第一章6 『緋閃のルーフス』
エストの主城、オリエンテ城の裏手にある練兵場。仕事のない衛兵や騎士たちが、日中はここで訓練に励んでいる。
剣を交えることが決まった後、彼らはすぐに練兵場へと向かった。「戦士たる者、いつの時も戦いに備えるべし」とは言うものの、ここまで性急に事を進めようとするのは、大陸を見渡してもこの二人くらいだろう。
おかげで、この私闘が王都にいる住民や兵士たちの耳に届く前に、二人は練兵場にやってくることができたのだ。しかし当然、城内や練兵場にいる兵士には見つかっているので、結局は少なくない見物客が集まった。
練兵場の中央にある闘技施設、コロシアムのような造りのこの建物で、ニアージュとルーフスは相対する。二人を囲む壁の上には物見席があり、そこに見物客の兵士たちが集まっていた。
「騒がしくてすまない」
ルーフスは申し訳なさそうに低頭する。
「いいさ、見られてる方がやる気も出る」
そう言うと、ニアージュは不敵な笑みを浮かべた。
エストの国民でおそらく、ルーフスのことを知らない者はいないだろうが、ニアージュについては知らない者も多い。仮に知っていたとしても噂に聞いたことがある程度で、その強さに対しても大多数の者たちは懐疑的であった。そもそも所詮は傭兵に過ぎないし、将軍のように輝かしい経歴を持っているわけでもない。
ここにいる見物客も、「十武神の将軍が、生意気な傭兵をぶちのめす」ことを期待して見に来たものがほとんどである。そもそも、不敗神話を持つルーフスに勝てる人間など、いるはずがないと考えるのが当然なのだ。
もしこの中で唯一、ルーフスが負けるかも……と考える人物がいるとすれば、それは他ならぬルーフス自身だろう。もちろん、ニアージュを除いてーーだが。そんなルーフスも、可能性があるとは思うだけであって、実際に負ける気は一切ないのだ。
「武器は、お互いに木刀でいいかな?」
そう尋ねたルーフスに対し、ニアージュは小さく首を振る。
「いや、お互い真剣でいこう」
この提案には、周囲から驚嘆と歓声が上がった。ニアージュを心配するような声もあったが……。
ルーフスは初め、その提案には難色を示した。もちろん負ける気はないが、相手に怪我をさせる可能性を考慮したからだ。しかし、よくよく考えてみれば、相手はニアージュである。彼の強さを考えれば、そんな心配はおそらく杞憂だろう。それにルーフス自身、仮に怪我をさせそうになっても、直前で剣先を止められる自信があった。なので、最終的にはその提案に同意する。
「いいだろう、魔唱の使用は?」
「あぁ、もちろん有りだ」
その答えに口元が自然と綻びた。既に彼のことを高く評価していたつもりだったのだが、今ですらまだ過小評価なのかもしれないと思い直す。つまりニアージュは十武神を前にして「本気でかかってこい」と言っているのだ。まさか生涯を通して、これほど豪気な者に巡り会えるとは思ってもいなかった。
「では、そうさせてもらおう」
ニアージュの瞳を見る。太々しい笑みを浮かべてはいるが、その瞳の奥には一瞬の隙もない闘志が見て取れる。ルーフスは微笑した。その深淵の底を見据えるかのような鋭い眼光に、一瞬だけ身が震えたからだ。ーーもしかしたら、これが恐怖なのかもしれない。遠い昔に忘れたはずの感覚だった。
ルーフスが鞘からレイピアを抜く。ロートシュベルト家に伝わる宝剣、竜の爪から作られたと言われる、その美しい真紅の刃には見物客たちから感嘆の声が漏れる。
「このレイピアの銘は、テンツェリン」
ニアージュも同じく、鞘からロングソードを抜き放つ。こちらは城下町の市場で500オアルで購入した逸品だ。値段の割に質は悪くない……とニアージュは思っている。
「ふっ、ただのロングソードだ」
……やけに自信満々に笑みをこぼした。大陸一の傭兵の剣ーーというには庶民的過ぎる作りの得物に、観客たちからは若干の野次や嘲笑が飛ぶ。ニアージュに淡い期待を寄せ、応援していた数少ない兵士たちも、それを見ると肩を落とし落胆していた。
相手の得物が何であれ、ルーフスは元より手を抜くつもりはない。まるで自身を鼓舞するように、一気に全身に闘気を漲らせた。すると、それに応えるかのように、ニアージュの周りを黒い雷のような太氣が流れる。
「では、始めよう」
そう告げ、テンツェリンを構えた。刹那、黒い閃光が闘技施設を一直線に駆け抜ける。
「ッ!」
その出来事のあまりの速さに、会場にいたはずの兵士たちは一斉に黙り込み、ただ息を呑んだ。気がつけばルーフスとニアージュが五合、十合と、目にも止まらぬ速さでお互いの剣を打ち合っている。
端から見れば、いくつもの黒い雷が半円の軌跡を描きながら暴風のように駆け巡り、その中から疾風のように鋭く赤い残像が時折突き出ているようにしか見えない。事情を知らない者がこれを見て、まさか二人の戦士が剣を合わせている様子とは夢にも思わないだろう。
「くっ……」
先に音を上げたのはルーフスだった。黒い暴風のような剣撃の中から、勢いよく後方へと飛び出す。その体には傷一つ付いていないものの、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
そして黒い暴風が舞った中心では、ニアージュがロングソードを肩に担ぐようにして立っており、顔には不敵な笑みを浮かべていた。しかし、黒い奇妙な服は所々が破けており、頬には一筋の血が流れている。
「おっ……おぉおおーーー!」
見物客はその二人の姿を目にすると、次は一斉に歓声と拍手を送った。ここにいた誰もが「普通に、ニアージュが瞬殺されるでしょ」と考えていたのだ。手傷を負わされたとはいえ、まさかルーフスと互角に張り合うとは、思っていなかったに違いない。
しかし、ルーフスだけが人知れず歯ぎしりをする。実際に剣を打ち合わせた彼だけが、この場で唯一そのことに気付いたであろう。まだ数十合剣を合わせただけだが、ニアージュはおそらく既にテンツェリンの剣筋を見切り始めているーー。
認めざるを得ない、油断していたのは自分だった。ルーフスは深く息を吐き、呼吸を整える。テンツェリンを握る手に力を込めると、刀身を風のような太氣が覆い始め、それは全身を包むように広がり、やがて闘技施設内には風切り音が響き渡り始めた。
見物している兵士たちは再び息を呑む。
「ほう……」
ニアージュが感心するように顎を撫でた。瞬間、既に間合いを詰めたテンツェリンの刃先は、喉元まで迫って来ている。ルーフスの動きが加速したのだ。
まるで水飛沫のように、剣先は次から次に急所へと迫ってくる。鋭い突きをかわしたと思えば、次の瞬間には別の突きが目前へと迫っているのである。
いくら熟練したレイピアの使い手であっても、剣先の揺れには必ず規則性が生まれるはずなのだが、テンツェリンの剣先は常に不規則な曲線を描くように動いており、もはやどこから突きが飛んでくるのかは予測がつかない。
「さぁ、防いでみよ!」
ルーフスは突きを繰り出しながら叫ぶ。
緋閃のルーフスーー横から見れば、まるで線香花火のように緋色の剣筋が残像を描く様から、彼につけられた二つ名だった。
「攻撃こそ最大の防御なり」それこそがレイピアの戦い方。ルーフスの放つ突きは、相手の退路を一つずつ着実に潰し、重心を何度も揺さぶっては行動を制限していくーーすべては最後の王手に向けた布石なのだ。
「どうした? 返す余裕はないか?」
淡々とニアージュを壁際へと追い込んでいく。
風の魔唱により、疾風の如く繰り出される剣撃。不規則に揺れ動く剣先に、正確無比な剣筋。どこに突きを繰り出せば、剣撃の間合いに止めておけるか……それを瞬時に割り出す頭脳。これこそが、ルーフスの不敗神話を築き上げた刺突剣術の真髄である。
ルーフスの剣撃に捕まった時点で、勝敗は決していたのだ。剣筋は読み切ったかもしれないが、それがどうしたことか。既に退路は絶たれ、重心の振れからか動きも徐々に遅れを取り始めた。その証拠に突きを繰り出すたびに血飛沫が飛ぶ。
「ッ!」
声にならない呻き声が漏れた。
怒涛の連撃をギリギリでかわしながら、ニアージュは後退していく。もはやロングソードの振りで付け入る隙はなく、彼が防戦一方な状況にしか見えないであろう。いや、事実そうであるのだ。本来大きく飛んで間合いを空けるべきなのだが、テンツェリンの切っ先は、常に重心の動きを先回りしながら狙ってくるので、離れることができない。それどころか、ニアージュの体勢は徐々に崩れていく。離れられないならばーー。
もう少しでニアージュを壁際まで追い詰めるーーその時だった。
視界の中でニアージュの体が急激に巨大化する、一気に距離を詰めてきたのだとルーフスが気付く頃には、目下からは既に黒い足先が迫っていた。
「なにッ?!」
間一髪で蹴りをかわした後、思わず後方に飛んで距離を取る。つい半秒前までルーフスが立っていた場所を、黒い雷が弧を描くように薙いだ。
「へぇー、まさかかわすとはな……」
ーー離れられないならば、相手を離せばいい……単純な話だった。ニアージュはとっくにテンツェリンの間合いを見切っていたのだ。突きの後に戻した刀身より、更に懐へと潜り込めば咄嗟には反応できない。
「十武神って称号も、伊達じゃねーな」
そう感心した声で剣をくるっと回転させ、構え直すニアージュに、ルーフスは思わず顔をしかめてしまった。たしかにこの刺突剣術から逃れる術があるとすれば、それは自ら間合いを詰めることであった。それが分かったとしても、あの剣撃の中をくぐって間合いを詰めようなど普通は考えない……ましてや初めてルーフスと戦った身で。
「ありえない……」
誰にも聞こえない程小さな声であったが、ルーフスはつい口に出してしまった。しかもニアージュはまったく力の底を見せていない。なぜなら、彼はまだ原罪すら使っていないのだ。せめて、その能力だけでも目にしなくては。
ルーフスが改めてテンツェリンを構え直すと、ニアージュは不敵な笑みと共に直進する。地を這うようにして迫ってきた斬撃は受け流したが、既に視界からニアージュは消えていた。
「ッ!」
今度はニアージュが攻勢をかける。ルーフスの周りを円を描くように走り、四方から斬撃を飛ばす。こと直線的な打ち合いなら圧倒的に有利な刺突剣も、広範囲に及ぶ打ち合いでは長剣に遠く及ばない。必然的に、ルーフスは防戦のみを強いられた。
しかもニアージュの体が、まるで分身したかのように斬撃は増えていくーーいや、実際に分身しているのだ。よく目を凝らすと、二人のニアージュが目も回るような速さで、ルーフスの周りを走りながら剣撃を打つ。しかし分身の方からの攻撃に、物理的な干渉はない。
「雷影か」
ルーフスが剣を握っていない方の腕を地に立てると、そこを中心に豪風が渦巻きニアージュは弾き飛ばされた。空中で一回転し綺麗に着地する。
「そんなのも使えるのか」
「次で終わりだ」
周囲の歓声は、既に二人の耳には入っていなかった。ただ目の前の敵へと、全神経を集中させる。
突如、風切り音と共にルーフスが目前に迫る。先程より更に動きが加速している。ニアージュは再び剣撃に捕まってしまい、斬撃を返すことすらできずに徐々に壁際へと追い詰められる。しかもテンツェリンの剣先は体の中心を常に捉えており、間合いを詰めることもできない。
「終わりだッ!」
ルーフスがついに壁際へと押し込み、半ば勝利を確信した瞬間だった。しかし、ニアージュが不敵な笑みを浮かべた。ーーしまった、と思った。心臓へと伸びてしまったテンツェリンは勢いが止まらず、そのまま貫いてしまう……はずだったのだが、ニアージュはそこに剣先が来ることが予め分かっていたかのように、ロングソードの腹で突きを弾いた。その一瞬、安堵と驚愕の入り混じった感情が生まれ、思いがけずルーフスは瞬きしてしまう。
目を開いた時、ニアージュの姿はもうなかった。
ーー上だ。ニアージュですら驚いたであろう、それは直感でしかありえない速度だった。今まで合理的な攻めを貫いてきたこの男が、まさか最後の最後で勘に頼るとは微塵も思っていなかったーーそれが、唯一の誤算だったかもしれない。ニアージュの表情は、今日初めての驚愕を示す。
空中でロングソードを構えていたニアージュに、テンツェリンの刃先が向かっていく。空中ならすぐに身動きは取れない……しかしーー。
それはまさしく、超常的な速度であった。瞬時にロングソードの腹でテンツェリンの突きを防ぎながら、ニアージュは剣を振り下ろした。
ーー沈黙。
静まり返る闘技施設の中、宙を舞った刃が地面へと突き刺さる。
しばらくの後、観客の間からは大きな歓声が上がった。そのすべてが二人の戦いぶりを讃えるものである。
「……あんたの勝ちだ」
驚いたように目を見開き、剣先の折れたロングソードを見つめながらニアージュが呟いた。その驚きは自身の敗北に対してか、あるいはーー。
ルーフスは何も答えず、ただその頬には冷や汗が伝っている。ニアージュがあの瞬間に勝利を確信したように、ルーフスも勝機があるとすればあそこでしかなかった。
ーーもしも、ロングソードの刀身が折れていなかったとしたら……?
ルーフスはゆっくりと振り返り、もう一度ニアージュを見据える。まるでその瞳の奥にある、真意を見定めようとするかのように……。
「君が最初から本気なら、私に勝ち目はなかったよ」
心の底にある本音を漏らすと、ニアージュはただ優しい笑みを浮かべるだけだった。
ーー最後の咄嗟の動き、あれこそが彼の原罪。もしこの予想が正しいのであれば、おそらく私は彼には勝てない……。その事実を確認するために、もしかしたら大きな犠牲を払ったのではないか?
二人がお互いに低頭すると、物見席からは更に大きな歓声が上がる。端から見れば、結果はルーフスの勝利であろう。だがこの日、くだらない目先の勝利のために、ルーフスは最大の敗北を喫してしまったのかもしれない。