見つけられないのだろうか。
足元が大きく揺れるような不安に、座り込んでしまいたい衝動に駆られたが、それは出来なかった。さっき見たあれが幻覚でなかったときの事を考えると、足が勝手に前へ出る。
働かない頭を必死に回転させ、私はエディーに会いに戻ることにした。もちろん、彼らがどこのレストランへ行ったかは知らないが、幸いにして彼が車を停めた場所は覚えている。車の周辺で待っていれば、エディーは必ず現れる。
宿泊していたホテルにも帰れない今、私がほんのわずかでも頼れるのはエディーだけだ。警察に駆け込むという手もないではないが、神経を病んだ日本人観光客だと思われるのは避けたかった。
しばらく歩道を歩いて信号を渡る。怪談をしたアパートに戻るのには、大通りに戻っても、横道だけを使っても辿り着けるはずだ。
今の私には幸いなことに、零時近くなっているのに人通りは全く減っていない。こんな状態のときに、人気のない場所を歩くのはひどく恐ろしいだろう。
そう考えると人ごみが安全のような気がして、私は足を大通りへ向けた。相変わらず大勢の人々が右へ左へと流れている。
けれども、通りの向こうに見える物に、私は強烈な違和感を覚えた。ショッピングセンターが変わっている。
鉄筋三階建ての大きなショッピングセンターの代わりに、木造二階建ての建物が佇んでいる。また道を間違えたかと思ったが、そんな単純なことではないとすぐに思いなおした。
目の前の大通りのサイズは、確かに先刻通った道に違いない。これだけの通りはワイキキの中に、一つしかないことくらいは既に知ってる。
では、いつの間にかワイキキの外に出たのかというと、それも違う。海と運河に区切られた地区であるワイキキからは、歩いている間に「いつの間にか」出ることはないはずだ。
私は一体どこにいるのだ。
後頭部が冷たくなった。本格的にどうかしてしまったのか、それとも。
目まいがするのを堪えながらも、私は足を励ました。足を止めて座りでもしたら、二度と立ち上がれないような気がしたからだ。大通りに入り、人の流れに乗って歩き出した。
ほんの一ブロック歩くまでの間に、両脇の下が冷たい汗で濡れるのが分かった。
私は全く知らない場所を歩いている。
周囲を歩く人々は声も低く、ただ粛々と歩いているのだ。ほんの数十分前のように楽しげでは決してない。その上、道の両側を照らしているのは、街灯ではなく数メートルおきに設けられている松明だ。
掌にも汗が滲んでくる。
体が震えて、足元が覚束なくなり、私は前を行く男の背中に突き当たってしまった。謝る暇もなく、何かが壊れて歩道に落ちた。一、二歩蹈鞴を踏んだ私の足元に、服を来て髪が生えたままの骸骨が転がった。
髪の毛が逆立った。
大声で叫んでいるのが自分だと気が付いたのは、近くの路地に飛び込んで走りながらだ。
怖い、怖い、怖い。自分はどこにいるのか、どうすれば元の場所へ戻れるのか。闇雲に走りつつも、私は背後から追ってくる物音に気が付いた。
酸素が薄くなった。
振り返る勇気も余裕もなかった。恐怖だけが体を動かす。
足が縺れそうになったり、速度が落ちたりすると、それの立てる音が間近で聞こえた。時には臭いまでした。
肉が腐ったような臭いに、皮が擦れる音と濡れた足音が同時にする。ず、ずず、ず、という重量感のある音に、恐怖感は嫌でも煽られる。
自分がどんな恰好でどんな風に動いているのかも分からない。
松明もない路地を、私はひたすら逃げ回った。私の知るワイキキと同じように道が縦横に走り、あちこちに四つ角がある。追ってくる怪物を撒こうと、私は何度も角を曲がったが、それは確実に私の後をついてくる。
もう心臓が限界に来ていた。足も思うように前に出てはくれない。
すぐ背後に忌まわしい音を聞きながら、数回目かに、いや十数回目かもしれない、四つ角を曲がろうとした時、斜め向かいの角で何かが動いた。
「Over here!(こっちだ)」
人の声と一緒に、ほんの少しだけれど明かりが見えた。
迷っている暇などない。崩れそうな膝と重い腰を鞭打って、今曲がろうとした角と反対の道へ駆け込む。人がやっと擦れ違えるほどの細い路地は両側が高い建物になっていた。
その間から白い光が微かに差し込んでいる。あの明かりが救いに違いない。しかし、背後からはまだあの音が追って来る。声をかけてくれた人はどこだ。
最後の力を振り絞って路地を走り抜けると、海だった。細い三日月が浮かんでいる。
波打ち際まではほんの僅かだ。砂浜を走るよりは泳いだ方が速いかもしれないと、私は必死に打ち寄せる波に駆け寄った。
次の瞬間、私は信じられない力でなぎ倒された。
視界が回る。砂浜に体を打ち付ける感触と一緒に水音を聞いた。
「Oh, My goodness. That was close(危ないところだった)」
瞬きをすると、目に入った海水がひどく沁みる。それでも懸命に目を開いて、肩を掴んでいる相手を私は見ようとした。どこかで聞いた声なのだ。
「ひどい目に遭ったんでしょ? 塩とティ・リーフを馬鹿にするからだ」
夜目にも白い歯を見せて笑った男は、あのアパートで飲み物を用意していた青年だった。彼が私を押し倒したようだ。私たちは波打ち際で座り込んでいた。緑を基調にした彼の粋なアロハシャツがどろどろだ。
「いやぁ、無事で良かった、な」
砂浜を足早に近付いて来たのは、エディーだ。彼の厚い肩の向こうには懐かしい人工の照明灯が見える。私の頭の中は疑問符で一杯になった。
しかし、あの怪物から逃れられたのだけは間違いない。そう思うと、すぐには立ち上がる気にもなれないほど、体の力が抜けた。




