※閲覧注意※【バグが修正された日】
「さいはて荘」×「憑訳者は耳が聞こえない」
【なっちゃんと呼ばれた日】読了前提。閲覧注意。
なっちゃんの〝最期〟です。時系列的には魔女が23歳、鬩が25歳の時。
本編では語られないなっちゃんの物語は、ひとまずこれでおしまい。
有毒動物の無毒化に最も有効なのは、生まれる前から無毒の環境に浸すことである。
毒を生成できない環境下で育成することで有毒動物の無毒動物を生み出すことができる。一般的に飼育・販売されているヤドクガエルなどが有名な例である。
では、現状毒性を有している動物から毒抜きをすればどうなるか。
死ぬ。
有毒動物に限った話ではない。自然の川に生きる魚たちを清水に移せば死ぬ。汚泥に生きる花々を綺麗な土壌に移せば枯れる。
そう。一度でもねじ曲がった鉄棒は、鋳造し直さない限り元に戻らない。そして、鋳造し直した鉄棒はもはや、元の鉄棒と同じとは言えない。
だから。
人間の根底は変わらない。
ある日のさいはて荘。
雲ひとつない快晴に恵まれたそこで、魔女が膨らみかけのお腹を抱えて縁側に出る。
裏の畑では元軍人が野菜の収穫に精を出していて、それを大家さんが縁側に腰掛けて見守っている。
大家さんの膝にはなっちゃんが寝そべっており、至福心地とばかりに幸せそうな顔で目を閉じている。
不協和音は、迸らない。
魔女はしばしなっちゃんの寝顔を見つめて、ゆるりと微笑みながら管理人室に戻っていった。
それを見計らったように、なっちゃんの目がすうっと開かれる。ばちばちとかすかに虹彩がひずむ。
「──いい天気だあ」
「ええ。ほんと、いいてんき。おひるねびよりね」
大家さんのふわふわとした手がなっちゃんの頭を優しく撫ぜる。
心地良さそうに目を細めながら、なっちゃんは吐息のような声を零す。
「──ねぇ、大家さん」
「なあに?」
「この前ねぇ、やっとゆゆちゃんや大王ちゃん、いっちゃんと挨拶できたんだあ」
「ほんと? よかった! さんにんともいいこでしょう?」
「うん。おしゃれって言ってくれたんだあ」
なっちゃんは嬉しそうに、心の底から嬉しそうに笑う。
「暴君ちゃんともねぇ、この前一緒に動物園にいったんだあ」
「ええ。はじめてのどうぶつえん、どうだった?」
「とぉっても素敵だったぁ! あのねぇ、みんなあたしを見ても逃げないんだ。ぞうさんなんかねぇ、べちょってあたしの頭におはなくっつけて帽子取っちゃってぇ」
「うふふっ」
大家さんの噴き出すような笑いに、なっちゃんも声を上げて笑った。
幸せそうに、それは幸せそうに。
「お蝶さんと元国王さんのお店もねぇ、毎日通い詰めちゃったぁ」
「おいしいもんね」
「うん。本当においしくておいしくて、お店の雰囲気もすっごくよかったからさらにおいしくて、もーたまんなかったぁ」
ふぅ、と吐かれたなっちゃんの吐息がじりじり、と空気を澱ませる。けれどそれ以上の混信には、ならない。
もう、ならない。
「おじいちゃんもねぇ、もーいいトシしてんのに朝っぱらからお酒呑んでやーのぉ」
「あははっ、つれまわされたのね?」
「そぉなの。魔女ちゃんも昔、連れてかれたってゆってたなぁ〜、海そばの市場」
なっちゃんは語る。ただ、語る。幸せそうに。楽しそうに。嬉しそうに。
「元巫女ちゃんと元王子さんとこの神社もねぇ、いろいろ作法教えられてちんぷんかんぷんだったぁ」
「はじめてだととまどうよね〜」
「てかさぁ、美男美女の巫女さんコンビってなーにぃ。あれ反則ぅ」
ぷー、と膨れ上がるなっちゃんのほっぺたを大家さんがつついて、一緒に笑い合う。
「社長さんも〜、やぁっと、JJC辞められるのかなぁ〜」
「やめてもしゃちょうさんはたぶん、またしゃちょうさんやりそうかな」
「あ〜、魔女ちゃんのための事務所とかつくりそ〜」
社長さんがJJCに居続けたのはあたしのためだもんね、と囁いてなっちゃんはふぅ、とまた息を吐き出す。
ぢり、となっちゃんの輪郭がブレかけて──やはり、昔のように違和感にはならず戻る。
「あぁ〜、ドーナツ食べたぁい」
「もとこくおうさんがつくってくれたどーなつ、いっぱいあるよ」
「うん! 知ってるぅ! ──でも、もう食べられないからぁ」
なっちゃんはそう言って、すりすりと頬を擦り付ける。なっちゃんの体はもう、ほとんど機能していない。
かろうじて腕と、顔を動かせるくらいで。
「食べられる時にねぇ、いっぱいおねだりして作ってもらったからぁ、後悔は……ちょっぴりしかしてないもぉん」
「ふふ、そっかぁ」
「──ねぇ、大家さん」
なっちゃんは問いかける。
「魂って、いつ宿るのかなぁ?」
──魂? と、首を傾げた大家さんになっちゃんはんふふ、と含むように笑う。
「ほらぁ、魔女ちゃんのおなか、赤ちゃんいるでしょぉ? 赤ちゃんにね、魂が宿るのっていつかなぁって。受精した時? お腹の中で大きくなった時? 産まれた時? いつかなぁ?」
「──いつだろうね。なっちゃんは、いつがいいの?」
「今かなぁ」
今、赤ちゃんはまだ体を整えている時期で魂は全然なくて。
そうしたら、あたしがいなくなっちゃったあとするーって入っていけるんじゃないかなぁって。
「──そしたらね、またみんなと一緒にいられるから」
「……」
ざり、とひとつの異常が迸って、すぐ掻き消される。
なっちゃんは、これから死に往く。
〝世界のバグ〟である彼女は本来、その存在を抹消されるべきであったところを恩赦によって見逃された。
さいはて荘に住まい、名前を変え経歴を変え自分という存在を殺し続けることで、その存在を赦された。
足元から頭のてっぺんまでぬるま湯で満たされた、温かくも呼吸ができないほどに軋む場所──〝さいはて荘〟は、なっちゃんにとってひどく心地のいい場所だった。
両親は死んだ。親族も死んだ。養護施設も次々と滅んだ。親切な人も意地悪な人も次々と死んだ。往く場所来る場所災害が起きた。
バグだから。
全てを狂わせる、バグだから。
健全な細胞を侵す、癌細胞だから。
なっちゃんは、死ぬべき存在であった。
けれどそんななっちゃんをさいはて荘は受け入れた。
さいはて荘に住まう者たちは受け入れた。
さいはて荘での生活は、なっちゃんにとって涙がこぼれ落ちるくらい幸せでたまらない時間だった。
しかし、さいはて荘での生活は──じりじりと、着実に、なっちゃんから毒を抜いていった。
毒性を既に含有している動物を無毒化すれば、死ぬ。
その例に漏れず、なっちゃんもまた──修正されて滅びようとしていた。さいはて荘というぬるま湯に浸かり、少しずつ少しずつ修正され──最近では、さいはて荘以外の人間たちとも関われるまでに、〝適正化〟が進んだ。それが──致命的だった。
人間の根底は変わらない。
バグは、バグでしかない。
ゆえに──バグでしかないなっちゃんは、適正化によって死の淵にいた。
彼女の顔に悔いはない。元来、バグとして即座に除去されなければならない存在だったのだ。それが今の今まで見逃されていただけ──幸福なことであるとなっちゃんは考えていた。
でもやっぱり、となっちゃんはみんなとの別れを惜しんで生まれ変わりに夢を見る。
──今度こそ、普通の人間として。
「──だいじょうぶ」
大家さんの優しい声が、なっちゃんの鼓膜を優しく揺らす。
「──またあえる。だから、だいじょうぶ」
大家さんの声に気休めの慰めのような色はない。
大家さんは心の底から信じていた。そして、心の底からなっちゃんを愛しんでいた。
その、〝母〟の声になっちゃんはひとつぶ、涙をまなじりに浮かべて微笑む。
「もし魔女ちゃんの子どもに生まれたらねぇ、大家さんはあたしのおばあちゃんだねぇ」
「ふふふ。そうねぇ、とーってもすてき」
ちか、となっちゃんの目の前が弾ける。
ああ、もう死ぬのか──不思議と恐怖を感じない頭で、なっちゃんは幸せそうに口元を綻ばせる。
もっと長期的なスパンで適正化が図られていればもしかしたら、なっちゃんも適応できていたかもしれない。水槽に入れられた魚が気づかないくらい少しずつ少しずつ、時間をかけて水温を上げていけば高温の中でも生きていけるのと同じように。
けれど、なっちゃんはこれで構わないと思っていた。
自分は、あまりにも多くのいのちを奪ってきた。
自分は悪くないってみんな言うけれど、命惜しさに、人恋しさにあちこち移動して被害を撒き散らしていたのは確かだ。
死んでほしくない。けれどそばにいてほしい。寂しさのあまり、死ぬとわかっていて〝今回は大丈夫かもしれない〟と言い訳しながら人に近づいたのは、自分だ。
──だからなっちゃんは、長生きするつもりなんて最初からなかった。
ただ死ぬ前に、少しだけ。ほんの少しだけ。
人と、触れ合いたかった。
「あぁ、そぉいえば、せめぐくんに、おれいいってないや」
「──じゃあ、いまいおっか。せめぐくん、いるんでしょう?」
【……】
神社鬩。
なっちゃんをさいはて荘に導いた、張本人。
なっちゃんが自ら〝普通の生活がしたい〟とメールで依頼したものの──会うのは初めてであった。なっちゃんはぼんやりとした目で鬩を見つめる。
なっちゃんが依頼した当時は十歳前後だったそうだが、今、目の前にいる鬩はすっかり青年だ。しかも美人さんである。かっこいいなぁ、と思いつつなっちゃんはゆるやかに手を振った。
「はじめましてぇ、せめぐくん。あのときは、あたしをたすけてくれて、ありがとぉ」
【……】
鬩は、かつてのなっちゃんを思い返す。
〝世界のバグ〟たる彼女にはさしもの鬩も近づくことができず、関わらないようにしながら立ち回っていた。ゆえになっちゃん同様、顔を見るのは今日が初めてである。
鬩は、思う。
彼女が全てを狂わせるバグである以上、最悪の場合は自分が殺さなければならないと当時、覚悟していた。
彼女には何の罪もない。ただ生まれてきただけだ。
癌細胞を殺すのとはわけが違う。彼女には自我があり、人生があり、生きる権利がある。
鬩はずっと、迷っていた。
彼女を生かすか、殺すか。
情を捨て、彼女を殺す方が世界のためではないか。彼女がこの先、何らかの不整合を起こして世界を滅ばさないとも限らない。今のうちに除去すべきではないのか。
迷いに迷い、答えの出ぬまま迷い続けた十数年であった。さいはて荘ならば彼女も普通に過ごせるとはいえ、完全に安全とは言えない。だから、ずっと迷っていた。迷ってばかりだった。
けれど──と、鬩は目を伏せる。
【これを】
「んぅ、なぁにぃ?」
鬩が手渡そうと差し出した封筒を、けれどなっちゃんは腕を伸ばすことができず、代わりに大家さんが受け取る。
「これは……なっちゃんの、しゅっせいとどけ?」
「あたしの、出生届? しょるいとか、ぜんぶ、まっしょう、したんじゃなかったけぇ……」
【……それだけは、残していた。貴方が確かに生まれ、そして生きた証だ】
世界にとって害悪にしかならないとしても。
世界にとって負担にしかならないとしても。
──生まれた以上は、生き抜く権利がある。生き切り、そして死に切る権利がある。
それが、〝生物〟だ。
その結果淘汰されるかどうかは、神のみぞ知るところ。彼女の場合、彼女を守り生かし切ろうとするものたちがいただけのこと。
彼女を生かした結果世界が滅んでいたとしても、彼女は何も悪くない。弱きが滅ぶべくして滅んだだけ。対処しきれなかった世界が淘汰されただけのこと。
鬩が彼女を殺さずさいはて荘に預けたことについて、最終的には結果オーライだったとはいえ──正しいか間違っているかで語るならば、正しくもなく、間違ってもいない。
鬩はただ、選んだだけ。
他の生物たちがそうするように、選んだだけ。
──それだけのこと。
【じゃあな。もしも貴方が言ったように生まれ変わるのだとしたら、今度産まれる僕の娘と歳が同じだ。──その時はよろしくな、〝なっちゃん〟】
「──うふふぅ、きあいいれて、てんせいしなくっちゃぁ。ありがとねぇ、せめぐくん」
なっちゃんの囁くような声に鬩は微笑み、ふっと溶け込むようにそこから消えた。
「あ〜ん、もういっちゃった、ぁ。くーる、なこだねぇ」
「──ふふっ、そうね」
「あー、あたし、ほんと、しあわせだぁ」
自分の出生について呪ったことは千じゃあ到底足りない。万でも億でも、足りないくらい呪った。
けれど今は、自分のこの体質のおかげで〝さいはて荘〟に来れたとほんの少しだけ、感謝してやらなくもない心地になっている。
──なっちゃんはふわふわと、焦点の定まらぬ瞳で大家さんを見上げた。
「ねぇ、ひとつ、ずぅっと、いいたいこと、あったんだぁ」
「なあに?」
「……──〝おかあさん〟」
ありがとう。
あたしの手を取ってくれてありごとう。
あたしの対極にいてくれてありがとう。
あたしに幸せを沢山くれてありがとう。
ありがとう。
──もはや声にできぬ、吐息だけのささやかな言葉を最後に、最期に。
ばちりとなっちゃんの体が弾けて──修正された。
バグが、修正された。
「…………」
手元に残ったのは、なっちゃんの出生届だけ。
大家さんは空を見上げて、ただ想う。
隣に魔女が座る。涙でぐしゃぐしゃの顔で。
もう片方の隣に、元軍人が座る。手のひらからは血が流れていた。
どこかで、お蝶が蹲る。元国王がドーナツを揚げる。爺が酒を呑む。元巫女が一礼する。元王子が花束を買う。暴君が大きく手を振る。社長が嘆息しながら社長室を後にする。
◆◇◆
さいはて荘の隣に併設されたアトリエ。
そこで魔女は、ひたすら筆を走らせる。
あの時は描けなかった、最後のひとり。
彼女は確かにここにいた。
◆◇◆
「おめでとう! 世界滅亡の危機退治完了だ! バグは修正され、世界平和になりました! ハッピーエンドだ!」
誰かが、嘯く。
「何ひどいこと言ってるんだ、って? 何言ってるんだ? お前らだっていつもゴキブリ殺してるだろ?」
誰かが、嗤う。
──誰かにとっての害悪は、誰かにとっての宝物。
【バグが修正された日】完