プロローグ 『追憶の彼方』
ーー終わり。
脳裏に浮かんだのはたったそれだけだった。そうか、これが終末……これが恐怖なんだな。手先から伝わる冷たい感触、朧げに薄れゆく視界、水を欲する喉の渇き、全身を焼くような熱い痛み。己の存在を証明するそのすべてを、あともう少しで失える……。
極めて明快で単純なことだった。この世界を認識できなくなるってことは、すなわち世界の終わりと同義だ。終末を迎える世界がどんな結末に至るかなんて、そんなことはもうどうでもいい。
ーー空虚。
死を目前にしてなんとか思い出せたのは、くだらない退屈な日常の一節ばかりで。走馬灯なんて嘘っぱちだ、この世界で流れたほとんどの時間は虚無でしかなかった。守れたものなんて何一つなかったし、振り返る価値のある思い出すら、最初からそこにはなかったのだろう。
でも本音を言えば……ありふれたささやかな日常が、ずっと続けば良いと思っていた。そんな小さな望みすら、きっと望んではいけなかったんだろう。
ーー無意味。
誰か一人の人間が送る人生なんて、世界に流れる悠久の時に比べれば、星の数ほどあるちっぽけな記録の一つに過ぎない。誰かが一人が死んだところで、それが何になる。世界はきっと何事も無かったように、明日も夜明けを迎えるのだろう。
一人の人間が今まで成してきたこと、これから成すはずだったこと……それは運命っていう世界の大きな歯車の前じゃ、おそらく何の役にも立たない。運命は卑劣で残酷で不公平で……なぁ、それは俺たちだけじゃ抗うことはできないものなんだ。
ーー死。
それは今まで、俺が何の躊躇もなく他者に与えてきたもの……自分の番になって初めてその意味を理解した。でもそんなことも、もうどうだっていい。無念、嫌悪、諦念、恐怖、絶望、後悔、幸福……死んでしまえばそんな感情も無に還る。生きる苦しみ、死ぬ喜び……お前ならそう捉えることもできるのか?
人は死ぬために生きているんだ。どんなに幸せを与えられたって、どんなに不幸に見舞われたって……死は誰にでも公平に訪れる。それは何より怖くて、でもその怖さだけはこの「歪な世界」で唯一平等なものなんだ。
ーー合理的。
あぁ、これで終わるのも悪くない……。平和や安寧ってのは結局、不安っていう曖昧な……無数に散らされた屍の上で踊る悪魔に過ぎなかった。自分だけが安らげる場所にいるという安心感、それこそが平和の真の正体、平和を求める心こそもっとも忌むべき争いの心だった。でももし誰か一人が死ぬことで多くの人が幸せになるなら、きっとそんな最期は悪いものじゃない。
お前はどうだ……? もしこんなちっぽけな命一つで大多数の命が生きながらえるんなら、それは価値のあるものだって言えるのかな。こんなクソみたいな世界で……クソみたいな道のりを歩んできて……でも多くの人を救えたから「最後は報われた」って笑えるのか?
ーー後悔。
あぁ暗闇にまどろむのはこんな心地が良いものなのか……。なぁ、俺にとって価値のあるものってなんだろうな。こんな世界が本当に、そのちっぽけな命を賭すほどの価値のあるものだったと思えるかな。
体の感触がなくなってくる……これが死ぬってことなんだろう。もう何もかもがどうだって良いさ、生き残ったってどうしようもない。ここから何かが変えられるわけじゃないんだ。きっとそれはどうしようもないことなんだ、世界が生まれた時から決まっていたことなんだから……。
ーーあたたかい。
神よ、この残酷で素晴らしい、道化のようなくだらない世界を、もしも心より愛するのであれば、どうか我らの道の先へ一筋の光を灯してください。