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7/22

第四章(前)・別れ

 

 その年の年末は、かなり華々しかった。

 わたしがつくったおでんにレイコさんが異常に感激してしまい、ルームメイトにどえらく喧伝してしまったらしく、「なら年の瀬はおでんでパーティしよう」ということになったのだ。

 そういう訳で大晦日にわたしはひたすらおでんをつくり、大きな鍋を抱えて、最初は腰が引け気味だったシンさんとそれをひきずるようにしたレイコさんと一緒に、タクシーに乗る羽目となった。

 泉涌寺に住むレイコさんの家は、平屋ではあったがかなり広く、そこに二人と同期の(さち)さんと、ひとつ後輩の美由紀(みゆき)さん、三人が一緒に暮らしていた。住居の一部は店舗になっていて、隣には窯が隣接している。

 幸さんは割とおとなしめでものしずかな女性で、美由紀さんは実にしっかり者でてきぱきとした気持ちの良いひとで、その三人が一緒にいるのは見ていて楽しかった。

 おでんと年越し蕎麦を食べ、歩いて東福寺まで行って除夜の鐘を撞き新熊野神社で初詣をして、おふるまいのお神酒にわたしもちょっとだけ口をつけ――ああ、まるで絵に描いたような年末年始だ、と思うと、たまらなく嬉しくなった。

 こんな楽しい時間が自分に訪れるなんて、今まで想像もしたことがなかった。

 この幸福がずっと続きますように、そしてここにいる皆がずっと幸福でありますように。

 そう願って、わたしは神社に手を合わせていた。



 それは一月の講義が始まって、数日がたった時のことだった。

 昼休みに大学の図書館に本を返して、学食でお昼でもしようかと外に出かけたところで、ちょうど入ってきたサークルの同期の女友達に出くわす。

「あ、千晴、今日デート?」

「へ?」

 明るい声にきょとんと見ると、相手の方が更にきょとんとした顔になって、

「先刻正門の近くで会うたよ、先輩」

 と、外を指差しながら言った。

「――――」

 かち、と体の奥の方で、何かのスイッチが入る音がする。

「ありがと」

 短く言うと、「え、千晴?」と呼ぶ声も無視して、わたしは図書館を飛び出した。

 ぐるりと辺りを見回し、正門の方向に走り出す。

 ……あ。

 大きなボストンバッグを背中にかけた後ろ姿――あれは。

 少し声を大きめにして呼ぶと、相手が振り返り、驚いた顔でこちらを見た。

 その顔を見ただけで、何だか胸が一杯になる。

 息を切らして正面に立つと、どことなく困惑気味な目で恋人がわたしを見下ろした。

「……あけましておめでとう」

 やっとそれだけ言うと、恋人はびっくりするように瞬いて、「あ、おめでとう」と短く言った。

「あの」

 何を言ったらいいのか判らないままとりあえず口を開くと、それを遮るように恋人が軽く頭を下げる。

「クリスマスも正月も、連絡できんですまんかった……ずっと、東京行っとってん」

「え、東京?」

 思いも寄らない単語が出てきて、わたしはびっくりして相手を見上げた。なんで東京?

「うん。いくつか面接、まとめて」

 相手の口から出た言葉があまりにも意外で、何も言えないままその顔を見つめる。

「その内の一社から、一次面接通った、て連絡来て。実は今日、今から東京行って二次面接」

「あ、そうなんだ、おめでとう」

 驚きながらも、通った、という言葉にぱっと胸が明るくなり、わたしはそう言って――でも。

「あの、それって……面接は東京本社でとか、そういうことですか?」

 聞くと、恋人の口元がぎゅっと引き締まり、眉根にわずかに皺が寄った。

 その変化に、ひどく胸の奥がざわざわしてくる。

「……いや、本社も何も……東京の会社やから」

 ぼそぼそっと言われた言葉に、一瞬、まわりの空気がさっと暗く冷えた気がした。

「え、じゃ……決まったら、東京?」

「ん」

 恋人は目を合わせないようにして短く答え――ああ、どうしよう。

 わたしは瞬間、ものすごく混乱した。

 だって、全然、予想してなかった、こんな。

 自分の就職が決まった時の、あのたまらない安堵――離れなくて済む――が、さっと胸をよぎって消える。

 目の前にある、あたたかい体温を持った筈の相手の胸板が、恐ろしい程遠い距離にあるような気がした。

 でも……だけど……でも……やっぱり。

 卒業までに仕事が決まる、それは勿論、百パーセント喜ばしい。だからそれは当然、諸手をあげて祝福すべきことなのだろう。何せ、彼女なのだし。

 でも。

 ああ、何をどう言えばいいのか……「良かったね」と言うのも、「そんな」と言うのも、何もかもすべて自分の今のこころからは遠くかけ離れているようで、わたしはひたすら、混乱していた。

 そんなわたしをちらりと見ると、恋人は小さく咳き込みまた顔をそむける。

「……もし今度の面接通らへんかったら、留年することにしたから」

「えっ?」

 ごちゃごちゃした頭が、また真っ白になった。

 まっすぐに見上げた相手は、わたしの方を見ない。

「今、先生んとこ行ってきて、話通してきてん。親も、就職浪人するよりはその方がええ、て賛成してくれたし」

 わたしはもう、一言も言うことができずに、ひたすら相手の顔を見つめた。

 ああ、何だろう、これ……胸の中心にぽっかり穴が空いて、そこにびゅうびゅう、風が吹いているみたいだ。

 その風が吹く度に、手や足の先から、力がするすると抜けていく。

 ああ、そうだ、東京で就職したっていい、決まらないよりはきっとマシだもの。留年したっていい、それで来年、うまいこといくのなら。

 何だっていいんだ、それで恋人がうまいこといくのなら。

 ただ、どうしてそれを、一言だって自分に言ってくれなかったのか。

 何故、親や先生には話を通して、すべてが終わった後になって、こうして自分に伝えられるのか。

 言えば反対するとでも思ったのか……それとも単に、言う必要すらないと思われたのか。

 わたしは全身が脱力してその場に座り込んでしまいそうになるのを感じながら、じっとひたすら、それに耐えていた。

「ほな、結果判ったらまた連絡するわ」

 そのわたしの沈黙をどう取ったのか、恋人はそう言って背を向けた。

「あ」

 わたしは思わず、反射的にそのコートの袖を掴む。

 相手が驚いたように振り返った。

 わたしは自分でも何をどうしたかったのか判らないまま、その目を見返して――ああでも、このままここで別れてしまうのは嫌だ。次いつ逢えるかも判らないのに、こんな混乱した気持ちを抱えたままで。

「千晴?」

「あの……」

 喉の奥に何かが絡まっているような違和感を感じながら、何とか声を絞り出す。

「あの、じゃ……駅まで、見送りに行っていいですか?」

「え?」

 目を見開いて、相手が自分を見た。

「え、でも……講義ちゃうの?」

 電車の時間は知らないが、今から一緒に京都駅まで行って見送ったら、多分三コマ目の講義には間に合わない。それは判っていたけれど……何せこの二年、一度だって講義をさぼったことがないのがわたしの自慢だ。この非常事に一回くらい、この際構わない。

「大丈夫」

 それだけ言うと、恋人は一瞬、心底困りきったいろをその目に浮かべた。

 その顔に、どきりとこころが冷える。

「いや、でも……もう時間無いねん、すぐタク乗ってすぐ電車乗らなあかんし。ごめんやけど」

 早口に言われた言葉に、手から力が抜けた。

「また連絡するから」

 なだめるように恋人は言うと、さっと背を向けて歩き出した。

 後に残され、わたしはしばし立ち尽くす。

 正門の向こうに、消えていく背中。

 ……ああ、行ってしまう。

 何だか自分が恐ろしく無力に思えて、泣きたくなった。

 無意識の内に張っていた肩から、すとんと力が抜ける。

 わたしは門に背を向けて、どこへということもなくとぼとぼと歩き出した。

「……あ」

 唇から、かすれた声が漏れる。

 ああ、わたし、言ってない……「頑張ってね」と、その一言をあのひとに伝えていない。

 わたしはくるっと身を翻して門を見た。

 勿論、とうにその姿は無い。

 わたしは急いで走り出した。

 駄目だ、こんな風では駄目だ。ちゃんと応援もできないだなんて、それこそ彼女としての資格が無いというものだ。

 門を走り出て左右を見渡したが、見える範囲内に姿はなかった。

 タクシーを拾うならこの道よりも少し歩いた先にある大通りだろう、と見当をつけそちらに走り出す。

 白い息が、顔の前ではずんだ。

 ああ、そうだ、別にいいんだ、どんな道をどう選んだっていいんだ……けれどもそれを、わたしに支持されないかもしれないと思われていることが、わたしには本当に辛い。

 それしかない、と思って選んだ道なら、反対なんてする筈もないのに。だって、仕方がないのだもの。

 離れることが辛くないとは言わない。けれど、こころがあるなら、それを言葉でも何でもいいからきちんと示してくれたら、わたしはそれだけで他に何にもいらないのに。

 わたしは息を切らしながら大通り近くまで来て――え?

 足が、止まった。

 大通りをはさんだ向かいに、チェーンの定食屋がある。

 その入口に入っていく、見慣れた背中。

「…………」

 わたしは言葉も出ずに、それを見送った。

 ――もう時間無いねん。すぐタク乗ってすぐ電車乗らなあかんし。

 つい今しがたの言葉が耳の奥でがんがんと鳴っている。

 ああ……何だ、うそ、だったんだ。

 立ちくらみの時のように、足元がぐらぐらする。

 まだ時間あったんだ。お昼食べていくんだ……そうなんだ。

 わたしは頭が真っ白になったまま、くるりと店に背を向け、学校に向かって歩き出した。

 涙すら、出なかった。



 後期試験が終わる頃になっても、恋人から連絡は来なかった。

 あの背中を見てしまって、自分から連絡などなおさら取れない。

 でも連絡が無い、ということは、きっと駄目だったのだろうなと思われた。

 あの日からずっと、試験があるから、ということでシンさんちにはあまり行かずにいた。週にいっぺん、ちらりと顔を出す程度だ。あまり長く一緒にいると、様子が変だと勘づかれそうな気がして。

 でもその試験も、もう終わりだ。

 余計なことを考えたくなくて逆にやたらに勉強に集中できた為か、我ながら相当、良い結果が出せたように思う。実は去年の中頃に「四大に編入しないか」と担当教授から言われたのを断っていたのに、試験の後にまた話を持ちかけられたくらいだ。

 けれどわたしは、一日も早く就職して自立がしたかった。

 わたしの父親は娘のわたしから見ても本当に変わった人で、あの「家庭」に対する奇妙な言い草からも判るように、「家長として自分が実行すべき責任」だと自分が考えていることについては、ある意味、非常に真っ当な人だった。

 高級住宅街に二階建ての大きなマイホームを買ったのは父親がまだ二十代の頃だったし、その後も経済的な面ではおよそ不自由というものをしたことがない。

 わたしがどの高校に行こうがどの大学に進学しようがどこに就職してどこで暮らそうが、何ひとつ関心など無いのがあの人だったが、その為のお金だけはぽんと払ってくれた。

 多分、それで自分は百パーセントだと思っているのだ。百パーセント、完璧な父親で完璧な夫だと。なのに家族はそれに値しない、だから外の女と関係を持つ。けれどもそれは自分の責任ではない。何せ自分は百パーセントの男なのだから。そういう人なのだ。

 無論、貧困の為に選択肢が狭められるというのは大きな不運だと思う。だからそれだけでも本当に有り難いことだし、わたしは感謝をするべきなのだろう。

 けれどどうしても、わたしはそう思うことができなかった。

 だから一日でも早く、わたしは自分の手で、お金を稼ぎたかった。

 そう考えると、就職があんなにあっさり決まったことは何てラッキーだったのだろうと思う。そして同時に恋人のことを思い、本当に切なくなる。

 仕方がない、今のご時世、就職が決まるかどうかなんて、転職ならまだしも新卒の自分達にとっては、ほんと能力よりも運だ。

 だから駄目だったら駄目だったと、すんなり連絡してきてくれたらいいのに。

 留年、いいじゃないの。いくら就活するとはいえ、今より時間に余裕もできるだろうから、その間にあれこれチャレンジだってできる、そう思っているのに。

 あれから何度も夢に見てしまう、あの後ろ姿を脳裏に浮かべて、わたしは大きくため息をついた。



 春の休みが始まった。

 わたしはゼミの友達と一緒に九州に卒業旅行に行き、シンさんとレイコさん、それから伯母さんにもあれこれお土産を買い込んできた。

 それをひと通り配り終えて家に帰ると急に疲れがどっと出て、二日程熱を出して寝込んでしまい――熱はひいたけれど、ずるずるひきずっているかのようにお腹がしくしくと痛い。

 卒業式までもうやることが何にもなくなってしまって、ぽっかり穴が空いたみたいだ。

 何か短期のバイトでもしようか、と思ったけれど、体調が今ひとつなこともあってどうにも気分が乗らない。大体、四月になれば嫌でも毎日、働かないといけないのだから、こんな時間は大げさに言えばもう最後なのだ。

 熱が引いたその日、わたしは買い物のついでにシンさんの家に立ち寄った。

「どないしてん」

 ひとの顔を見て、シンさんは開口一番、怪訝そうに聞く。

「えらいしんどそうやで、おい」

「うん、ちょっと、風邪かなあ、熱あって」

「て、大丈夫なんか」

「うん、もう下がったもん。……ああ、そういえば敏行伯父さん、インフルエンザだって」

 昨日、送ったお土産が届いた、という電話で伯母から聞いた情報を話すと、シンさんは目を丸くした。

「ええ? 大丈夫なん?」

「まあ、もう病院も行って薬ももらった、て言ってたから。後はおとなしく寝とく以外ないんじゃない?」

「ま、それはそうやろけど」

「伯母さんにうつらないといいけどね」

「ああ、あのひとは大丈夫やろ。ウイルスの方が逃げていくわ」

 顔をしかめて手を振って言うシンさんに、思わず笑った。確かに。

「レイ呼ぼか? しんどいんやったら、飯くらいつくらすで」

 シンさんがそう言うのに、わたしは首を振って立ち上がった。

「大丈夫、すぐ食べられるもの、あれこれ買ってきたし。ちょっとお腹痛いから、あんまり食べられそうにないし」

 何気なく言うと、シンさんの眉根にぐっと皺が寄った。

「お前それ、病院行ったか」

「え? ううん」

「いつからや。痛いんやったらすぐ行け」

「ええ? 平気だよ、そこまでする程じゃ」

「行け」

 ちょっと意外な程きつい口調で遮られて、わたしは驚いてシンさんを見た。

 何となく、有無を言わせぬ目をしている。

「……判った、じゃ、様子見て治らなかったら行く」

「明日行け」

「えー……ん、じゃあ、明日になってもまだ痛かったらね」

「……ん」

 どことなくまだ不満そうな様子でシンさんは小さくうなずくと、作業に戻ってしまう。

「じゃ、今日はもう帰るね」

「おう。早よ帰って寝ろ」

 シンさんの家を後にして、わたしはほう、とひとつため息をついた。

 とは言っても、ここ数日って、ちょうどタイミング的にお腹が痛くなる時期なんだよなぁ。生理と生理のちょうど真ん中辺りって、何故かお腹が痛くなることが多いのだ。

 そう思って、わたしはシンさんの言いつけを守らず――けれど数日が過ぎても、お腹の痛みは去らないどころか、どんどんきつくなってきた。

 これはやっぱり、病院かなぁ。

 わたしは仕方なく、近所の内科の予約を入れた。

 カレンダーに印を入れたその日は、誕生日の二日前だ。

 わたしの誕生日なんて、覚えてないかな、先輩。

 その日付を眺めて、わたしはひとりごちる。

 去年の誕生日はまだつきあってはいなかったし、特にまわりの誰にも吹聴していなかったこともあって、先輩は三月になってからわたしの誕生日がいつだったかを知った。それがずいぶん口惜しかった、と後で当人から聞いたものだ。

 ――じゃあ来年な。来年きっと、一緒にお祝いしよな。

「つきあい」を始めてからすぐ、先輩が言った言葉を思い出す。

 ……一緒に、か。

 わたしは苦い思いを抱えて、カレンダーの数字を指でなぞった。



 内科で言われた言葉は、意外なものだった。

 紹介状を渡されて、その足で駅前の大きな総合病院へと向かう。

 予想以上にいくつもの検査を受けた後、言われた言葉は「虫垂炎。手術します」だった。

 それは痛い訳だ……。

 お医者さんにも「これ結構痛なかったですか」とちょっと呆れ顔に言われたが、まあ、確かに痛いことは痛かったんだけど、我慢できる範囲内ではあったんだよなぁ。

 わたしは自分で自分に軽く呆れながら入院についての説明を聞いて、手術に親の同意書がいる、と言われてちょっと動揺する。

「あの、それ、伯母じゃ駄目ですか」

 聞いてはみたが、別に構わないけれど手術の前に書いてもらわないと、と言われて悩む。速達でも、今から送って送り返してもらって、て、数日かかるだろう。

「それがないと、どうしても駄目ですか」

「そりゃ、未成年やからねえ」

 言われて、はたと気がつく。明後日は誕生日だ。

「あの、手術明後日でもいいですか」

「え、そら早い方がいいですけど……まあ大きな容態の変化がなければ、それくらいなら」

「じゃ明後日自分で書きます。誕生日ですから、もう成年です」

「ああ、そう、じゃ」

 困ったような顔をしながらもお医者さんがうなずいてくれたので、わたしは胸をなでおろした。

 とりあえず入院の申し込みだけを済ませると、洋服などの準備に家に戻る。

 看護師さんに渡された「入院生活の手引き」的なプリントを見ながら鞄に物を詰めつつ、伯母に電話をかける。医者から万一の際の緊急連絡先が必要だと言われて、伯母のそれを使わせてもらったのだ。何せシンさんでは「緊急連絡」なんて絶対に無理なので。

 すると驚いたことに、今度は伯母がインフルエンザで寝込んでいた。どうやら、ものの見事にうつされてしまったらしい。

 相当しんどいことだろうに、入院について話すと伯母は大層、わたしを心配した。

「あのね、今時盲腸なんて大した手術じゃないよ。一週間もかからず出てくるんだから」

 何度もそう言っているのに、自分が治ったら来ると言って伯母は聞かなかった。

『多分、あんたが退院してすぐくらいには行けると思うけど、何かあったら竜司に頼みなさいよ』

「えぇ、いいよ」

 言下に断ると、伯母のかすれた声が一段甲高くなる。

『何言ってんのよ、あんた』

「だから、盲腸なんて大した手術じゃないんだから……いちいち伝えなくたっていいよ、そんなこと」

『莫迦言わないの。もう』

 何か言いかけて、激しく咳込む。

「ああもういいから寝ててよ伯母さん」

『ちょっと、千晴』

「とにかく、わたしはひとりで大丈夫だから。どうしてもって言うなら来てくれるのは嬉しいけど、くれぐれも無理はしないでよ」

 一方的に言って電話を切ると、わたしはふう、とため息をついた。

 ……しかし、盲腸患者とインフルエンザ患者が心配し合ってるって、一体何なんだ。

 考えると、状況に関わらずちょっと笑えてくる。

 わたしは鞄に詰めた荷物を点検してから、ふっと台所を見た。

 レイコさんのマグカップ。

 持っていきたいけど、万一割っちゃったりしたら後悔してもしきれないしなぁ。

 しばらく考えた挙句、やっぱり諦めた。どうせ明日入院して明後日手術、その後は経過が良ければ四日程度で退院できるそうだから、それくらいは我慢しよう。

 ……でも、こっちは。

 わたしは机に歩み寄ると、昔伯母にもらった寄せ木細工の箱を開けた。

 あの、ペンダント。

 壊れ物を扱うように、そうっと手に取ると首にかける。

 あれからわたしは、毎日のようにこれを身につけた。勿論、シンさんの家に行く時もだ。

 結局あの日はお礼を言えなかったし、実を言うと、あれから結局、お礼の言葉は口にしていない。

 きっと「ありがとう」などと言ったところで、シンさんはそっぽ向いて「もうええ」と遮るか、とっとと煙草吸いに出ていってしまうだろう。それよりただ黙って身につけている方がずっとシンさんには伝わると思ったし、事実判っているようだった。

 これは、持っていこう。

 そう決めると、わたしはもう一度プリントを見直した。

 とりあえず、ええと……ああそうか、テレホンカード、買っておいた方がいいよなぁ。あと、「曲がるストロー」て、これ何でだ?

 手引きに載っていて他に足りないものをリストにして、わたしは家を出た。カードは駅の近くの金券ショップで何枚かまとめ買いしよう。

 響くかな、とも思ったけれど、歩くよりはよっぽど楽なので自転車に乗って外に出る。

 駅に向かいかけて、はたと気がついた。

 言っといた方がいいよね、やっぱり。

 わたしは自転車をシンさんの家の方に向けて。

 扉を開けると、作業をしていたシンさんが顔を上げてこっちを見た。

「どうしたの、その顔」

 見た瞬間、思わずこっちが先に聞いてしまう。どこかやつれたような顔つきで、隈まで浮いている。

「いや、ちょっと、納品依頼重なってん。来月ホワイトデーあるしな」

 自分でも気になっているのか、ごしごし、と手首で目元をこすって、シンさん。

「ああ、そういやそうか」

 納得して、それから気づく。そういや明後日、バレンタインデーだ。

 ……わたしのチョコなんか、今更欲しいかな、先輩。

 ふっと思いかけて、わたしは小さく首を振った。今はそんなことはいい。

「あのさ、シンさん」

「ん?」

「あの、わたし、明日からちょっと忙しくて。しばらく来られないかもしれないから」

「ふうん?」

 珍しげにシンさんはわたしを見て、あ、という風に小さく口を開ける。

「お前、確か明後日……」

「あ、あの、今日ももうちょっと、用事あるから」

 わたしはシンさんに何か変なことを追求される前に、ぱっと手を振ってさっさと外に出てしまった。

「あ、おい」

 扉を閉める寸前にシンさんの声がしたが、そのまま後ろ手に戸を閉め、さっさと自転車に乗ってしまう。

 ……ああ、危なかった。

 今度こそ駅に向かい自転車をこぎながら、内心で胸をなでおろす。

 シンさん、覚えてたんだな、わたしの誕生日。

 そう思うとちょっと嬉しく――それからずうんと、胸が重くなる。

 恋人は覚えてくれているだろうか。

 買い物を終えて家に帰ると、わたしは電話の前でたっぷり三十分は悩んだ。

 かけるべきなのは判ってる。判ってるけど、でも。

 先刻から何十回と繰り返した深呼吸をもう一度して、わたしは電話に手をかけた。 

 ひと息に恋人の番号を押すと、ぎゅっと目を閉じる。

 自分の呼吸の音が、耳のすぐ裏でごうごうと響いた。

 ――カチリ、と小さな音がする。

 心臓がつぶされそうになった瞬間、受話器の向こうから留守電の合成音が聞こえてきた。

 ……ああ。

 緊張が一気に解けて、大きく息をついて。それにしても、相手が出ないで安堵するって、我ながら一体何なんだろうか。

 そんなことを思いながらも、留守電に向け、明日からの入院のことと入院先を告げて。

 明後日が誕生日であること、を言おうかどうしようか一瞬迷って、やはり言わずに電話を置いた。

 受話器を置いてひと息つくと、背中にびっしり、冷や汗をかいているのを自覚する。

「は……」

 お腹の下から急速に痛みが増してきて、わたしはずるずるとその場に座り込んだ。



 誕生日の朝、病院に向かった。絶食を言い渡されていたので、昨日の晩から食事は抜いている。

 手術に必要な検査や説明は前日に済ませていたので、入院当日は割と暇だった。

 本は荷物になるかと持ってこなかったけれど、あんまり手持ち無沙汰なので下の売店で適当に雑誌を買った。どうせ数日間保てばそれでいいのだ。

 もう一度伯母さんに電話した方がいいかな、とちらっと思ったが、やめておいた。また熱を上げさせてしまいそうだし。

 雑誌もあらかた読んでしまい、何もすることが無いまま午後となる。それにしても、暇だ。

 自分でも意外な程に度胸が据わっているな、と思ったが、何と言うか、どうにも現実感が無いのだ。つい昨日まで普通にすごしていたのに、入院して手術して、だなんて、今こうして病室にいてさえまるっきり実感がない。「間違いでした、お帰りください」と今にも言われるのではという気すらする。

 切るんだもんな。痛いよな、そりゃ。

 まあでも、切った後も一、二週間で運動も普通にしていい、って言ってたしな。入社前に判明して、かえって良かったかも。

 そんなことを考えていると、看護師さんが現れた。手術までに着替えておくよう、と手術着を渡される。

「あ、それから、それは悪いけど外しといてね」

 首のペンダントを指差してそう言われて、ああ、と思う。

 まあ仕方ないよねえ……。

 ペンダントを外して、ベッド脇のテーブルの引き出しにしまう。

 首筋が軽くなると、何だか急に心細くなってきた。

 着替えてからしばらくすると、お医者さんと看護師さんがやって来て、またあれこれと説明をされ、予備麻酔と称してかなり痛い注射を肩にされた後、点滴の管を入れられる。

 仰向けで眠るのって苦手なのにな。そういや、考えてもみなかったけど、切った後はしばらく仰向けでしか寝られないんだろうか。それはキツいなぁ。

 そんな我ながらしょうもないことを考えて、急にむくむくとわいてきた不安を抑え込もうとしていると、不意に病室の外の方で騒がしい気配がした。

「……?」

 割り当てられたのは六人部屋の一番奥のベッドだったので、わたしは横たわった状態で精一杯頭をねじ曲げて入口の方を見て。

 するとガラリ、と扉が開いて、

「お前何やっとんねやコラ!」

 ――と、ものすごい大声で、シンさんが飛び込んできた。



 わたしはベッドの上で、完全に硬直していた。

「ひとに黙って何しとんねん!」

「ちょ、ちょっとあなた、静かにしてください、病院ですよ」

 看護師さんが後ろから抑え込もうとするのをものともせずに、シンさんはずんずんと大股で部屋に入ってきた。他のベッドの患者さんも、目をまん丸にしてその姿を見ている。

「なんで黙っとんねん。なんで言わんねん。おかしいやろお前!」

 そう怒鳴るシンさんは、頭から火が出そうなくらいにカンカンに怒っていた。ああでも、一体なんで、シンさんがここに?

「今日切るて。なんで今まで黙っとってん。何黙って入院なんかしとんねん。ええっ?」

 ずかずかとベッドの脇に歩み寄ってきたシンさんは、その時ふっとわたしの状態に気づいたようで、点滴の袋を目にしてたじろいだように二、三歩後じさる。

「もう、いい加減にしてください! 出ていってもらいますよ!」

 勢いが削がれたのを見てとって、看護師さんが怒った声で言うとシンさんの腕をぐい、と取った。

「あ、あの」

 それを見て、わたしは慌てて枕の上から声を上げる。

「あの、すみません、あの……叔父です」

「ええっ?」

 今度は看護師さんが驚いてその手を離すと、わたしとシンさんとを交互に見た。

「ごめんなさい、あの、もううるさくさせませんから、いてもらっていいですか? ほんとごめんなさい」

 点滴を打っていない手をあげて拝むようにすると、看護師さんは立ち尽くしているシンさんをうさん臭そうに睨んだ。

「ほんとですか? 困りますよ、病院なんですから」

「はい、大丈夫です。ほんとごめんなさい」

 首を曲げるようにして頭を下げてみせると、看護師さんは腰に手を当て、ふう、と息をつき、もう一度シンさんを睨んでから病室を出ていった。

「……ごめん」

 頭を向けて改めて言うと、ものすごく大きな音をたてて肺の全部の空気を押し出すようにシンさんが息を吐き、ベッドの脇に来るとどすんと小さな丸椅子に座った。

 そのままもう一度、大きく深呼吸して――ああ、怒ってる。

 そのいかり肩から発散される怒りのオーラに身が縮まりそうな思いがして、なのに同時にじわじわと胸の奥が温かくなった。

「……どういうことやねんコレ」

 やがて、歯の間から押し出すようにシンさんが言った。

「一昨日言いに来たんコレか。明日から忙しいて。……どういうことやねんほんま。ふざけとんのかお前」

 何とか自分を押さえつけて怒鳴らないようにしているのがはっきり見てとれ、でもその分逆に怒りが濃縮されているのが判って、困ったのと嬉しく思ってしまうのとが同時にやって来て、自分でもどんな顔をしていいのか判らなくなる。

「なんでひとに黙ってこんなことしてん。なあ」

「いや、だって……盲腸なんて大した手術じゃないし」

「――あのな!」

 ばっと大声を上げてしまって、はたと我に返ったように口を押さえて。

「……あのなあ」

 ぐっと声を抑えると、シンさんはじろりとわたしを睨みつけた。

「腹切んねんぞ。体にメス入んねんぞ。大したことない訳ないやろが、このあほが」

 声をひそめながらもきつい口調でそう言われて、忘れていた不安がまたちらりと胸をかすめた。ああ、でもシンさんが来てくれて良かった、こころからそう思う。

「心臓止まるかと思ったわ……電報来てんぞ、うち」

「え、電報?」

「佐和さんから。俺生まれて初めて受け取ったわ。電報て」

 伯母さん、そこまでしたのか。

 わたしは内心で呆れた。ほんとにもう、おせっかいというか何と言うか。

「ほんまは昨日の内に来とったみたいやねんけど、俺あの後完全寝とってさ。つい今朝んなって初めて不在入ってんの気ぃついて、なんじゃコラ、て電話してみたら、いきなり」

 どことなく口惜しそうにシンさんは呟いて。ああ、でも、ようやくちょっと落ち着いてきたみたいだ、良かった。

「お前、もしかしてこないだ腹痛い言うてたの、これか」

「ああ、うん、そうだったみたい」

「だから早よ病院行け言うたやろうが。何しとってん、今まで」

「いや、だって」

 せっかく収まってきていた怒りがまた復活しそうなのに困り果てて首をすくめると、後ろからいつの間にか入ってきていた看護師さんが顔を出した。

「篠崎さん、叔父さんってこちら?」

「えっ……あ、はい」

 シンさんがぎょっとした顔で振り返り、いま俺うるさかったか、という顔でわたしを見て。

 いや、そんなことはなかったと思うけど、と首を傾げると、

「あの、そうしたら、もうすぐ手術が始まりますので、お身内の方でしたらちょっとあちらで手術についての説明をさせてください」

「あっ……ああ、はい」

 シンさんは慌てて立ち上がると、ちら、と心配気にこちらを見た。

 わたしは大丈夫、と言う代わりに小さく手を振ってみせる。

 看護師さんについてシンさんが部屋を出ていくと、ふう、とため息が出た。

 ああ、でも……うれしい。

 胸からじんわりと、指の先まで温かさが広がっていく。

 シンさんの顔を見て初めて、わたしはいつの間にか、自分がずいぶん手術を怖がっていることに気がついたのだ。

 ああ、でも、もう大丈夫だ。あの顔を見てあの怒鳴り声を聞いたら、自分でも驚く程、肝が落ち着いた。

 わたしは肺の奥から、思い切り息を吐き出した。

 からり、と扉が開く音がしたと思うと、シンさんが看護師さんやお医者さん達と一緒に戻ってくる。

 その顔からはもうすっかり怒りのいろは消えていて、ただただ心配気なまなざしになっていたのに、わたしはまた、うれしくなった。

「篠崎さん、こんなご近所にお身内の方がおったんなら言うてくれな」

 お医者さんがそう言うのに、わたしは「すみません」と小さく頭を下げて。

「叔父さんにあまり心配かけたらあかんよ」

 先刻のシンさんの暴れっぷりを聞いたのか、少々からかい気味に看護師さんが言うと、先生が「そしたら手術室行きますんで、森谷さんもちょっとお手伝いくださいますか」とシンさんをうながした。

 え、と思う間もなくベッドの両脇にお医者さんと看護師さん、それからシンさんが来て、背中にぐい、と手が入れられると、体が持ち上げられる。

 ええ、そんなのわたし自分で動けるのに、と瞬間思ったが、いつの間にやら、まるで全身の筋肉に力が入らなくなっている。

 かけ声と一緒に、ころん、と転がされるように体がストレッチャーに移された。

「――頑張りや」

 頭の上の方でシンさんの声が聞こえたのと同時に、後の記憶がなくなった。



 ――気がつくと、また元のベッドにいた。

 ええ……?

 まだ頭が朦朧としたままゆっくり頭をめぐらせると、枕元でシンさんが椅子に座って、わたしが買ってきた雑誌をめくっている。

 声をかけようと唇を開いたがかすれた息以外何も出てこず、それでもはっとシンさんが目を上げ、こちらを見た。

「……起きたか」

 わずかに青ざめた顔色で言うのに、こくりとうなずく。

「痛ないか……ああ、水飲むか」

 もう一度うなずくと、シンさんが立ち上がってベッド脇のテーブルの上に置いた水筒を手に取った。

 朝に入れておいた白湯をコップに注いで差し出しかけ、起き上がることのできないわたしに、はたと途方に暮れて――そうか、成程、曲がるストローだ。

 わたしは思い出して、点滴がつながっていない方の手でテーブルの引き出しを指差した。

 シンさんはきょとんとしながら引き出しを開け――その動きが、止まった。

「……?」

 どうしたんだろう、シンさん?

 シンさんは全く動かず、引き出しの中を見つめている。

 ……あ。

 わたしは手術の前に、ペンダントを外してそこに入れたことを思い出した。

 思わずシンさんを見直す。

 引き出しの中を見下ろしたまま、シンさんの胸が呼吸につれてゆっくりと上下している。

 目線はまっすぐ、固定されたまま動かない。

 瞬きすら忘れたかのようなその姿にわたしは何だか焦ってしまって、乾き切った唇を無理矢理開いた。

「あの……ごめん」

 シンさんがはっとしたようにこちらに目を向ける。

「あの、ほんとは、つけときたかったんだけど、看護師さんが駄目だって、だから」

 我ながら驚く程にかすかな、かすれ切った声しか出なかったけれど、わたしは何とか、ようようそれだけを口にした。

 まじまじとわたしを見つめたままシンさんは深く呼吸をして、ふい、と急に目をそらすと、また引き出しの方を見た。

「これか」

 ストローを取り出すのに、わたしはうなずく。

 シンさんは水筒のカップにストローをさすと、腰を下ろしてわたしの口元に差し出して――近づいたその目元が、一瞬、濡れているような気がして、心臓がことりと動いた。

 じっと見つめると、シンさんは慌てたように何度か強く瞬いてふっと顔をそむける。

「早よ飲めや」

 言われて、わたしは急いでストローを口にくわえた。

 からからに乾いていた唇に水分が入って、ひと息ついた。ああ、ほっとする。

「……痛いか」

 心底心配そうなまなざしに、首を横に振った。まだ麻酔が効いているのか、本当に今は全然、痛くはない。

 それにしても。

「全身麻酔ってこんなんだと思わなかった……」

 かさかさの声で呟くと、え、とシンさんが身を乗り出す。

「なんかもう、手術室に入る前から、全然覚えてない」

 そう言うと、シンさんがきょとんとした顔でわたしを見直した。

「ぱたっと意識切れて、気づいたらもうここなんだもの……もう少しこう、普段見ないような華々しい夢とか見られるもんかと思ってた。すごい、期待してたのに」

 もそもそと言うと、シンさんがいきなり吹き出して。

「お前、腹切ったばっかなのに何の話しとんねん。ほんま肝据わっとんな」

 愉快そうに言うと、立ち上がってぽんぽん、とひとの頭を叩いた。

「そんだけ言えるなら、もう全然大丈夫やろ……ああ、安心した……ちょっと佐和さんに電話してくるわ」

 そう言ってすたすたと病室を出ていくシンさんを見送ると、わたしはふう、と息をついて天井を見上げた。

 ……ああ、何だか、まだ眠い。

 でも今寝ちゃうと、夜寝られなくなりそう。それはそれで辛そうだ……でも……。

 つらつら考えている内にまたうとうととしてきて、わずかに眠りに入りかけた瞬間、からから、と病室の扉が開く音が聞こえた。

 ああ、シンさん、戻ってきたのかな……それとも他の患者さんかな。

 目を開ける気力もなくぼんやり思っていると、足音が近づいてきて。

「――千晴」

 声がしたのに、わたしはぱちりと、目を開けた。

 恋人が、そこに立っていた。



 わたしは言葉を失って、目の前の恋人を見た。

 相手はきまり悪そうに目をそらす。

「留守電、聞いて。びっくりした」

 ぼそぼそっと言って、一瞬だけちらっとこっちを見る。

「もう終わったん?」

 こく、とうなずくと、少しだけ安心したような表情を浮かべて。

「そうか」

 その顔を見つめながら、わたしは気になっていたことを今ここで聞いていいものかどうか迷う。結局どうなったんだろう、面接。

「ええと……ああそう、これ、お見舞い」

 と、言葉と共に、ぽん、と胸の上に大きな花束が置かれて、わたしは面食らう。

「え……え?」

 オレンジに赤にピンク、と華やかなガーベラの花を中心にした、かなり大きな花束。

 いや、でも今こんなの渡されても、わたし起き上がることすらできないんだけど。

「治ったら、快気祝いしよな。……俺さ、留年することにしたから」

 困惑していた気持ちがその言葉にさっと吹き飛び、はっと見上げると相手はバツが悪そうに目をそむけた。

「こないだ、あかんかったしさ。もうしゃあない」

 こないだ、という言葉に、あの背中が頭の中に甦る。

「そういう訳で、俺は来年もまだ学生やから。これから千晴のが先輩やな」

 自嘲に満ちた口調に、何だか胸の中が苦さで一杯になる。何もそんな言い方、今こんな、ひとが弱ってる状況でしなくったって。

「まあ少しゆっくりして、それからまた就活再開するわ。こんなんやったら、来年もまたあかんかもしれんけどな」

 その声を聞いていると、先刻まで朦朧としていた頭がいきなりすっきりとしてきて、それと同時に下腹がずきずきと痛み出した。ああもう、これ以上聞きたくない。

 ぎゅっと顔が歪むのが我ながらはっきり判るのと同時に、

「どちらさん」

 と、ものすごくぶっきらぼうなシンさんの声がした。

 はっとして顔を大きく動かして見ると、恋人の後ろにシンさんが立っている。

「え、……え?」

 恋人が戸惑ったように、わたしとシンさんを交互に見やって。

「叔父さん、例の」

 わたしがまだ出にくい声で小声で言うと、恋人は慌てた様子でシンさんに向き直った。

 頭を下げて自己紹介する恋人を、シンさんは機嫌悪そうに見ている。ああ、先刻の会話、どこから聞かれていたろう。

「……どうも」

 シンさんも短く名乗って、小さく頭を下げ返す。

「あ、あの、それじゃ、俺これで」

 恋人は慌てたように言うと、わたしに向かって小さく手を振った。

「退院したら、また連絡して。じゃ」

 そしてそう早口で言うと、あっという間に部屋を出ていってしまう。

 え、じゃあ、退院するまで、もう来てくれないの?

 何の声もかけられぬまま、目だけでその背を見送った。ああ、何だかもう、言葉にもならない。

 全身ぐったりする思いでベッドに沈み込むと、シンさんがわたしの胸の上の花束を取り上げ、小さく鼻を鳴らす。

「花瓶なんか……ない、やんなぁ」

「あ……うん」

 何故だか自分がみっともないふるまいをしているように感じられて、恥ずかしいような情けないような気持ちになり、わたしは肩をすくめた。

 手術当日の人のところに、花瓶も無しにこんな大きな花束、持ってきて……シンさんがいたからいいものの、そうでなかったらどうするつもりだったんだろう、あのひと。このままわたしの体の上にあの花、置き去りにするつもりだったのか。

「ナースステーションで借りられんか聞いてくるわ」

 シンさんがそう言うと、花束を下げて部屋を出ていく。

 それにしても、この小さいサイドテーブルにあんな大きい花束が入る花瓶なんか置いてしまったら、他に何にも置けなくなりそうだ。

 わたしは途方に暮れた思いでテーブルの上を見た。

 こころのどこかが、ひどく荒らされてしまった気がする。

 今まで何度も感じてきた哀しみ、それはでもやはり、裏で相手への気持ちが存在していたからで……だけど何だか、そういうことが自分の中で、急にすぱっと、切れてしまったと感じる。

 もう、駄目なんだ。

 不意にきっぱり、そう悟った。

 もう、どうにもならない……あのひととわたしは、もう駄目だ。

 就職がどうのとか、そういうこととはもう無関係に、あれだけ相手の状況が思いやれない人とはもう自分は無理だし、向こうにとっても、そういう思いをはせることもできない位置に、今の自分はいるのだろう。

 なら……もう、どうしようもないじゃないか。

 深く深くため息をつくと、から、と戸が開いてシンさんが戻ってきた。

 片手にかなり小さい、薄緑色のガラスの一輪挿しと生花鋏を下げている。

 どうするのか、と見ていると、シンさんはテーブルの端にそれを置いて、花束から数本、ガーベラを抜き取って生け始めた。

「残り、レイコんちの店にでも置いてもらうわ」

 こちらを見ずに、シンさんがぼそっと言う。

「うん」

 わたしは小さくうなずいた。

 ああ、何だか、ひたひたと悲しい。

 シンさんにあのひとのあんな姿を見せてしまったことが悲しい。

 あんなんとつきあってたんかこいつ、と思われているかと思うと、本当にたまらなく悲しく、そして口惜しい。

 思わずぎゅっと目をつぶると、


「――ハル」


 と、シンさんの声がした。

 わたしははっと、目を開ける。

 首を動かして隣を見ると、シンさんはこちらを見ないまま、一輪挿しに花を挿し続けている。

 とくんとくん、と自分の心臓の音が胸の中から聞こえる。

 シンさんが初めて、わたしの名を呼んだ。

 その唇が、ゆっくりと開かれる。


「……あいつ、やめとけ」


 ――どくん、とひときわ大きく心臓の音が鳴った。

 同時にぐうっと、喉の奥から熱いものがせりあがってくる。

 それは一気にまぶたと鼻の裏に広がり、目頭からじわりとにじみ出して。

「……うん」

 必死にこらえながらそれだけ言うと、もうどうしても我慢することができずにわたしは落涙した。

 シンさんは黙って花を生け終えると、わたしの方を見ずに、立ったまま手を伸ばしてくしゃくしゃくしゃ、とひとの頭をかきまぜるようになぜる。

 わたしはもうとどめることができずに、布団を鼻の上まで引き上げ声を殺してぽろぽろと泣いた。

 シンさんはそれ以上一言も言わずに、ただ黙ってわたしの頭をなで続けた。

 

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