【なっちゃんと呼ばれた日】
「さいはて荘」×「憑訳者は耳が聞こえない」
なっちゃんがさいはて荘に来るに至るお話です。
【貴方が那由多の奇跡か】
ある日のさいはて荘。
元軍人と大家さんしか住んでいなかったそこに社長が住まうようになって七ヶ月ほどが過ぎた、ある日。
三人でともに渡米し、大家さんが手術を受けてから四ヶ月ほどが過ぎた、ある日。
さいはて荘の裏庭に、ひとりの少年が現れた。
血濡れたような紅い虹彩を持つ、十歳くらいの少年だ。
「誰だ、貴様」
社長が唸る。
しかし少年は動じない。
【僕は神社鬩。憑訳者をやっている】
縁側で並び、大家さんの淹れた煎茶と社長の手土産である団子に舌鼓を打ち、穏やかな午後を過ごしていた三人は──突然現れた宙に浮く少年と、唐突に視界外に現れた文字にそれぞれ、反応を露わにしていた。
社長は警戒心剥き出しに、飢えた獣のように少年を睨み。
元軍人は厳かで油断ならない、いつでも殺せる構えで大家さんを背後に庇い。
大家さんは、静かな微笑みを浮かべて少年を見つめていた。
「……憑訳者」
【貴方ならば聞いたことはあるだろう、神宮寺蓮】
「……くだらんカルト界隈に興味はない。が……これは」
【実際、霊能力者は大半がインチキだしな。それはどうでもいい──桜田つゆり、僕は貴方に話があって来た】
少年は──鬩は、大家さんを血濡れた虹彩でまっすぐ見据える。大家さんもまたそれに応えて、微笑みながらまっすぐ見据え──叱った。
「とつぜんひとのおうちにはいりこんで、めうえのひとにそんなたいどをとっちゃ、だめ」
「えっ」【あっ、えっ】
「おはなしをしたくてきたのなら、なおのことよ。せめぐくん、そんなふうにぴりぴりしてたら、しゃちょうさんだってけいかいするわ」
ね、と優しく微笑みかける大家さんに鬩はぐ、と言葉に詰まり──はい、と頷いて頭を下げた。
【……すまない。切羽詰まっていて、焦りすぎた】
「ううん、だいじょうぶ。どうかしたの?」
「大家さん──」
「だいじょうぶ。しゃちょうさんももとぐんじんさんも、そんなにこわいかおしないで」
「チッ」「……わかった」
思いっきり舌打ちして顔を歪める社長に大家さんは苦笑して、鬩に改めて向き直って話を促した。
【……ここに受け入れてほしい人がいる】
「さいはてそうに?」
【ああ。〝死〟に最も近い場所であり、なおかつ那由多の奇跡がいるここに】
「……待て。死に最も近い場所?」
【自覚はあるだろう?】
「……」
「その、なゆたのきせきってなあに?」
【……ある人に教えてもらった。貴方は、この世界で唯一……バグと関わることができる奇跡だと】
バグ? と、怪訝な顔をする社長に鬩は頷き、ここに受け入れて欲しいのは〝世界のバグ〟だと囁いた。
【僕が可能な限り調べた、〝彼女〟の遍歴だ】
そう言われて鬩から渡された書類の束に社長は胡乱な顔つきを崩さないままに目を通す。
通して、表情が歪むのにそう時間はかからなかった。
「……なんだ、コレは」
【〝彼女〟の遍歴だ】
「そうじゃない──なんだ、これは。一体何なんだ、こいつは」
鬩に手渡された紙の束。
そこには、ひとりの人間が辿ってきた経歴がまとめられていた。
最初に、両親が死んだ。不慮の事故で、第一子を産んだ直後に。
次に、親族が死んだ。遺された赤子を引き取った直後に。
孤児となった赤子を預けられた乳児保育施設は赤子ただひとりを遺して全員一酸化炭素中毒により死んだ。
赤子をその保育施設に預けた市役所職員も死んだ。
次に預けられた養護施設も凄惨な殺人事件が起きて閉鎖になった。その次の養護施設も。その次も。
かいづか養護園はガス爆発で滅んだ。その時、四歳になったばかりだった。
船岡ひまわり園は食中毒で滅んだ。遺原役場は列車の脱線事故に巻き込まれて滅んだ。
入学した小学校ではクラスメイトが次々と事故死して学校閉鎖になった。転校手続きを行った役場でも爆発事故が起きた。
養護施設職員に寺院に連れて行かれるも、職員ごと寺院が火災に巻き込まれて滅んだ。
少女の周囲で起きる異変に怯えて少女の引き取りを拒否した養護職員は全員死んだ。引き取った養護職員も全員死んだ。少女の本名を取り扱う書類を目にした職員も死んだ。
川のそばでは大洪水が起きた。山の中では森林火災が起きた。海沿いの街では大震災が起きた。街中では同時多発ガス漏れによる大量中毒死が発生した。
── 〝彼女〟は何もしていないのに。
「……本当のことなのか?」
【ああ。〝彼女〟に関われば、全てが狂う】
彼女に関われば死ぬ。
それどころか、世界が滅ぶ。
バグ。
世界の、バグ。
【だが神宮寺蓮、〝彼女〟について調べるのはやめておけ。ここに住まう貴方でも、〝彼女〟の本名を知れば死ぬ】
「……」
【僕もここまで調べるのに苦労した。〝彼女〟に関わらず、本名を見ず、痕跡だけを追って調べた】
鬩はそう言って細く息を吐き出し、脂汗の浮いた額を拭った。
それを見て、社長は気付く。
鬩は──怯えていた。心の底から、本心で、全身で──怯えていた。
けれど、矜持は崩さない。
【…………〝彼女〟は、この世界にあってはならない存在だ】
鬩は血濡れた虹彩を細めて、音なき言葉を紡ぐ。
【〝彼女〟は死ぬべきだ】
たかだか十歳前後の少年が紡ぐには重すぎる言葉に、社長は口を閉ざす。元軍人と大家さんも、言葉を口にしない。
子どもの戯言と切り捨てるのは容易い。だがそうするには──鬩という少年は、異質すぎた。
「……死ぬべき存在を俺様たちが受け入れろと」
【断ってくれてもいい。受け入れて欲しくはあるが、選択権はそちらにある】
「受け入れなければどうする」
【〝彼女〟を殺す】
その言葉に迷いはなかった。
鬩は本気で、その〝死ぬべき存在〟を殺すつもりでいた。
「その覚悟があって何故俺様たちを頼る」
【誰にだって生きる権利はあるからだ】
たとえ世界にとって害悪にしかならないバグだったとしても。
この世界に生まれ落ちた以上は、生きる権利がある。
──そう言って鬩は、血濡れた虹彩を細める。
【〝彼女〟がこの世界でうまくやっていくのは不可能だ。その遍歴を見てもわかる通り、〝彼女〟と関わったものは死ぬ。滅ぶ。バグる】
〝彼女〟はただ生まれてきただけ。
それだけで両親は死んだ。親戚も死んだ。行く先往く先滅んだ。
〝彼女〟は何もしていない。
ただ、その存在がバグっていただけ。
──だから〝彼女〟は死ぬべきなのだ。
癌細胞を殺さなければならないのと同じように。
【だから僕は殺す。憑訳者の名に於いて、〝彼女〟を殺す】
それが世界のためだから。
【だが、僕は〝彼女〟の依頼を享けてしまったのでな】
そう綴って鬩が見せてきたのは、携帯だった。
その画面には──文字化けを起こしているメール。
ぐ、と文字化けを起こしているメールを視界に入れた社長と元軍人がこめかみを抑えて呻く。
大家さんは、やはり穏やかな笑顔を浮かべている。
「そのめーるが、かのじょからのいらいなのね? なんてかいてあるの?」
【〝普通の生活がしたい〟】
──そのひとことで、十分だった。
大家さんはやはり微笑んだまま目をそっと伏せて、わかったと頷く。
「そのひとはいま、どこにいるの?」
【北海道】
◆◇◆
北海道、知床半島。
冬は閉鎖される知床峠への入り口があるウトロという町。
その町外れにある民宿に、〝彼女〟はいた。
「……」「……」「……」
三人に言葉はない。
ざり、ざり、ざりざりと不協和音が迸っている空の下、がり、がり、がりがりと混信で原型を留めていない民宿に三人は、言葉を失っていた。
いや──大家さんだけは、変わらず微笑みを口元に携えている。
【ぐっ……僕、はここまで、しか近づけ、ない。これ以上、は、僕も、死ぬ】
「あのなかに、いるのね?」
【ああ……だが、中に、入れる、のは貴方、だけだ。他の二人、は玄関まで、が、限界、だろう】
ばり、ばり、ばりばりと違和感がもたらしてくる苦痛に顔を歪めた鬩は、とうとう地面に足を下ろしてぐったりと蹲ってしまう。
大家さんは前を向いて、まっすぐ異常だらけの民宿を見据える。
ブロックノイズや砂嵐どころではない。そこに民宿があるのかどうかさえ覚束ないほどに原型を留めず歪み続けているそれを、まっすぐ見据える。
「──いきましょう」
蹲った鬩を置いて、三人は一歩を踏み出す。ざり、と不協和音。けれど足は止めない。
一歩、また一歩。混信。
ずきりずきりと痛む体。違和感。
潰れそうになる意識。異常。
もはや民宿だけでなく、景色も原型を留めていない。風景が溶けて捻れて、バラけて混ざって、また戻って弾けて濁って。
社長の足が止まる。
けれど、大家さんは止まらない。
元軍人も止まる。
けれど、やはり大家さんは止まらない。
ざりざりと世界が不協和音に、混信に、違和感に、異常にひずんでいる中──大家さんの姿だけは、歪まない。少しも滲まない。濁らない。
社長と元軍人でさえ、かすかに姿かたちを歪ませているというのに。
それを遠目に眺めて、鬩は確信する。
〝那由多の奇跡〟──そう形容したある存在の正しさを。
「……」
民宿の中に入った大家さんがまずまみえたのは、死体の海だった。
不協和音を迸らせながら地面に連なっている死体。おそらくは、この民宿の宿泊客や従業員たちだろう。
大家さんはそれに構わず、白杖をついて視線を巡らせる。目が悪く、体もあまり自由ではない大家さんの歩は遅い。しかし大家さんは確実に、混信の強い場所に向けて歩を進めていた。
「──だれかいる?」
声を上げる。答えはない。
違和感でもはや、道は見えない。けれど大家さんは歩を止めない。
大家さんの体にも、何ら異常はない。世界は歪んでいるというのに、大家さんはまるで切り取られた絵のように美しい。
「──みつけた」
異常。
真っ黒の、どろどろに濁り切っている歪みの──バグの中枢。
「……だ■?」
掠れた声だった。不協和音混じりではあるものの、枯れた声であるのは聞き取れた。
「はじめまして。わたしはさくらだつゆり。あなたは?」
「……だめ、■ないで。来■■。死ん■ゃう」
ぼたり、ぼたりとそれ── 〝彼女〟は涙を流していた。顔は混信で歪み切っているし、涙も違和感で掻き消されてしまっているけれど、確かに〝彼女〟は涙を流していた。
異常に、涙を流していた。
「い■だ。もう■■だ。もう、死な■たく■いよ」
「だいじょうぶ。ねぇ、おなまえは?」
「いや■。もうい■■。な■■あた■がいる■けで、み■■死ぬ■?」
「だいじょうぶ。わたしはしなないよ」
大家さんは優しい、慈愛に満ちた笑顔で〝彼女〟に近づく。
〝彼女〟が悲鳴をあげて、来ないでと不協和音混じりに叫ぶ。
ざり、ざり、ざりざりと周囲の混信が強くなる。
大家さんの足は、やはり止まらない。
「い■■、死なな■で。■やだ。来ない■。あ■し、も■殺した■ない」
「だいじょうぶ」
大家さんの手が、違和感に触れる。
ばぢりと異常が弾けたのも束の間、大家さんの手が〝彼女〟の腕を掴んだ。
「だいじょうぶ」
大家さんの柔らかな体が、〝彼女〟の体を包み込む。
がりがりと不協和音で、混信で、違和感で、異常で暴れ狂う〝彼女〟の体を、こともなげに大家さんは抱き締める。
大家さんの体は、少しも歪まない。
「ほらね、だいじょうぶ」
人生で初めて感じる優しく、あたたかなぬくもりと柔らかで、安心できる声に〝彼女〟の不協和音が、ほんの少しだけ収まる。
収まって、それまでは歪みで窺えなかった〝彼女〟の顔が見えるようになる。
まだ十五か六くらいの、怯えた眼差しと赤く腫れた目が痛々しいものの──とてもかわいらしい少女だった。
「ほん……とうに?」
「ええ。だいじょうぶ。あなたのおなまえは?」
「……だめ、きいたら、死んじゃう」
少女の涙で濡れた、枯れた声が怯えに震える。けれど大家さんはまただいじょうぶ、と声をかけた。
「わたしだけはだいじょうぶだから」
「……」
「わたしだけにおしえて?」
「……」
── 譛ス豁サ縺サ繧阪?、と少女の口が小さく動く。それを聞いて、大家さんはまた微笑む。
「すてきななまえ。それは、わたしのなかだけにしまっておくね。わたしと──〝なっちゃん〟だけのひみつ」
「……なっちゃん?」
「うん。なっちゃん。きょうからの、あなたのおなまえ。どう? ほかのがいい?」
「……なっちゃん」
少女から、震えは消えていた。
同時に──あれだけ迸っていた不協和音も、収まっていた。決して消えはしない。世界のバグである以上、少女から混信は消えない。けれど今は、少女の周りをほんの少し違和感がよぎっている程度だ。
もう、〝彼女〟が異常に狂うことはない。
「……なっちゃん、素敵な名前」
「ふふふ。でしょう? われながらいいなづけ!」
「……つゆりさん、だったけ? なんで、ここに……」
「あるこにね、おねがいされたの。〝ふつうのせいかつがしたい〟とのぞんでいるこがいるって」
大家さんは笑いながら少女を立たせて、汚れてしまった白いスカートをぱんぱんと払ってやる。
「わたしね、いまさいはてそうってところにすんでいるの。そこでおおやをやってて、そこならなっちゃんすんでもだいじょうぶらしいから」
「……大丈夫?」
「うん」
「あたし……いて、も……いいの?」
──この世界に。
大家さんは、笑う。
収まったからか、中に入ってきた社長と元軍人を背後に携えて、大家さんは満面の笑顔で言い切った。
「せかいがだめといっても、さいはてそうはいいっていうからだいじょうぶ」
──それが、皮切りとなった。
ぼろぼろと、今度は安堵からの涙を零して少女は──なっちゃんは、大家さんに抱きついた。
◆◇◆
「はあ……」
「──お疲れさん。どうにか収まったようだな。おめでとう、世界滅亡の危機回避だ」
とある神社。
後始末を終えて帰ってきた鬩に、ソレが愉悦に満ちた声を投げかける。
鬩は、血濡れた目をそちらに向けて剣呑な目つきになった。
【……望み通りになったか】
「ああ。おかげさまでな。くっくっくっ……なるほどなぁ、この分岐点はこうするのが正解、か。くっくっくっ……まさかこのワタシの干渉が必要とはなぁ」
ソレは嗤う。愉しげに、それは愉しげに。
「くっくっくっ、つくづくこの世界は面白いな。人外揃いなのは勿論、世界のシステム自体も特殊ときた。ああ、退屈しないなぁ」
【……僕からすれば、貴様の存在の方が異端だがな】
鬩は血濡れた虹彩を細めて、額に冷や汗をひと滴垂らしてソレを見据えて、言い放つ。
【まさか、貴様みたいなバケモノがいるとは思ってもいなかった】
その言葉に、ソレはやはり、嗤うだけだった。
【なっちゃんと呼ばれた日】完




