第1話『あまのたかし。ね。覚えた』
どうしてボクばかり。
なんて言葉は幼い頃から何度も飲み込んできた言葉だ。
姉も周りの子供たちも皆、元気に走り回っているのに、どうしてボクばかり寝ていないといけないの? とか。
父も母も姉も楽しそうに食事をしているのに、どうしてボクばかり部屋で別々に食べないといけないの? とか。
どうしてボクばかり、少し動いただけでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないの? とか。
ボクは自分一人しか居ない部屋の中、そんな事を考えながら、何もかもが気に入らない世界で過ごしていた。
しかしそんなボクの日々にも大きな変化が訪れようとしていた。
それはある天気の良い午後の事だ。
いつもの様に窓を開けて意味も無く外の空気を感じながら本を読んでいたボクは誰かに話しかけられた。
「おい」
「……?」
誰か入ってきたのだろうか。と部屋のドアを見るが、誰も居ない。
そもそも随分と乱暴な言葉遣いだったから、家族の誰かという事は無いだろう。
あの人たちは今までボクにそんな乱暴な言葉をぶつけた事は無いのだから。
「こっちだ。こっち。窓だ」
ボクは声に導かれるままに窓の方を見て、息を飲んだ。
そこには一人の悪そうな顔をした男の人が立っていたからだ。
強盗かもしれない。
ボクはすぐさまそう考えて、家族を呼ぼうとしたが、息を大きく吸い込んだ瞬間、息苦しくなって咳き込んでしまう。
まずい。まずいという気持ちが溢れて、ボクは必死に咳止めの薬を探した。
しかし、すぐ手が届く場所にはなく、焦りばかりが募っていく。
どうすれば良い? どうすれば。
「チッ、しょうがねぇなぁ。これじゃ満足に話も出来ねぇ」
男の人は苛立った様な言葉を吐いた後、窓を乗り越えて家の中に入ってきた。
そしてそのまま逃げようとするボクを捕まえて、ベッドに押し倒す。
怖い。
腕を押さえつけられて、身動き一つ取れないこの状況に、苦しさ以上に恐ろしさを覚えた。
「すぐに終わるから、大人しくしてろ」
男の人は左手一つで僕を押さえつけると、そのまま右手をボクの胸に向かって突き出した。
何か痛い事をされる。とボクは強く目を閉じて、来るであろう痛みを待った。
しかし、いつまで経っても何も起こらない。
それどころか、ボクの中にある痛みは少しずつ良くなっていった。
「俺は真白ほど上手く力を使えねぇからな。すぐ完治って訳にはいかねぇが、どうだ? 少しは苦しくなくなったか?」
「……苦しくない」
「そっか。それは良かった」
うっすらと目を開けた先で、無邪気に笑うその人を見て、トクンと心臓の跳ねる音がした。
それはいつも感じている様な胸の痛さとは違って、何だか不思議な感覚だった。
そして男の人がボクから離れて、すぐ近くの椅子に座ったのを確認して、ボクは服を綺麗にして男の人に向き直る。
「さて。ようやく話が出来るな」
「その前に」
「ん?」
「靴脱いで、部屋汚さないで」
「いや、この靴は汚れてねぇ。そういう靴なんだよ」
「良いから」
「めんどくせぇな」
渋々と靴を脱いだ男の人にボクは手を出してその靴を奪い取る。
そして男の人の反対側に持って行って、ベッドの裏に隠した。
これですぐに逃げ出すような事は出来ないはずだ。
「話しても良いか?」
「名前。名前教えて。ボクは東雲翼ね。お前とか、おい。とかじゃなくて、つばさ。ね」
「……」
「名前教えてくれないと、話聞かないから」
「めんどくせぇな。天野だよ」
「天野。なに?」
「孝」
「あまのたかし。ね。覚えた」
「そりゃ良かった。じゃあそろそろ本題の話を」
「待ってて。ジュース持ってくるから!」
「おい! 別に要らねぇって!」
ボクは天野の言葉を無視して部屋から飛び出した。
ベッドから降りた時にも感じたけど、信じられないくらい体が軽い。
ただ歩いているだけなのに、こんなにも世界が楽しく美しく見えるなんて素敵だった。
そしてどうやらお父さんもお母さんもお姉ちゃんも出かけているらしく、ボクは勝手に冷蔵庫を漁って、ジュースを取り出すとそれをコップに注いで、お盆にコップを二つと、お菓子を乗せて部屋に戻る。
「やっと戻ってきたか。要件済ませたら俺は帰る。その菓子とジュースはお前が飲め」
「つばさ」
「あん?」
「ボクの名前は教えたよ。翼って。お前なんて言われても返事しないから」
「……翼。これで良いか?」
「うん! それで、天野はどれ食べる? ボクとしてはこのお煎餅がオススメなんだけど」
「いや、食わねぇって言っただろ。話聞けよ」
「話を聞いて欲しいなら、相手の言葉にも耳を傾けなさいってこの本にも書いてあったよ」
ボクはベッドの近くに積み上げてあった本を手に取り、天野に見せる。
天野はその言葉通り、心底面倒だという顔をしながら、ボクに向き合ってくれた。
それからボクはとにかく色々な話題を作って、天野に話しかけた。
途切れさせない様に。
きっと話すのが終わってしまったら、天野は要件だけ伝えて何処かへ行ってしまうと思ったから。
その努力の甲斐もあって、玄関の方からお母さんとお姉ちゃんが帰ってくるような声が聞こえ、天野はそろそろ出ていかねぇとなと言って、立ち上がった。
大きな達成感がある。
でも、この状況になってボクは気づいてしまった。
これじゃ天野に嫌がらせをしただけだと。
本当は、まだ天野と話したい事があって、だから天野の話したい事を聞いてしまったら、もう会えないと思って、こんな事をしてしまったけれど、嫌がらせなんてしたかった訳じゃないのだ。
伝えないと、そう……伝えないといけないのに。
ボクはポロポロと涙を流すばかりで、上手く言葉を話す事が出来ずにいた。
そしてそんなボクの傍で天野は溜息を吐くと、ボクの頭に手を乗せる。
「そんなに自分を責めるな。別に怒っちゃいない。お前の気持ちもよく分かるしな」
「そう……なの?」
「あぁ。話し相手くらいになら、いくらでもなるさ。だから、そんな風に泣くな」
「また、明日も来てくれる?」
「あぁ。来るよ。ただ、家の人がおかしく思うだろうから、ジュースとか菓子は無しだ。食べたいのなら、お前の分だけで良い」
「つばさ」
「あん?」
「ボクの名前。ちゃんと翼って呼んで」
「……翼。これで良いか?」
「うん! じゃあ、また明日」
「あぁ。また明日。な」
その日から、ボクの日常に天野との会話が加わった。
そして、体が良くなったという事で、お父さんやお母さん、お姉ちゃんとも一緒にご飯を食べられる様になり、僕の日常はその姿を大きく変えてゆく。
お姉ちゃんの友達だという立花君とも話が出来たし、外にだって出かけられる様になった。
まだ、良くなり始めたばかりだからという事で、走り回ったりは出来ないけど、それでも自分の足で歩く外の世界というのは新鮮で、心が踊るような美しい物だった。
この世界をボクにくれたのは天野だ。
ならば、今ボクが感じている心が震えるような喜びも、涙が滲んでしまいそうになる嬉しさも、全て天野から貰った事になる。
それならば、天野はきっと、この世界の様に広くて、美しい心を持っているのだろう。
ボクはそう思う!
また、天野に会いたい。
そう強く願うのだった。




