第二話・語り
「ほぉー、そりゃあマダム・ペレは怒らしちゃいけねぇや」
感嘆した声を上げたのは、私と同じソファーに座っている男だった。皆がいっせいにこっちを見る。
「あ、こりゃ失礼。俺はマウイ島出身なんだけどね。俺の学校にはよくマダム・ペレが来てたよ」
誰かが、マウイのどこですか、と質問を投げ、彼は簡単に答えを返したのだけれど、地名が私には聞き取れなかった。
あの頃はまだ焼却炉があってね。当番でゴミを投げに行って竈のふたを開けると、女の顔が浮かんでるんだ。炎が女の顔になってるんだよ。
マダム・ペレ以外に、そんな芸当の出来る女はいねぇだろ? 俺以外にも見た者はいるよ。
彼女はどこの島のどんな場所にでも来るさ。だって自分ちだものね。
マダム・ペレがいる時はゴミは入れなかったんだ。女神様の顔にゴミが当たったら、大変じゃねぇか。だけど、燃えるもんがない筈なのに、いつまでも炎は燃えてて煙は上がってた。
俺たちゃ、やっぱりマダム・ペレが来てるんだ、って騒いだもんさ
昔を懐かしむような口調で彼が話を終えると、それを待っていたように私の斜め向かいに座っている中年男性が口を開いた。彫りの深いアジア系のような顔立ちだ。フィリピン系だろうか。
「本当にね、マダム・ペレは色々な場所に来ますね。私が聞いた話ですと……」
オアフ島の東端に近い辺りでヒッチハイカーを装った女神が、二人の青年を助けたという話を男は淡々と語った。恐ろしい話ではなく、むしろ幾分か教訓めいた話で、室内には厳粛な空気が漂う。
続いて白人の中年女性が、パリ・ハイウェイを運転中にバックミラーに顔が半分千切れた少女が写った話などをし、それからパリという怪談の宝庫のような土地の話がしばらく続き、その後ホノルル市街地の怪談が語られた。
かつて実際に、誘拐されて殺された少女の遺体が、ハイウェイ近くで発見された時に、野鼠に齧られて顔が欠損していたというような、ハワイに限らなくともあり得る話もあった。
しかし、意外と暗部の多いハワイの歴史に基づいた怪談も多く、私はこの土地の暗さを初めて知った。
そして、その怖さと暗さを大真面目に語り合う人間たちもまた、私が知らない人種だ。年齢も社会的地位も決して低くはなさそうな人間達が、膝を突き合わせて真面目に怖がっている。
一人が話すごとに蝋燭が吹き消され、次第に室内は暗くなって行く。彼らの話が妙な説得力を持つだけに、私は嫌な土地へ来てしまったと陰鬱な気分になった。
あるホテルのオーナーが、自分のホテルで投身自殺をした女性の霊について語った後、エディーが自分の番だというように、咳払いを一つした。
「皆さん、大体一通りお話して頂きました。このあたりで私にも話させて頂きましょう。今、私たちがいる、このビルの話です」
このビルが建てられたのは、四十五年以上前です。本土からやって来た事業家が、洒落たアパートのつもりで建てたようです。
当時は今ほど高層ホテルやコンドミニアムが建ってはいませんでしたから、確かに感じの良いアパートだったと思います。ビーチにも近いですしね。
ところが、まず入居者が居つかない。理由は様々ですが、長く住むつもりで入っても、出て行かなくてはならなくなってしまうんです。持ち主も何度も何度も変わりました。
最初の持ち主は、アパートを建てた後に別な事業に失敗して、ここを手放さなくてはならなくなりました。次の持ち主は、ええと、突然病死したんでしたか。何しろ長くて二、三年で持ち主が変わっているのです。調べるのには苦労しました。
とにかく大変な勢いで持ち主が変わっている間、アパートは経営こそされていましたが、大して手入れもされず、あまり裕福でない人達が、やはり入居しては出て行くといった状態でした。
それが一年程前に、あるカナダ人が買い上げましてね。彼はここを改築して、元のような洒落たアパートにしたいと考えていたようです。きちんと改装して、管理人も常駐するような話でした。
しかし、改装工事の計画が進み出した頃、彼は突然亡くなったんです。心臓発作でした。困ったのは管理を引き受けていた管理会社です。彼はアパートを購入し、管理会社を通して、カナダにいながらにしてハワイの物件の改装案などを練っていたわけですね。
そこの社長は――仮に名前をポールとしておきましょう――、同業の古馴染みなんですが、よりによって私に泣きつきました。あのアパートは呪われているから、もう縁を切りたいと言うんですね。
「冗談じゃない。物件を怖がっていて、不動産屋が勤まるか」
「いや、本当にあそこは普通じゃない。出るんだよ」
という押し問答の末に、二晩ほどアパートの空き室に泊まってみましたが、当時の住人達は何というか、あまり柄の良くない人達でしてね。女の子がすすり泣いてる声が、幽霊なのか本物なのかも分からない。安眠出来ないのは確かでしたが。
で、さらにポールと話し合い、ある晩住人を全部よそに泊まらせて、二人っきりで過ごそうということになりました。ええ、シロアリの駆除と言って、住人たちにはホテルを取りました。ご覧の通り、全室でも十七ユニットですからね。
私とポールが二人で夜明かししたのはこの部屋です。
はい、出ましたよ。十二時を過ぎた頃から、二階の廊下を子どもが走り回ったり、どこかで瓶の割れる音がしたり、白い影が室内を横切ったりね。
言っておきますが、私もポールも全くの素面でした。彼は魔除けのティー・リーフだのハワイアン・ソルトだの聖水だのを持ち込んでいて、まあ、後に起こったことを考えればそれが良かったのかもしれません。
あれは二時ごろだったと思います。建物全体がずしんと揺れましてね。
水飛沫に混じってヤモリの鳴くような音が遠くに聞こえ始めました。妙な音なんですが、初めは微かだったのが次第に大きくなって、同時に何かとてつもなく大きなものが近付いてくる気配がしたんです。
海からだと私は感じました。冷静になっていれば、海とこのアパートの間には大きなホテルも店もあると思えそうなものですが、その時は動転してました。
とんでもないものが来る、ここにいてはいけない、とは思ったんですが、体が動きませんでね。
今でも思い出すと手に汗が滲みますよ。
腰を抜かして床に這いつくばっていたら、ほら、そこのカーテンが揺れて、真っ黒なものが部屋いっぱいに入って来たんです。黒い魚みたいなものが跳ね込んだと思うと、電灯が点けてあるはずの部屋がたちまち暗くなって、背中に重くて生温かいものがのしかかったんです。
床に押し付けられて息も出来なくて、肋骨が軋みました。恐ろしいのと苦しいのと、人生で最悪の体験と言ってもいいほど。
どれ位だったのかは覚えていませんが、やっとそれが通り過ぎましてね。今度はそっちのキッチンの壁に、黒いものが吸い込まれるように消えて行ったんです。
しばらくはポールと二人で放心していましたけれども、我に返るが早いか、転がるようにアパートを飛び出しました。
ゲートの鍵をきちんと施錠するのは忘れませんでしたが。
あんなものが毎晩アパートに来るなら、住人達はどうやってやり過ごしているんだと、不思議で仕方なくなったのは、ポールの家に辿り着いてからですね。影だの音はともかくね。
ポールが言うには、前の晩は貿易風が止んで、逆のコナ・ウインドが吹いていたせいじゃないか、と。そう、年に数回ありますよね。南からの風が、何とも湿っぽくて蒸し暑い空気を運んでくるあれです。ついでにその夜は新月でした。
まだこの話は終わりじゃありません。
私とポールが逃げ帰った日の昼に、警察から連絡が入りました。例のアパートで変死体が発見されたと言うんです。
何も知らない住人達が、ホテルをチェックアウトしてアパートに帰り着いたとき、二階の一部屋のドアがほんの少し開いていたそうです。不審に思って覗いてみると、その部屋の住人だった女性が死んでいたそうです。
亡くなっていたのは、他の住人から苦情が寄せられていたトラブル・メーカーでした。どうも売春をしているらしいという話でしたね。
管理会社の書類に書かれていた非常時の連絡先には連絡が取れず、結局ポールが遺体を埋葬することになりました。
死因は、心臓麻痺ということだったんですけれども、体中に痣が出来ていて、最初警察は誰かに暴行されたために、心臓が止まったのではないかと疑ったらしいです。しかし、どうやら殴ったり蹴ったりして出来た痣ではなく、むしろ日焼けに近いようだと後の検査で分かりました。
あの晩、彼女はホテルにお客を連れ込もうとして、フロントで見咎められたそうです。どういうやり取りがあったのかは詳しく分かりませんが、ともかく彼女はアパートに戻って来た。
シロアリ駆除をしている様子もないので、ゲートを開けて部屋に入ったんですね。我々は何とか無事だったけれど、彼女は死んでしまった。
どんな事情があったのかは知りませんが、ホテルにまでお客を引き込もうとするほど、お金が必要だったのかと思うとね、気の毒でなりません。
ところで皆さん、このビルに入って来る際に、ミロとプルメリアの木の間をお通りになりましたね。ミロの木陰の奥にあった岩に気が付いた方はいましたか。ああ、もう大分暗くなっていましたからね。
あれは元々、建物の位置にあったそうです。しかももっと大きかったのを、工事の際にブルドーザーが削ってしまった。
今、溜息を吐かれた方はご存知のようですね。
念のために説明しますと、ハワイでは古くから大きな石には霊が宿っていると言われています。そういう石を粗末にして起こった祟りは数知れません。
実は明後日、あの石を中心にして大々的なお祓いをする予定です。その後、神官さんと相談してこのアパートをどうするか決めようと思っています。
エディーが言葉を切り、青年が蝋燭を吹き消すと、室内には沈黙が落ちた。
「ご心配なく、今晩は新月でもありませんし、コナ・ウインドでもありませんよ」
極めて明るい口調でエディーはそう言ったが、立ち込める空気は少しも明るくならない。私も肌が粟立っているのを納めることが出来なかった。
今、座っているこの場所で起こった話というのは、行った事もないハイウェイの怪談に比べて段違いに気味が悪い。嫌な場所に来てしまったと、また思った。