12.【紫苑視点】そういうのは駄目だ
何度か呼びかけてみたものの、よほど深い眠りに落ちているのか芹香が目覚める気配はない。詰みそうだ。
何か、外的刺激を与えなければ。だけど芹香に痛みを与えるなど到底できるわけがないし、大声もできれば出したくない。
もっと、優しく、かつ刺激的な起こし方を。
そんなものがあるかと否定しかけたところで、ある箇所に視線が吸い寄せられる。
淡紅色に艶めく、芹香の唇へと。
気づけば指先が触れていて、何をしているのかと我に返り手を引っ込めた。
……いやいや。
さすがにそれは夜這いの範疇だ。今後の友人関係に多大に影響してしまう。
芹香だって、女の子なら誰でもいいわけではない。かつて好意を寄せられていたからって驕るな。
だけど、これだけ眠りが深いなら。
唇がリスキーなら、頬や額だったら。
思考が毒されそうになり、頬を力いっぱい引っ張る。
そういうのは、駄目だ。
芹香はいま、私のことを友達だと思ってくれているのだから。
ようやく理性を取り戻した私は、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話を取り出す。
冷静になれば、単純な解決策だった。
マナーモードを解除する。それからLINEの受話器のアイコンをタップし、『音声通話』のボタンに指先を伸ばした。
芹香の拘束から無事脱出した私は、トイレを借りるねと伝えて部屋を後にした。
ドアを閉めて、壁にもたれて。
触れてしまった、人差し指の腹を見つめる。
温かく、潤っていた。ほんの一瞬なのに感触は生々しく残っていて、また心音が速くなっていく。
意識してはいけないのに、衝動は止まらない。
そっと、自身の唇へ引き寄せる。
触れた瞬間、ひときわ大きな鼓動が心臓を揺らした。
「あ」
階段を降りきったところでちょうど、台所から出てきた女の子と鉢合わせた。
シンプルなトレーナーとスウェットパンツといういかにも部屋着らしい姿で、見た目は芹香よりも若いように見える。
タイミング、悪かったな。
オフの日を目撃してしまったことに、互いに気まずい沈黙が流れていく。
「えっと……体調はもう大丈夫なの?」
「あ……はい。休ませていただき、ありがとうございます」
誰かと聞いてこないあたり、芹香から事情は聞いているのか。
目の前の女の子も距離感を測りかねているのか、声は硬く辿々しい。
「そう。……なら、よかったね」
「はい、せ……りかさんには感謝してもしきれません」
女の子の立場が分からないため、図らずも芹香を下の名前で呼ぶ形になってしまった。
言い慣れない呼称を口にしたことにより、むず痒さが湧き上がってくる。
振り払うように、私は目的を切り出した。
「すみません。お手洗い、お借りしてもよろしいでしょうか」
「あ、そう、だった、よね。引き留めてごめんね。どうぞ使って」
お互いぺこぺこと頭を下げて、トイレに籠もる。
結局、あの少女が誰だったのかは聞けずに終わってしまった。
「え、しーちゃん覚えてない?」
帰り道。玄関を出たところで芹香に聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「お姉さん……?」
「そうです。あれでもうちの姉なんです。てか姉貴も自己紹介してないんか、昔ゲームやった仲なのに」
お姉さんの清白エリカさんは芹香の4つ年上。今は市内の工場に勤めているらしい。
お店まで車を飛ばしてくれた方なのに、まるで結びつかなかった自分が失礼にも程がある。いくら運転席を見ていなかったとはいえ。
「てっきり妹さんかと」
「姉貴まじ老けないからねー、幼稚園の卒アルあたりから顔変わってないよ。妹は老け顔なのにさ」
「童顔だといつまでも舐められるし、大人びた顔立ちのほうがいいじゃない」
芹香は私服だとお酒も余裕で買えてしまうくらいだから、本人は気にしているのかもしれないけれど。
お互い、ないものねだりだ。
「それじゃ。これ、ご家族で食べて」
「あ、ありがとう。本当に、何から何までありがとう」
芹香から大きな紙袋を受け取る。
中身はお弁当だ。それも複数。
私が寝入っている間、近くのお弁当屋さんで買ってきてくれたらしい。
奢って頂くわけにはいかないと謙遜したのだけれど、またお腹痛くなったらどうするよと押し切られてしまった。
「しーちゃん、明日病院だから欠席するでしょ? 胃に優しいものをなるべく選んだからどうぞ」
「こんなに……高かったよね。あとでちゃんと返す」
「いいって、そこまで高い買い物でもないし。ここのほんと美味しいからおすすめだよー」
手を振って、芹香は踵を返す。
胸の奥に温かいものがこぼれ落ちて、同時に歯がゆさを覚える。
私は今日、お世話になってばかりだ。
せめて、芹香に何かを返したかった。
して頂いたことの重さを考えれば、返さなければならなかった。
だけど私ができることは、芹香のほうがはるかにできる。役に立てることが思い浮かばない。
なんでも自分でできるようになるというのが己の目標であったはずなのに、この人といるとつい甘えてしまう。
なら。
唯一の得意分野を胸に、私は芹香を呼び止めた。
「もし、よかったら、だけど」
意外にも、芹香はその申し出を受け入れてくれた。
約束の月曜日がやってきた。
バルコニーに続く大開口窓の向こうには、朝焼けに染まる白い公営住宅が見える。
4月でも、まだ早朝の台所は上着が必要な冷え込みだ。
私の朝はお弁当作りから始まる。
うちは父子家庭で、朝早く出勤する父は弁当を準備する余裕がない。
少しでも負担を減らしたかった。
中学に上がる頃にはすでに、食事当番は日課となっていた。
7時まで10分を切った頃、父がダイニングキッチンに入ってきた。
伸びっぱなしの髭と頭髪、吹き出物に濃い疲労の色がうかがえる。
「朝はどれにする?」
「親子丼で」
「はい。こっちの包みはお昼用ね。中身は生姜焼き」
牛乳瓶を栄養ドリンクみたいに呷っている父の前に、温め直した弁当を置いた。ちなみに私はざるうどん。
「土日潰れるってしんどいね」
「竣工前だからなぁ」
竣工前、というのは工事での作業が終わる直前の時期のこと。
私の父親はゼネコンマンだ。納期が迫っていることもあり、毎日大量の書類仕事と検査がある。
転職で長時間残業は無くなったとはいえ、ここのところはずっと休出続きだ。
「お腹の調子は大丈夫なのか?」
「今は落ち着いた。病院も1人で大丈夫。駅から直通バス出てるし」
父はほっとしたように息を吐くと、鞄から財布を取り出した。
「検査あるだろうし、いくらか病院代に当ててくれ」
「うん、助かる。ありがとう」
「あと、こっちはお友達に。さすがにタダ飯は悪いから」
「わかった」
お弁当代の千円札数枚を受け取る。受け取ってくれるかは難しそうだが。
二人で暮らすようになってから、寡黙だった父はよく話しかけてくるようになった。
どんなに忙しい朝でも、私と一緒に食べてくれるようになった。
くたくたで疲れているだろうに、学校行事はできる限り来てくれた。
母と同じ過ちは犯すまい。
口に出さずとも、父の変化にはそういった心痛な想いを感じる。
夫婦仲に亀裂が走ったのは私にも原因があるのだから、一人で気負う必要はないのに。
父を見送った後、LINEが鳴った。
芹香からだ。準備できてるよと返した後、まだ寝巻き姿だった己の格好に気づく。
制服に着替えたら不自然だし、けど今から服に迷っていたら待たせてしまう。
いいか、このコートで誤魔化せば。
こういうときは、すっぽり全身を隠せる己の体格に感謝する。
約束の品を持って、外に向かう。
気合を入れたから、喜んでくれるといいな。




