第一章2 『黒い雷を纏う者』
その青年の名はニアージュと言う。歳は20を過ぎたばかりだが、その生き生きとした表情は10代の少年たちよりも太々しい。男にしては妙に艶のある黒い髪、考えが読み取り辛そうな漆黒の瞳……背丈は高い方だが傭兵という割に身体の線は細い。格好は上下とも黒色を基調とした奇妙な服を着ており、腰にはさきほど城下町の市場で買ったロングソードをぶら下げていた。
ニアージュのことを世界一の傭兵と呼ぶ者もいる。剣の腕はもちろん戦事にも長けており、過去には10代の若さにしてミリューという国で軍の一師団を率いたこともあった。それに金さえ払えばどんな汚い仕事でも引き受けるともっぱらの噂である。
ーー花売りの少女か。
少女がスラム街で花売りをしていると聞けば、身寄りがなく生活に困っていることは容易に想像できた。嫌な依頼を受けたもんだ……多少の後悔がないと言えば嘘になるが、俺が断ったところで結局は誰かがこの仕事を引き受けただろう。
人気の少ない鬱屈とした一本道を歩いていると、向こう側から一人の子供が走ってくる。癖のある緋色の髪を後ろで一つに束ねた元気そうな少女だ、すれ違う瞬間に目が合った。
ドンッ、と少女にぶつかる。
「おっと、ごめんよ兄ちゃん!」
少女は片手をちょこんと挙げて会釈すると、そのまま走り去っていった。なるほど、随分と逞しく生きているもんだ……不思議と笑みがこぼれてくる。
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「ったく、しけてんなー」
建物の間にある暗い裏路地、緋色の髪をした少女が巾着袋の中を覗いている。中には銀貨と銅貨が数枚入っている程度だ。
「ま、今日の戦利品はもう一個あるかんな」
上着のポケットからさらに一つ、中身の詰まった巾着袋を取り出した。試しに上下に振ってみると、シャランシャランとやけに聴き心地の良い音がする。
「うんうん、これは中々期待できそうだぜ!」
さっそく中身を手の上に広げてみると、キラキラと金色に輝く貨幣が転がり出て来た。
「はぁー? もしかしてこれ、全部本物の金貨なのか?!」
少女は驚いた顔で、「ひぃ……ふぅ……みぃ……」と数え始める。
「おー、1万オアルはあるんじゃねーか?」
「マジかよ、当分は生活に困らねーぜ……って、えぇ?!」
ふいに声をかけられ、少女は背後へと大きく飛び退いた。
「げっ、さっきの兄ちゃん」
「よぉ」
髪色から服装まで黒ずくめの奇妙な青年は、屈託のない笑みを浮かべている。
「ま、待て……盗んだもんは返すよ」
「おぉー、随分と殊勝じゃねーか」
そいつは路地の出口を塞ぐように立っており、正面から逃げ出すことは難しそうだ。
「……あっ、そこに絶世の美女が!」
出口の向こうを指差すと、青年は「マジか?!」とあっさり振り返った。ふっ、馬鹿なやつめ。建物の壁を蹴りながら上へと登っていく。そして屋根の上に出た瞬間ーー、
「よぉ、また会ったな」
そいつは既に屋根の上で待ち構えていた。むかつくほど爽やかな笑みを浮かべながら……。
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スラム街近くの居住区、その片隅にひっそりと店を構える酒場「シャノワール」。緋色の髪をした少女の前には皿が既に何十枚と積み重ねられ、周りに座る他の客たちは驚いた表情でその食べっぷりを見物している。
「よく食うなー、お前」
半ば呆れながらそう告げると、少女はテーブルに置いてあった水差しの陶器を持ち上げ、中に入っていた水を一息に飲み干した。
「っぷはー! つか兄ちゃん、あんた何者だよ」
少女は手の甲で汚れた口周りを拭う。歳は12くらいだろうか、所々が傷んだ革の軽鎧を身に纏っている。
「俺は流れ者の傭兵さ」
「流れ者がフツーあんな大金持ち歩く?」
まるでシーヌの海のように深く鮮やかな碧眼から訝しげな眼差しが向けられた。話題を変えた方が良さそうだ。
「俺はニアージュ、傭兵だ。お前の名前は?」
そう尋ねると、少女は勢いよく立ち上がって胸を張る。
「あたしの名前はヒイロ、エストで一番の風使いだ!」
少女の周りをふわりと風が舞った。どうやら多少は魔唱の心得があるらしい。
魔唱とは、物理的な力とは別にこの世界に超常をもたらす特殊な力のことだ。火、水、土、風、雷の5種類の属性があり、さらに陰と陽の二種類の性質に分かれる。本来、魔唱を使えるようになるには然るべき場所で修行が必要なのだが、中には生まれつき自由自在に魔唱を扱う者もいる。この少女……ヒイロはおそらく後者だろう。
「へぇ、ただの子供じゃないのか」
「バカにすんな! エストで盗みに情報収集、探し物の依頼ならあたしにお任せあれよ!」
一般的に風の魔唱を扱う者は隠密行動に長けている。この少女の性格では、そういった仕事に向いているとはあまり思えないが……。
「大層なことを言う割に、金には困ってるんだな」
「あぁっ、言うな〜それを〜!」
ヒイロは目を丸くし、慌てた様子で手を振り回している。裏仕事に向いていないかもしれないが、親しみやすい性格ではありそうだ。
そんなやり取りをしていると、二人の座るテーブルを囲むように柄の悪そうな男たちが近づいてきた。10人はいるだろうか、中でも一際屈強な身体をした大男がテーブルに足をかける。
「席が足りないんならどいてやろうか?」
そう言うと、大男はニヤリと不気味な笑いをこぼした。
「おう、ついさっき俺の弟分がそこの赤毛のガキから金をすられたようでよ」
テーブルを囲うようにして立つ男たちは、大男の発言にニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべている。
「なんであたしだって分かったんだ……あいつはスラム街で酔い潰れて寝転がっていたはず……」
ヒイロはそこで慌てて口をふさいだ。時既に遅しってやつだ、懐から金貨を10枚ほど取り出す。
「はいはい、盗られたものは返すよ。それ持って失せな」
大男は「ふん」と金貨を一瞥し、テーブルを勢いよく蹴り飛ばした。何十枚と積み上げられていた皿が音を立てて割れ、床の上には金貨が散らばる。
「おいてめぇ、大怪我したくなかったら口の利き方には気をつけろ。用があるのはそこのガキだ」
そう言うと斧を顎先へと突き立てた。こちらを睨む大男の目は据わっている。
「ペ、ペライユの兄貴!そいつ、俺がさっき市場の近くでやられた男だ!」
ゆっくりと視線を動かすと、目の端には今朝方見かけた恰幅の良い男の姿が映った。
「あーん?お前が言ってたやつか、むかつく顔したひょろい野郎じゃねーか」
ヒイロは怯えた顔で立ちすくんでいる。大男が斧を握る手に力を込めると、刃先の周りをうっすらと赤い炎が纏った。
「なら話は別だ、俺の弟分を可愛がってくれたらしいなぁ?」
野蛮な見た目に反して、どうやら魔唱を扱うことができるらしい。
「口の利き方っつー礼儀を教えたんだよ、お前もどうだ?」
「てめぇっ……!」
大男のこめかみに険しい青筋が浮かんだかと思うと、握られていた斧が勢いよく振り下ろされる。しかしその刃先は宙を裂き、青年が座っていたはずの木椅子を粉砕しただけだった。
「……ッ!! どこ行った?!」
刹那、酒場の中をジリリという鋭い音と共に黒い閃光が縦横無尽に駆け巡ったかと思うと、テーブルの周りを取り囲んでいた柄の悪い男たちは次々と倒れていく。
まさに一瞬の出来事であった。大男がその黒い閃光の正体を視界に捉えた時には、既に手下は全員気を失って倒れこんでいる。
「おい、デカブツ」
先ほどまで椅子の上にゆったりと腰掛けていたはずの青年は、剣すら抜かずに目の前で不敵な笑みを浮かべていた。
「くっ、くそ……!」
構えていたはずの斧は宙を舞っており、それは青年が蹴りとばしたからだと気付いた時には大男は尻餅をついていた。
「し……知ってるぞお前のこと……なんでこんな辺境の国に!こ、黒雷のニアージュ……! 原罪を持つ咎人ッ!!」
怯えた顔で後ずさる大男に、その青年は恐ろしいほどに爽やかな笑みを向ける。
「口の利き方には気をつけろよ」
次の瞬間、大男が吹き飛んで壁にめり込んだかと思うと、口からは泡を吹いて気絶していた。
「わりぃな、おっちゃん。これで許してくれ」
店内が騒然とする中、青年はカウンターにいた店主にずっしりと重そうな巾着袋を投げ渡す。そのまま呆然としている赤毛の少女を連れ、店からそそくさと去って行った。