梅雨、猫と私
梅雨のある日のことだった。
その日は小雨が降っていて、縁側の庇に落ちて音を立てていた。
縁側で雨空を眺めていると、塀を伝って一匹の猫が私の家の庭へと降り立った。
その猫は濡れていて、じっと私のことを見ていた。
雨がその体毛を這って滴っていたが、耳はぴんと立っていた。
どれくらい見つめ合っていたかわからない。
しばらくして、餌をやろうと思った。
私は立ち上がったが、それでも猫は私のことを見ていた。
私は猫に背を向けて、台所へと歩いて行った。
何かあるだろうか。
何を食べるのだろう。
チョコレートは毒だと聞いたことがある。本当かな。
しかし、当時チョコレートは私のおやつとして買ってもらったものだったから、シーチキンの缶を一個、棚から取り出して縁側に戻った。
後に猫にとってシーチキンはあまり健康にはよくないものだと知って、この時のことを後悔している。
戻った時、猫は縁側に座っていた。
雨宿りをしていた。
肉球の水たまりが縁側の床に捺されていた。
少し距離をおいて私は猫の隣に座った。
猫は庭を見ていた。
雨は少し強くなっていた。
横顔が綺麗だと思った。
私がシーチキンの缶の蓋を開けると、猫はこっちを見た。
匂いにつられてか、かぷりっ、という蓋の開く音に釣られてか、どちらにせよ、猫は私の手の中のものを見ていた。
私は縁側の縁にそっとシーチキンの欠片を置いた。
猫は警戒しつつもすっと立って、匂いをかいで舐めた。
味を確認した後で、猫はそれを食べた。
私も缶からシーチキンをつまんで食べてみた。
脂っこい魚の味だった。
私は食べるのをやめて、缶のまま猫にあげた。
猫は夢中でそれを食べていた。
私はそれをただ見ていた。
庇に降り落ちる雨音だけが聞こえていた。
翌日も雨が降っていた。
体育の授業は体育館でやることになった。
私は外で走るのなんて嫌いだったから、よかったと思った。
雨は昨日よりも強かった。
体育館の屋根を打つ雨の音は鋭く尖っていた。
空は黒く、いつもの体育館もまるで異世界に飛ばされたみたいに陰鬱としている。
ドッヂボールをやることになった。
当たるのが嫌いだったから、
外野に行こうとしたけど、当たらないで投げ続けられる外野は人気だったから、私の枠はなかった。
仕方なく内野の端の方に陣取った。
剛速球でボールが飛ぶ。
右へ左へ、前から後ろへ。
クラスメイトが次々に当たっては外野へ、当てては内野へと出入りしていた。
私はぼーっとそれを眺めていた。
突然こっちにボールが飛んできたと思ったら、すぐに通り過ぎた。
指に激痛が走った。
ボールは右手の指先を打ち抜いたようで、それを左手で抑えて痛みを和らげようとした。
「早く外野に行けよ」と野次が飛んだ。
私は右手を抑えながらすぐ横にある白線の外に出て、外野陣に回った。
右手の中指がすごく痛かった。
両陣営の真ん中の線の延長上に立っている先生の元へ行った。
「どうした、さっきのボールで痛めたか」と聞かれたから、「はい」と答えた。
先生は外野にいた一人を呼んで、私を保健室へ連れていくように言った。
その子はクラスの保健係で、クラスの人気者だった。
仮にK君と呼ぶ。
K君は外野に率先して立候補した子だった。
保健室に行くと、そこの先生が私の指に湿布を貼って、上からテーピングを巻いてくれた。
K君はそれを物珍しそうに見ていた。
「大丈夫?」と聞かれたから、「うん」と言った。
湿布のせいで中指がじんじんと痛んでいた。
体育館に戻る道中、K君は新作のゲームの話をしていた。
私は持っていなかったから、ただそれを聞いていた。
「持ってる?」と聞かれたから「持ってない」と言った。
何して遊ぶのかと聞かれ、咄嗟に昨日猫が来た話をした。
本を読むのが好きだったが、彼にその話をしても面白くないだろうと思ってしなかった。
その話をしていると、体育館の扉の前まで来ていた。
中からはボールの跳ねる音やクラスメイトたちの声が聞こえていた。
「猫、俺も見たい」とK君は言った。
その日、私の家にK君が来ることが決まった。
K君は体育館の重い扉を開けてくれて、二人で先生の元へと行った。
「じゃあ放課後一緒に帰ろう」とK君が言うと、自陣の外野へと走っていき、ドッヂボールの輪の中に混ざっていった。私は見学になった。
帰る頃には雨が弱まっていた。
放課後は予定通り、二人で私の家に向かった。
途中、K君の家に寄った。
良い家だった。
K君はランドセルを置いてゲーム機だけをポケットに入れていた。
そのポケットの膨らみが少し羨ましかった。
家に帰って玄関を開ける。
縁側には昨日と同じく猫がいた。
私はほっとした。
今日はあまり濡れていないみたいで、縁側の水のシミも、乾き始めていた。
猫は寝そべっていた。
どこへ行って、何故ここへ来たのかは知らないが、自分の住処みたいにしているその猫のことを少し傲慢だと思ったが、反面、嬉しかった。
「本当にいる」とK君は言った。
私は縁側へ出られる戸を開けた。
猫はこっちを一瞥し、欠伸をしてまた眠りについた。
「触れるかな」とK君は言ったが、私は「わからない」と言った。
寝ているし、それを邪魔をされるのも嫌だろうと思った。
その後、K君は猫のことを忘れたかのようにゲームをしていた。
私はそれを見ていた。
コントローラーが分離するから、二人ですることもできたが、私にとっては猫よりも触れがたいものに感じて、ただ見ていた。
一時間ほど経っただろうか。
雨はとっくに上がっていて、辺りは夕陽に照らされていた。
「暗くなるし帰ろうかな」とK君が言った。
ふと猫のいた方を見ると、猫はいなくなっていた。
「うん」と私は言った。
K君を玄関まで見送ると、私は縁側まで戻って座り込んだ。
ただ空を眺めていた。帰り際彼が言ったように、私も楽しかったと思った。
次の日になると、また雨が降っていた。
激しい雨だった。
学校の授業は退屈だった。
言われたことをやるだけで、それは家でも同じことだったから。
それでも、楽しいと思えることが一つ増えた。
K君は私のことをグループに入れてくれて、休み時間には皆で一緒にドッヂボールをした。
楽しかった。
雨は止みそうになかった。
次の日は土曜日だったから、遊びにも誘ってくれた。
私はその話に乗った。
何をして遊ぶかなんて重要じゃなかった。
放課後は皆でK君の家に行って遊ぶことになった。
お母さんにそのことを連絡をした。
K君やグループの面々はゲームの話ばかりで、私にはさっぱり分からなかったが、私は友達と一緒に帰れるだけで嬉しかった。
ゲームは難しくて、自分の操作するキャラは思い通りに動かせなくて負け続けた。
ボタンを押して、技を出して、当たらなくて、まぐれで当たって、また当たらなくて、それでも楽しかった。
門限まで遊んだ後、私は皆よりも先に家に帰った。
雨は一段と強くなっていたが、帰り道は寂しくなかった。
今日も猫はいるだろうか。
明日もゲームができるかもしれない。
あの技、かっこよかった。
明日は最下位から抜け出せるかもしれない。
そんなことを考えていた。
大通りから自分の家に続く脇道に逸れると、20メートルほど先で道路の真ん中に野良猫が寝ていた。
普段から車通りも少ないとはいえ、雨なのにそんな所で寝ているなんて呑気な奴だと考えて、少しすると、ああ、轢かれたのかと思った。
夏休みに一度だけ、轢かれた野良猫を見たことがある。
今回も同じようなものだと思った。
その時と違うのは、雨のせいで泥まみれのままということだった。
あんな風に惨めには死にたくないと思った。
もうすぐ横を通り過ぎる。
横を通る時、その死体を見ないようにしようと思ったが、つい好奇心で横目でその野良猫を見た。
体は地面に沿って伸びたまま、生気を失って平たくなっている。
血はとっくに雨で流され、体毛は泥と雨によって艶が出ている。
口は力なく開いて、それを舌が塞いでいる。
目は……
瞳孔がぱっくりと見開いていて、眼球に雨粒が当たっている。
視線はただただその背骨と地面に沿って前を向いていた。
私は思わず目を逸らした。
その猫を見たのはほとんど一瞬のことだったが、その猫の目は今でも忘れられないほど焼き付いている。
人は受け入れ難い出来事であればあるほど、冷静に、着実に行動するものだ。
この時の私もそうだった。私はそのまま通り過ぎた。
家に帰って手を洗い、うがいをして手と口を拭く。
鏡は見れなかった。
自分の視線が怖かった。
部屋に戻るとランドセルを置いて、本を手に取った。
いつも通り、縁側に向かった。
雨は止みそうだった。
私は安堵した。
その週末の約束は破った。
翌週になって、私はまた一人になった。
不思議と辛くはなかった。
その三日間のことは、梅雨の今頃に思い出しては、また忘れている。