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作者: 青砥緑


 美しさは力だ。



 林は自分が類まれな美少年であると気づいたときから、そのことを知っている。

 しかし、金の力もまた馬鹿にはできない。美は、それを持つ人を引き上げる力を持つが、金銭はそれを持たぬ人を引きずり落とす力がある。

 林はそのことも幼いうちに学んだ。残念ながらそれは彼が金持ちに生まれたからではなく、その正反対の理由からだ。

 林は現在、野心に燃える二十二歳。

 美は既に持っている。

 目下、彼に必要なのは金であった。


 林は藤美沙という女に目をつけた。魔女と呼ばれる女だ。

 広大な山々を所有し、その奥に一人ひっそりと暮らしているという。滅多に都会には姿を現さないが、美術業界における彼女の権力は隠然としている。美沙がパトロンにつけば、どんな芸術家も美術商も魔法のように売れ始めるのである。

 林はにわか美術商になり済まし、まんまと美沙の城への招待状をもぎとった。そこまでの下準備に持ち前の美貌がものをいったのは言うまでもない。


 深い山の中にある藤美沙の自宅は、まさに魔女の城という威容を誇っている。林の前に現れた女主人は、五十を少し超えたところと見えた。しかし、美沙の噂を辿っていくとそれでは計算の合わないことが多い。七十歳は越えていないと辻褄が合わないが、真実は未だ藪の中である。

 噂通りの七十過ぎとすれば、この美と若さを一体どうやって保っているのか。

 リビングで改めて美沙と向かい合った林はその秘密に強い興味を持った。

 僅かでも暴いてやろうと冷徹な視線を美沙に向けかけて慌てて踏みとどまる。本日の目的はあくまで金だ。美沙が何歳でも関係ない。林が抱ける相手であれば良いのだ。その点で言えば、何の問題もない。

 美貌しか取り得のない男が身を立てるために真っ先に磨くのは閨の技術に他ならない。林は一度ベッドを共にすれば、美沙を虜にできる自信があった。どんな魔女も裸になれば一人の寂しい女に過ぎないはずであった。


「まあ、あなた。これを盗んできたの?」

 お近づきのしるしにと林が差し出した古い置時計を前に、美沙は大げさに驚いた。彼がこの置時計を手に入れるまでの冒険を少々脚色して語って聞かせたためである。

「まさか。そのご婦人の言いがかりです」

「本当に?」

 面白がるような美沙に向かい、林は冒険の続きを話して聞かせた。

 林がホテルから置時計を盗んだと騒ぐオーナーの老婦人に向かい、では防犯カメラで自分の行動を確認しましょうと持ち掛けて身の潔白を証明したのである。

 実際には、そのホテルの警備係を買収してあったので、林の犯行の様子が防犯カメラ映像から確認される恐れはなかったのだが、それについて美沙に知らせる必要はない。いわば相手の手持ちのカードであるホテルの防犯カメラをうまく使ったくだりを、いかにスリリングに聞かせるかの方が重要である。

「カメラ。私、ああいう無粋なものは好きではないのだけど、役に立つこともあるのね」

「ときと場合によっては。おかげで最高のアンティークを横取りされることなく、お持ちすることができました」

 林が改めて置時計を差し出すと、美沙はにっこりと微笑んだ。

「ありがとう、林。素晴らしい贈り物だわ」

 美沙は置時計を手に取り、巨大な飾り戸棚の中央に飾った。戸棚の中にはぎっしりと置時計が並べられ、それぞれがてんでバラバラの時間を指している。その様は過去に時計を贈った者達が、自分を忘れてくれるな、と、せめてもの個性を示しているかのようだ。

 林の個性も戸棚の中で早速蠢き始めている。


 振り返った美沙に林は大げさに感動を示した。

「あなたに贈り物を受け取っていただけたというだけで、私は明日から一人前の美術商を名乗れます」

「あら、ではこれは賄賂だったのかしら?」

「まさか。純粋な尊敬の気持ちです。ですが、明日から起きるであろう変化に興味がないとは言えません」

「まあ、正直だこと。あなた、野心家というには少し爽やかすぎるみたいね」

 美沙は息子を諭すように微笑んだ。

「この世界で成り上がりたいなら、もっと強かにならないと駄目よ」

 計画通りに未熟な男と思われた林は腹の奥でだけほくそ笑む。美沙には甘えさせてやりたい男と思ってもらわなければ困る。

 心のうちとは裏腹に林は真剣そのものの表情を美沙に向けた。

「肝に銘じます。ですが、私はあなたにだけは嘘がつける気がしません。あなたにはいつも私の本心を知っていてほしいのです」

「仕方のない人ね」

 美沙の笑顔はますます甘くなった。

「ねえ。私、思うのだけど。その老婦人は誤解したのではなくて、最初から盗まれたのではないと分かっていてあなたに濡れ衣を着せたのではないかしら」

「どうしてそんな風に思われるんです?」

「その人が老いた女だから」

 意表をついた意見に、林の表情につい素が出た。ただ、ぽかんと年相応のあどけなさが現れる。

 美沙は林をじっと見つめて続けた。

「女は欲張りで、我儘な生き物よ。いつだって自分が一番に輝いていたい。なんだって手に入れたい。若いうちはいいの。その希望はほとんどの場合、叶うのですもの。でも時間は残酷だわ。老いが女の力を奪う。若さと美しさをね。それなのに欲望だけは奪い去ってくれない。老いた女はね、何か欲しくなったら、なりふり構っていられないの。どんな馬鹿げた手段だって使うわ」

 黒く光る瞳の奥に、美沙の欲望がわだかまり、うねっている。夜の海のように暗く、深く、抗いがたい引力がある。

 林はその妄想に慌てて目を瞬いた。

 さすがに魔女。油断は禁物。

 林は部屋の中の置物を示す素振りで美沙から目を逸らした。

「そういう意味では藤様は、未だ花の盛りでいらっしゃる。ここに世界中の銘品が揃っているのが良い証拠です。きっと、今このときも私のような男が何人も世界を飛び回ってあなたの目を喜ばせるものを探しているのでしょう」

「まあ、今度は嫉妬?」

 おかしそうに微笑んだ美沙の目に、先ほどの黒々とした欲望はもう見えない。林は幾分余裕を取り戻して微笑み返した。

「そうだと言ったら、御不快ですか?」

「いいえ、素敵よ」

 今度は負けない。林はとびきりの色気を纏わせた視線で美沙の瞳を見つめ、その手に手を伸ばした。息をつめ、しかし逃げない美沙との距離はゆっくりと縮まっていく。

 逃げない女は、心の中では期待の蔓を伸ばし男を絡めとってやろうと誘っているものだ。

 林は勝利を、半ば確信した。


 ところが、あと一歩というところで外から優美な城に似合わぬ音が聞こえてきた。低い唸り声とジャラジャラと鎖の鳴る音だ。

 危うい空気は掻き消え、美沙は視線を逸らす。

「あらいやだ。アレックスだわ」

「アレックス?」

「私にとって唯一の生きている家族よ。きっと散歩に連れて行けって言いたいの。ごめんなさい。ちょっと失礼するわ」

 美沙はそそくさと立ちあがる。

 林は失望をおさえて眉尻を下げた。

「これは申し訳ない。あなたとの時間を楽しみ過ぎてしまったようです」

「気にしないで。私もとても楽しいわ。今日はぜひゆっくりして行って頂戴」

「ご迷惑でなければ、喜んで。アレックスさえ良ければ私が散歩に行って参りましょうか。外はもう風が冷たいでしょう」

「ありがとう。でも、こればかりは彼に聞いてみないと」

 美沙は立ち去り、林は広いリビングに一人残った。廊下からは相変わらず唸るような声と、鎖の音が響いている。


 果たしてアレックスが駄々をこねているのか、美沙はなかなか戻って来ない。

 林は手持無沙汰になってリビングを歩き回った。飾り戸棚をよく見てみれば、ほとんどの時計の針が止まっていた。

「毎日これだけの時計のネジを巻くなんて無理に決まっているか」

 辛うじて動いていた一つを手に取ってみると、裏に「アレックス」と彫り込まれている。どうやらここでは貴重なアンティークもペットに与えられてしまうようだ。現役の家族の分だけは美沙もネジを巻いてやるのだろう。

 林は残りの時計を眺めて嘆息した。

「これだけの犬を看取ったとしたら。あの婆さん、いったい何歳なんだ」

 やはり美沙からは金だけでなく不老不死の秘術も得るべきかもしれない。林の最強の武器である美を維持できるとすれば、考えようによっては巨万の富より価値がある。


 思いついたらぐずぐずしている暇はない。林は手っ取り早くキッチンに入り込んだ。不老の秘密といって最も怪しいのは食べ物だ。

 ところが流しにポツンとワイングラスが残っているきり、目を引くものはない。顔を寄せるとワイングラスの底に残った赤い液体からは鉄じみた匂いがした。

「どんな年代物だ……」

 匂いに耐えかねて顔を逸らすと窓の外の景色が目に入った。山へと続く広大な裏庭には夕日に照らされて何かが整然と並んでいる様が見える。

 丸く盛り上がった地面の連なりは、あたかも土饅頭のよう。

「あれは?」

 目を凝らそうとしたところで、背後で扉の開く音がした。

「アレックスもあなたに興味があるみたいなの。一緒にお散歩に行ってもらえるかしら」

 もちろん、と答えようとした林の言葉は喉の途中で崩れ落ちた。

 美沙の握った鎖の先、痩せ細った男の足が絨毯を踏みしめていた。

「いいお友達になってあげてね。これから長く、一緒に暮らすのだから」

 微笑む美沙の唇は血を吸ったように赤く輝いていた。


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