第三話・帰路
「それでは次に、ああ、マサヤはまだだったね」
突然名前を呼ばれて、私はぎょっとしてエディーの方を向いた。残り少なくなった蝋燭の微かな明かりに、エディーの顔が浮かんでいる。
「せっかくだから百物語の本家、日本の話を何か」
薄暗がりの中でも、人々の注意が向けられているのがはっきり分かる。怖い話ならもちろんいくつか知っているが、咄嗟には出て来ない。やむを得ず、私は最近何度となく見た悪夢を、既成の話と混ぜ合わせることにした。
まだサムライが、今のトーキョーに政府を立てる前の話だと、私は前置きした。
小さな漁村に、海を越えた島から美しい娘がやって来た。多くの求婚者の中から一人を選んだ娘は、その若者と将来を誓うが、心変わりする。やはり島の人間が良くなったからだ。
嵐が近い夜に娘は、村にある数少ない船全ての底に穴を開け、一隻だけ残しておいた船に乗って逃げ出す。若者に追いかけて来られることを恐れていたからだ。
信じていた娘に裏切られただけでなく、日々の糧を得る船まで沈められて、若者は怒り狂う。どうでも娘を取り戻すと村人たちに叫んで、嵐の海に飛び込んだ。
無論、島は泳いで辿り着けるような距離にはないが、怒りに任せて泳いでいる内に、彼の体は人間のそれでなくなった。どんな魚よりも速く彼は泳いだ。
島の砂浜に上がったのは、漁師の若者ではなく巨大な蛇だった。大騒ぎする島民の中で、娘だけが蛇の正体を悟って逃げ出した。
狭い島は逃げる場所など限られている。娘は入り江を見渡せる山の墓地へ駆け込み、掘っただけでまだ遺体を納めていない墓穴に身を隠した。
変身して特殊な嗅覚でも備わったのか、大蛇は惑うことなく真っ直ぐに墓地へ向かい、娘の隠れた穴の上にとぐろを巻いた。たちまちの内に穴の空気は薄くなって、娘はかつての恋人に赦しを乞うたが、怨念の塊となってしまった大蛇は動かなかった。
七日七晩、大蛇は動かずにいたが、八日目の朝、島民が墓地を覗いてみると大蛇の姿はなく、穴の中には白髪になり、皺だらけの老婆のようになった娘の遺体が残っていた。
以来島では、大蛇がやって来た同月同日は、決して外を出歩いてはならないことになっている。それを守らずに外出した者は、例外なく祟りに遭う。
ご静聴ありがとう、と結ぶとまた一つ明かりが消えた。
何のことはない、能や歌舞伎で知られる「道成寺」を僅かに変えただけの話に過ぎないのだけれど、他の人々がどんな表情をしているのかは最早分からない。
ふいにきつい香水の匂いがした。
「怖い話だわ」
いつの間にか私のすぐ隣に、若い女が座っていた。彼女が移動してきたのに気が付かなかったのは、英語でこんな話をするのに神経を使っていたせいだろう。私が黙っていると、彼女は体を寄せて「この後、付き合わない?」と囁いた。
彼女の囁きと同じ小さい声で短く断りながら、私は妙に納得していた。怪談というのは確かに人を興奮させるから、その興奮を別な方向へ持って行こうとする人間がいてもおかしくはない。暗い室内ですでに何組か、妙なカップルが成立しているかもしれない。
声を出さずに苦笑している間に、香水の匂いは遠ざかった。
室内に残ったただ一つの蝋燭は、若い男の声が、ダウンタウンにあるイオラニ宮殿の怪異を語った後に吹き消された。
室内に漆黒の闇が満ちるのと同時に、誰かが悲鳴を上げた。
残る人々が動揺した声を出す。「明かり、明かり」とエディーが叫ぶのが聞こえた。
蝋燭を消す事で暗闇に慣らされた目には、柔らかいはずの室内灯も眩しすぎるほどだ。オレンジの光に照らし出された室内には、何も異常がないように見える。
「いや、すみません。誰かにいきなり抱きつかれたんで驚いちまった」
何だったんだとざわめく人々に、照れながら告白したのはポリネシア系の中年男性だったが、彼の両隣はいずれも男性だ。
「私じゃないよ。分かってるとは思うが」
おどけたように言った右側の白人は、火山の石の話をした老人だった。
「分かってますよ。なんだったんだろう、驚いたなぁ」
心底不思議がり、また幾分怖がっている彼の口調に、他の人々も顔を合わせる。
エディーに目をやると、彼は眉間に皺を刻んで室内を見回していた。釣られて私も明かりの下の面々を眺めて、ある事に気が付いた。
私の隣に座って、誘いを掛けてきた女が見当たらないのだ。体を寄せられたときに、彼女の太ももに触れた。ミニスカートかショートパンツを履いていたはずなのに、室内にいる女性で該当する服装は一人もいない。
もう一度苦笑せざるを得なかった。エディーの演出に違いない。
売春婦だった女の話をして、いかにもな女性に室内をうろうろさせる。明かりが点いて彼女がいなければ、人々は幽霊が出たと思うだろう。
「ま、ま、皆さん、場所を移しましょう。近くのレストランに席を設けてありますから」
急に明るい声を出し、エディーが人々を誘導し始めた。幽霊役の彼女はどこに隠れているのか知らないが、怪談の参加者達がいては出て来られまい。
室内の広さに比べて狭い玄関には、飲み物を用意していた青年が立ち、参加者の一人一人に砂粒のような物を振りかけ、手に持った大きな葉の束で肩や背を撫でていた。神妙な顔でそれを受けた人々は、ほっとしたような顔になって出て行く。葬式に出た後、塩を撒くような行為なのだろう。
しかし演出に気が付いてしまった後では、馬鹿馬鹿しさが募る。自分の番になると私は、青年に必要ないと告げた。こちらが驚くほどに慌てた青年は、「で、でも、あなたこれは」と何か言おうとしたが、私は手を振ってさっさと玄関を潜った。
道路ではエディーを筆頭に、参加者が後続を待っている。エディーは私が当然レストランまで同行すると思っていたようだったけれども、私は彼に一方的に挨拶をした。
「いや、楽しみましたよ。私は予定があるので、これで」
言うだけ言って、大通りと思しき方向へ足を向ける。背後でエディーが何か大声で言っていたが、無視した。
半ば強引に参加させられた会だったし、失礼をしたとも思わない。エディーの演出は商売人にありがちなものだが、非難するようなことではないだろう。
胃の底に立ち込める苛立ちは、話を促されて、つい「道成寺」の変型判を語ったことによるものだ。他の話を思い付くことが出来なかったのは、今の自分に余裕がないからだ。それを意識するとなお胃が引き攣れた。
愉快なことなど何もない状況を思い出して、私は舌打ちをした。どこか近くのバーにでも入って強めの酒を引っかけたい。
しかし大通りまで出ると、バーどころではないかもしれないと私は唖然とした。
大変な人込みなのだ。思い思いの扮装をした人々が、大通りを右へ左へと肩をぶつけながら歩いている。広い歩道からはみ出しそうな勢いだ。
四車線ある車道も車がぎっしりと詰まり、その中にも仮装をした人々が、顔を並べている。ホノルル中の人間が集まっているのか、それとも本土からこの日のために飛んでくる人間がいるのか。
やむを得ず、私はホテルの方角へ向けて人の流れに入った。周囲にはフランケンシュタインあり、骸骨あり、魔女ありと、正にちょっとした百鬼夜行だった。向かいから歩いて来る吸血鬼がふざけて脅かす真似をする。
妙だと感じたのは、1ブロックも歩かない内だった。
最初はふいにシャツを引っ張られた。反射的に後ろを振り向くと、ガールフレンドの魔女の腰を抱いて、愛を囁いていたらしい死神が「何か?」という感じで私の顔を見た。彼の片手は大鎌を持っているし、もう片方は彼女の腰だ。
シャツを引っ張られたり、腰を押されたりが数回続いた後、今度は何かが足首に巻きついた。転びそうになるのを踏み止まりつつ、体を反転させて背後を見る。
我が目を疑った。
真っ黒な髪の毛の束のようなものが、地上三十センチほどの高さで歩行者の足の間をすり抜けて雑踏に紛れていくところだった。人いきれで出ていた筈の汗が急速に冷えた。
誰かが妙な玩具で、一人歩きの観光客をからかっているのだとしても気色が悪い。足を早めたかったが、この混雑ではそれもままならない。
苛々しながら歩く内に、また足首やシャツに触れられることが数回続くに及んで、私は近くにあったコンビニエンスストアに飛び込んだ。
バーに寄っても寄らなくても、アルコールは買って帰ろうと思っていたのだ。店の奥にある酒類のコーナーへ向かおうとして、私は視線を感じ振り返った。何かがさっと陳列棚の後ろに隠れた。心臓が鳴った。
しかし、それが隠れた棚の向こうでは、白人の買い物客が呑気な顔で、商品を物色している。もしも異常なものがいるのなら反応するだろう。「幽霊の正体見たり枯れ薄」という川柳を心の中で唱えながら、私は息を一つ吐いた。
ワインやウイスキーが並んだ棚から一本を取り、入り口に近いレジへ向かう。偶々日本人のカップルが入って来るところで、金を払いながらも彼らの会話が耳に入った。
「この店は嫌よ。コンビニならあっちにもあるじゃない」
ちらりと目をやると、二十代の女性が店内に入るまいと足を突っ張っている。店はシャッターを上げたきりで、ドアはない。彼女の片手を握って、今しも店に入ろうとしていた男性が、眉を顰めて小声で尋ねる。
「何かいるかい?」
「うん。嫌だ、こっち向いた。早く行こう」
店員からウイスキーが入った袋と、つり銭を受け取っている間に、彼らは人込みに紛れてしまっていた。仮に姿が見えたとしても、追いかけて、何がいたのか聞く気になれなかっただろう。
急に恐怖心が大きくなった。一刻も早くホテルの部屋へ帰りたい。
大通りの人の流れは一向に減っていない。それどころか益々混雑しているようだ。しばらく歩いて、私は通りと交差している横道に逸れた。ワイキキの道路がほぼ碁盤の目のようになっているのは地図を見て知っている。
私の泊まっているホテルは大通りから離れた運河に近い方だから、おおよその方向さえ間違わなければ、どこで曲がっても一緒のはずだった。
横道といっても歩道と車道はきちんと区別されているし、歩行者も決して少なくはない。ただ大通りに比べれば格段に歩きやすかった。
そうして急ぎ足でホテルに向かう間は、シャツも引っ張られなかったし足に触れるものもなかった。やはりあれは誰かの悪戯だったのに違いない。
仮にそうでなかったとしても、その何かはコンビニエンスストアに置いてくることが出来たのだろう。ホテルが近付くにしたがって、じわじわと安堵感がこみ上げた。
いくつか角を曲がり、見覚えのある四つ角に出たときには肩の力が抜けた。信号を待って渡る。すぐにエントランスからの温かい明かりが見えるはずだった。
ホテルはなかった。
低い廃ビルの正面には「Keep Out」の札が見えるだけで真っ暗だ。